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九章 お使い
学校帰り、その日の私はまっすぐ酒屋へと向かっていた。手には母様にいただいた、お酒の銘柄が書かれた紙切れを握りしめて。鞄には大切なお金が入っている。
今朝母様が酒屋に行くとおっしゃっていたものだから、ならば私がとおつかいを買って出たのだ。
今日は本当に一瞬で授業が終わってしまった。帰りに酒屋さんに寄るんだ、彼に会いに行くんだ。今日は嘘じゃない、本当にお使いに行くんだ...そんなことを頭の中で繰り返し唱えていたら、一日があっという間だった。
また彼に会える。嬉しいけれど、それと同じくらいとても緊張していた。何と声をかけよう。
いつもなら弾む酒屋への足取りも、騒がしい心臓のせいで、一歩踏み出すだけでぐらりと地面が揺れるようだった。
それでも歩いていれば自ずと辿り着いてしまう。通りを渡った所、酒屋さんまであと数間。毎朝通る場所なのに、この後彼と話すのだとわかっていると一歩踏み出すには心の準備が必要だった。もう一度頭の中で、彼に話しかけるために練習した言葉を反芻する。
「すみません、お使いを頼まれて参ったのですが...お使いを、頼まれて参ったのですが」
紙切れを開いて見返す。
「月明蔵。緑色の瓶...濃紺の字のラベル...」
深く息を吸っては吐きだす。何度もそれを繰り返す。
「大丈夫。だいじょ...」
「やぁ」
私の独り言を遮るように聞こえてきた声。はっと顔を上げると、そこには暖簾に手を掛けこちらを覗く彼がいた。どうしよう、いつから見られていたのだろうか。
「こ、こんにちは!...あ、えっと...」
突然の出来事に頭が真っ白になってしまった。あんなに練習してきた言葉は、喉の奥につかえてしまって一向に出てこない。私がぐずぐずしている間も、彼が優しい表情でこちらを見ているのがわかった。
前掛けからすっと伸びる長い脚、黒い半袖を捲った逞しい腕。全てにドキドキしてしまって、私は金魚のように口を開けては閉じ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「今日こそお使い、かな?」
「あ...お使いっ...はい!」
助け舟を出してもらってやっと、金縛りが解けたかのように体が言うことを聞いてくれた。どうにか彼に駆け寄ると、結局台詞は浮かばぬまま震える手で紙切れを手渡した。汗でくしゃくしゃになってしまったそれを開いて確認すると、彼は私に手招きをして、暖簾を捲ってくれた。
あの紙にはお酒の銘柄しか書かれていない。棚にずらりと並べられた数多の酒瓶の中のたった一つ。そんなもの、名前だけでは見つけられるわけがないと、そう思っていた。だから彼に聞かれたら答えられるように、瓶の色やラベルの特徴まできちんと覚えてきた。
それなのに、彼はといえば棚と棚の間を迷いなく進んでゆくのだった。そうして彼が立ち止まった棚。その一番上の段には見事に、家でよく見るお父様お気に入りのお酒があった。何度も練習した「緑色の瓶」も「濃紺の字のラベル」も、どうやら必要なかったようだ。
「よいせっと」
彼が棚の上へと手を伸ばす。一番高い段にあの脚立にも登ることなく手が届いてしまった。
「これで間違いないかい?」
「はいっ、それです」
「一本でいいのかい?」
「あ、はい。一本で...」
「それに包めば良いかな?」
「お、お願いします」
言われるがまま風呂敷を差し出すと、彼はそれを受け取って爽やかに笑った。そのまま広い背中が勘定場へと向かう。私は慌ててその後を追った。
あの日棚の隙間からひっそり見つめた彼が、今日は目の前にいた。大事に持っていたお金を差し出すと、指先が彼の手にちょんと触れる。それだけで口から心臓が飛び出しそうな心地がした。
ゴツゴツと骨張った手が、新聞紙で丁寧に酒瓶を包んでいく。無言の時間。本当はもっと何か話したかったけれど、緊張で言葉が出てこなかった。
