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ベランダで本を読んでいたら、花びらが落ちてきた。
見上げると、ずっと上の階で、ベランダの柵から突き出た小さな手が、花を握っているのが見える。微笑ましく思って、落ちてきた花びらを本のページに挟んだ。
数日後、またベランダで風に当たっていたら、小さな花が落ちてきた。あの子だ、そう思い、上階を見上げる。今度は柵の隙間から、伸ばされた腕と風になびく髪が覗いた。子供特有の、細くて柔らかそうな髪だ。花束を空に向けて放ったのだろう。いくつかの野草が風に乗って散っていく。微笑ましいが、あまり褒められたものではないのかもしれない。人によってはゴミを撒かれたと思い、苦情を言う住民も出るのではないか。少しばかり不安になったが、幼子のすることだ。私はすぐに、このことを忘れた。
一週間ほど過ぎた頃、外出先から戻ると、アパートの集合ポストの前に住民が集まっていた。
横目で私を見た原田さんが呼び止めてくる。
「ねえ、あなたのとこは大丈夫?」
聞けば、ベランダにゴミが落ちてくるのだという。私はぎくりと身をこわばらせた。
「あ、やっぱりあなたも?」
めざとい山内さんが、眉を顰める。
「野菜の切り屑だか何だかわからないんだけど。気持ち悪いわよねえ」
「うちは、花でしたよ」
「あらあ、いいわね」
「よくはないわよ。まあねえ、でもタマネギに比べたら」
原田さんと山内さんは顔を見合わせて、ほほっと笑った。
「子供の悪戯じゃないですか」
「そうかしらあ。違うと思うんだけどねえ」
目配せをする様子から、何かしら心当たりがあるらしい。二人が視線を投げたポストの一つからは、郵便物やチラシがはみ出して、今にも零れ落ちそうだった。
9階の2号室。私の部屋は6階の2号室だ。あの小さな腕は、その辺りから突き出していたのではなかったか。
「何か見たら、教えてね」
「わかりました」
曖昧な笑みを浮かべて、私はエレベータに乗り込んだ。
部屋に戻り、ベランダに続く掃き出し窓を開ける。コンクリートの上には、色とりどりの紙切れがばら撒かれていた。上を見たが、青い空が広がっているだけだった。
次の週には可愛らしい花柄の布の端切れ、その翌々週はロリポップキャンディ。その次はハンカチーフ。ハンカチは、綺麗なレースでできているのに、茶色っぽいシミがついていた。
アパートの掲示板には『危険。ベランダから物を投げないこと』と貼り紙がされていた。原田さんと山内さんは頻繁にポストの前で話し込むことが増えた。
窓に手をかけて、私は溜息をつく。
今日は小さな靴だ。着せ替え人形の、小さな靴。
拾い上げて顔を上げて、ぎくりとした。幼い顔が、柵の隙間からこちらを見下ろしている。白く綺麗な顔が、じっと私を見つめていた。
「これ、あなたの?」
問いかけたかったのに、辺りを憚って、知らず声は小さくなった。聞こえたはずもないのに、掲げた鞄を見て、少女はこくりと頷いた。私は弱り果てて頭を掻く。届けないわけに、いかないだろう。いや、それとも。
私は靴を小さな可愛いビニール袋に入れて、902号室のポストにそっと捩じ込んだ。
お人形の靴は、いつまでもそこにあった。あの子はこれを待っているだろう。そう思ったが、集合ポストの前には今まで以上にあの二人が立っていたから、靴を取り出すことはできなかった。そうこうするうちに、詰め込まれていく郵便物とチラシで、靴の入ったビニールは見えなくなった。
ベランダで、綺麗な青いリボンが落ちているのを拾い上げて、思案する。思い悩んでいる私の頭に、かさり、と何かが落ちてきた。慌てて手をやると、一枚のメモ用紙だ。クレヨンで描かれた線が、ぐねぐねと踊っていた。
