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そのキスの意味。
「川瀬、おはよう」
「おはよう」
今朝も教室で声を振り絞り、
川瀬由貴に挨拶した。
川瀬は知らない。
どうして震えそうな声になってでも、
川瀬に声をかけたいのか。
この毎朝の僅かなやり取りが、
僕ー岸野葵にとって
どれだけ大切な時間なのか。
僕は川瀬に、恋をしていた。
1年、そして2年の今年も、
同じクラスで。
挨拶しかできない薄い関係でも、
机を並べられることがありがたかった。
川瀬が明るく男女問わず仲間が多い
陽キャなのに対して、
僕はクラスメイトで中学からの親友の
佐橋雄大としか
まともに話せない陰キャ。
親友の佐橋は川瀬とも仲が良く、
僕が放課後に塾がある日なんかには、
川瀬たちに混ざって
カラオケに行っていると聞いている。
「佐橋が羨ましいよ」
ランチの後、
中庭で花壇をぼんやり眺めながら、
僕は言った。
「何で」
「だって、気軽に川瀬と話せるんだから」
口の堅い佐橋だけには、
川瀬に片想いしていることを話していた。
「話してみればいいじゃん」
「挨拶だけで精一杯」
「川瀬、話しやすいと思うよ」
「取り巻き、怖いし」
「秋津とか、神代さんたちのどこが?」
「あの底抜けの明るさが、恐怖」
「岸野、就職したらそんなこと言えないぜ。
大学までに、対人恐怖を克服しないとな」
しかしよりにもよって陽キャ代表の川瀬を
選ぶとはと、佐橋が笑った。
「来週の修学旅行の班行動でも一緒だし、
川瀬と話せるといいね」
ぽんと佐橋に肩を叩かれ、僕は苦笑いした。
川瀬に片想いしたのは、入学式の朝だった。
高校の最寄駅の改札で、
定期券の入ったパスケースを
落としたことに気づかずに、
スクールバスに乗る列に並びかけた僕は、
後ろから川瀬に声をかけられた。
「あの、落としませんでした?」
パスケースを差し出す
川瀬の手指のキレイさに一瞬で見惚れ、
顔を上げたら上げたで、
川瀬の端正な顔立ちに一目惚れした。
あの時は頭を下げるだけで精一杯で、
お礼も言えなかった。
高校の近くまで通る路線バスに乗っていた
母親と校門の前で合流した時、
やっと同じバスに乗っていた川瀬を
振り返って見ることができた。
他人とスムーズに接点が持てないのは、
子供の頃からだった。
近所の人に声をかけられても、
軽く頭を下げるだけで声を出したことが
ない。
父親が転勤族で、
小学校時代は1年同じところにいたことが
なく、関東を転々としていた。
中学に入る際、
子供のためにと単身赴任を選んで
関西に行った父親とは、
丸3年まともに会っていない。
若くして中規模の会社の役員という父親は、
忙しくて盆暮正月さえ帰って来ない。
母親は看護師、
夜勤の日は僕ひとりになるので、
早々に戸締まりをして、
母親の作ってくれた夕飯を食べ、
時間で寝起きしている。
両親が多忙過ぎて、
旅行に行った記憶もなかった。
中学で佐橋と仲良くなれたのだって、
たまたま同じクラスの出席番号1番違いで、
佐橋が何故か、お前気に入ったと
積極的に声をかけてくれたからに他ならず、
自分から動いたことなんて1度もなかった。
だから2年に上がって、自分から川瀬に
朝の挨拶をするようになっただけでも
大進歩なのだ。
6月22日、朝6時半。羽田空港。
今日から3泊4日の修学旅行。
行き先は、北海道だ。
佐橋と待ち合わせ場所に行くと、
同じクラスのメンバーが揃い、
それぞれの輪で盛り上がっていた。
輪のひとつに、川瀬もいた。
「おはよう、川瀬」
佐橋が、笑顔で川瀬に挨拶した。
「おはよう、佐橋。よく眠れた?」
「バッチリだよ」
川瀬や秋津、神代さんたちがいる輪に
自然と入った佐橋をよそに、
僕は輪の外で川瀬の横顔を見ていた。
少しでも川瀬のそばにいられたらと、
健気に思っていた矢先、
川瀬がこちらを振り向いた。
「岸野、おいでよ」
川瀬に笑顔で手招きされ、僕は驚いた。
初めて川瀬に、名前を呼ばれた。
感激の余り、涙が出そうになった。
たとえ佐橋の連れという認識だとしても、
嬉しかった。
「うん」
僕は笑顔で、川瀬に近づいた。
この旅行で、川瀬と仲良くなりたい。
僕の密かな願いは、天に届き過ぎた。
新千歳空港から札幌に向かう電車を待つ、
駅のホーム。
川瀬に一緒に写真を撮ろうと言われたのだ。
「えっ、2人で?」
「そう。ダメ?」
「ダメじゃないけど」
ひとり焦る僕を、
佐橋や秋津たちが笑いながら見守っている。
「岸野、笑って」
スマホを斜め上にかざし、
川瀬が僕の肩を抱いてきた。
そんなこと言われて、笑える訳がない。
口の端を上げるだけに留まった僕の隣で、
川瀬が言った。
「これから、岸野の隣は僕のものだからね」
「えっ」
今、何て言った?!
