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十章 白詰草
あれから度々買って出るものだから、酒屋へのお使いはすっかり私の仕事になっていた。
「血は争えないわね。春野までこんなにもお爺さんに懐いてしまうなんて」
お酒代を私に手渡しながら母様がおっしゃるのに、私はただ曖昧に頷くことしかできなかった。
私が店に顔を出す度に、春吾郎さんは私を家の近くまで送ってくださった。
「そろそろ桜が咲きそうですね」
季節はちょうど春の始まり。桜が蕾を膨らませている頃だった。
「そうか、もうそんな季節か...」
まだ少し寒そうな桜の木を見上げる春吾郎さんの目が、緩やかに弧を描いた。
「そういえばね、店の近くに美味い団子屋があるんだ。春には桜餅が出ると店主が言っていた。桜が咲いたら、それを買って一緒に花見をしないかい?」
それはつまり、彼が仕事以外で私に会ってくれるということだった。
「よ、よろしいのですか!?」
「ははは、僕の方が誘ったんだよ?」
「ぜひ!桜餅!ぜひ!」
「ハルノがそんなに桜餅を好きだなんてね」
冗談ぽく笑った横顔。それだけで私の心臓はトクトクと弾み始めて姦しいほどだった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
桜はそれから程なくして蕾を綻ばせた。酒屋の前で待ち合わせて、私達は約束通り二人で団子屋さんへ行った。笹に包まれた桜餅を買って、近くの柳川へと向かう。川岸には桜の木が連なるように咲き乱れ、花びらをはらりはらりと落としていた。
人々は立ち止まり花を見上げたり、水面の花びらを掬い上げたり、袂で宴を開いてみたりと、それぞれの形で桜を愛で楽しんでいる。
「皆考えることは同じですね」
「あぁ。特に今日は見事な花見日和だしねぇ」
私達も二人、並んで地面に腰を下ろすことにした。そうして私達はしばらく、静かに桜を見上げていた。彼といると無言の時間も穏やかに過ぎてゆくのが心地よかった。
「こんなに綺麗なんですもの。立ち止まらずにはいられませんよね」
「そうだねぇ。けれどこれでは...」
隣で眩しげに桜を見上げていた彼の顔が、すっと伏せられた。
「桜ばかりちやほやされてずるいと、草花達が嫉妬してしまうね」
彼の視線に誘われるように足元へと目をやれば、そこには黄色や白の小さな花達が可愛らしく花開いていた。
おもむろに、彼がその中のいくつかをひょいと摘んだ。そして膝の上にそれらを寝かせては、端から編み始める。
大きな手の中でみるみるうちに花が編み上がっていった。出来上がったそれは花冠だった。控えめながらも、とても可愛らしい花冠。
「よっと」
彼の大きな手が、私の頭にその花冠を乗せた。頭の上、くすぐったいような感覚。小さく首をすくめた私を見て、彼がくしゃっと笑った。
「ハルノ...天使みたいだ」
染まった頬の赤さで彼への気持ちに勘付かれてしまいそうで、私は何も言えぬまま俯いた。
春吾郎さんはその大きな体に似合わず、手先が器用な人だった。彼が編む花冠も、地面に木の枝で描く絵も、まるで芸術家のそれのように上手なのだ。
その一方で私はといえば、そういった類のものはてんで駄目だった。見様見真似で編もうとする花冠は端からほろほろとほどけていくばかりだったし、彼の絵の隣に何か描こうとしてみても丸!線!丸!曲線!とまるで赤子の落書きだ。
「私も春吾郎さんみたいに器用だったらよかったのに」
私が口を尖らせそう溢すと、彼は爽やかに笑った。そして膝を抱えた腕に頬を乗せ、私の顔を覗き込むのだ。
「それなら絵も花冠も僕が教えてあげよう。また二人でここに来よう」
彼にしてみれば何ということなく言ったのであろうそんな言葉にも、私の心臓はたちまち早鐘を打ち始めるのだった。次また二人で出かけるための口実を彼が口にしてくれたことが、私はどうしようもなく嬉しかった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
それから私達は、度々柳川に足を運ぶようになった。桜が咲くのはあまりに一瞬で、いつだって名残惜しいものだ。私達は春が過ぎてしまってからも、二人で桜の木を見上げていた。
花は散っても目に眩しいほどの緑の隙間に、空の青がちらつくのもまた美しい。満開の頃には皆一様に足を止め桜を愛でるのに、季節が過ぎれば誰も気に留めなくなる。だから桜が散ったこの木の下はもう、私達だけの空間になっていた。
「いつも構ってくださって、ありがとうございます。春吾郎さん、お忙しいだろうに」
ある爽やかな初夏のことだった。私がそんなことを言うと、彼が私の目を見てこう言った。
「ハルノ、手を出してみて?」
言われた通りに手を差し出すと、彼の指が私の手に触れた。じんわりと指先から伝わる温もり。それは名残惜しいほどに一瞬で離れていった。
見れば私の指には白詰草と四葉で編んだ可愛らしい指輪がはめられていた。その言葉も指輪もとても嬉しくて、私はお礼を言おうと顔を上げた。
そこにはいつも通り、彼の笑顔があるものだと思っていた。けれど彼は、その時の彼は、見たことのないような真剣な顔をしていた。
「春吾郎さん?」
「ハルノ...」
「...はい」
真っ直ぐな深い色の目に、私が映っているのが見えた。彼の声は心なしか震えていた。
「僕はどうやら...君のことを、好きになってしまったみたいだ」
木漏れ日がちらちらと私達を照らしていた。二人きりの世界。優しい風が悪戯に私達をくすぐっては去っていく。彼の黒く焼けた肌が珍しく赤く染まっているのが、なんだかとてもいじらしかった。
「ハルノ...僕と、一緒になってくれないかな?」
まるで熱に浮かされたような心地だった。思ってもみないことだった。耳に入ってきた言葉が全て夢みたいで。けれどこれが現実なのだとしたら、頭に浮かぶ返事なんて、私が口にすべき言葉なんて、ただの一つしかなかった。
「...はい」
消え入りそうな声でそう囁けば、彼は安心したように深く息を吐いた。そして私の手を、彼の手がそっと包み込んだ。温かくて大きなその手。初めて手を取られたのに、彼の手には何故か懐かしさがあった。いつまでも包まれていたいと欲をかいてしまうような、そんな懐かしさが。
「ありがとう」
「こちらこそ」
初夏を迎えた桜の木の下、私はそうして、彼だけのものになった。
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