翌春ご

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翌春ご

 ぴたりと止まった優夜に、鎌崎はぎゅっと拳をつくる。耳元のレースのピアスが揺れた。  鎌崎があの場所に立ったら、頭が真っ白になり、首元が真っ赤になり、良い大人なのに泣き出してしまうかもしれない。  それでも、優夜がそんな場所に立っているなら助けに行きたい。許されるならば。  しかし、助けもなく優夜は再び口を開いた。 「……芸術というものは」  渋々といったように言葉が吐き出される。 「人間の社会において、無くても生きていけます。食べることにも、眠ることにも、誰かを愛することにも直接的に関係はしないからです」  鎌崎の隣に座る朝臣は、すっと背筋を伸ばした。優夜がどんな顔をしているのか、見る必要があった。 「しかし、作る側の人間は命懸けです。時間を、身体を、思いを削って作っています。芸術作品に対して評価をつけることは、その命に評価をつけることと同じ行為です。ここに居る誰も彼もが、それを理解しているとは思いますが」  にこり、と貼り付けたような笑みを見せる。朝臣と鎌崎はぞくりと背中を震わせた。 「わたしがこの命を削る場所に戻ってこれたのは、遠くにいてもいつも寄り添ってくれた弟の存在と、そこに座るわたしの親友の鼓舞と、描かない桜水を許してくれる唯一の人間に出会えたからでもあります」  穏やかな顔でそれを語る。  鎌崎は朝臣を見た。それから小さく肩を竦める。 「ここから歩き始めることが出来る、重要な一歩となりました。素晴らしい賞と、機会を頂けて大変光栄に思います。ありがとうございました」  深く頭を下げる。これで終わりだ、というように。  途端、大きな拍手が起こった。会場が揺れたと思う程だった。鎌崎はポロポロと涙を零し、それをピンクのハンカチで拭う。  優夜が席に戻り、次に優秀賞の宵風が呼ばれる。立ち上がり、壇上へと踏み出したところで、躓いた。  かなり大きく転けて、優夜も驚き腰を上げかけた。それより早く傍から関係者が駆け寄り宵風を起こす。  大丈夫なのか、とざわつく。賞状を受け取った後、同じようにコメントを求められた。 「歳を取ると足元も覚束なくなってしまって、すみませんね、助けて頂いてありがとうございます。あ、賞を頂けたことより先に感謝してしまいました」  朗らかに笑う様子に、会場で笑いが漏れた。 「持ってかれたわねえ……というか、もしかして転んだのも演技?」  聞けば、優秀賞を取った宵風幸江は女優らしい。優夜も鎌崎も知らなかったが、朝臣は知っていた。火曜サスペンスの枠の端役をしていたとか。  式が終わった後、記者が主に囲んだのは宵風の方だった。優夜はその人だかりを見て少し安堵する。 「打ちどころが悪くて死なれるよりずっと良い」 「止めなさいよ、縁起でもない」 「駄洒落か?」 「真面目に言ってるの」  鎌崎は溜息を吐いて、それから会場の外に置かれた優夜の作品を見る。持っていかれたとは言ったが、勿論大賞を取った優夜に仕事は何件も持ち掛けられた。名刺を持っていない優夜に代わり、鎌崎がその窓口となった。その中に壬生もいた。  朝臣はじっとその作品を見ていた。 「どう? 優夜の作品は」 「……大きいです」  見たことのないサイズの絵。その感想に優夜は笑う。  龍がいる。花の咲く野原に、頭を臥せじっとしている。いつか優夜が描いた猫と同じで、想像上の生き物だというのに、少し目を離したら動き出しそうだ。 「神は細部に宿るって、この作品のことですね」  どこかで見たことのある花々。その花びらと、龍の鱗の色がひとつひとつ微妙に違うのが美しい。そして花に臥せる様子が厳かで、少し可愛らしい。  優夜はこの龍を飼いならしたのだろう。だからそう見えるのだ。 「最上の褒め言葉だな」  得意げに優夜は笑った。 「じゃ、賞金で美味い寿司でも食べに行くか」 「安くて美味しいとこ知ってるから電話するわ」 「朝臣は何か食べたいのある?」 