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目を開くと、そこは一面の草原だった。空は雲ひとつない澄みきった青、陽の光が暖かく、風がそよそよと頬を撫でる。
ノアはその中に立っていた。身体にフィットした漆黒のスーツとハット、右目にはモノクル、左手には艶やかなステッキを持っている。正直この場には似つかわしくないが、これが彼の仕事着なのである。
視界の端を動くものがあった。それはツバ広の白いハットで、ゆっくりと風に運ばれやがてノアの足元に舞い降りた。それを拾い上げると、遠くから女性の声がした……
「ザック! 来てくれたのね。私ずっと貴方を待っていたのよ」
完璧に再現されたマーガレット・ウッズがそこにいた。外見も声もノアが期待した通りの出来だ。だが、こうして見ると草原と純白のワンピースに対し、少しメイクが浮いてしまっている気がする。
ノアは手に持ったステッキを彼女の眼前にかざし、ゆっくりと動かした。するとマーガレットの濃いアイラインは落ち、ルビーレッドの唇は桃色のそれへと変わってゆく。
「うん、この方が似合っていますよ」
「素敵。ありがとうザック」
そう言ってマーガレットは草原を駆けてゆく。捕まえてみてとでも言いたげに、可憐な笑みを湛えながら。その後ろ姿をノアは静かに見送る。
「さて、仕事だ」
当たりを見渡す。右目のモノクル越しにこの夢のバグが浮かび上がる。黒いモヤがかかっていたり、ノイズのような場合もあれば、そこだけ白く抜け落ちていたりと、その見た目は様々だ。
草木の合間、ひらひらと舞う蝶、空の移ろい、小さなバグも見逃さない。バグを取り除く程、その擬似夢は脳波に影響を及ぼさなくなる。
黙々と作業を続けていく。湖の水面に浮かんだバグを胸元のハンカチーフで優しくふき取った。これで終わりか、と思ったその時––––。
「ねぇ、お父さんはどこに行ったの?」
ノアの表情が凍る。音も光も届かない水底に沈んだような、そんな冷たく暗い感情がこみ上げる。
静かに振り返ると、そこにはマーガレットがいた。ノアを真っ直ぐに見つめて微笑みかける。彼女は再度、小さな子供に話しかけるような声音で尋ねた。
「一緒にいたじゃない。優しいお父さん、大好きなお父さん。ねぇ、どこにいるの?」
ノアはその問いには答えず、ポケットからチェーン付きの懐中時計を取り出した。作業を始めて二時間が経とうとしていた。懐中時計をポケットへ仕舞いジャケットを正す。
「ノア、お父さんは貴方を––––」
彼女の言葉を遮るようにステッキを地面に打ちつけると、そこから眩い光が波紋のように一気に広まり、草原全体を包み込んだ。突風が吹く。ノアはハットが飛ばされないように右手でツバを押さえた。
そこから覗く右目は獲物を狙う獣の如く、ギラリと強く光って見えた。何かの感情を押し殺すかのように、憎しみの色を強く滲ませていた。
「おやすみなさい」
一言、そう呟いた。マーガレットは微笑み続けていた。
視界が一面真っ白になる––––。
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