秋きゅう

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秋きゅう

 世界から、色が消える。 「もう、描けない」  優夜は静かに、嗚咽すら押し殺して、泣いていた。  描けないことが許せない。  画家であるのに、描けない自分が。  鎌崎は目の前で苦しむ優夜に既視感があった。それは自分だ。女であるのに、女で生まれてこられなかった自分。  ぽたぽたと涙が顎からテーブルへ落ちる。外は雨だった。鎌崎は鞄からピンクのハンカチを出して優夜へ渡す。  何も言えなかった。  優夜がぱっと顔を上げる。涙はもう無かった。その顔は、幼く、まるで中学の頃のような。 「ピンク、好きなの?」  いつか訊かれた質問だ。鎌崎はそれにあの頃、答えられなかった。 「優夜……」 「鎌崎は、自分のことも分かんないの?」  笑っている。傷ついたような、自嘲するような笑顔。そんな顔をさせたいわけじゃない。 「ごめん、優夜」  理解したつもりになっていた。優夜はいつも、正しく鎌崎を理解してくれていたのに。  でも、それでも、どんなに期待が重くても、鎌崎は願わずにはいられないのだ。優夜が明日の朝にでも絵を描けますように、と。  自分を間違えた性別に作った神様にすら、祈らずには。 「――鎌崎」 「でもね」 「鎌崎!」 目が覚める。飛び起きた鎌崎の頭が優夜の蟀谷に直撃した。ごつん、と鈍い音に二人して声も上げずに頭を抱える。 「蜂永さん、俺行くね。え、大丈夫?」  寝室へ顔を覗かせた鎌崎の恋人、小塚(こづか)が目を丸くした。 「救急車呼ぶ? 生存者いる?」 「死んでねえよ、いったいな……」 「あたしの頭、割れてない? ねえ」 「魘されてたから起こしてみれば。勢い良く起きすぎなんだよ」 「起きてたなら避けなさいよ……」 「二人とも大丈夫なら良いや。行ってきまーす」  二人の痛がり具合に比べ、大分軽い挨拶に優夜は折っていた身体を起こす。同じタイミングで鎌崎も頭から手を降ろした。  お互いの涙目と目が合う。 「……なんでいるの」 「小塚から、鎌崎が風邪ひいたって連絡きたから。なんで一番雨に濡れてない鎌崎が風邪ひいてんの?」 「そんなのあたしが一番知りたいわよ」  言いながらティッシュを取って鼻をかむ。優夜は椅子の背もたれに寄りかかり、その上で膝を抱いた。 「熱は?」 「一応下がったけど」 「このプリン食べたい」 「……良いわよ。そこの水、取って」  小塚が看病していたであろうテーブルにストローが入ったコップが置かれていた。他に果物やゼリーなど。甲斐甲斐しく世話を焼いていたのだろう。優夜はコップを鎌崎へ渡し、プリンを開けた。 「ありがと」 「悪夢?」 「んー、どうだったかな……」  きちんと覚えていた。それは二年前の秋のこと。  優夜に、何も言葉をかけることが出来なくて、鎌崎はずっとそれを忘れられなかった。 「ふーん」  ぱくぱくとプリンを食べる優夜。いつもこうして食欲か睡眠が一番で、呑気な顔をしている。あの時のような辛い顔を見たことが無かった。  いや、見せないようにしていたのかもしれない。芸術家は、孤独だ。優夜以外の画家も多く見てきた鎌崎は、それを知っていた。病気の猫が飼い主にすらそれを隠すように、優夜は鎌崎にも弱い部分を見せられなかったのか。  優夜と喧嘩をしたと小塚に言ったのに、何故当人に連絡したのだろう。いつしか優夜と朝臣の仲が微妙だと言っていた時、鎌崎はどうにかしなくてはと思った。その気持ちと同じだったのなら、似たもの同士だ。  喧嘩をしていたのにこうして普通に話せるのも、不思議なものだ。  水を飲んで喉を潤す。 「あたし、優夜の絵好きなのよ」 「うん? 知ってる」 「ああ、そう……そう、それで、だから」 「梨ある。食べて良い?」 「良いけど」  梨を手に取った優夜はその手触りと形をなぞった。 「優夜の絵、好きだから……あの日、優夜に『もう描かなくて良い』って言えなかったの」  鎌崎の言葉に顔を上げる。 「本当は、本当に優夜のことを考えてるなら、そう言わないといけなかった。優夜の言った通り、あたしは勝手に期待して、勝手に絶望してた。いつか、描いて欲しかったから」  その顔は泣いてもいなければ中学の頃の優夜でもない。鎌崎は口を開く。 「あの時、わたしに『描かなくて良い』なんて言う親友が居なくて良かった」  その前に言葉を放ったのは優夜だった。  梨を手放さず、続ける。 「そんなふうに鎌崎が、わたしを突き放す親友じゃなくて、良かったよ」  じわりと鎌崎の視界がぼやける。ティッシュを何枚も取って、涙を拭う前に鼻をかんだ。忙しない様子に優夜はけらけらと笑い、ペティナイフを持つ。 「なに笑ってるのよ、もう!」 「やっぱり中学の時から思ってたけど、鎌崎って面白いよな」  器用に皮を剥いた。手を切らないように等分していく。  ティッシュを丸めて捨て、鎌崎は優夜から梨を差し出された。 「阿多良さんの件、断ってくる。あとで住所教えて」 「じゃあ一緒に……」 「いや、一人で行ってくる。久遠の人だろ、阿多良って聞いたことある。勘当されたわたしのところに仕事持ってくるなんて、嫌がらせか……」 「それは違うわ」  きっぱりと言った。優夜はしゃくしゃくと梨を頬張っていた。きょとんとした視線だけを送る。 「理由は、阿多良さんが会ったら伝えるって言ってたから、あたしからは言えないけど。久遠は関係ない。優夜だから頼みたいって」 「……じゃあ、尚更だな」  頷き、優夜は言った。鎌崎もその決意を汲む。 「あと、優夜、この前はごめんなさい……勝手にデッサン見て……」 「まあいいけど」 「いや、あんなに怒ってたじゃない」 「そうだっけ」 「そうだっけって」  梨を置いて、手を洗いに立ち上がった。優夜は思い出したように振り向いた。 「そうだ、鎌崎に調べといて欲しいのあって」 「え?」  新幹線の日時だろうか。言われずとも切符も全て取るつもりでいた。  鎌崎は梨を持ったまま優夜を見る。明るいリビングからの光を受けていた。 「コンクール探しといて。賞金出るやつ、出来れば規模が大きいの。二月末までには描き終える」 「……え?」 「頼んだ、優秀な相棒」  ひらりと、果汁でべとべとになった手を振る。  鎌崎は梨を皿に放って、ベッドから飛び降りた。 「優夜、待って、え、誰がそれ、応募するの?」  キッチンで手を洗う優夜が怪訝な顔を向ける。 「朝臣くん? っていう、オチとかじゃ」 「どんなオチだよ。てかちゃんと寝てろよ」 「優夜が、描くってこと……?」 「わたし以外に誰が描くんだ」  次に呆れた顔をする。垂れそうになる鼻水を啜り、鎌崎ももう一つ言いたかったことを思い出した。 「優夜、あたし」 「ほらティッシュ」 「ピンクが、一番好きな色なの……!」  差し出されたティッシュを取った。優夜は呆れた顔のまま、笑った。 「だから、知ってるってば」
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