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種蒔き
◆ ◆ ◆
目を開けると、そこは暖炉に火が灯る一室であった。
パステルブルーとレモンイエローのストライプ模様の壁紙、白を基調にした家具、お気に入りのウサギのぬいぐるみがベッドの枕元に座らされている。
完璧に再現された立花杏の部屋である。
暖炉の前のソファーには立花や屋敷の使用人達が座っている。タキシード姿のノアがネクタイをきゅっと締めなおした。
まずは部屋の中のバグを取り除く。ベッドの下にカーテンの裏、モノクル越しにこの部屋のバグが浮かび上がる。
あらかた取り除いたかと思ったところで、ベッドでくつろぐウサギのぬいぐるみと目が合った。ノアは余裕な笑みを浮かべ、ゆっくりとそれに近づいた。
「隠れても無駄ですよ」
ぬいぐるみを抱き上げ、瞳のクルミボタンに付いたバグを優しく親指でふき取った。部屋内のバグを全て取り除けたようで、空気が一段澄んだ感覚がした。
「さて、本番はここからだな」
暖炉の前で今も尚静かに座る大人たちのもとへ向かう。ふかふかの絨毯の上に腰かけ、語り掛ける。
「こんばんは。お元気ですか」
大人たちが暖かな笑みとともに迎え入れてくれる。
「元気だよ杏、今日も一日お疲れ様」
「杏ちゃん、今日はどんな一日だった?」
表情、発声に問題はないことを確認し、ノアが応える。
「今日は美術の授業で先生に絵を褒められたよ。帰ってからはカーラと庭でかけっこをして遊んだんだ」
「それは凄い! 目が覚めたら父さんにもその絵を見せてくれないか」
人工知能による会話もスムーズだ。しかし、この夢のカギはここだ。ここでミスがあってはならない為、様々なパターンで会話を試みる。
明日は何をするか、週末はどこへ出かけるか、将来の夢を聞かせてほしい–––– 多様な話題を投げかけているように見えるが、ノアは一つ重要なルールを設けていた。
そのどれもが現実世界に希望を抱かせるものであるのだ。
ずっと夢が覚めなければいいのに、そう思わせてはいけないのだ。目が覚めればまた音のない世界が広がっている。その現実に絶望せず、むしろ明日を生きる糧にする。
ここが杏のユートピアであってはならない。擬似夢は彼女の人生を彩るツールの一つに過ぎない、それ以上の役割を担ってはいけないのだ。
「杏、目が覚めたらもう一度その話を父さんにしてくれるかな」
「わかったよ、お父さん」
「ありがとう。愛しているよ、杏」
会話テストも問題なし、バグもすべて取り除いた。自分の作品の出来に満足し、ノアは懐中時計を取り出した。潜ってから二時間が経とうとしていた。デバッグはすぐに済んだが、その後の会話に時間を食ってしまった。
立ち上がりジャケットを正し、ステッキを打とうとしたその時––––
「許してくれ。愛しているよ、ノア」
はっと息をのんだ。今振り向けば、きっと自分の望む光景が広がっているはずだ。しかしノアはそうしなかった。顔をしかめ、強い意志でステッキを鳴らした。
「許さない。真実を知るまでは」
世界が白くなる––––
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