手際の良い手が風呂敷を広げた。あぁ、もう終わってしまう。今日一日中ずっと楽しみにしていた。それなのに、あまりに一瞬だった。風呂敷の持ち手を彼がぎゅっと結ぶ。「ありがとうございました」と頭を下げようとしたその時、勘定場の奥の暖簾がめくれて、そこから誰かが顔を出した。
「おやおや、お嬢ちゃんじゃあないか」
私に向けられたしわがれた声。それは久々のお爺さんのものだった。
「あっ!お、お久しぶりです!」
「やぁやぁ、お使いかい?」
「あ、はいっ」
「そうかそうか、偉いねぇ」
私達が会話しているのを、彼は手を止め不思議そうに見ていた。
「爺ちゃん、この子と知り合いなのかい?」
「知り合いも何も、この子はお得意様の娘さんだよ」
「あぁ、そうだったんだねえ」
すると彼は私に向き直り、一層親しみを込めた笑みを向けてくれた。それだけで顔がみるみる火照ってゆくのを感じる。
「そうだ春吾郎、今日は店のことはもう良いから、ハルノちゃんを家まで送って行ってやりなさい」
そんなことを言って、よいせと勘定場へ出てくるお爺さん。その親切心に心臓が飛び上がりそうになる。それなのに、よりにもよって。
「あぁ、もちろん」
そんなことを言って笑うと、彼は包み終わった風呂敷をよいっと持ち上げた。
それからお爺さんと春吾郎と呼ばれた彼は、しばらく何やら話をしていた。けれど私はといえば心臓の音がうるさくて、二人の会話なんてまるで耳に入ってこないほどだった。
ただそこに突っ立って、ぶぁぁぁっと全身を血が駆け巡るのに身を任せていた。体の熱という熱が、色々な感情を掻っ攫って顔に集まるような感覚。驚き、喜び、照れ、気恥ずかしさ...体の中心がぐらっと揺れるような、そんな感じがした。
「じゃあ、ハルノちゃん、毎度ありがとうね」
名前を呼ばれてハッと我に返る。いつの間にか彼が私の隣に立っていた。
「えっ、あ、ありがとうございますっ」
「お母さんによろしく伝えておいてくれね」
「はい!」
「では春吾郎、ハルノちゃんを頼んだよ」
「うん。それじゃあ、行こうか」
そうして私はいつもの道を彼と並んで帰ることになった。前掛けを取った彼の姿を見るのは初めてのことだった。
本当に迷惑ではなかっただろうか、お酒は重くないだろうか、歩くのが遅すぎやしないだろうか。いろいろなことが気になって、頭の中が忙しい。
「君は、あそこの女学校に通っているんだよね?」
「あ!?えぇ...星川女学校です」
「やっぱりそうだよね、その制服」
「あ...はい」
「あの雨の日、僕が犬と格闘するのを見ていたの、あれ...君だよね?」
「そ、そうです!はい!」
「そうかそうか。いやぁ恥ずかしいところを見られてしまった」
そう言って彼ははにかんで俯いた。その一挙手一投足が心臓に痛いほどだった。
「春吾郎さんはその...犬がお嫌い、なんですか?」
「え?」
一瞬ぽかんとしたかと思うと、彼は声を出して笑った。
「ははは...いやぁ、犬ね。可愛いとは思うんだよ?けれどね、小さな頃に一度噛まれてしまったことがあって。こう、太もものところを思い切り」
「太ももを?」
「爺ちゃんが飼ってた犬がいたんだよ。ゴンという黒茶色の大きな犬でね。それが軒先で寝ていたんだ。軒先の床とゴンは本当に、全くと言って良いほど同じ色をしていてね?」
「えぇ?」
「それはそれは見事に床のような色をした犬だったんだよ。それで僕はある日、ゴンに気づかずに思い切り尻尾の上に座ってしまったんだ」
「あぁ、それで」
「そう、それで、がぶりと。あれ以来、犬は見ている分には良いのだけれど、近づくのはどうにも怖くなってしまってね」
「だからあんなに...」
あの時の彼を思い出して、思わず頬が緩んでしまった。すると彼が隣から恨めしげにこちらを見下ろす。
「あんなに...なんだい?」
「あっ、えっと、あんなに...その...慎重でらしたんだなあと」
どうにか取り繕ったつもりだったのに、彼は吹き出すように笑った。彼は笑うと目尻に深く皺が寄るのだった。
「さすが星川女学校、えんじの五年生だね。勉強しているだけある。言葉がするすると出てくるね」
