春さん

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春さん

「鎌崎さん、ご無沙汰してます」  並んでいる間、出版社や画家などが鎌崎を見つけて挨拶をした。こちらも火霜に劣るが、顔が広い。  それから野良猫のように捕まっている優夜を見て驚く。こいつ、よく顔を出せるな、と。  やがて、火霜の前に立つ順番がやってきて、二人は頭を下げた。 「この度はお招き頂きありがとうございます。また、お誕生日と……」 「いやいやカマちゃん、そんな堅苦しい挨拶はよしてよ」  椅子に座り、傍らに杖。御年七十八歳になる。柔和な笑顔と笑い皺が特徴だ。 「二人とも来てくれてありがとう。オウちゃんもよく来たねえ」  桜水と書いて、オウミと読む。  優夜の雅号だ。 「鎌崎に引っ張り出されたんですよ」 「ちょっと優夜」 「先生、お招き頂きありがとうございます」  片足をひいて柔らかく膝を曲げ、ドレスの裾をつまんだ優夜。美しい所作に、御令嬢さを覗かせる。それを知っている火霜と鎌崎でさえ、それに見惚れた。 「あと受賞と誕生日おめでとう。長生きしてください」  美しいカーテシーの後に続く、軽口。それに詰まった息を吐いた。 「ありがとう」  孫に伝えるくらいの思いを込めて返答した。孫はいないのだが。  べし、と鎌崎が優夜の後頭部を叩いた。 「いったい」 「失礼よ。すみません、本当に。おめでとうございます」 「まあまあ、ありがとう。二人には期待してるよ」  眉を下げる鎌崎を宥め、火霜は楽し気に笑う。  後ろに並ぶ人数が増えている。それでは、と鎌崎が頭を再度下げる。後頭部を押さえる優夜を連れて行こうと腕を掴めば、火霜がそれを呼び止めた。 「皆がそわそわしてるよ。君たち二人が揃うとね」  優夜と鎌崎。周りの人間たちは静かにそれを観察している。二人とも視線を感じないわけではなかったが、さして気にも留めていなかった。こういう場所では、常だからだ。 「臥龍鳳雛というのかな」  臥せている龍と、鳳凰の雛。  まだ世に知られていない傑物と、将来が有望な若者を示す表現。  それを聞いて、先に笑ったのは優夜だった。 「十分悪名高いですし、先行き不透明すぎて困ります。言うならあれですよね、竜門点額」  その言葉に鎌崎が苦笑する。そして、火霜が戯けた顔を見せた。  火霜の周りに集まる人の波を抜けたところで、優夜は鎌崎を見上げた。 「何よ、叩いたことは謝らないからね」 「じゃなくて、カマちゃんって呼ばれても怒らないんだなと」 きょとんと間の抜けた顔をして、鎌崎は近くを通ったボーイのトレイからワイングラスを貰った。華麗な動きに、優夜の視線が煌めく。 「もうそんな子供じゃないわよ」 「それは失敬」 「今の言い方やめなさいよ。爺臭い」  火霜せんせーい、遠回しに失礼なこと言われてますよ。優夜は心の中で告げ口をした。当人は会場の真ん中当たりで高そうなスーツを着た大人と話していた。 「お久しぶりです」  皿に盛ったローストビーフを口に運ぼうとした優夜が動きを止める。鎌崎は少し離れた場所で仕事仲間と談笑をしていた。そろりと、そちらへ視線を向ける。 「桜水さん」  その名前も顔も、よく知られている。先ほど、悪名高いと自分で言える程度には。 「壬生(みぶ)さん」 「はい、覚えてくださって嬉しいです」  そう言われるということは、前回の優夜は思い出せずに鎌崎を召喚したのだろう。大変失礼だとは思いながら、引き攣る愛想笑いで誤魔化すのは無理があった。 「今日、会うことができて良かったです」 「ああ、それは、こちらもです」  壬生とは以前、公募展の授賞式にて席が近かったことから知り合った。そこで受賞したのは優夜だったが、壬生は優しい笑顔で「おめでとうございます」と言った。  優夜と壬生が並んでいるのに気づき、鎌崎が早々に話を切り上げて近づいた。 「壬生さん、お久しぶりです。お元気ですか?」  鎌崎とも仕事をしたことがある壬生はそれにあの頃と変わらない優しい笑顔を見せた。 