秋よん

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秋よん

 電気を点けようか、迷う。暗い雲に占められた空が苦しげに唸る。遠くで稲妻が光った。  来たときには起きていたが、昼食を食べ終えたら優夜は寝室に引っ込んで寝てしまった。そのままリビングで勉強する様子に「勝手に帰って良いから」と言い残し。  徹夜で模写をしていたらしい。雨が多いので花が見られない、と零していた。切り花は苦手だというので、今度鉢植えでも持って来ようかと考える。  転がる鉛筆たちを市販のお菓子の箱へと戻す。ペンケースは持っていないらしい。  ぽつり、とまずは一粒から。ベランダのコンクリートを濡らす。次々と雨粒が落ちて一気に色を変える。明るい灰色から暗い灰色へ。  雨音を聴きながら朝臣はリビングで勉強をしていた。前回の模試の判定はまあまあ良かった。英語は文句なく良く、国語と数学は普通。  特に数学に関しては鎌崎や優夜が頼りになった。鎌崎曰く優夜は数字と金には強いらしい。  途端、割れるようなチャイムの音が聴こえる。朝臣は立ち上がり、玄関に近づけば「優夜、起きてる?」と声がした。鎌崎だ。 「こんにちは」 「あら、朝臣くん」  雨が激しく降っていた。鎌崎は傘を折り畳み、シューズボックスにかける。グレーのジャケットも濡れて色が変わっていた。 「急に来ましたね」 「途中で降られたわ。優夜は寝てる?」 「寝てます」 「まったくもう……。お邪魔しまーす」  勝手知ったる優夜の家。リビングに行き雨風の凌げる場所にほっと息をつく。鎌崎は勉強道具の広がったテーブルの上を見た。 「今日休み?」 「文化祭の準備期間で、三年は参加しないので自動的に休みです」 「もうそんな時期かあ」 「優夜さんと約束してたんですか?」 「そう。仕事の返事をね」  仕事という言葉にキッチンに入った朝臣は顔を向ける。 「何か、新しい事業でも」 「まさか。絵の仕事よ、阿多良病院ってとこの分院が開業するから絵を描いて欲しいって」 「病院の壁ですか。そういうのも来るんですね」 「そうそう無いわよ。優夜に是非って来たから」  溜息を吐く。鎌崎がその話をすれば、優夜は間髪入れず「しない」と返した。それでもと粘り、返事の期限までは考えろと言った。  それが今日だ。  鎌崎の中には焦りがあった。 「コーヒーで良いですか?」  それは今日の雲のように、胸を占める。 「うん、ありがとう」  優夜はこれから一生描かないかもしれない。  火霜は「飛ぶタイミングを待っている」と言ったが、そうではなく、筆を置こうとしているのだったら。  今まで大体のことには良しとしてきた鎌崎も、それには肯けない。優夜は描くべきだ。描かなくてはならない。  そういう星の下に生まれてきてしまったのだから。  ソファーに座り、開かれた英語のテキストから、ラグの上に投げっぱなしだったスケッチブックへと視線を移す。  これ、と拾う。朝臣はそれを振り向いて、最初優夜に出会ったときのことを思い出した。 「朝臣くんの?」 「いえ、優夜さんのです」  答えを聞いて暫し逡巡する。少しして、鎌崎はそれを開いた。  ペラペラとページを捲る音が部屋に響く。  朝臣は二つのマグカップにお湯を注ぐ。ちょうど寝室の扉が開く音がして、眠そうな顔をした優夜がリビングに現れた。コーヒーの匂いにつられたのだろう。  鎌崎への挨拶より先に、朝臣に自分のコーヒーを頼んだ。 「わたしのコーヒーも淹れ」  ぴたり、と止まった。  優夜は固まって、鎌崎の手元を見ていた。朝臣はその何に止まるべきところがあるのかと、様子を窺う。ペラペラと捲る音だけが止まらない。  今までそれ程に素速く動く優夜を見たことがなかった。  鎌崎の手にあったものをひったくり、時が戻る。 「優夜、描いてたの?」 「なんで勝手に見てるんだよ」 「あんた、全然絵描いてないって」 「こんなの絵じゃない!!」  その薄い体のどこにそんな力があったのかと思うほどの、怒鳴り声。窓の外にもそれは容易に響いた。朝臣は優夜の分のコーヒーを零しかける。 「絵じゃないって、優夜が描いたんでしょう? その線、すごく」  鎌崎は躊躇いながら、言葉を選びながら、動揺と葛藤していた。この一年、優夜が何か描くところを見たことがない。  スケッチブックの中身は確かに素画と模写だけで色はついていないが、確かに優夜の絵だった。  しかし、優夜にとってそうであるかは、別だ。  何か言いたげな表情をして、それでも言葉にはできず、優夜はスケッチブックを開き、乱雑にそれを千切って、すぐ傍の窓へ放り投げた。スケッチブックごと。  それは一瞬で、朝臣は見ることしか出来ず、鎌崎は窓に駆け寄って手を伸ばす。ひらりひらりと白い葉たちが重力に逆らわずに落ちていく。 勿論、届くはずがない。 