秋じゅう

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秋じゅう

 数度しか来たことのない駅だが、やはり大きい。夏に暁が東京駅の変化に驚いていたのを思い出したが、優夜はこの駅の大きさに何度も感嘆するのだろうと思った。改札を出れば天に張り巡らされた金属。透明な硝子の向こうの青空がこちらを見下ろしていた。  あのひとつひとつの硝子が違う色だったならもっと綺麗だろう。  優夜は通路の端で立ち止まり、見上げた。かちかちと色をひとつずつ当てはめる。  世界に色が戻りつつあった。  左手に見える広場には大きなクリスマスツリーが飾られている。携帯を取り出し、一枚パシャリ。もうこの地には来ないと思っていたので、記念だ。鎌崎へその写真と駅に着いた旨を連絡する。すぐに『気をつけてね、車とか。野良猫とか変な人についていっちゃ駄目だからね』と返信がきた。 「はじめてのお使いか」  その言葉の通りを返し、優夜は歩き出す。  病院まではバスで一本だ。  受付に用件を伝えれば、阿多良院長はすぐに現れた。生きていれば優夜の母親と同じくらいの年齢のその女性は笑顔で優夜に挨拶をして、院長室へ案内する。 「どうぞ、お掛けください」  革の良いソファーを勧められる。優夜は先に持っていた菓子折りを差し出した。東京駅で買ったそれなりに値段の張る手土産であり、詫びの品でもある。 「この度は誠に申し訳ありません」 「ええ、良いんですよ。そんなものは」 「いえ、折角ご依頼して頂いたのにも関わらず」 「あは、あははは」  ソファーにも座らず頭を下げる優夜を見て、阿多良は笑った。笑いを堪えきれないといった様子で。  優夜は少し顔を上げ、正気かと阿多良を見遣る。 「ごめんなさいね。その武士みたいな敬語の使い方が少し、朔也さんに似てたものだから」  父親の名前に優夜は息を呑んだ。 「父と、お知り合いでしたか」 「ええ。義理の従兄弟ってところかしら、実母が朔也さんのお父様と兄弟なんです。うちは幼い頃に離婚してて実母とはずっと会ってはいないんですけどね」 「今は、久遠の」 「はい、名前を利用させてもらってます」  大きな病院だ。病床はいくつなのか分からないし、いくつ科があるのかも知らない。ここまで大きくするのにどれだけの金が動いたのだろう。  優夜も、高校生の頃はそちら側だった。利用される側になってしまったのは、やはり幼かったからか。 「朔也さんにはお世話になりました。勉強を教えてもらったり」 「ご冗談を」 「本当に。朔也さんは優秀でしたから。久々に光月(みつき)さんに連絡差し上げようとしたら、亡くなったと聞きました」  光月は優夜たちの母親だ。  優夜の差し出す菓子折りを受け取り、言った。 「七年前に、職場で倒れて救急車で運ばれて、そのまま息を引き取りました。わたしも最期には間に合いませんでした」 「大変でしたね。私、二人の結婚式に呼ばれてるんですよ。あなた達が幼い頃にも会ってます」  え、と口を開く優夜。思った通りの反応に阿多良は笑った。  勧められたソファーに座り沈む。 「両親が式をしてるのにも驚きました。駆け落ちだと聞いていたので」 「知人友人が数人だけ呼ばれたものですが。今度お式の写真見せますね」 「見たいです」  母の写真も少ないが、父の写真はもっと少ない。  父との思い出が少ないので暁とも話すことがなく、優夜はその輪郭が取れずにいた。久遠朔也、父親、どちらも遠い存在だった。 「久遠朔也の娘だから、仕事を持ちかけてくださったんですか?」  遠く、そしてどこか憎んでいた気もする。  父が久遠の出でなければ、父が生きていれば、母は死なずに、暁と優夜は絶望を誓わずに、今を過ごしているのではと。そう思わずにはいられない夜が、何度もあった。 「まあそのツテを使いたかったというのもあるけれど、絵をいくつか見て、とても素敵で。今度新しく出来る分院の壁にあなたの絵が飾られていたら、きっと救われるひとがいると思いました」 「……あの、二年前に事件があって」 「はい、知ってます」 「それなら尚更……」 「他人からつけられたイメージは自分で払拭しなさい」  叱られた、と優夜は思った。  この歳になって、こんなに自由に生きて、鎌崎に怒られることはあっても、優夜を叱る人間はいなかった。 「すみません」 「偉そうにしてしまいました」  その言葉に、二人で笑った。  先にはっと我に返った優夜は立ち上がる。何を楽しく雑談をしに来たわけではない。二月末まで、時間はない。 「長々とすみません」 「今は描かれてないと伺いましたが」  立ち上がった姿を見上げる阿多良に、優夜は黙って見下ろした。鎌崎から聞いたのだろう。 「請けて頂けない理由はそれですか?」  質問を考えること十五秒。優夜は静かに微笑む。 「最初はそうだったんですけど」  鎌崎が鼻水を啜りながらここへ来ることを止めたのを思い出す。コンクール作品を描いてから仕事を受ければ良い、あたしが説得しに行くと言って聞かないのを、優夜が振り切った。 「今では、自分にその力があるかどうか分からないのでお受けできないと判断しました。二年描いてなかったもので」  二年も筆を握らなかった日があるなんて、笑えてしまう。七年前、まだ自由に好きなものばかりを描き続けていた優夜が知ったら、ひっくり返るだろうか。  それでも、またここへ戻ってきた。 「じゃあ、あなたができると判断したら連絡をください。その日まで、スペースは空けておきますね」 「え、いやそれは」 「なるべく、早くお願いします。スタッフや患者さん方に自慢したいので」  空けておくと言いながら、早くしてくれと頼まれる。相反する希望に、優夜は複雑な顔をして明後日の方向を見てから、阿多良へ視線を向けた。 「どうか、よろしくお願い致します」  阿多良も立ち上がり、握手を交わす。先程の受付に戻るまで、朔也の本家での破天荒ぶりや武勇伝を話した。 「本家の池で、ヌシと言われていた鯉を釣り上げて焼いて食べたとか。それが会長が幼い頃から可愛がっていた鯉だったらしくて」 「あーわたしも暁も小学校の池で釣りして校長から怒られました」 「あら、血は争えないですね」 「半分は父から、もう半分は母から貰ってるので」  受付前で立ち止まり、優夜の言葉に阿多良は笑った。 「それ、この前暁くんに会った時も全く同じことを言っていました」 「暁にも会ったんですか?」 「演奏を見に。あなたも暁くんも立派になりましたね」  立派、か。  優夜は苦笑する。 「暁はそうですが、わたしは……」 「いえ、沢山困難もあったでしょうが、ここまで立派に大きく育ちました。子供が無事生まれて成長するのは奇跡的なことなんですよ」  脳裏に描いたのは誰のことだっただろう。  朔也か、光月か、それともあの女子高生か。  死にたい夜をいくつ越えれば良いのだろう。生きられない明日をいくつ迎えれば良いのだろう。それでも、今ここに立っていられるのは。 「絶対に、描きに来ます」 「ええ、早めに」 「はい、早めに」  病院を後にした。バスに揺られ、駅へと帰る。すっかり夕暮れ時で、西日が建物の間から差した。  美しいと思った。  夕陽を見ながら、バスの最後列のシートに座り、その色を頭で描いていた。
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