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僕のメエドにならないか?
情が深い先生のことだから、出て行きたいのを言い出せないのでしょう。
だったらなおさら先生のために、私がしなくてはならないのは…私はようやく顔をあげました。
「先生ちょっと、よろしいですか?」
「何だい。」
完全に思索に没頭していた先生は、そこで初めて私がいたことに気が付いたようでした。私は精一杯に微笑みます。
「先生も、ここを出てよろしくてよ。」
私は両の手を握りしめ、先生を見つめました。しかし先生は、あっけないほど平然としているのです。
「出ていかないよ。今更どうしてそんな事を?」
「え、どうしてですって?」
「まあ、玉雪君が僕の退去を望むなら…考えなくも、ないけれど。」
先生はどこかわざとらしく腕を組み、考えるふりをなさいます。
「そ、そんなことあるはずありませんっ!」
思わず大声を上げた私は『不躾でした』と縮こまりましたが、先生はなぜか満面の笑みを浮かべています。そればかりか『そうかならば、良い良い』などとひとりごちているのです。
一体何が、良い良いなのだ。今度は私が難しい顔をする番になりました。
泰然と私を見つめたままの先生は、ふいに私の名を呼びました。
「玉雪君。」
「はい、何でしょう?」
聞いた事のない声色に、思わず背筋が伸びます。
先生はさらに見たこともない真剣なお顔で身をかがめ、じっと私を見据えます。その眼光の鋭さに、今度は息をのみました。
「…君、僕のメエドとして働く気はないか?」
「め………めえど。」
先生は軽く頷くと、長い脚をゆっくり組みました。
「そうさ。まあ簡単に言えば、世話係さ。」
たしかにメエドといえば、英国における使用人…と何かで聞いた記憶がございます。
私が先生のメエド、つまりお世話係。
理解が追い付かない私に先生は『ああでも』と慌てた様子を見せました。
「もちろん僕は君をこき使うつもりなんてさらさらない。であるからしてメエドと云うのはあくまで『雇用の形態』という意味で便宜的に使用する呼称として捉えてほしい。つまり君がすべきことはだ…」
「先生そのような難しい言葉で言われても、私何も分かりませんの。」
「…すまなかった。つい。」
じっとりした目で見つめると、先生はきまり悪そうに耳をかきました。
「とにかく僕が提案しているのは、君にできる範囲で僕の生活や仕事の手助けをしてもらい、その代償に給金を支払わせてもらうということなのだ。
もちろん、無理な事はさせないし…。まあこれまでの付き合いから、僕の言葉は信頼してくれるね。
ああそれとなお、『下宿人』としても当然、家賃は支払うから。
どうだい、なかなか良い提案だとは思わないかい?」
…この人一体、何を言ってるのかしらん。
『なかなか良い』ですって、この提案が異常な好待遇であることなぞ、学のない私にだってすぐ分かります。
世間知らずながら一通りの家事やお手伝いはこなせる自信がありますし、なおかつ明日のご飯も不安な私にはむしろ、願ってもないご提案です。
それでもこんなの、先生が損をするばかりではないかしらん。
何よりもっと差し迫ったそれでいて不躾な疑問を私は抱かずにおれませんでした。
そもそも先生には、お家賃とお給金を支払うほどにお金があるのかしらん。
先生とは長い付き合いにありながら彼のお仕事さえも知らなかったことに、私はその時初めて気付いたのです。
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