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七章 会釈
しばらく雨が続いていた空に、久方ぶりの晴れ間が見えた、そんな日のことだった。通りの向こう、今日もまたあの酒屋さんが見えてくる。水溜りを覗き込んで、手櫛で髪を整えた。口角を上げて、背筋はしゃんと伸ばして。
母様に尋ねてみた所、やはり彼は新しくあの店で働き始めた方なのだそうだ。お爺さんのお孫さんだそうで、最近こちらに越して来て、店の手伝いをしているらしい。
あの日から私は、この道を通ることが楽しみになっていた。運良く彼とまた目が合うなんてことがあれば...そんな期待に胸を踊らせながら、私はその日も酒屋を視界に捉えると、わざとゆっくりと歩みを進めた。
ずっと、ご学友達が男性の先生方に黄色い声をあげる理由がいまいちわからないでいた。あの先生が男前だ、いやあちらの先生の方が二枚目だと、休み時間になれば教室はそんな話で持ちきりだった。
けれど私はといえば「春野さんは如何ですの?」などと訊ねられても、先生は先生だとしか思えなかった。あの先生は教えるのがお上手で、あちらの先生はお話が面白い、そんな感想しか出てこないのだ。
けれど今ならわかった。彼女達が各々お気に入りの先生が教室に入ってくる前に、いそいそと身だしなみを整える気持ちが。その人の目に映るかもしれないと思うと、どうしようもなく心が弾んでしまう、その気持ちが、今なら。
道を渡れば、酒屋まであと数間ほど。胸に手を当て、深く息を吸って気持ちを落ち着ける。
「ありがとうございました」
低く優しい声が耳に届いて、私は弾かれたように顔を上げた。風呂敷を手にしたお客さんに向かって、彼が深くお辞儀をしていた。
「また来るよ」
ひらひらと手を振ったお客さんが、私が来た道を帰ってゆく。
ゆっくりと顔を上げた彼。あの日のように、目が合った。
気づけば私は酒屋の数間先で立ち止まってしまっていた。彼を見つめたまま。
どうしよう...そう思った瞬間、彼があの笑顔ではにかんだ。
「...こんにちは」
そう言って小さく会釈してくれた彼。
「あ...」
私も慌てて会釈を返す。
顔を上げた先、優しい笑顔。
ぎこちない沈黙。
「ご、ごきげんよう...!」
どうして良いのかわからなくなってしまって、私はそれだけ言ってがばりとお辞儀をすると逃げるように駆け出した。春の日差しの中、私は風を切るように走った。
水溜りへと力強く踏み込めば、泥水が私の足袋へスカートへと跳ね返る。けれどそんなこと、今はどうだってよかった。心臓がうるさくて仕方がなかった。これまで感じたことのないほどの熱が、体中を駆け巡っているようだった。
また、目があった!
話しかけてもらえた...!
熱い頬、緩む口元、心臓は痛いほど。
長いスカートに足が取られる。
風呂敷に包んだ教科書がずれ落ちてしまいそう。
また明日、また明日...
明日また会えたら、今度は何と声をかけよう。
酒屋を過ぎて曲がり角を曲がるまで、私は立ち止まることなく走り抜けた。まだ店先で彼がこちらを見ているかもしれない。本当は振り返って確認したかった。
けれどそんな事、とてもできそうになかった。
きっと私の頬は今、遠くからでもわかってしまうほど鮮やかな色をしているだろうから。
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