「油坊主が食べたいです」 「朝臣くんって本当に高校生?」 「油坊主ってノドグロより美味しいのかな。よし、食べ比べに行こう」  優夜が歩き出そうとしたところで、主催関係者に呼び止められた。来賓の何人かが挨拶を求めているらしい。断るわけにもいかず、優夜は「はーい」と返事をする。 「あ、香坂(こうさか)さん! ちょっと挨拶してくるわ。朝臣くん、車戻ってて」  鎌崎から車の鍵を渡され、受け取る。朝臣は頷き、優夜の方を見た。 「お、桜水さん!」  聞こえた声に、二人の視線が向けられる。 「わ、私、桜水さんの作品を前からずっと見ていて!」  近くにいた殆どの視線を集めていた。優夜はきょとんとしながら彼女を見る。臙脂のドレスを着ており、優夜より若い。  チューニングをどこで間違えたのか、声のボリュームが大きい。  朝臣は同じようにそれを聞きながら、優夜に何を言うつもりだろうかと構える。鎌崎も知り合いと話しながら、そちらに意識を向けた。 「本当に好きで、絶対に近づきたくて、絵を描き続けて今回入選しました!」  受賞者だったのか、と優夜は一人納得した。それからその肩をぽん、と叩く。 「わかったから、少し、音量落として」  そう言われて、彼女ははっとしたように赤くなった。周りからの視線を集めていたことに漸く気付いたらしい。  優夜が優しく笑うので、恥ずかしいやら嬉しいやらで、彼女は涙目になりながら必死に言葉を紡ぐ。 「あの、本当に、桜水さんの作品を見ることができて、すごく嬉しいです」 「貴方も入選おめでとうございます」 「ありがとうございます」  俯いていた顔が上がる。 「私、ずっと死にたい時があったんですけど」  死にたい夜を越えて。 「でも、桜水さんの絵を見て、これからもっと桜水さんの絵を見たいと思って、ここまで生きてきました」  生きられない明日を待って。 「だから、今、生きてて良かったと思ってます。桜水さんの絵は、私の救いです」  それでも、生きて行こうと決めた。  優夜は息を吸う。先ほどと同じように、微笑んだ。 「ありがとうございます。これからは貴方も、誰かの救いになりますように」  手を差し出すと、彼女はその手を固く握った。憧れは越えられないかもしれない、でも誰かの憧れになることは出来る。 「お手洗い行ってから、挨拶でも良いですか?」  優夜の言葉に案内係は頷き、その場をふらりと離れる。朝臣もその後を追った。  人気のない通路に出て、優夜は壁に肩を付けていた。どこか痛むかのように顔を伏せて。 「優夜さん」  朝臣はその背中に声をかける。答えはないが、小さく震えていた。  隣に並ぶと、目元を手で覆っているのが見えた。 「わたし」  言葉と共に、手が外れる。涙目だが、涙は零れていない。 「描いてて、良かった」  言い切った。涙を堪えているのを見て、朝臣は小さく笑う。 「泣いても良いのに」 「そうよ、泣きなさいよ」  優夜と朝臣を後ろから乗りかかるようにして抱きしめる声。鎌崎の香水が香った。 「重い」 「苦しい……」 「何よ、二人して。失礼しちゃう」  唇を尖らせながら、力を強める鎌崎に、きゃっきゃと笑いながら優夜は腕を絡めた。 「泣くようなことじゃないんだ」  優夜は朝臣と鎌崎を見る。 「泣いてる暇があるなら、わたしは絵を描く。画家だからな」  その言葉に鎌崎は呆れたように肩を竦め、朝臣は静かに笑った。 「じゃあ、車で待ってるわ」 「うん。挨拶行ってくる」  二人に見送られ、優夜は歩き出す。通路のガラス窓がひとつ開いていた。  ふわりと暖かな風が桜の花びらを連れてきた。  立ちはだかるのはいつも白い壁だ。  それを壊して耕すか、乗り越えるか、それとも塗り潰すのか。  その壁すらも愛せるようになれたら。  描いていて良かったと、今度は泣けるだろうか。  優夜は歩きながら、最初に注文する寿司のネタを考え始めた。
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