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元カレ
残業を終えて会社を出た途端、スマホが鳴った。
「凛、俺、もう駄目だ。」
久しぶりにかかって来た電話の声は、いつもより鼻声だった。
「何?また振られたの?」
元カレの慶太は、彼女と別れる度に私に電話を掛けてくる。
もう、別れて6年も経っているのに。
「またって、何だよ。確かに振られたけど、今回はキツイ。
俺、もう駄目だ。」
「分かった、分かったから。電話越しに泣かないで。」
呆れた声で通話を切ると、私は自宅とは反対方向の電車に乗った。
駅の近くのコンビニで大量のお酒とおつまみを買って、久しぶりなのに、足が覚えているマンションに向かう。
ピンポーン。
チャイムを押すと、ドアは直ぐに開けられた。
真っ赤に腫らした目、乱れた髪、少し赤くなった顔は、もう既にお酒が入っていることを示している。
「凛~~。」
慶太は私を見るなり、ドアも閉めずに私の肩に顔を埋めた。
前に会った時とは違う香水の匂いが、フワリと香る。
「はいはい。話はちゃんと聞くから、こんなとこで泣かないの。」
まだYシャツ姿の広い背中をポンポンと軽く叩いて、たしなめる。
慶太の腕を掴んでソファーまで誘導すると、一緒に座って、買ってきた缶ビールを渡し、私は缶のハイボールを持つ。
「とりあえず、飲もう。」
そう言って、缶をぶつけると、一方的に乾杯した。
私は一気に半分くらい飲んで、慶太はチビチビと一口、二口しか進まない。
そんな慶太を横目に、買ってきたおつまみをローテーブルに並べ出す。
私はそのローテーブルに置いてある、無視できない箱を手に取って、缶ビールに口を付けている慶太に聞く。
「これ、振られた彼女にあげるつもりだったの?」
さっきまで平気だったのに、この、明らかに指輪が入っているであろう箱を見た時から、胸の奥で、焦燥感に似た何かが少しずつ漏れてきて、体中に流れ出そうとしてきた。
「うん。今日、プロポーズの時に渡すつもりで、レストランで食事して、二人の思い出の場所に行ったんだけど、それ、渡す前に振られた。」
そう言うと慶太は一気に缶ビールを飲みほした。
そして、新しい缶ビールの栓を開ける。
「そう。」
振られたことは知っているのに、慶太の口から経緯を聞かされると、流れ出した感情が少しだけ止まる。
ちゃんと振られたんだ。
少しだけ落ち着いた気持ちで、残っていたハイボールを全部飲み干すと、同じ物を開けた。
「結婚したいんだって、百合花。」
百合花。振られた彼女の名前は百合花って言うんだ。
「でも、それは俺とじゃ無いって。」
少し、分かる。
顔も知らない百合花さんに、少しだけ共感する。
「俺は恋人止まりで、夫にはしたく無いって。」
それも、分かる。
「俺は、百合花と結婚しようと思ったのに、百合花は俺じゃ無いって。これって、完全にすれ違ってる。
恋愛の先に結婚が有ると思ってたのに、違うんだな。俺はこのままずっと、百合花と一緒に生きていけると思ってたのに、そう思ったのは、俺だけだったんだ。」
また、目に涙を浮かべて、髪をかき上げた。
「慶太は真っ直ぐしか見えてないからね。」
「それ、どういう意味だよ。」
「自分の気持ちを伝えるのは上手くても、相手の気持ちを察するのが下手。一緒に居る相手は、自分と同じ気持ちだって思いこんでるとこがあるよね。」
「俺。そんな自己中じゃねーよ。」
目に涙をためたまま、少し怒ったように言い返す慶太。
「自己中だよ、今も。」
「何だよ、凜まで。」
拗ねて横を向く慶太の横顔は、別れた時と変わってない。
「百合花さんはそんな慶太を受け入れられなかった。だから、こんな慶太を受け入れられる人と、次は出会えばいいんじゃない。」
「凛。」
さっきまで拗ねていた顔は一瞬で、私を求める顔になった。そして、真っ直ぐ見つめる私にためらいもなく腕を伸ばすと、慣れた動作で抱きしめた。
慶太は長い腕で私を抱き締めながら、耳元で甘えた声を出した。
「俺の事、一番分かってくれるのはやっぱ、凜だけかも。」
ズルい。
「凜は俺の側から居なくならないよな。」
ズルい。
恋人だったのに、友達になんてなりたく無い。
こうして、呼ばれればホイホイやって来て、求められれば受け入れてしまうなんて、嫌だ。
でも慶太はそれを望んで、私を呼んだ。
「バカ…。」
私も、慶太の耳に少し甘い声を出した。
それが合図かのように、慶太は私の唇に当たり前のようにキスをした。
私もそれに応えるようにキスをする。
別れた彼女の為に流した涙が乾かないうちに、他の女の唇を求める男。
もとに戻れることなど無いと分かっているのに、受け入れてしまう女。
刹那の寂しさを埋め合うだけの二人に、この先が無い事は、知っている。
でも…。
私の首にキスをしている慶太の頭を抱き締めたら、吐息と共に、涙が一筋こぼれた。
何重にも蓋をしたはずの心の蓋が少しズレて、胸いっぱいにしまい込んでいた思いが広がった。
ダメな男だと分かっていても、バカな女だと分かっていても、求められれば受け入れてしまう。
私はまだ、慶太の事が好きで、もう一度、慶太の恋人に戻りたいと思っている。
この、一方的に落ちてくる「寂しさ」を「好き」だと思い込んで、受け入れてしまう私は、まだ恋をしているんじゃない。
もう、愛してしまったのだ。
恋が落とし穴なら、愛は沼。
誰かに引き上げてもらえれば抜け出せる恋とは違って、誰かも一緒に引きずり込んでしまう愛は、深い。
慶太、そろそろ一緒に沈もうよ。
ためらいも無く、私の唇にキスをする慶太に、心の中で問いかけた。
ねぇ、私のこと、好き?
了
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