最終話、永遠の愛

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645年6月  甘樫丘の林臣屋敷 「旦那様、なぜ全ての家財を河内に運んだのですか?使用人も全員、郷に帰らせて引越しもしないというのに…」 年老いた使用人の男が首をかしげて林臣(りんしん)に尋ねた。  「もう、必要がないんだよ。屋敷の中が片付いたなら、おまえも郷に帰るように。長い間、ご苦労だったな、俸禄は足りているか?」  「も、もちろんでございます。あんなに沢山いただいてしまって、むしろ多いくらいです…」  使用人の男は申し訳なさそうに言うと下を向いた。林臣(りんしん)が優しく男の肩に手を置くと、男は一礼をして屋敷を去った。  辺りが暗くなり、屋敷の中は林臣(りんしん)猪手(いて)の二人だけになった。がらんとした屋敷の中は虫の鳴き声だけが響いている。林臣(りんしん)は正装に着替えると髪を綺麗に結い上げた。  「若様、三韓の儀に参列するだけなのに、なぜそのような正装を?」  猪手(いて)が不思議そうに尋ねると、林臣(りんしん)は横目でチラリと彼を見てフッと笑った。身支度を終えた林臣(りんしん)はゆっくり立ち上がると、猪手(いて)に言った。  「灯篭をくれ」  「あっ、はい。もうお出かけになりますか?私もすぐに支度をして参りますので」  猪手(いて)が慌てて立ち上がる。  「構わぬ、一人で行くからおまえは葛城の月杏の屋敷に行ってくれ」  「えっ⁈いえ、私もお供いたします!」  「駄目だ。そなたは招かれておらぬだろう?」  「いえ、私も一緒に参ります!」  猪手(いて)も頑固な男だ。一歩も退かない。  「頑固な奴だな。それならば父上のそばにいてほしい」  「そ、そんな…若様どうしたのですか?何かあったのですか?」  猪手(いて)が不安げな表情で林臣(りんしん)を見ると、彼は深く息を吐き、猪手(いて)に顔を向けた。  「頼む、私の願いだ。何も言わずに聞いてくれ」  いつになく真剣な眼差しの林臣(りんしん)にさすがの猪手(いて)も折れ、しおらしく答えた。  「はぁ、わかりました。では十分気をつけてください」  林臣(りんしん)は微笑むと猪手(いて)の肩を優しく叩き、屋敷を出た。林臣(りんしん)の乗った馬が月明りに照らされた林の中に消えて行った。  大極殿に続く参道の両側にいくつもの灯籠が均等に置かれ、中の灯りがゆらゆらと風で揺れている。林臣(りんしん)は背筋を伸ばし凛と前を見据えて歩いている。寸分の迷いのない心がその背中に見て取れた。  林臣(りんしん)が大極殿に入り着座すると、すぐに儀式が始まった。大極殿の傍らに佇む男が、声をひそめて隣の男に囁いた。  「なぜ林大臣(りんおおまえつきみ)はあれほどまでに冷静なのだ。全くもって警戒心もなく、堂々としていてむしろ清々しく見えるぞ」  「おい、この期に及んでひるむなよ!」  それを聞いた男が語気を強め睨んだ。  しばらくすると、大極殿の傍らから数名の男達が雄たけびを上げながら飛び出したものの、皆、手足を震わせ動かない。見かねた一人の男が剣を振りかざし大声で叫んだ。そう、中臣鎌足(なかとみのかまたり)だ。  「貴殿は天皇家に代わって天下を治めようとした不届き者だ!断じてあってはならぬ事!よって命を頂戴いたす!」  林臣(りんしん)は表情一つ変えずに黙ったまま前を向いている。口元に微かに笑みを浮かべた時、刺客の一人が剣を振り上げ飛び掛かった。頭から肩にかけて斬りつけられた林臣(りんしん)が床に倒れこんだ。  燈花(とうか)…やっとそなたの言う太平の世を見に行けそうだ…争いのない平和な世界…来世では、願わくば私を見つけて欲しい…また馬に乗り海を見に行こう…  斬りつけられ、うずくまったまま動かなくなった林臣(りんしん)の手には、瑪瑙の石が固く握られていた。
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