彼のその言葉に、私は思わず身がすくむのを感じた。「えんじ色」と指さし笑った声達が脳裏に蘇ってしまって。
「ん?...どうしたんだい?」
「え、あぁ」
こちらを覗き込むその表情に、彼が悪気があったわけではないことは明らかだった。けれど私がすっかり動揺してしまったせいで、会話の調子はすでに狂ってしまっていた。彼が心配そうな目をしている。せっかく楽しく話をできていたというのに、私ときたら。
「どうしたんだい?何か...おかしなことを言ってしまったかな?」
「あ、いや...」
なんでもない、と誤魔化してしまおうとした。けれど彼の瞳にはまるで不思議な引力があるかのようだった。その深い色の目で見つめられれば、聞かれるままペラペラと言葉を吐いてしまいたくなるような、そんな不思議な力が。
だから私は気づけばぽろりぽろりと色々なことを彼に話してしまっていた。家族にもしたことのないような話を、えんじのリボンをどうも好きになれないことも。
「どうしてだい?えんじ色のリボン、とても可愛らしいじゃないか」
「けれど、このえんじ色のせいで、外ではいろいろ言われることもあって」
「...そういう輩もいるんだね」
「通わせてくださっているお父様には、とても感謝しているんです。けれど自分でも時々、この制服が嫌だと思ってしまうことがあって」
「そうなんだね...」
私が話す間ずっと、彼は自分のことのように真剣な顔で頷いてくださっていた。ただそれだけのことで、不思議なことにもう既に、心が楽になっているのを感じていた。
「けれど僕はね、その制服、とても格好良いと思うよ?」
「格好良い...ですか?」
「あぁ、とてもね。それに勉強することは素晴らしいことだよ。どうして負い目を感じなければいけないのか。むしろ胸を張っていいことだと僕は思うよ」
彼はそう言うと、あの優しい笑顔でこちらを覗き込んだ。
女が勉学をする。そのことを良しとしない人も世の間にはまだたくさんいる。それは確かなことだ。だからといって、せっかくお父様に買っていただいた制服なのに、それを着て外を歩くたび肩身が狭く感じてしまう自分がずっと嫌だった。
けれど。彼に一言「胸を張っていい」と言ってもらえた、それだけでなんだか、これまでの悩みなんて全てとてもちっぽけなことのように思えてしまった。私のこれまでの努力それごと、報われたような気さえした。なんだか涙が出てきてしまいそうなほどに。
「ありがとう、ございます」
「いやいや。それにしても学校かあ、懐かしいなあ」
その目が昔を懐かしむように細められる。私のことを話してばかりだったけれど、私も知りたかった。彼のことを、できるだけたくさん。
「春吾郎さんはどちらの学校に通ってらしたんですか?」
「横瀬の方の学校にね。それもまぁ高小だから、君みたいにすごい学校ではないのだけれど」
「高小と言うと...」
「小学の後の二年制だから、僕は君の歳の頃にはもう横瀬の工場で働いていたことになるね」
「横瀬の方からこちらへは、どうしていらしたのですか?」
「あぁ、しばらくは、あちらで働いていたのだけれどね。去年の終わり頃に、爺ちゃんが腰を悪くしてしまったと聞いて」
「なるほど、それで」
「あぁ、それに実家は元々こっちにあったからね。爺ちゃんが店を頑張っているのは小さな頃から見ていたんだ。子どもの頃の遊び場だったあの店が潰れてしまうと思ったら、どうにも居た堪れなくてね」
「そう、なんですね...」
「それにやってみたら、酒屋の仕事というのはなかなか性に合っていてね」
深く話すのはこれが初めてなのに、彼は私が聞けばなんでも気さくに答えてくださった。私が話せば微笑みながら優しく相槌を打ってくださるのが心地よかった。私達はその日家に着くまで、本当にいろいろな話をした。
彼の名前は林春吾郎。今年で二十になる酒屋の孫で、物静かな雰囲気に対して本当によく笑う人だった。
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