八章 紅

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八章 紅

「学校のない日でも、彼に会いに行く口実...なんてものはないかしら」 その日の空はさんさんと晴れていて、出かけずにいるのが勿体無いくらいの天気の良さだった。 隣の部屋では乳母様が弟のお世話を、母様は庭先で近所のおばさま達とおしゃべりをしていた。 居間には畳に寝転がって居眠りをしているお父様。 「毎日通りかかるお店ですもの、中がどうなっているか少し気になって...というのはどうかしら」 ぐうぐうと呑気にいびきをかいているお父様も、大枚を叩いて女学校に入れた娘が、勉学ではなく登校する道すがらを一番の楽しみにしているだなんて知ったら、卒倒してしまうかもしれない。 女中さん達の目を盗んで、私は箪笥からできるだけの大人びたスカートを引っ張り出した。母様のいぬ間にと化粧台を漁って紅も拝借した。 菜の花色のスカートに、白いシャツ、赤い紅...よし。 「ご学友のお家に呼ばれて参ります」 誰にともなくそう伝え残すと、私はこっそりと家を抜け出した。 休日ということもあって、酒屋はかなり賑わっていた。しばらく遠くから様子を眺めていても、出入りしているのは大人か、子どもであっても大人に連れられた者ばかり。私のような年頃の娘が一人でいる様子はなかった。彼に会う以前に、そのような場に一人で入ってゆくことが自体がまず、私にとっては敷居が高かった。 「覗くだけ。ちょっと覗きに寄っただけよ...」 母様の化粧台で整えた髪を、もう一度手櫛で解かす。憎いほどの晴天、姿見代わりの水溜まりも今日は影もなかった。 「あぁ、近頃お会いできていないお爺さまがどうなさっているのか気になって...というのも良いかもしれない」 紅はよれてしまっていないだろうか?格好はおかしくないだろうか? 「大丈夫、大丈夫...」 大人の中に紛れてもおかしくないように、目一杯のおめかしをしてきたつもりだ。よもや学生だなんて気づかれもしないかもしれない。制服姿でないのだから、お爺さんだって私だとわからないかもしれない。 「そう、きっと大丈夫よ」 深呼吸をひとつ、私は震える足で酒屋へと近づくと、ついにその暖簾をくぐった。 店内は独特な匂いで満ちていた。天井までの大きな棚が店の奥まで何列も続いていて、見たこともないほどの種類のお酒が棚の端から端まで所狭しと並んでいた。お父様くらいの年の男の人達が、こちらでは談笑しながら、あちらでは難しいお顔で酒を物色している。 ぐるりと店内を見回してみるけれども、彼の姿は見当たらなかった。店の奥の方にいらっしゃるのかもしれない。私はおじ様方の間を縫いながら、店の奥へ奥へと足を踏み進めた。 棚を三つほど通り過ぎた所、勘定場が見えてきた。そこに見えた、彼の姿が。 「あ...」 私は急いで棚に身を隠した。彼の顔は隠れてしまったけれど、棚の酒瓶と酒瓶の隙間から、逞しい腕が見えた。彼はちょうど、お会計をしている様だった。大きな手が丁寧に酒瓶を包む。その所作の一つ一つを私は息を呑むようにひっそりと見つめた。大きくゴツゴツとした手が、新聞紙に包んだ酒瓶を... 「ちょいとごめんよ」 「あっ」 黒い着物のおじ様が、身を縮こめ私の後ろを通り抜けて行かれた。棚と棚の間隔は大人二人が身を捩ってすれ違うのがやっとなくらいの広さしかなかった。 ただ棚の裏に隠れているだけでも何度も「ごめんよ」と押しのけられてしまう。そうして私はいつの間にか、店の角へと追いやられてしまっていた。 棚に隠れて彼の姿はもう見えなくなってしまった。ふと見下ろした先、そこに小さな脚立を見つける。棚の一番上の酒を取る時に使うのだろうか?