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二章 画面の中
大学近くのぼろアパート。六畳一間、家賃は月五万円。ここで僕は数日前から一人暮らしをしている。
まだ慣れない手つきで鍵を開ければ、狭い玄関、足の下に不在票を見つけた。
『画材、送っておいたからね』
数日前に母から入った連絡を思い出す。
僕が法学部に合格したと伝えた時、父はこれで将来安泰だと喜んだ。その隣で同じように「おめでとう」と言ってくれた母。けれど母にだけは全て見透かされてしまっていたように思う。法学部が僕が本当に進みたかった進路ではないこと、まだ僕が絵の道を諦めきれていないことも。
「勉強をしながら夢を追ったっていいじゃない」届く段ボールはきっと、母からのそんなメッセージなのだろう。
けれど。
まだまだ殺風景なこの部屋、届く段ボールの行き先はきっと、押し入れの一番奥だ。
シャワーを浴びて、昼ご飯とも夕ご飯ともつかない作り置きのカレーを胃に流し込んだ。リュックにパンパンだった教科書を全て本棚に仕舞えば、やることはもう、何も無くなってしまった。
不在票が入っていたことだけでも母に連絡しておいた方が良いだろうか。そう思って手に取ったスマホが、タイミングよくぶるりと震えた。画面を確認してみると、それは昼間の絵の彼女からのメッセージだった。
思えば、とても可愛い子だった。あの時は気が動転していてそれどころじゃなかったけれど、よくよく考えてみればこんなことってあるんだろうか?入学早々、あんなに可愛い子に僕なんかが連絡先を聞かれるだなんて。
『今度、美術館おごらせてください!』
真っ白なアイコンから飛び出した吹き出し。やっぱり、いよいよ変だ。これはきっと、二人で、出かけようというお誘いなわけで。
僕はこれから騙されようとしているのだろうか?何か変な壺を売りつけられたりだとか。けれどこんな貧乏学生を掴んだって、搾り取れるものも高が知れているだろうに。この子は一体何を...
目を閉じれば、あの笑顔が思い浮かんだ。暖かな日差しに透き通るように、消えてしまいそうに眩しかった彼女。「上手ですね!」キラキラと輝いた瞳、「ください!」と差し出された小さな手。僕の絵を大切そうに抱えて、そして弾けるように笑った。
あぁ...
さっきまで頭を支配していた壺の下りなんて、あっという間にどうでも良くなってしまって。彼女のことをもっと知りたいと、騙されているならそれはそれで仕方がないと、そう思ってしまった。
それで僕はベッドに体を投げ出して、彼女への返信の文面を考え始めた。
「美術館奢らせてください...か」
『美術館、いいですね』
...そっけないかな。
『美術館、好きです。でも僕が払いますよ』
お金の話なんていやらしいよな。
『いつにしましょう』
いや、早まるな。
十数分悩みあぐねた末、結局僕は『どこの美術館が好きですか?』なんていう月並みな返信をした。
疑問系で返すと話が続きやすいと、どこかのネット記事で読んだのを思い出したのだ。
絵を描いてばかりで青春とは程遠かったこの人生。僕はまだデートというものを一度もしたことがない。それどころか、女の子と連絡を取り合うことさえ、これが初めてだ。
そんな僕にとっては、信憑性のないネット記事に縋ってでも、文末に「?」を打ち込むことが精一杯だったのだ。
返信は数分と待たずに返ってきた。
『私、桜野美術館が好きです!』
桜野美術館。それは偶然にも、僕が小さな頃からよく連れて行ってもらっていた、一番好きな美術館だった。
『僕も好きです、桜野美術館』
思わずそう打ち込み送信した画面の上に、すぐさま既読の文字が浮かぶ。
『じゃあそこにしましょう!いつ空いてますか?』
あぁ、本当に行くんだ...本当に?
動揺する心のまま、僕はカレンダーアプリを開いてスケジュールを確認した。最近始めたバイトと履修登録したばかりの授業が、土曜までを綺麗に埋め尽くしていた。
『今度の日曜とか都合どうですか?』
『丸一日空いてます!』
『じゃあ日曜に』
『集合は、どこにしましょう?』
『桜野駅とかでどうですか?』
『いいですね!そうしましょう』
あれよあれよとはこのこと。いつの間にか、僕はどうやらこの子と、本当に二人で出かけることになったらしい。これっていうのは、デートとかいうやつなのだろうか?
戸惑いに浸る暇もなく、メッセージはさらに送られてくる。
『そういえば、ぶらぶらミッドナイトって知ってますか?』
『あぁ、夜中にやってる番組ですよね?』
『そうそう、それにこの前桜野駅が出てて』
『あぁ、それ僕も見ましたよ!...っていうか、ぶらナイ、僕以外で見てる人初めて会いました』
『その回、百夜草がゲストで出てたから。私、大ファンで』
『え...僕もです』
『途中で出てきたタイ料理屋さん』
『あぁパッタイ!』
『そうそう!食べてみたくて』
『僕も、行ってみたかったんです』
『本当に?じゃあそこも行きましょう!』
『はい、是非!』
活字に合わせて、昼間のあの表情が嬉しそうに綻ぶのが目に浮かぶようだった。きっと「!」と同時に、彼女の表情はぱぁっと弾ける。
『あー、嬉しい!桜野、一度でいいから行ってみたかったんです』
と、そこで。違和感にふと、手が止まった。
行って...みたかった?
『桜野、初めてですか?』
いや、けれど。
彼女は桜野美術館が好きだと言ったんだ。桜野に行ったことがないわけがないじゃないか。変なこと言ってしまったかもしれない。
例に漏れず、間髪入れずに灯った既読。けれどリズム良く続いていた返信は、そこで途絶えてしまった。
「え...どうしよう」
返ってこない返事にいよいよ不安になってきた頃、やっと画面に彼女の吹き出しが浮かんだ。
『あ、いや、また行きたいってことです!打ち間違えました!』
『あぁ、なるほど』
『それでそれで、待ち合わせは何時にしましょう?』
話していてわかったのは、彼女とは驚くほどに趣味が合うということだった。好きな音楽、食べ物、本、テレビに映画。一時間にも満たないやりとりの中で何度『僕もです』と返信したことか。
これまで信じてこなかった運命なんてものにぐらっときそうになった自分を、僕の中のもう一人の自分が制する。落ち着けって、だってお前まだ彼女の名前さえ知らないじゃないか。
『あ、そういえばお名前を聞いてもいいですか?』
彼女のアカウント名のA.H。きっと名前の頭文字か何かだろう。それなら、あんどう...ひなの、とか?勝手に想像してみたけれど、なんだかしっくりこなかった。
『あ!そっか、まだ名乗ってなかったなんて、すみません。ハルノです』
ハルノ。あぁそうか、ハルノか。
カタカナで送られてきたそれは、彼女のあの弾むような声で僕の脳内に響くと、そのままストンと僕の心に落ちていった。それならば、とてもしっくりくると思った。
『僕は拓っていいます』
『拓さん!よろしくお願いします!』
ハルノさん。画面の向こう側、「!」と同時にきっと弾けるように笑った彼女。僕はその人と、五日後デートすることになった。
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