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経験はひとつでいいんですよ
『いつでもいいからね』
マスターの囁きに、律は微笑んだ。
連絡するつもりは当然ない。自分を狙っている男がいるのはわかっている。
愛しい男が忠告してくれた。
「どうすごいんですか、北川さん」
「え?」
「僕の原稿のどこがすごいんですか。ストーリー? 結末? それとも……」
律はコーヒーをひとくち飲む。コーヒーは相変わらず苦手だが、少しは飲めるようになった。
律はカップをソーサーに戻すと、北川の目を見て、言った。
「怪しいシーンですか?」
「いえ……その、は、はい。そういう描写です」
あまりいじわるなことをしてはいけないとわかっていても、律はつい、北川をからかってしまう。
北川は昔の律にそっくりだった。
「気持ちいい危なさというのかな……読んでいると、俺が律先生を抱いているような気分になります」
「いいんですか、真っ昼間の喫茶店でそんなことを言って」
カウンターに目をやると、マスターが律を見ていた。北川は気づいていないようだ。
「こんな小説を書くなら、きっと淫らなことが好きだろうなって思います。どうなんですか。律先生は、好きなんですか……そういうこと」
律は口元を手で隠して、笑った。
世の男の口説き方はいろいろあるなと思った。
「ええ……好きですよ、大好きです」
「じゃあ、このあと……」
「北川さん」
「は、はい!」
律は北川を見つめて、笑みを浮かべる。
「作家はね、いつだって空想するんです。どう抱き合うと感じるか。どうふれたら、甘く喘ぐか。どうやったら、自分のものになるかってね」
北川は真っ赤な顔で、律を見つめている。
「経験はひとつでいいんですよ。湧きあがる空想を塗りつぶす、たったひとつの経験があればいいんです。そのひとつの経験を種にして、空想を栄養にして、小説を生む。作家とは、そういう生き物なんです」
律は北川の手に、そっと自分の手をかさねた。
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