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三章 美術館
授業にバイトに、一人暮らしの家事。始まった新生活は想像していたよりも慌ただしく過ぎて行った。はじめての長時間シフトから体を引きずるように帰宅して、息をついた時にはもう、土曜の十七時を回った所だった。
「美術館...明日か」
独りごちた先、部屋の隅に再配達で届いた段ボールが封をされたままぽつんとあった。
「そうだ...」
疲れきった体をどうにか起き上がらせる。すっかり忘れかけていたそれを、僕は机へと持ち上げた。
必要以上にガムテープでしっかりと封をしてあるのがなんとも母らしかった。まだハサミもない中、どうにかこうにか段ボールをこじ開ければ、そこには色々なものが入っていた。手紙にパックご飯に缶詰に野菜ジュース。一つ一つ取り出していくと、懐かしい絵の具やパレットが奥から顔を覗かせて心を揺さぶった。食糧は棚に、画材は箱ごとそのまま押入れに押し込んだ。
昨日の残りの白米を届いた缶詰をおかずに口に運びながら、母に『届いたよ』とだけメッセージを送った。
そのすぐ下に彼女とのトークルーム。あれからも時々彼女からメッセージが来て、僕達はこの数日間、毎日のようにやり取りをしていた。
『バイト終わりました』
昼から途切れたままだったやり取りに返信をして、僕は画面をスクロール、彼女との会話を読み返した。
『今日は何限から授業ですか?』
『僕は三限から。ハルノさんは?』
『えーっと、二限からです!』
『え!?じゃあ今授業中?』
彼女が同じ大学の学生なのか、同学年なのか、わざわざ聞いたわけではなかったけれど、なんとなくそうなのだろうと思っていた。出会ったのはキャンパスでだし、彼女は僕よりも若く見えるくらいだったから。だとしたら、彼女も彼女とて新生活に慣れようと相当忙しいはずだ。彼女の毎日はどんな風に過ぎているのだろう。
『お疲れ様です!ついに明日ですね!今日は早めに寝て明日に備えます!おやすみなさい』
開いたままにしていたトークルームにいつの間に新たにメッセージが届いていたことに気がつく。
『うん、おやすみ』
慌てて返信を打ち込んで、送信ボタンを押した。
「明日か...緊張するな」
画面越しに活字で会話することには、もうかなり慣れてきていた。気を抜けばうっかり敬語が取れてしまうこともあるほど。けれど直接、しかも二人きりで会うことを想像してみると、それはまた話が全然違った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
迎えたデート当日、緊張しすぎて三十分も早く着いてしまった僕は、桜野駅天使の像の前でそわそわと彼女を待っていた。
黒のパンツに、紺色のブルゾン。この季節は日によって寒暖差が激しくて、何を着ればいいのかギリギリまで迷った。けれどデートに着ていけるような一張羅の選択肢なんて、僕にはほとんどなくて、それで結局この格好に落ち着いたのだ。
彼女は時間通りに改札から出てきた。白に淡いピンクが散りばめられたワンピースに、空色のバックを肩から掛けて。まるで春をそのまま身にまとっているようなそのファッションは、彼女にとてもよく似合っていた。眩しいくらいに。
「また待たせちゃった、すみません」
そう言って彼女はスカートの裾を翻しながらこちらへと駆け寄って来た。
「いや、全然」
どこかのネット記事に「まずは相手の服装を誉めるべし」なんて書いてあった気がするけれど、そんなのまだ僕にはハードルが高かった。彼女の顔を真っ直ぐに見ることもできない僕は、正直緊張でまともに歩けるかも怪しいところなのに。
「行き、ましょうか」
「天気の話題は避けること」「車道側を歩くこと」「相手と歩くスピードを合わせること」予習してきたネット記事の受け売りを頭の中で繰り返しながら、僕はぎこちなく歩き始めた。
駅から美術館へと続く広い通りを二人並んで歩いた。桜野駅という名にもある様に、ここは桜の名所だ。通りの両脇には桜の木が植えられ、美術館のある国立公園までずっと続いている。もうほとんど散ってしまった花びらが、僕らの足元を絨毯のように埋め尽くしていた。
彼女の隣を歩く僕は、ちゃんと彼女と釣り合えているのだろうか。華やかな装いの彼女と比べて、随分と暗い色の服を着て来てしまった。今更だけれどもう少し、明るい色を着てくればよかったかもしれない、なんて思う。
