六章 出会い

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六章 出会い

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎ 「母様、行って参ります」 「あぁ春野、気をつけて行ってらっしゃいね」 番傘を叩く雨音の中、私は女学校への道を足速に歩いた。 五年生になったばかりの私の胸元には、鮮やかなえんじ色がたなびいている。お父様に買っていただいたばかりの新しいリボン。けれどこの色が、私の心を憂鬱にさせた。 「うわっ!えんじだ!えんじ!」 「ほんとうだ、えんじだー!」 「女が勉学だなんて、本当ズウズウシイよな!」 「そうだよな、女のくせにー」 ばしゃばしゃと男の子が二人、傘もささずに私の脇を駆けていった。跳ねた泥がおろしたての足袋を汚す。それで私はまた一層深く、番傘を被りなおすのだった。 女が高等学校に通っていることすら、まだ珍しいことだった。そんな中でも私は、四年制ではなく五年制の学校に通っている。えんじ色のリボンといえば五年生の色と、ここらの人間で知らぬ者はいないだろう。 この制服を着て歩いているだけで、後ろ指をさされることも早五年。もう慣れたつもりでいたのだけれど、やはり胸元にえんじというのは目立つらしい。先のように野次られることも、この春から一段と増えたように思う。  番傘は良い。低く持てば、顔も胸元の色も隠してくれる。頭上を叩く雨音が心を落ち着けてくれた。 小さな酒屋さんが通りの向こうに見えてきた。そこは母様がお父様のお酒を買うのに懇意にしている酒屋だ。店の主はもういい歳のお爺さんで、私が通りかかるのに気がつくと、声をかけてくださる気さくな方だった。 家事の類は全て女中さんに任せている母様だったけれど、お爺さんとお話をするのが楽しいからと、お酒だけは自ら買いに出られるのだった。店主のお爺さんは、それほど明るく気の良い方なのだ。 だからその日も、お爺さんがいらっしゃらないかと番傘から少しだけ顔を出してみたのだった。 すると、がたいの良い男の人が一人、店から出てくるのが見えた。初めはお客さんかと思ったけれど、よくよく見てみればその人はいつもお爺さんが付けているものと同じ前掛けをしているのだった。 店の前には荷車が一台停まっていて、いくつもの箱を乗せている。彼はその中の一つをよいっと一つ持ち上げたかと思うと、そのまま店の中へと消えて行った。 見たことのない人だった。最近新しく雇われた人だろうか?確かに力仕事はお爺さん一人では大変だろうと、先日お父様と母様がお話ししてらしたところだった。 私がそんなことを考えながら足を進める間にも、彼は店から出てきては、よいっと箱を持ち上げ店の中へと運ぶことを繰り返した。雨の中傘もささぬ彼の背中は、その度に濡っていった。その姿に私はつい、番傘を被り直すことも忘れてしまっていた。 そうして酒屋まであと一間となる頃にはもう、荷車はすっかり空っぽになっていた。さきの彼も最後の箱とともに店の中へと飲み込まれたきりだった。仄暗い入り口を少し遠くからしゃがんで覗き込んでみたその時、軒下の隅に何やら白い塊があるのが目に入った。 「あら...?」 雨粒の向こう側へと目を凝らす。それはよくよく見てみればどうやら仔犬のようだった。その子は小さくうずくまり、雨の中ふるふると震えていた。雪のように白かったであろうその毛も、所々土色に汚れてしまっていた。 「まぁ...」 可哀想、だけれども。外にいる生き物に無闇に触ってはいけないよと、お父様からと母様から口酸っぱく言われていた。噛まれでもしてはいけないからと。けれどもびしょ濡れで震えているその子があまりに不憫に思えて、私はそこからなかなか動けずにいた。と、その時。さきの彼が店から出てきた。その手には手拭いと缶詰。私に気づくことなく、彼は仔犬の方へと足を向けた。 背中を丸めて及び腰に、大きな体で恐る恐るというように小さな仔犬に近づいてゆく彼。一歩、また一歩。へっぴり腰になりながらも彼はその犬へと歩みを進めた。そして立ち止まったかと思うと、大きく深呼吸をひとつ。彼は仔犬に向かって手拭いをふわりと投げかけた。白いそれははらりはらりと舞い落ちて、仔犬の臀部に上手に着地した。 固唾を飲んで見守っていた私は、彼と同時に息をついた。けれど彼は私の存在に気づく様子はなかった。彼は緊張の面持ちで、仔犬の顔色を伺うように、そろりそろりと缶詰を地面に置くと、すぐさま大袈裟なほどに後ずさった。大きな体には似合わないその行動の一部始終に、私は思わずくすりとしてしまった。 それから雨の中、私達はそれぞれ仔犬を見守った。その子はしばらく彼がかけた手拭いの中でただ震えていた。 けれどついに。 手拭いを引きずりおずおずと缶詰に近づくと、そっと缶に口をつけたのだ。 「あぁ、よかった」 そんな独り言が私の口からこぼれた。もうすっかり彼と一緒になって仔犬を介抱しているつもりになっていた。けれど思えば今の私は、彼の行動をこっそり盗み見していたようなもの。しまったと顔を上げたその瞬間、彼とはたと目が合った。 怪訝な目をされるかと身構えた私をよそに、彼は驚いたように目を見開いた後、少し照れたようにはにかんで会釈をくれた。それから私達は雨の中、言葉も交わさぬまま、ただ遠くから子犬を見守った。 通学路は好きではなかった。この制服を着て、胸元にえんじをたなびかせ歩かねばならない三十分。後ろ指を刺され続けた四年間。けれどそんなことを人に相談できるはずがなかった。我儘だと言われるに決まっていたから。 ここらの土地を管理している裕福な家に生まれ、十五になる今まで何不自由なく育ててもらった。それなのに、どうしてだろう。ずっと、どこか満たされないような気持ちを抱えて生きてきた。高価な装飾品でも、山盛りのご馳走でも、満たせない何かがずっと足りなかった。まるで何かを探しているような、そんな感覚。けれどそんな事を人に言うには、あまりに恵まれた環境にいることは自分でもわかっていて。だから毎朝心を押し殺すように通学路を歩いていた。何かを探しながら。けれど、今日は。 優しい瞳。仔犬を見守る彼の姿が、私の目に、耳に...心に、不思議なほどに焼きついた。 番傘を叩く雨音とともに、心の中、ずっと足りないと思っていた何かが、少しずつ満たされていくような、何故かそんな感覚がしていた。  
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