「なに、してるの」 「こんなの落書きだ」 「でも優夜が描いたものでしょう」 「描いたものを評価して欲しいかどうか、決めるのは私だ」 「ごめん、でも」 「鎌崎はごめんって言いながら、全然何も分かってない。謝ってもない。わたしはもう描けないし仕事は受けないって言った! 勝手に期待して絶望すんな!」  そう言って、優夜は玄関へと歩いていく。朝臣はそれを追おうとマグカップを置いた。  外は雨が降っていた。冷たい雨。  しかし、部屋の中で呆然と立ち尽くす鎌崎の姿も見えて、立ち止まる。玄関の扉の閉まる音がした。鎌崎は窓の外に出した腕を胸の辺りに納め、ぎゅっと拳を作った。それからやっと、朝臣の方を見る。 「ごめんね、子供の前で喧嘩なんてして」  結局、口から出た言葉はそれだった。  無理に作った笑顔と、『子供』と位置づけられた自分の立場に、朝臣は何も言えなかった。 「朝臣くんは描いてるの、知ってたの?」 「……はい。最初見たときも、優夜さんは花壇の淵に座って花を描いてました」  しかし、優夜は「これは絵じゃないから」と言っていた。 「そうなの。優夜はもう鉛筆も筆も、持たなくなったと思ってたから……」  鎌崎は泣きそうな顔をしていた、が、朝臣はそれにかける言葉も持たなかった。 「優夜のこと、追いかけてくれる?」 「はい」  言われた通りすることしか出来ない。リビングを出て玄関を見れば、優夜がいつも履いているスニーカーがあることに気付く。裸足で出て行ったらしい。傘とそれを持って、部屋を出た。  鎌崎は扉の閉まる音を聞いて、目元を拭った。今頃優夜は泣いているだろうと思った。あの子は本当はすごく泣き虫で、我儘なふりをして本音を話すことが苦手だから。  鎌崎は部屋を出て、傘をさして窓の下に向かった。千切られて雨に濡れて、鉛筆の線がぼやけている。それでも拾って、腕に抱えた。  素画でも模写でも、優夜が落書きだと言っていても良い。鎌崎はただ、優夜の描いたものが見られて嬉しかった。  描かないことを許容しながら、やはり描いてほしかった。描くのを待っていた。誰よりも、ずっと。  アパートを出て左右でまず迷う。雨が降ってきたからだろう、人通りの少ない道に誰もいない。左へ進んだのは、優夜のことを考えたからだ。  曲がって歩けば姿が見えた。雨に打たれ、裸足で、宛もなく歩いている。 「優夜さん」  名前を呼び、その腕を掴んで止め、傘に入れる。振り向いた優夜は鋭く朝臣を睨んだ。 「なんだよ」 「帰りましょう、雨酷いですし」 「いい。あんたは帰れ」 「いや、俺は優夜さんを迎えに」 「どうせ鎌崎に言われてきたんだろ」  その瞳に怯む。その怯みを見て、優夜も我に返った。  ゆっくりと手を離す。入れられた傘から出る。 「ごめん」 「俺は自分で選んでここに来ました」 「わたしも選んでここにいる。なのに」 「優夜さん、とりあえず靴を……」 「……もうつかれた」  雨が傘を叩く。その音の中で聞こえた言葉に朝臣は優夜を見る。裸足が、アスファルトの上で白く冷たくなっている。横に置かれたスニーカーが濡れていく。  優夜は俯いたままだった。 「もうやめたい。絵も描けないし、鎌崎にも八つ当たりして、もうつかれた」  声が震えている。 「わたしが、描いたから……だからお母さんも死んじゃった……あの子も、わたしが描いてなかったら」  朝臣は傘を畳み、その場に放った。薄い肩を自分の方に抱き寄せたが、優夜は寄りかかることもなく目元に手を当てたまま動かない。頑なに。  それでも、朝臣は優夜から離れなかった。この行為は雨から逃れることには無意味でも、あの朝、泣きそうになった朝臣に優夜はこうしてくれた。  きっと、ずっと優夜の中に雨は降っていたのだろう。母親が死んだとき、自分の絵を見て死のうと決意されたとき、誰といても孤独で、ずっと孤独と向き合っていた。  もし、今でも死にたい夜を、越えられなかったら。 「俺は、優夜さんに救われました」  背中を抱き寄せると、朝臣の腕の中に優夜はすっぽりと入った。 「鎌崎さんも言ってました。優夜さんに救われたって」  雨は二人を濡らす。  その孤独の闇に手を伸ばす。どっぷりと黒に浸かり、腕が持っていかれるかもしれない。優夜が腕をこちらに伸ばさないことには。 「だから、死にたい夜は一緒に越えましょう」  その言葉を聞いて、壊れた玩具のように優夜が声をあげて泣いた。朝臣が驚いたのは声にではなく、背中に手が回ったからだった。ぎゅっと服を握りしめ、嗚咽する。子供が泣いているようだった。  冷たい雨に濡れた色素の薄い髪から雫が落ちる。  やがて鳴き声が止み、くぐもった声が聞こえた。 「……えないんだ」  朝臣はそれに耳を近づける。 「絵を描こうとすると、視界が白黒になって、色が見えなくなるんだ」
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