ふと隣を見ると彼女と目が合った。少しぎこちなく微笑む彼女に、自分が無言のまま歩いていたことに気づく。あぁそうだ、何か、何か話さないと。
「...あ、あの、えっと...ハルノさんの名前って、漢字でどう書くんですか?」
あぁ。こういう時に限って気の利いた話題の一つも浮かばない。そんな自分に思わず、頭を抱えたくなる。これなら天気の話をした方がマシなくらいじゃないか。
「え?あ、春夏秋冬の春に、野原の野でハルノです」
僕の下手くそな話題提供にも、彼女が笑顔で返事をしてくれたことにホッとする。僕が思い描いていた通りの答えが返ってきて、少し嬉しくなった。
「春の...野?」
彼女の名前を漢字で宙に指で書いてみせる。すると、彼女は嬉しそうに勢いよく頷いた。
「はい!」
それなら、とても似合うよなと思った。響きも、漢字も、そこに込められたのであろう意味も。
「やっぱり」
思ったまま口をついた言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「何がやっぱりなんですか?」
「いや、なんかこう。春の野って、そのまんまそんな感じだから、ハルノさん」
「何ですかそれ!」
五日ぶりのあの笑顔が、隣で小さく弾けた。その背景にはやっぱり桜がとてもよく似合っていた。吹く風に舞っているだけの花びらも、まるで彼女が操りまとっているかのように見えるほど。その全てに見惚れてしまっていた、その時だった。
「けどシュンさんも!...」
眩しい笑顔でそう言ったかと思うと、次の瞬間彼女はハッと息を呑んだ。突然途切れてしまった会話。しまったというように手で口元を押さえる彼女。
「...ハルノさん?」
「あ...シュン、さん...じゃなくて、タクさん...ですよね」
二人の間、ぎこちなく沈黙が満ちた。元カレの名前か何かだろうか、シュン。なんとなく気まずい雰囲気に、何かこの空気を紛らわせる台詞はないかと頭を巡らせる。
けれど僕が何か思いつく前に、彼女の方が先に口を開いた。
「あの、そう!タクさんのこと、シュンさんって呼んでいいですか?」
「え?」
「あだ名みたいな感じで!だってほら、さん付けで呼ぶと "沢山" で変な感じするから。だから...えっと、春だし、春夏秋冬の春って書いて、シュン。ほら似合う!!」
身振り手振り、慌てた様子で捲し立てた彼女。あぁ嘘をつけない人なんだなぁと脳みその隅っこで冷静に思う自分がいた。その勢いに圧倒されながらも、まぁそんなこともあるよなぁ、なんて思う。
なんてったって僕はまだ、彼女の名前を漢字でどう書くのかさえ知らなかったような男だ。それくらいの仲の僕らなんだ。名前を言い間違えてしまうことくらいあるだろう。だから僕は「気にしなくて良いよ」の意味を込めて、大袈裟に笑ってみせた。
「じゃあ僕、季節ごとに名前が変わるんですか!?」
「あー、えっと...そういうことに、なる...かもしれません!」
「そんな理不尽な!」
「む、無断で私の絵を描いた仕返しです」
「でも出演料払いましたし!喜んでくれたじゃないですか」
「あ、そっか、その節はどうも!えーっと、お礼に今度映画館奢らせてください、シュンさん!」
本当に可笑しな子だ。いつの間にか緊張も忘れて二人してひとしきり話して笑うと、美術館に着く頃にはなんだかもう何年も前からの知り合いのように思えていた。そう思っているのは僕だけ、かもしれないけれど。
それになぜだろう、彼女が僕を呼ぶシュンという響きも嫌じゃなかった。それどころか、むしろしっくりきた。まるで彼女の前では僕がシュンであることが当然であるかのように、当たり前のことであるかのようにしっくりきたのだ。
こうして僕はハルノさんと初めてのデートをした。僕の人生で初めてのデート。
美術館に入ると、彼女は一層ワクワクと足先を弾ませた。美術館デートなんて、僕はいいけれど彼女の方は退屈なんじゃないだろうかなんて思ったりもしたけれど、どうやらそんなのは杞憂だったようだ。
彼女はひとつひとつの絵画の前で立ち止まっては、目を輝かせほぅっと深く息をついた。そして僕を振り返っては囁いた。
「見てくださいシュンさん」
「シュンさん、こっちも」
「これも綺麗ですね」
キラキラとした目で絵から絵へと行ったり来たりした彼女。絵によってころころと変わるその表情に、僕はどうしようもなく目を奪われた。