反射的に、川瀬の顔を見た。
「岸野。ちゃんと正面向いてよ笑」
「あ。ごめん」
「はい、連写しまーす」
「う゛っ、えっ」
同時に、スマホカメラの音が鳴り響く。
「いちいち、岸野が面白いんだけど」
川瀬の言葉に、佐橋たちが爆笑する。
「笑うなよっ」
「川瀬、岸野はテレ屋なだけだから。
もっと振り回してやって」
「佐橋っ」
「了解!振り回しまーす」
展開についていけない‥‥。
川瀬に抱かれた肩は、熱くなっていた。
それ以来、
ホントに川瀬は僕の隣を確保してきた。
「はい、佐橋くん。どいてくださーい」
札幌に着いて、散策後のランチの席でも。
移動のバスの席でもホテルの夕食の席でも。
「か、川瀬。どうしたの」
思わず僕がそう言ってしまうくらい、
川瀬が僕にぴったり貼り付いているのだ。
「どうしたって、言わなきゃわからない?」
「いや。まあ。大丈夫だけど」
初日の夜。
佐橋、秋津、川瀬との4人部屋には、
シングルベッドが3つ、エキストラベッドが
シングルベッドに寄り添うように1つ。
話し合いの結果、
エキストラベッド+シングルベッドに
僕と川瀬が寝ることになった。
「電気、消すよ。おいで、岸野」
先に横になった川瀬が、
僕のベッドの方に枕を寄せてきた。
大人しく川瀬の隣に横になった僕は、
すぐ近くに川瀬の頭がある状況に、
動揺しまくっていた。
「大丈夫?さすがにみんないるし、
襲わないよ笑」
川瀬の言葉を聞いて、
佐橋と秋津がベッドの中で、
笑いを堪えているのがわかった。
「あ、うん」
頭から枕を外し、枕を抱えた僕に、
川瀬が言葉を続けた。
「岸野って、もしかして抱き枕派?」
「うん、そうだけど」
僕の言葉を聞いた川瀬が、両手を広げた。
「抱き枕になってもいいよ」
「な‥‥っ!」
僕は言葉を失った。
佐橋と秋津の方を見ると、
彼らはベッドから起き上がり、
ニヤニヤしながらこちらを見ている。
「川瀬、冗談キツイよ」
「えっ、僕は本気だけど?」
信じられない。
川瀬は、こんなに愉快な奴だったのか。
「岸野がよく眠れますように。どうぞ」
どうぞと言いながら、
川瀬の手は僕の腰にかかり、
川瀬が身を寄せてきた。
「というか、僕が癒やされたい。岸野に」
川瀬は僕の胸に頭をつけ、俯いた。
いったい、何が起こっているのか。
至近距離に川瀬を感じて、
僕はドキドキが止まらずにいた。
恐る恐る左手で川瀬の腕を撫でると、
川瀬は僕の首筋に腕を回し抱きついてきた。
「か、川瀬っ」
もう、佐橋や秋津を気にしている余裕は
なかった。
抱えていた枕はいつの間にか跳ね除けられ、
川瀬を抱きしめる羽目になった。
川瀬のシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、
僕は震えながら目を閉じた。
緊張はしていたが、
こうして川瀬に触れられるなんて、
奇跡としか言いようがないと思った。
川瀬を抱きしめて眠りについたら、
夢を見た。
川瀬と付き合うことになり、
デートした先でキスをする夢だった。
それは息遣いまでリアルなキスで、
あまりの生々しさに僕は大きく息を吐き、
目覚めてしまった。
隣には規則正しく寝息を立てる、川瀬の姿。
傍らのデジタル時計の表示は、
午前4時半を指していた。
僕はベッドから抜け出し、トイレに立った。
数分後。
トイレを済ませ、再びベッドに戻ると、
川瀬が暗がりの中、スマホ画面を見ていた。
「起こしちゃった?」
