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第4話 義母の心
家の奥の個室で水が流れる音が聞こえる。
決して快適とは言い難い、せまいこの家はいくら奥の部屋とはいえど壁を挟んでいても生活音が漏れ出す。
メアリーは居間の机で一つの紙切れを手に、それを静かに見つめていた。
(これをあの子に渡す時が近づいてきているわ...)
その正方形の小さな紙切れは既に茶色く変色しており、ところどころシミができていた。
小さな紙きれにはメアリーには解読できない黒い手書き文字が並んでいた。
これは彼女が森でオリヴァーを拾った時にまだ五歳だった彼が手に強く握っていたものだった。
彼女はそっとその過去を頭の中で思い描いた――――
第3王国の最南端には"影の森"と呼ばれる、普段はほとんど立ち入る者がいない、ちいさな森があった。
冬のある日、朝から薄黒い雲に覆われた空は冷たい雨を降らせていた。
最愛の夫と一人息子を亡くしてちょうど一年が経った頃、当時三十四歳のメアリーは村で数少ない薬師として、貧しい土地の限られた環境の中で各地を転々と旅し、調合の材料となる薬草を探しては採っていた。
雨が激しくふるその日は風も強く、森の道も雨風で濡れ荒れていたため雨除けのマントを被りメアリーは慎重に歩を進めていた。
悪天候の日のみ花びらを咲かせる珍しい品種の植物を採取するためだった。
(その植物を手にいれることができれば作れる薬の種類も格段に増やすことができる)
寒さが訪れているこの時期は感染症が広がりやすい。特に高齢の者や小さな幼児は気を付けなければならない。
自宅のあるリベル村では住民の数は少ないものの、いざとなった時に病に対抗できる術を持ち合わせている者は自分しかいないのだ。
薬師としての一種の使命感に突き動かされてメアリーはただ一人森の奥をしっかりとした足取りで進んでいく。
しばらく歩いて目的としていた崖に近く、周が大きな岩で囲まれている雑草畑に辿り着くと探していた植物を見つけた。たったの三輪しか生えていなかったが、それでも命の恵みに感謝し、携帯していた刃物でその根元の茎を大事に切った。
持ち合わせていた斜め掛けの革製のカバンに収穫した花を入れ、家に帰ろうと踵を返した時だった。
右前方に何やら金色に光輝くものを見た気がしたのだ。
この悪天候で暗い視界の中でそこだけが不釣り合いなほどまばゆく輝く何か。
正体不明のなにか、けれどそれはとても美しかった。
光に引き寄せられるように、メアリーの体は自然にそれに近づいていった。
そして、光の正体を目にした彼女は一瞬自分の目を疑った。
――――力なく横たわる齢五歳ほどの小さな少年の姿がそこにはあったのだ。
その光景が信じられずに、メアリーは一度目をつぶった。
だが、もう一度視界を開いたときには先程の光は跡形もなく消え去り、目の前には依然としてちいさな体が横たわっている。
(こんな天気の日にどうして子供が.....?!)
身に着けている衣服は所々破けており、長い間雨に当たったせいだろうか、その白く細い腕に触れると氷のように冷え切っていた。
泥にまみれた金髪の長い前髪をそっとかき上げると、少年の顔の全貌をみて驚愕した。
(なんてきれいな顔立ち....それにこの右目は....)
そこまで考えて自分の思考を中断した。今はそれどころではない。
周りに人の気配が全くないことから彼がなにかしらの理由でここにいることを察する。
口元に手をかざし、小さな呼吸をしていることを確認するとメアリーは自身の羽織っていたマントで彼を包み、両手でその小さな体躯を抱き上げた。
(細くて驚くほど軽いわね....)
息子が少年と同じくらいの時はもっと重さがあった。
一体この子供は今までどのような環境で育ってきたのか。一気に不安が押し寄せる。
最悪の場合を今は考えてはいけない。とにかく早く家に連れて行かなければ。
息を乱しながらやっとのことで家に辿りつくと、素早く薪を焚き、かつて息子が使っていた服に着替えさせた。
その時、いまだに目を開かない少年の右手に一つの紙切れが握られていることに気がついた。意識を失っているにも関わらず右手にだけは力が込められていた。
ゆっくりとその指を開いてその紙切れを覗く。
そこにはどこの国のものか分からない記号のような文字が連なっていた。
何かのメッセージだろうか。しかし、他の王国の言葉に精通していない彼女にはそこに何が書かれているのか全く分からなかった。
(けれどこれだけ大事に握りしめているのだから、それだけ重要な物なのかもしれ
ないわ)
彼女はそう考えるとその紙切れを自分のポケットにしまい込んだ。
(...ひとまず彼が目を覚ますまでは預かっておきましょう)
焚いた薪の近く置いた布の上で眠っていた少年は夕刻に目を覚ました。
ずっと彼の様子を隣で見ていたメアリーは彼が起きたことに気が付くとその顔を覗き込む。
その開いた神秘的な瞳を見て思わず息を吸うことを忘れる。
それほど、彼の緑眼は宝石のような奥ゆかしさと美しさがあった。
(本当に.....この子はどこからやってきたの......?)