それに登ってみれば、一尺は高くなった視界。彼は依然見えなかったけれども、代わりに店の棚をぐるりと見渡すことはできた。 お酒というのはそれだけで、こんなにも種類があるものなのだ。暖簾を一枚くぐっただけで、ここはすっかり私の知らない世界だった。 埃っぽく薄暗い店内、ずらりと難しい漢字が書かれて並ぶ酒瓶。十五やそこらの女学生はどう考えても完全に場違いだった。 ついさっき棚の隙間からちらりと覗いた彼。これまでで一番近かった彼。いくつなのかはわからないけれど、私より随分と大人なように見えた。 「お嬢ちゃん、ちょいとそれ、良いかね」 「あっ、ごめんあそばせっ...」 先の黒い着物のおじ様が私が乗っている脚立を指差していた。私は慌てて飛び降りると、それを譲った。 「お嬢ちゃん」と言われてしまった。やはりどれだけ背伸びをしてめかし込んでみても、私はちんちくりんのお子様にしか見えないのかもしれない。勢いで来てしまったけれども、どうせ彼に話しかける勇気もなかった。休日の酒屋さんがこんなにも賑わうものなのだということも知らなかった。混み合った店内で、冷やかすだけの私がいては迷惑になってしまう。 一目見られただけでもよかった。また平日になれば私はこの店の前を通る。運が良ければまた彼の姿が見られるかもしれない。ひょっとすれば目が合うこともあるかもしれない、会釈だってしてもらえるかもしれない。それだけでも良いじゃないか。 「もう帰りましょう」 「すみません」と何度も呟きながら、私は狭い棚とお客さん達の間を通り抜けた。出口の方へ向かって何度も体を捻り、ようやっとあともう一歩。店へ差し込んでいた春の日差しが、磨いたばかりの私の靴のつま先を照らした...その時だった。 「こんにちは」 背中から降ってきた声に、思わず体が硬直する。あの、声だった。恐る恐る振り向けば、頭の上に彼の笑顔があった。 「お使い、ですか?」 恥ずかしくて目を伏せれば、逞しい胸板が目の前に。 「あ、はい。あの...そう、なんです」 咄嗟のことに思わず、嘘をついてしまった。罪悪感に恐る恐る彼の顔色を伺う。けれど彼はすっかり信じた様子で、くいとその眉を上げ首を傾けた。 「どんなお酒かな?」 「あー、えっと...」 お酒のことなんて、てんでわからなかった。それにお金も持ち合わせていない。そもそもお酒がいくらくらいするものなのか、それさえ私は知らないのだ。 「お酒の種類はわかるかい?」 「あの...瓶、の...」 「瓶?うーん、焼酎だろうか?」 「ショウチュウ...あの、あ、忘れてしまったので、その...もう一度聞いてきます!すみません!」 大慌てでそう捲し立てた私に、彼は優しい目を弓なりに細めて笑った。 「そうですか。じゃあまた、待っていますね」 「あ、はい...ま、また!」 小さくお辞儀をすると私は急いで店を飛び出した。 薄暗く埃っぽかった店内から、日の光の下へと躍り出る。 くらりと眩暈がするほどの眩い春の中を私は夢中で駆けた。 三件先の角をまがって、物陰に身を隠す。 「はぁっ、はぁ...」 胸の前で握りしめた両の手がふるふると震えた。暖かな空気が肺を満たしては逃げていく。 「あぁ...」 口元を押さえれば、手のひらに鮮やかに紅がついた。 頑張って背伸びをした甲斐があった。彼とあんなにも近くで話せた。またと、言ってもらえた。 店の中が薄暗くて本当によかった。今の私はきっと、この紅と同じくらい真っ赤だろうから。 そわそわと浮き立つ心を、気持ちの良い日差しがどこまでも暖めた。その日私は、彼との短い会話を何度も反芻しながら、ゆっくりと家路をたどった。  
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