言えなくて

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「勇くん」  名前を呼ぶとビクッと体を固くさせるのがわかった。  早川勇。夏休み前に転校してきた大人しい男の子。母子家庭の母親が亡くなり、施設での生活を経て、異父兄弟の兄がいる吉志家での生活がスタートしていた。少し前に、家で試し行動が見られていたようだが、それも落ち着いたと聞いていた。学校では、真面目な優等生だったけど、感情表現や人とのコミュニケーションは下手で、目が合うといつも困ったように笑う。  最近やっと、声をかけるとお話ししてくれるようになってきたばかりだった。  机の上のワークは、確かに全然進んでいなく、いつもの勇とは違った。顔を覗き込むと、涙目の視線とぶつかる。 「具合悪い?一緒に保健室行こうか」  声をかけても一向に動く気配を見せないので、机と椅子をずらしてみると、手に触れた座布団が、濡れていて冷たい。勇は、両手を太ももと太ももの間に挟み、俯いた状態だった。  あぁ……そうか……床が濡れていなかったから気づかなかった…… 「ちょっと、失敗しちゃったね。このままじゃ、風邪ひいちゃうから、お着替えしようか」  みるみるうちに、勇の目から涙がこぼれ落ち、嗚咽が漏れる。 「うっ……うっ……ごめんなさい……」 「岩田先生、ちょっと怖そうだしね。言いにくかったかな」  保健室には初めて入った。中には誰もいなくてカーテンの奥で、葉山先生はボクの冷え切った下半身を温かいタオルで拭いてくれた。タオルはとても温かくて、気持ちよかった。  保健室のズボンは、履いてたズボンと同じ黒色だった。スパッツはなかったけど、ズボンはモコモコしていてスパッツがなくても十分温かい。3時間目が始まったけど、次は音楽で「音楽の先生にお話ししておいたから」と葉山先生と温かいお茶を一緒に飲んで過ごす。 「椅子も綺麗にしたし、ズボンも同じ色でお着替えしたのわからないし、誰も気づかないね」 「……うん」 「まだ、何か気になってることあるかな?」 「……座布団……汚れちゃった……せっかく……広くんが買ってきてくれたのに……」  また、目に涙が溜まってくる。 「うっ……うっ……広くん……怒っちゃうかな……」 「勇くんはさ、わざとおもらし、しちゃったの?」  フルフルフル……大きく首を振る。 「お……おトイレ……行こうと思ったら……ひっく……ひっく……雅也くんが……た…たくさんお話して……うっうっ……時間が……なくなっちゃった」 「そっかぁ。雅也くんはお話好きだもんね。それなら、広くんは、怒らないんじゃないかな。でもね、雅也くんにトイレに行ってくるって言えたら良かったよね」 「で……でも……」 「言ったら、雅也くんはダメって怒ったかな?」 「……」 「先生は、いいよーって言ってくれたと思うよ。そしたらさ、勇くんも失敗しなくて、困ったり、悲しい気持ちにならなかったんじゃない?」 「うー……」 「だから、次からは話しかけられても、先にトイレに行ってくるって言ってみようか。どうかな。できそうかな?」  ボクは少し考えて、不安だったけど小さく頷いた。 「座布団はね、洗って乾かしたら、またふかふかに戻るんだよ。広くんと一緒に洗ったらいいと思うよ。だからさ、今日のこと帰ったら、広くんにお話しできるかな?」 「えっ……」 「勇くんが言わないで隠していたり、ウソついちゃうと、広くんは悲しい気持ちになっちゃうと思うな。勇くんも広くんに隠し事してたら、心が苦しくなっちゃうんだよ。正直にお話しして、一緒に座布団洗って、また学校に持って来てよ」  ボクは、またすごく不安になったけど、葉山先生に言われると何だか出来るような気がして、またゆっくりと頷いていた。  週明けの月曜日、ボクはまたフカフカになった座布団に座っている。休み時間、トイレに行こうとした時、また雅也くんがが話しかけてきたけど「先にトイレ行ってくる!!」と言ったら、「あーうん」とだけ言って、花音ちゃんに話しかけていた。  なーんだ。こんなに簡単なことだったんだ……  すごく呆気なくて、笑っちゃいそうだ。その時、まだ教室に残っていた葉山先生と目があって、先生はニコニコ笑ってうなづいてくれた。ボクは、なんだか照れ臭くて、へへっと笑って教室を飛び出した。
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