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伽羅がルトゥー・ドゥ・ボヌールを去り、まだ新しいバイトの子が決まらないときに、"その時"は突然訪れた。
「フランケンシュタインくれ」
閉店間際、街路樹を飾る透明な群青色のイルミネーションがしっとりとした大人な雰囲気を醸すなか、その男、印南は現れた。きょとんとする私に、にぃっという見慣れた笑みを浮かべる。
「久しぶりやのう。まだここにおってくれて嬉しいわ」
「おっ……お久しぶりです」
急に心臓がバクバクしてきた。
天音さんは?
天音さんは一緒じゃないの?
「なんやヌシ、なに見とるん」
背伸びをして印南さんの背後を伺う私に怪訝な顔をしたが、ややあってはっと顔色を変えた。
「ぬ、ヌシ……」
えっ、なにその反応……まさか、天音さんの身になにか……
「ぬぬ、ヌシ、まっ、ままっ、まさか……」
まさか、な、なに?
「お、おお俺のうしろに、おっ、おばっ、オバケとかいるんちゃうやろな?!」
いねえよ、つうか視えねえよ。
「いや、あの、ええと、天音さ──」
「イヤや、オバケは堪忍や!」
「あの、天音さんは」
「オバケと一緒に家なんか帰れんでえ! どないしよ!」
「天音さ」
「そ、そや、フランケンシュタインや! オバケには塩が効くいうよな、なあ!」
なぜ、なぜ天音さんに関する話をこんなにも逸らそうとするのか。やっぱり、天音さんの身になにか……
じんわり涙が滲んできた。印南さんも涙を浮かべている……そんな怖いか、おばけ。いやいや、おばけより天音さんだろ。
「あのっ、印南さん、天──」
「はよ、フランケンシュタイン、はよ!」
なんだよフランケンシュタインて!
「あ、よかった、まだ残ってた」
あ──
涙と怒りで吊り上がった私の目が、ずっと待ち望んでいたものをやっと捉えた。
最初に出会ったときと同じ、印南さんのうしろからひょこっと顔を覗かせて、お目当てのパンを見つけて嬉しそうに微笑む──
「天音さん……」
フラれたけど。
でも、顔を見ただけで、こんなにも嬉しい気持ちになる。
天音さんは、ショーケースから私のほうへと顔を上げると、にっこり笑った。
「ザルツシュタンゲン、ください」
大切なものをたくさんくれたあなたに。
たくさんの感謝を込めて。
「……はいっ!」
【おわり】
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