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南大西洋 1
暗かった。
揺れていた。
雨の音を何千倍かにした水音めいたもの。高く低くリズミカルに繰り返すその音とともに、世界が揺れている。
耐えがたい熱気の中に、汗と糞尿の匂いが充満していた。吐き気がした。
それに身体が燃えるように熱い。身体の内も外も熱いのに、悪寒がとまらない。
「目が覚めたか」
すぐ隣から声が聞こえた。知らない声だった。
「待て、急に動くな」
起き上がろうとして、右手が鎖につながれていることを知った。鎖の先は、声の主の左手につながっているようだ。
「お前は神を信じるか?」
声の主は唐突にそんなことを言った。
「え? いや、まあ……」
「答えろ、手続き上欠かせないんだ」
「なんなんだ、あんた」
「イブラヒム。トゥアレグ族だ。それでどうなんだ。信じるのか」
「そりゃ、信じるだろう、ふつう。神様も信じるし、ご先祖……」
「それ以上言うな。アッラー・アクバルと言え」
「……アッラー・アクバル」
「慈愛深く慈悲あまねきアラーの御名において、哀れなるこの……おまえ、名前はなんていう?」
「ンドゥール」
「哀れなるこのンドゥールの病を癒し、肉体を救いたまえ」
そしてイブラヒムは黙った。しばし間があった。
「何? 今の」
「まだ身体は熱いか? 寒気はするか?」
「え?」
いつのまにか、どちらも消えていた。
「船乗りがよくかかる病気だ。だが、もう治ったようだな。アラハムドゥリッラー」
「え、何?」
「アラハムドゥリッラー。おまえも言え。アラハムドゥリッラー」
「アラハムドゥリッラー」
「自分がどこにいるかわかるか」
「いや、それがぜんぜん見当がつかないんだが」
「おまえはキリスト教徒に奴隷として売られた。俺もそうだ。同じ境遇の者が、この船におそらく三百人ほど乗っている……まず、『船』って知ってるか?」
「船って何?」
「海で使う乗り物だ」
「海って何? 」
「陸地の間を満たす大いなる水の広がりだ」
「おまえ、すごいな! ものしりだな!」
「……俺はおまえに驚いてるよ」
「え? いやあ、俺なんてたいしたことないよ」
「……いや、褒めたわけじゃないんだが」
「で、俺たちは船に乗ってどこへ向かっているんだ」
「キリスト教徒が新世界と呼んでいる陸地のどこかだ。おまえも俺も、そこで死ぬまで働く。帰りの船はない。おまえの国、おまえの家、おまえの家族。そういうものは、もう二度と見ることはない」
「え、そりゃあ困る」
「旅の途中で、何も起こらなければ、の話だがな」
そのときイブラヒムが言おうとしたのは、旅の途中で死ぬかもしれない、ということだったのだが、ンドゥールはそれとは気づかなかった。
そしてイブラヒムの言う何かは、このときすでに起こり始めていたのである。
注)
アッラー・アクバル アラーは偉大なりの意。アラビア語。
アルハムドゥリッラー アラーに栄光あれ、あるいは、アラーに感謝をの意。アラビア語。
ともに、イスラム教徒がアラーを讃える際の決り文句。
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