上を見る。あの子と、目が合う。何かを期待するように、訴えるように、幼い瞳が私にじっと据えられている。顔のすぐ横で柵を掴んでいた指が離れて、小さな腕が空に突き出される。白く細い腕は、ところどころが汚れているように見えた。
目を離せずにいたら、大きな音が響いて、少女はぱっと腕を引っ込め姿を消した。
クレヨンで汚されたメモを握って、私は、凍りついていた。
ざわざわと、疑惑が胸を這い回る。あの子がベランダから物を落としていたのは、誰かに自分の存在を気づいて欲しかったからではないか。私はそれに気がついた。あの少女が投げたこの紙は、助けを求める叫びではないだろうか。花も、布の端切れも、ロリポップもお人形の靴も折り紙の紙吹雪も、そして青いリボンも、あの子が自由にできる持ち物だろう。
小さな子供がいつもベランダにひとりでいるのはどうしてか。ハンカチの赤いような茶色いシミはなぜついたのか。長いこと放置されたままの郵便物、他の家のベランダに投げ捨てられる生ゴミ。
「あの子は、助けを求めてる?」
のたうち回ったクレヨンの軌跡は、見よう見まねで書かれた文字に似ていた。
「902号室の」
ポストの前で何やら話し込んでいる背中を見つけ、私は声を張り上げた。緊張で喉が張り付いて、言葉が止まる。
「あら、あなた、何か進展があった?」
原田さんが、眉間を険しくして振り返る。途端に私は臆して、トーンを落とした。
「いえ、どんな方が住んでいるのか、ご存じないかと思って」
山内さんが困ったように首を傾げた。
「女性だと思うのよ。でも、引っ越しの時にちらっと見ただけだから、その人が住んでいるのか手伝いだったのか、確信がないわ」
「ご家族ですよね」
「いいえ、違うと思うけど。単身よ」
「家族だったら、ねえ」
こんなふうにはなっていないだろうと、二人揃ってポストを見やる。とうに飽和していた郵便物は、上下左右の住人が業を煮やして引き抜いたのだろう。束になってポストの上に放置されていた。
「お子さんは、いらっしゃらないですよね」
「子供? まさか」
「ですよ、ね……」
誤魔化すように笑った私に、二人は獲物を狙う狩人の目で詰め寄ったが、どうにか逃げ切った。なぜ、言ってしまわなかったのか。子供がいると言ってしまえば、あの子は助かるかもしれないのに。
部屋に帰り、着替えもせずに、スマホで育児放棄、通報、と単語を検索していく。警察なのか、児童相談所なのか。通報をした場合、面倒ごとに巻き込まれるのではないか。
「面倒ごとって、なによ」
思わず自分の思考を、自分で詰った。幼い子供の命がかかっているかもしれないのだ。でも、もし、ポストの郵便物にまで目を配る余裕もないシングルマザーが、普通の生活をしているだけなのだとしたら。私の通報で、余計な労力をかけてしまうかもしれない。
うろうろと、スマホをつけたり消したりしながら、部屋を行き来する。
ばさり。
大きな音がして、私は悲鳴を上げながら飛び上がった。
慌てて窓を開け放ち、ベランダに顔を出して、また叫ぶところだった。寸でのところで悲鳴を噛み殺し、ぎゅっと胸を押さえる。
ベランダには、滅茶苦茶な姿勢で、お人形が落ちていた。白い肌は薄汚れて、花柄の服は破れ、長い髪がぐしゃぐしゃになったお人形。恐る恐る指を伸ばし、触れずに引っ込めた。
ぎしぎしと、仰向く。
ベランダから、あの子が覗いていた。
だらりと腕を柵から落とし、ぼんやりとした目が、私を見ている。そのガラス玉のような虚さに、胸が締め付けられた。
「待ってて」
小さな声でそう言うと、私は人形を掴み上げ、玄関を走り出た。
エレベータのボタンを、もどかしく幾度も叩く。一階で止まったままのエレベータは、なかなか上がってこない。苛立って扉を蹴ると、思いの外、乱暴な音が響き渡って背をすくめる。
やがてのんびりと上がってきた箱には、原田さんと山内さんが乗っていた。私を見て、驚いた顔をする。
「どうしたの」