「うん。トイレの水音で」
「ごめん」
「大丈夫。岸野、こっち来て」
川瀬にこうやって呼ばれるのにも慣れた。
「何」
僕はベッドの上で、川瀬に身を寄せた。
次の瞬間。
僕は川瀬に、押し倒された。
口にしかけた川瀬の名前は、
最後まで呼べなかった。
右腕をベッドに押しつけられ、
身動きが取れなくなった僕は、
川瀬に唇を奪われていた。
夢の続きを見ているのかと錯覚した。
人生で初めてかつ突然のキス。
僕は無我夢中で、川瀬にしがみついた。
6時半。
起きてきた佐橋に、耳元で囁かれた。
「それ、隠した方がいいよ」
秋津には言わないからと言われ、
部屋の洗面所で確認すると、
首筋に川瀬の痕跡が残っていた。
川瀬に押し倒され、キスをしたその時間は、
佐橋や秋津が眠る隣で、密かに始まった。
今更ながら、
自分に起こったこととは思えなかった。
そもそも、片想いではなかったのか。
川瀬とともに眠らずに朝を迎えたが、
肝心なことは何も訊けずに、
川瀬を抱きしめ、キスを繰り返した。
もしこれがただの遊びならと思うと、
怖くて聞けなかった。
今、川瀬は僕から離れて秋津と戯れている。
今日は朝からバスで移動し小樽を散策、
ニセコに宿泊することになっていた。
長い1日になりそうだと思った。
「川瀬、寝不足なの?どうせ寝てるだけ
なら、岸野の隣じゃなくても良くない?笑」
あくびをしながらバスを降りた川瀬は、
佐橋に指摘され、神代さんに笑われていた。
川瀬は今日も僕の隣で集合写真に収まり、
必ず僕の隣の席を陣取っていた。
小樽のお土産屋さんで、
ひとり離れてキーホルダーを見ていると、
川瀬が近寄ってきて、同じものを買うと
言った。
川瀬と一緒に選んだキーホルダーに、
バスの中でお互いの家の鍵をつけてみた。
「いい感じ」
「ホントだね」
川瀬とキーホルダーを見つめ合い、
微笑んだ。
バスが発車するとすぐに
また川瀬は僕に寄りかかって、目を閉じた。
佐橋の言う通り、
眠るならどの席でもいい気がしたが、
川瀬の寝顔を見ていたら、
そんなことはどうでも良くなった。
それにしても何故、僕に近づいてきた?
2日目の今夜は、
ニセコの夜景が見えるホテルに、
川瀬と佐橋の3人で
泊まることになっていたが、
「佐橋、どっか違う部屋に行ってくれよ」
と川瀬が冗談とも本気とも取れる言葉を
佐橋に投げ、佐橋は苦笑いした。
「川瀬、暴走するのは止めろよ」
「何のこと?」
「何でもありません。ではお望み通り、
点呼の後、僕は秋津のところへ行くよ」
夕食を食べ、大浴場で風呂を済ませ、
21時の担任の点呼が終わった後。
部屋を出る間際に、
佐橋は僕の耳元でまた囁いてきた。
「ちゃんと寝ろよ」
「あ。うん」
ひらひらと手をかざし、
隣の部屋に向かう佐橋の背中を見送り、
ドアを閉めた。
振り返ると、川瀬が真顔で立っていた。
「岸野」
ぐいっと手首を掴まれ、引き寄せられた。
「あっ」
川瀬に抱きしめられた僕は、
考える間もなくまた唇を奪われた。
川瀬の怖いくらいの情熱に、
引き摺られていた。
結局その後、
今朝と同じように川瀬とキスを繰り返した。
今朝と違うのは、
部屋には僕たちしかいないということだ。
キス以上のことが起きてもおかしくない、
そんな際どい状況だと思った。
川瀬にベッドに押し倒されてから、
更にキスは激しいものとなっていた。
明け方に引き続き、
今夜もキスしているということは、
川瀬も僕のことが本気で好きなのか?
