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7.
風は海上よりましだが、まだまだ冷たい。こりゃ真冬の釣りなんて無理だなと音無が笑いながら鳳の顔を見ると、なんだか考え込んでいた。鳳は考え込む時、口元に手をやることがある。音無は不思議に思いながら、そのまま黙って海を見ていた。
数分、二人でそうやって波の音を聞いていると、ようやく鳳が口を開いた。
「なあ、音無。言いたかったことがあるんだ」
「何?」
いつになく真面目な顔をしているものだから、音無は思わず息を呑んだ。なんだろう、何か悪い話の予感がする、と動悸が激しくなる。
「…俺たちセックスするの、やめないか」
朝の話題にふさわしくない話に、思わず音無はコーヒーを落としそうになった。そしてふと気がついた。
(最近ホテル行かなかったのも、終電気にして時計を見るようになったのも…。いい奴ができたからだったのか)
音無は眉を潜める。胸がちくちくして痛い。いい歳のリーマンが高校生のように動揺して言葉が出ない。だが、音無はなんとか虚勢を張ろうとする。
「朝っぱらからすごい話だな。別にそんな宣言、しなくたっていいし、俺に飽きたんならほっておいてくれていいぜ?ようやく恋人なしの人生におさらばか?」
人は虚勢を張ると、どうして早口になり余計なことを話してしまうのだろう。
音無は自分で話しながら目の縁が熱くなっていることに気づいて慌てて顔を見られないように、背けた。
泣いたところで、どうにもならない。今更惚れてますなんて言える訳がない。こんなことなら最後でもセックスしておけばよかった。
そんなことを音無は思いながら項垂れる。
すると、鳳は慌てた様子で答えた。
「ち、違う。そうじゃなくって」
「何言い訳してんだよ。別にいいって言ってんだろ、俺らただのセフレだし。あ、でも船釣りは俺が慣れるまでもう少し付き合って…」
「違うって言ってるだろ!」
鳳の大きな声に、音無は驚く。こんなに大きな声を聞いたのは、初めてだったからだ。驚く音無の頭を無理やり自分の方に向ける鳳。
「言い方、間違えた。セフレをやめてほしいんだ」
その傷に塩を塗るような言葉に、音無はカチンときて声を荒げる。
「…どう間違ってんだよ、同じだろ!」
「わかれよ、馬鹿!」
突然鳳が顔を近づけてきて、音無の唇にキスしてきた。突然のことで、音無は目を開いたまま硬直する。
もちろん鳳とキスしたことは今までセックス中に何度もあるがホテル以外でキスをしたことは一度もない。
ましてやさっきの話題でどうしてキスされたのか分からず、音無はパニックに陥っていた。
唇が離れると鳳はじっと音無しの目を覗き込んで、一つ小さなため息をついた。そして何か決意したように言葉を発する。
「セフレじゃなくて、付き合ってほしいんだ」
耳元で囁くかのような、小さな声。いつも自信満々に話す鳳の声と違う。音無はあまりに驚いて微動だにできない。
幻聴なのでは、と思ってしまうほど、鳳の言葉に実感が湧かない。何故ならそんなそぶりを見せなかったから、頭の中はパニックだ。
しばらくの沈黙のあとに、ようやく音無は口を開く。
「…お前、俺が好きなの」
「そう言うことになるな」
吐き捨てるように答えて、鳳は顔を背けてしまう。
まさか、鳳がそんなことを思っていたなんて全く気がつかなかった。惚れてしまったのは、自分の方だけだろうと思っていた。だから鳳に気持ちを打ち明けるつもりはなかったのに。
プライドを投げての、一世一代の告白。
海風が頬を撫でる。さっきまで冷たくなっていた頬がどんどんと熱を帯びていくことに気づく。音無はようやく実感が湧いてきて、ゆっくりと手を伸ばし、後ろを向いている鳳の後頭部に触れた。耳と首筋が真っ赤になっている。
もう居ても立っても居られなくなり、音無は背後から鳳を抱きしめるとその体がビクッと揺れた。そして音無は鳳の耳元に口を近づけてこう囁く。
「じゃあ、セフレとしての最後のセックスと、恋人としての最初のセックス、しよう」
鳳の高級車はそのままラブホテルの駐車場に滑り込んだ。男同士が入れるホテルかどうか、など全く見る余裕はなかった。部屋を適当に選び、鍵を開けて入る。
「なあ、鳳。申し訳ないんだけどさ、俺お前の名前覚えてないんだけど、教えてくれる?どうせお前も覚えてないだろ」
「音無紘也だろ。俺は覚えてた」
「へ」
「優って呼べよ、紘也」
上着を脱ぐこともなく、キスをする。
「ん…」
甘いキスに腰が砕けそうになる。今までの行為と何一つ、変わらないはずなのにセフレと恋人だとキス一つでもこんなに変わるものなのか。それなら、今から味わう『恋人のセックス』はどんなに甘くて官能的なのだろうか。音無は期待に体を震わせた。
長いキスを終えると、二人は見つめ合い互いに笑った。初めてホテルに行ったとき、シャワーもせずに先に進もうとした音無に、鳳が眉をひそめたはずなのに、今日は鳳がもう音無の首筋を舐めてそのまま続けようとしていた。
「どんだけ、がっついてんだよ」
音無が苦笑いしながら聞くと、鳳は耳朶を噛んだ。
「早く一つになりたい」
「うわ、キザな言い方だな」
「好きなくせに」
「…まあな嫌いじゃない」
音無の答えに、鳳は満足したような笑顔を見せた。
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