「お久しぶりです。元気です、良かった、鎌崎さんにも会えて」  その言葉に何かを感じない二人では無かった。優夜はローストビーフへちらりと視線を向けて、フォークを手放した。 「描くことから少し離れようと思ってます。アート系の雑誌編集に誘われまして」  何度も言った文章なのか、すらすらと壬生の口から出た。感じたことは大凡当たってしまった。 「良いじゃないですか。壬生さん、まだお若いんですし」  鎌崎はポジティブな言葉だけを吐く。優夜はローストビーフを口に入れておけば良かったと後悔した。自分の話す番は来ないと察したが、今更肉を咀嚼するような雰囲気でもない。 「ありがとうございます」 「もしまた描くときには、ご一緒させて頂きたいです」 「はい、その際には」  それから鎌崎と壬生は世間話を少しして、壬生が離れた。優夜はすかさずローストビーフを口に入れる。 「……戻らなさそうよね」  じっと壬生の後ろ姿を見て零した。隣でローストビーフを頬張る人間に聞かせるような声でも無かったが、優夜は小さく肩を竦めてみせる。  出入りの多い業界だ。辞めたり続けたり再開したり。  鎌崎は優夜をちらと見た。二枚目のローストビーフにフォークを刺していた。 「そんなにおいしいの、それ」 「まあまあ。大家さんのチャーシューの方が美味しい」 「あれねえ、また食べたい。朝臣くん、元気?」  うむ、と優夜が頷く。元気溌剌とまではいかないが、あれが通常運転だ。男子高校生らしくはないが。  優夜の呼ぶ大家は朝臣の祖父であり、優夜の住むアパートの大家である。近所に住んでおり、行くと夕飯をご馳走してくれる。 「担任が、熱血世界史担当になったとか」 「え、美術の先生じゃなくなっちゃったの?」 「らしい。なんか進路、文系? なんだって」 「去年から文系でしょうよ」  鎌崎は呆れた顔をした。  椅子に座って小籠包を食べている優夜を視界の端に収めて、鎌崎は会場の壁に寄ってシャンパンを飲んでいた。  他人に興味がないことは、利点なのだろうか。  鎌崎が優夜の引っ越し先に行けば、既に朝臣はキッチンでコーヒーを淹れられるようになっていた。いつどこで男子高校生を攫ってきたのかと複雑な顔をしたが、話を聞けば大家の孫だと言う。  描いていない優夜とは反対に、鎌崎は忙しくなっていた。大学を首席で合格し、全国でも有数なアートギャラリーに就職した。そこで今は美術品の買付のようなことをしている。  優夜とも仕事をした。短い間だったが、火霜の言葉通りまるで鳳凰の雛のように、ここから何処へだって行ける、と思えるような。 「疲れたかい」 「あ、すみません」  立ち上がっても尚、鎌崎より遥か下方に火霜の背はあった。杖をついて少し背中を丸めて立っている。  反射的に謝り、鎌崎はそれを恥じた。首元が羞恥で赤くなるのは昔からだ。ずっと、昔から。 「いやいや、カマちゃんはよく頑張ってるよ」 「……そんなことは」  ただ曖昧に笑みを浮かべた。  直感は当たった。  大家の孫、朝臣に合鍵を渡して優夜の様子を見に行ってもらうことにした。最初はバイトにしようと思い、金額を提示しようとしたが、朝臣は「週一くらいで一緒にご飯を食べて欲しい」という交換条件を出した。 『暇だし、毎日でも良いよ』  優夜がしれっと言ったので、鎌崎は呆れた方が良いのか落胆した方が良いのか分からなかった。 「僕らは皆、待ち人だからね」 「待ち人、ですか」 「僕らはオウちゃんが描くのを待っている」 「優……桜水は何を待ってるんですか?」  自分が諦めるのを、待っているのだろうか。  鎌崎は心の底にある黒い泥濘を掻き抱く。  それを見る度、泣きたくなるのだ。そして、あの日、目の前で泣きながら「もう、描けない」と言った顔を思い出す。 「オウちゃんは、きちんと分かってるよ」  火霜は穏やかに言った。 「飛ぶタイミングを待ってるんだ」
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