14人が本棚に入れています
本棚に追加
/58ページ
タクシー
春の夕焼けがいつの間にか闇に入れ替わろうとしている。
ありふれた畑の中の国道をタクシーは走っていた。
喉が渇いたと訴えると、今はタクシーの運転手をしている松下は車を国道沿いのコンビニに停め、私のために水を買いに行ってくれた。
私はその間に後部座席から助手席に場所を移った。
ついでに、黒のサングラスとマスクを取ると、私はひっ詰めていた髪を解いた。東京を脱出したのだ。千葉県に入った。
私は、体が少しだけ弛緩するのを感じた。
「あ。サングラス取った。江藤茉奈だ。前に移ったんだ」
「うん。ダメ?」
戻ってきた松下は、水を助手席の私に渡すと運転席に座り、いちごミルクのペットボトルをボトルホルダーに収めた。
「ダメじゃないよ。俺、江藤茉奈を隣に乗せるんだな、って実感。オタクの逆鱗に触れそう」
私は、返す言葉が見つからず黙っていた。
「水で良かったよね。水がいいって言ってた」
「うん。水がいい。少なくともいちごミルクじゃない。喉が余計乾いちゃう」
「ははは」
松下はペットボトルをフォルダーから取るとキャップを開け、ごくごくと勢いよくいちごミルクを飲み始めた。カロリー計算しないで飲み食いできる松下がうらやましい。
「そう言えば高校の頃、いくら食べても太らないって言ってたよね、松下」
「うん。そう。俺、太らねえんだ。今もだよ」
「いいな。私もそうやって、ごくごくいちごミルク飲みたい」
「好きに飲めるんじゃねえの?江藤だって。もう」
「え?」
「6時半だ」
「・・・」
「開演だよ」
「・・・」
「ホントにいいんだよな」
「うん」
6時半。
東京ドーム単独公演の開演時間だ。
私は、その公演に出演するアイドルグループ「欅並木叙景」の19人いるメンバーの一人なのだった。
「今戻ればまだ終演には間に合うけど」
「いい。実家に向かって」
私はペットボトルのキャップを開け、水を飲んだ。
ホントはこんな時、酒に酔えればよかったのかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!