私と人形とを見比べて、原田さんが宥めるように肩に手を添えた。跳ね除けたいのを堪えて、あの家です、と短く吐き捨てる。
「ああ、やっぱりあなたのとこにも、ゴミを撒いているのね。今日はあんまりひどいから、これから私たちも言いに行こうと思って」
「違うんです!」
「どうしたの」
私の剣幕に目を丸くして、山内さんが身を固くした。
「小さな子が、あの家で。虐待かもしれない」
「落ち着いて」
「落ち着けません!」
「聞いて、あの家に、子供なんていないのよ。さっきあなたに言われて確認したの。もし子供がいるんだったら、育児放棄でしょう」
「そうなんです、だから助けなくちゃ」
「いないのよ、子供は」
「でも、じゃあ」
私が突き出した汚れた人形に、二人は眉を顰めた。
「子供のものばかり降ってくるんです。あの子が落としてるんです。見たんです!」
「それって」
「家族がいないっていうなら、黙って産んだんじゃないんですか。それならそれで、助けが必要なんじゃないんですか!」
「わかったわ」
背中を幾度もさすられて、ようやく私は、自分が泣いていることに気がついた。慌てて幾度も深呼吸をする。冷たい空気が鼻腔から流れ込み、煮えたぎった脳と胸の内を落ち着かせる。ぎゅっと、人形を胸に抱きしめた。エレベータの扉が、ゆっくりと開いた。
扉は幾度叩いても、何の物音もしなかった。902号室の玄関前にはゴミが散乱し、新聞受けに入りきらない新聞が、積み上げられている。
「警察を呼んだ方がいいのかしら」
「でも、もしひとりで困っているんだったら、可哀想よねえ」
「可哀想とか、そういう問題じゃ、ないです。いずれにしろ、誰かの助けが必要です」
「そうね」
原田さんがスマホを取り出し、電話をかけ始めた。おそらく、大家さんにだろう。
「来るまで待った方が、いいんじゃない」
扉に耳を押し当てたが、しんとしていた。
あの子は、ベランダから部屋の中には入れないのかもしれない。
「私、一度部屋に戻ります。ベランダからあの子に声かけてみます」
「お願いね」
再びのろのろとしたエレベータに飛び乗って、部屋に駆け戻った。
その直後、ずどん、と大きな音が部屋から響いた。
身体が凍りついて、いうことをきかない。膝から力が抜けそうになり、下駄箱に縋り付く。何が落ちてきたのか、わかった気がした。
ひくひくと、喉が鳴る。叫びたいのに、息は吸い込まれるばかりだ。目の前がぐるぐると回った。誰かの、悲鳴が、聞こえる。
叫んでいたのは、私だった。
救急車と警察が去って、私はぐったりとリビングに座り込んでいた。
私の家のベランダに落ちてきたのは902号室の住民で、重症ではあったが、命は無事だった。搬送されていくときも錯乱した状態で「逃げなくちゃ」と幾度も口走っては、ベランダを指差して暴れていた。
902号室に子供がいると警察に話したが、どれだけ探しても、子供がいた形跡はなかった。ベランダには、人形の靴や服が乱雑に詰められた箱が、雨晒しになっていたそうだ。
はたと気付いて、私は人形を探す。抱いて戻ってきたはずだ。それをどこに置いたんだっけ。
ぐるぐると部屋を見回す。
ピンポン、とチャイムが鳴った。
ドアを開けると、原田さんと山内さんが心配そうな顔で立っている。
「大丈夫? 大変だったわね。お手伝いが必要なら、いつでも言って」
心の底から親身な口調で、山内さんが私を覗き込む。
ふと、その視線が、私の背後に向けられる。
「あら、あなた、お子さんがいたのね。だからあんなに心配して」
涙ぐんだ山内さんの言葉に、私は立ち尽くす。
ぎりぎりと、首を後ろに向ける。
私に、子供など、いない。
部屋の中で、花柄のワンピースの人形が、私を見て笑った。
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