自分がどこにいるのか戸惑い、その大きな無垢な瞳をせわしなく動かす少年に警戒されないように落ち着いた声音を意識して尋ねる。
「はじめまして、私はメアリー・ロイックスよ。この家に一人で住んでいるわ。
森に行ったらあなたが倒れているのを見つけてここに連れてきたの」
少年は不安そうに目をきょろきょろ動かす。
その様子はまるでこの国の言語が全く分からないようだった。
(やはり、ここの国の子ではない....?)
メアリーはこの子供がどうしてあの森にいたのか考えを巡らす。
何年も前から王国と王国の境界線は厳しく定められているため、よほどの理由がない限り他国をまたぐことは不可能に近かった。
考えられる選択肢は二つ。
少年が何かのきっかけであの森に迷い込んだか。あるいは、これはできれば考えたくない場合であるが――――両親に捨てられた捨て子であるか。
少数ではあるが、捨て子がすくなくとも一定数発生している現状は村の誰もが知っていた。この少年ももしかしたらそれに当てはまる可能性が高いのかもしれない。
突然険しい表情になったメアリーを少年は口元を微かに震わせて見上げている。
(まずはこの子と意思疎通ができるようにしなくては)
「私はメアリー、あなたは?」
今度は自分を指さし身振りを加えながらそう伝える。名前だけでも分かることができれば―――
すると、今まで口を開くことのなかった少年は首を小さく横に振った。
「....名前が、ない....?」
あまりに酷い現状に怒りに似た感情が胸の内に渦まき始めた感情は、十一年前のことでもよく覚えている。
彼の置かれた立場を理解してからは、メアリーは一から少年に生きる術を教え始めた。着替え、排せつ、この国の言葉、料理、畑仕事.....その他にも生活に必要な知識を、自分が持っているものすべてを覚えさせた。
最初は言葉も分からず、コミュニケーションを取ることも難しい状況であったが共に年月を重ねていくうちに大きな障壁をつくることもなく、今では彼自身の力で暮らすことができるようになっている。
しかし、彼は森に捨てられたあの日より前の記憶が抜け落ちていた。
会話をしていく中で何度か尋ねたことがあったが、彼自身もまったく覚えておらず、日が経つにつれ森で倒れていた時の記憶も朧気になっていた。
(あの日のことは....私だけが覚えていることになるわね)
これは彼と一緒に生活をしていく中で分かってきたことであるが、オリヴァーはとても優しく、我慢強い性格をしている。何か思っていることがある時でもそれを人にさらけ出すことは滅多になく、自分の中で気持ちを消化しようとする。
その性格は、彼の生い立ちが関係しているのかもしれない。
彼が彼自身を守るために、早く大人としての姿勢をもって欲しいと考えていた過去の自分に、メアリーは最近後悔していた。
(まだ十六歳の子には.....重すぎたわよね)
彼自身も知ることが叶わぬ彼の過去。
突然の見知らぬ世界に、新しい言葉、生活。
「.......あの子の本当の意味で安心できる場所はどこなのかしらね」
奥で聞こえる水の流れる音がしだいに小さくなっていることに気づき、掴んでいた紙切れを自分の寝室に行き、一番上の棚の引き出しにそっとしまい込む。
この手紙の存在を彼はまだ知らないだろう。
いつか彼がここを出ていく時に、必ず自分からこれを渡すとメアリーは決めていた。
彼と出会った時から胸をざわかせているこの気持ちはきっと、何か目には見えぬ
大きな"予感"だった。そう遠くない未来に、私は彼と別れを告げなければならない。
それは寂しくもある一方で、どこか吹っ切れた感じもするのだ。
ふいに、自分の愛する息子が彼が望む未来へと駆けていく後ろ姿が脳裏に思い浮かぶ。
金髪をなびかせながら懸命に、期待に満ちたその背中は彼女が一番見たかった光景だった。
(あと少しの間だけ...)
メアリーは微かに自分の視界が潤んでいることに、慌てて目の端を拭った。
もうすぐ彼が上がってくる。自分の着替えを準備するために腰を上げた。
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