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「欅並木叙景」の所属事務所は吉祥寺にある。 ダンスレッスンもそこで行う。私たちの寮も吉祥寺。 仕事でどこかに行くのでなければ、ほぼこの周辺で生活は事足りる。 ならば予備校も、吉祥寺にある学校で良かったのだけれど、私はあえて電車でさらに西へ向かった立川で夏期講習を受けることにしたのだった。 私は電車で立川へ行き、予備校の受付に夏期講習申し込みの書類を提出した。 若い男性の事務員は書類を見て「あ」と言い、目を見開いて私の顔をまじまじと眺めたけれど、それ以上何も言わなかった。こういう対応は少しうれしい。私だって芸能人の端くれ、まったく気づいてもらえないとそれはそれで寂しい。 私は再び電車に乗り、さらに西へ。 電車は多摩川を渡り、山が近づく。 もう夏だ。山が青い。 ここが私の育った場所だった。 山間の小さな駅を降りて歩くと、電柱に私の家の広告がそちこちに貼ってある。「別所皮膚科医院」。 小さなころは恥ずかしかった。 私の家は、代々皮膚科の医者だ。 今は、父と母が患者を診ている。 そして、そんな両親に子供は私一人しかいなかった。 「ただいま」 病院の裏手に回り、チャイムを鳴らし、出てきたのは果たしてお父さん。 「あ。鮎乃」 「ただいま」 「おかあさん。鮎乃が帰ったよ。おかあさん」 もう。目の前の娘に声もかけずにいきなり、おかあさんって。 でも、これ、父の照れ隠しなんだろう。 アイドルになってから何度かここに戻っているけれど、休診日に来たのは初めて。こんな状態で父と顔を合わせるのは、何年ぶりだろう。 勿論、休診日と知ってて私は今日、ここを訪ねたのだ。 「仕事」 ダイニングテーブルに座った父は、正面に座る私にそう言ったきり口をつぐんだ。母は、長雨でたまりにたまった洗濯物を二階で干している。 「仕事」 「うん」 「仕事。大変そうだな」 まあ。ききづらいわな、そりゃ。 そして、また沈黙。 父はそもそも口数が多くない。私が話さないとどうしようもない。 「メンバーは、みんながんばってるんだ」 「わかるよ」 また沈黙。 「アイドルになる時、お父さんは反対しなかったよね」 「反対なんてするわけない。鮎乃がやりたいことをすればいい」 「あのね」 「あ」 私の言葉を切る父、突然立ち上がると戸棚から「欅並木叙景」のCDを4枚持ってきたのだった。今まで出した私たちのシングルだ。 「鮎乃がくれないから、自分で買った」 「え?言ってくれれば」 「そして、じゃじゃあん」 父の口から、じゃじゃあん、なんて言葉を聞いたのは生まれて初めてだ。 「あ。生写真。私の」 それはシングル一枚に一枚づつ、メンバーの誰かのがランダムに封入されている生写真だった。合計4枚の生写真。 「どうしたの?」 「ははは」 「まさか」 「当たるまで買った」 「ぎゃ」 それじゃ、オタクだよ。お父さん。 「鮎乃推しじゃダメなのか?」 「推しって、そんな言葉まで。こっぱずかしいよ」 「ダメか?」 「ダメじゃない。ね。じゃさ、その無駄になったCDは?」 「無駄にはしてない。近所の人に渡してる。野菜とかもらうしな、お返しに。宣伝してるよ」 「わあ」 「「欅並木叙景」は、いい。すばらしい」 「うん」 「鮎乃はそのグループの一員だ」 「うん」 「鼻が高い」 私は泣きそうになって立ち上がった。 「ちょっと自分の部屋、見てきていい?」 「うん」 父は満足そうにCDのジャケットを眺めていた。
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