「どうしてこのシーンを描こうと思ったんでしょうね?」
「表情じゃないかな?」
「この女の子の?」
「うん。多分それを描きたかったんじゃないかな。とか言って、全然違うかもしれないけど」
「ふふふ、あまりにお腹が空いてて、彼女が持ってるパイが印象に残っただけ、かもしれませんしね」
「なんかこの男の人、シュンさんに雰囲気似てませんか?」
「そうですか?」
「うんうん。もしかしたら生まれ変わりとかかも」
「え...僕、前世はオランダ人だったんですか?」
「うーん、前々世くらいなら、有り得そうです。いいな、こんな美味しそうなパンを毎日食べてたんですか?」
「この色、好きです」
「ハルノさんっぽい色ですね」
「え?そうですか?」
「うん。ハルノさんはなんか、淡いピンクとか黄色って感じがします」
「シュンさんはそうだな...こんな感じの色使いなイメージです。この梨とりんごの絵みたいな」
「ハルノさん、お腹空きました?」
淡く照明に照らされた絵達を前に、僕達は歩いては立ち止まり、そうして他愛のない会話をした。朝はあんなに緊張していたのに、実際に顔を合わせて言葉を交わしてみれば、メッセージでやり取りするのと変わらないくらい自然に話したいことが溢れた。
美術館を出ると僕たちは予定通り、あのタイ料理屋さんに向かった。僕はパッタイを、彼女はカオマンガイを注文した。ぶらぶらミッドナイトで見たのと全く同じものが出てきて、僕達は顔を見合わせた。
「ふふふ...シュンさんと、たったの数日でこんな風にパッタイを分け合う仲になるだなんて、思ってもみなかった」
僕が小皿にパッタイを取り分けていると、彼女が楽しそうにそう言った。
「それは僕の台詞だよ。こんな風に女の子に誘われたのも、初めてだしさ」
「そうなんですか?」
「うん、最初は怪しい壺でも売りつけられるんじゃないかって思ってた」
すると彼女は飲んでいた水を吹き出しそうにむせながら笑った。
「ふふふ...いや、私大学に知り合いもいなくて。友達がほしいなって思ってたんです」
だからって。こんなに可愛い子が僕なんかに出会ったその日に連絡を聞いてくるなんて、僕はいまだに不思議で仕方がなかった。
「あぁ、そういえば、ハルノさんって何学部なの?」
「え!?」
彼女の手の中で揺れたコップ、中の氷がカランと音を立てた。
「あぁいや、あそこで出会ったから勝手に同じ大学だと思ってたんだけど、違った?」
「あ、えっと...うん。私も、一年生」
「だよね。いや、あれから見かけないけど、何学部なのかなと思って」
「あー、えっと...美術、学部?」
そう答えた彼女の目は、僕の手元辺りを動揺するように泳いでいた。
「え?うちは美術学部なんてないじゃない」
彼女が冗談でそんなことを言ったのか、それともまだ出会ったばかりの僕にただ個人情報を教えたくないだけだったのか、結局僕はわからなかった。店はエスニック店らしい薄暗い照明で満たされていて、彼女が俯いてしまえばその表情はほとんどわからなかった。彼女は次の瞬間には小皿を手元に引き寄せ、カオマンガイを取り分け始めていた。
「シュンさんも、カオマンガイ食べますよね!」
「え?あぁ、ちょっともらおうかな」
「じゃあ、カオマンの部分、多めで」
「カオマンの部分?何それ!」
「だってほら、パッタイのタイの部分たくさんもらってしまったので」
「具の部分ってこと?」
「そうそう、大体そんな感じです」
彼女はやっぱりちょっと不思議で、それでいてよく笑った。ころころと変わる表情は、いつも決まって最後には眩しいほどの笑顔に帰着した。彼女の言う通り、出会って立ったの数日で、こんなに近くで彼女の笑顔を見ていることが何だか信じられなかった。
そうしてデートが終わりにさしかかる頃には、あの日のカフェでの心のざわめきは確信に変わっていた。やはりそうなのだ。
恋は落ちるものだと誰かが言った。
あぁ好きだ、そう思った。
するりとそう思った。
落ちるのとは違うよなぁと、僕は思う。
足元でちらつく木漏れ日につられて、
ふと空を見上げるように、
そんな風に僕は恋をした。
じんわりと暖かなそれが戯れに踊る。
優しく、誘われるように、
僕は彼女に恋をした。
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