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ゆっくりとスキャナを外し、ため息交じりに前髪をかき上げる。スーツのネクタイを片手で緩め、サイドテーブルに用意しておいたミネラルウォーターを飲み干した。
「長閑な夢だからと油断したな」
ノアは擬似夢に耐性はあるが、全く影響を受けないという訳ではなかった。長く滞在すればその夢はノアの脳を侵食してくる。
といっても、常人の忍耐力とは比べ物にならないのは事実だ。通常であれば十分と潜ってはいられない。一つのバグも見つけられずに目を覚ますこともザラである。
そうした積み重ねの上でデバッグを行うため、擬似夢を一本作り上げるのに何か月もの時間を要する。二時間連続で潜り全てのデバッグを終わらせ、たった一日で擬似夢を完成させてしまうノア・クラークという男がむしろ異常なのである。
その時、事務所の扉が勢いよく開き、ドアチャイムが煩わしく囀った。ノアはそちらを一瞥して、面倒だという感情を一切隠さずに大きなため息をついた。
「あからさまに嫌そうな顔すんじゃねえよ、兄弟!」
「お前に笑いかけるなんて表情筋の無駄遣いは出来ない。それとその呼び方は止めろと何度も言っているだろう。一体今日は何の用だい、エリック」
「あーあ、微笑みの貴公子様が聞いて呆れる。とんだ冷酷野郎じゃないか。昔は本当に可愛かったのになあ」
エリック・ロバーツ、ノアより二つ年上の二十六歳。高身長で引き締まった肉体、褐色の肌と艶めく黒髪の持ち主で、ノアとは違ったベクトルの美男子である。残念なのは脳まで筋肉で出来ているかの如き単細胞な性格だ。
だがその身体能力を買われ、十四歳という若さで国家警備隊に所属し、今では第二団隊長を務めている。ノアとエリックの父親同士が仲が良く、幼い頃に孤児となったノアの面倒を見てくれたのがロバーツ家であった。それ以来二人は兄弟のように平等な愛のもと育てられた。
「微笑みの貴公子様? おめでとう、遂に頭がイカれたんだね。一度脳波を確認した方が良いんじゃないのか」
「お陰様で安定しているよ。知らないのか? お前の愛称だよ。奥様方の間で散々広まってんのに、ご本人が知らないとはな。生きる芸術品、ナルキッソスの生まれ変わりなんてのもあったな」
「くだらない話をしに来ただけなら帰ってくれないか。仕事中だ」
「今度はどんな依頼だ? ……好きな男の夢に出る? ロマンチックだねぇ。一度くらいそんな風に愛されてみたいもんだよ」
「エリック、本当に追い出すぞ」
「悪かったって! でも、そんな事すれば後悔するのはお前だぞ? 手がかりをゲットした。IDEOのな。」
そのワードを聞いて事務所の空気が一変した。エリックには慣れたものだが、小さな子供なら泣き出したくなるような緊張感––––。
「……茶を出そう」
「そうこなくっちゃ!」
これだけぞんざいな扱いを受けてはいるが、実際に追い出された試しはないし、仕事続きで事務所に寄る暇が無い時は「くたばったのか」とノアの方から生意気な連絡がくる。
出してくれる茶は甘党なエリックに合わせたシロップたっぷりのミルクティー。それを作りに向かうノアの後ろ姿をエリックは優しく見守った。
パントリーの扉に掛けている小さな鏡越しに、ノアはエリックをちらと見た。鏡越しに見えたそれは、弟が可愛くて仕方がない兄の目に違いなかった。
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