宜保蘭

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宜保蘭

今日も晴れた。 うれしい。 ずっと降り続いた梅雨もそろそろ開けるんだろうか。 最近は毎日がオフのようなもので、ずっと部屋の中で参考書に向かって過ごしていたけれど、今日は幸い外に用事がある。実家にも久々に顔を出そう。 変装は。 別にいっか。仕事以外の時はそもそもフチなし眼鏡だし。 たまあに町中、遠くで私の名前がささやかれる時があるけどね、気にしなけりゃなんてこともない。そもそも他のメンバーに比べれば私は知名度が低い。 私は、肌の露出部分に入念に日焼け止めを塗り、ディーパックに書類を詰めると、日傘を持って部屋を出た。 一階に降りると、あ、ギボランだ。 いつもの臙脂のジャージを着た宜保蘭が、マンションの入り口でじっと壁の高い所を見上げているのだった。 「ギボラン。おはよう」 気づかないらしい。 岸田劉生の麗子像に似ていないこともない平べったい顔が、じっと壁を見たままだ。あの麗子が22歳になって、臙脂のジャージを着るとギボラン。 私はそのまま、ギボランの隣に並ぶ。ギボラン、まだ気が付かない。 「ギボラン。ペキン」 「え?」 びっくりしたような甲高い声が返ってきた。 「ギボラン。ペキン、ってば」 「え?あ。シャンハイ」 誰が始めたのか、グループの中で流行っている挨拶、同じ国の別の都市の名前を返さないといけない。 「何見てんの?」 「え?」 「何見てんのって」 「あ。ヤモリ。あそこ」 ホントだ。 壁時計のちょっと上、白い壁と同化してわかりづらかったけれど、薄いピンク色をしたヤモリが張り付いてる。手足の五本の指を広げて、つぶらな瞳をして。かわいい。 「かわいいね」 「え?」 「かわいいねって」 「うん。虫、食べた」 「実家にいたころは、毎日見てたけど」 「え?」 「うちの実家、東京ってもすごい田舎だから、いるんだよ、ヤモリ沢山。こっちでは初めて見た」 「・・・」 ギボラン、黙った。 ん?変なこと言ったか?私。 「ギボランは、奈良だよね。いた?ヤモリ」 「奈良。奈良。私、奈良」 「いた?ヤモリ」 「え?」 ギボランとの会話はいつもこうなのだった。 宜保蘭は、私たちメンバーの中、いつも一人でいる。 でも、それを一向に苦にはしていないらしい。 こうして私が話しかけたのは、彼女の心の中のヤモリとの交流を遮る以外の何ものでもないのかもしれなかった。 私は、「じゃね」と彼女の隣を離れた。 と後ろから突然、甲高い声。 「別所!ありがとう!行ってらっしゃい!暑いからね、水分補給はこまめにね!」 はい。 こちらこそ、ありがと、ギボラン。
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