言葉で確認していない以上、
まだ曖昧ではあったが、
そうであって欲しいと
キスをしながら僕は強く願っていた。
「川瀬」
川瀬の唇が、僕の首筋に吸い付いてきた。
「ダメだって。もう誤魔化せない」
今朝、佐橋がキスマークに気づいたことを
話すと、川瀬は明らかにムッとした顔で
こう言った。
「岸野って、佐橋のことどう思ってる?」
「え?ただの、親友だけど‥‥」
「ホントに、それだけ?」
「どういうこと?」
「佐橋は、僕の知らない岸野をたくさん
知ってる‥‥今からそれを埋めるのは、
ホントに無理なのかな」
ごめん、変なこと言ってと、
川瀬は僕を抱きしめてきた。
「あのさ」
僕は川瀬の髪を撫でながら、囁いた。
「それって、川瀬が僕のことを好きだって、
そういうこと?」
「今更でしょ」
川瀬は顔を上げ、苦笑いした。
「昨日の朝からこれだけアプローチしてる
のに、冗談で済まさないでくれよ」
「冗談だとは思ってないよ。
でも、昨日まで何もなかったから。
川瀬は、いつから僕を好きだったの?」
「‥‥定期券を拾った、入学式の日から」
「ホントに?!」
まさに僕が、川瀬を好きになった日だった。
「電車の中で岸野を見かけて。かわいいなあって思って、同じ制服着てるし、同じ学年
かなそれとも先輩かなって思ってたら、
改札で定期券落としてって。そこで名前と
年齢を確認して、同じ学年だってわかって。
でも同じクラスになれても、岸野は佐橋と
しかまともに話さないし。仲良くなれない
のかなってずっと悩んでた」
「知らなかった‥‥でも、2年に上がって、
僕、挨拶するようになったよ」
「うん。岸野が挨拶してくれるようになって
ホントに嬉しかった。佐橋から岸野のこと
人見知りだって聞いてたし、
少しは心を開いてくれてるのかなって。
だからこの修学旅行で仲良くなりたくてさ」
「やっと話が繋がったよ‥‥ありがとう」
「岸野は僕のこと、好きでいてくれてる?」
「うん。僕も川瀬が定期券を拾ってくれた
あの日から、川瀬が大好きだよ」
「好きになった時期まで一緒だったのか。
何か‥‥長かったよね」
「うん」
頷き、川瀬の肩に顎を乗せた。
「キスしながら、不安にもなってた。
川瀬は何故、僕にキスしてきたのかって。
でもフツーに受け止めて良かったんだね」
「ねえ。岸野、僕と付き合って」
「はい。僕と付き合ってください」
微笑む川瀬と見つめ合い、
また唇を合わせた。
「恋人になって、初めてのキスだね」
「うん」
僕がそう言うと、川瀬は頷いた。
「はあ」
「どうした、岸野」
「何か、気が抜けた‥‥この2日間、
川瀬のことでドキドキしてたから」
「僕も。気を張り過ぎた反動で、
今日は移動のバスの中ずっと寝ちゃったし」
「ホントだよ。川瀬、寝てばっかりで
寂しかった」
「ごめん。気づいたら、ニセコに着いてた。
でも道中、そこそこ長くなかった?」
「まあ長かったけどさ」
「明日はもっとバス移動が長いし、
今夜はちゃんと寝ておきますか」
佐橋にも移動してもらったことだしと、
川瀬がベッドに横になった。
僕も川瀬に寄り添った。
「岸野」
右耳に触れられながら、川瀬に囁かれた。
「今夜はしないけど、帰ったらこの先を
しようね」
「うん」
僕は幸せだった。
大好きな川瀬と、
これからたくさんのことを共有できるから。
まずはデートかな。
川瀬はどんなことが好きなんだろう。
考えただけでワクワクする。
それから僕と川瀬は、
お互いを抱きしめながら、眠りについた。
翌朝、川瀬に部屋を追い出された佐橋と、
佐橋と一緒にシングルベッドで寝た秋津に
僕たちの仲を冷やかされることになるが、
それもまた幸せの証だと思うことにする。
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