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——とある日の、夕日も沈みかけた頃。
都心に建つ8階建てマンションの5階にある一室で、鼻歌を唄いながらキッチンに立つ女が一人いた。
「えーっと……多分、これでいいでしょ!」
——ボコボコと音を立て、煮えたぎる鍋の中。皮を剥いて輪切りにされた土生姜がトポントポン、と落とされ、茶色く澱んだスープの底へと沈んでいく。
「よーし、あとはサラダを作るだけねっ」
上機嫌で新鮮なレタスをちぎるその手が、部屋中に鳴り渡るインターホンの音に止められた。
——ピーンポーン。
「あっ、帰ってきた!」
ガチャッとリビングのドアが開き、この部屋の住人である最愛の男が入ってくる。
「おかえり、葵!」
「ただいま、綾乃」
会うやいなや、リビングで熱い抱擁を交わす二人の男と女。
またまた登場のこの二人といえば……
そう、とあるIT広告代理会社に勤めるOLの藤崎綾乃と、同社勤務のデザイナーである桐矢葵の熱々カップル。
肩の下辺りまでの栗色のストレートヘアに、前髪は重めの横分け。そして目尻が上がった大きな瞳が少しキツそうな印象を持たれがちな綾乃だが、全体的に整った顔立ちをしているため男性からは結構モテる。
その顔立ちと性格は比例しているようでそうではなく、すぐムキになって高飛車ぶってはいつも空回りしているだけの本来優しくてまっすぐな性分なのだ。
大手広告代理会社の営業部の事務員として働いているが、部長から雑用を頼まれることもしばしば。
一方、デザイナーとしての総合能力とコミュ力ともに高く評価されて異例の若さでディレクターに抜擢された、いわゆる「デキる男」の葵。180cmの長身にくわえ、顔は小さく脚は長く程よく筋肉質……という恐ろしくバランスの取れたスタイルの持ち主だ。
そして何より、女も羨みそうな白い美肌を纏ったその顔は控えめに言っても「超イケメン」。その整った目鼻立ちをさらに際立たせるのは、明るめのアッシュブラウンのサラツヤ髪だ。
「帰りを待ってくれてる人がいるっていうのも結構いいもんだな」
そう言って、ホワイトゴールドの丸いピアスが耳たぶの中で光る右耳の後ろを照れ臭そうに指で触る。
そんな彼はどこか中性的な雰囲気が漂うが、その長いまつ毛の奥にある瞳は覇気に満ちた男そのもの。
——当然、綾乃という恋人がいながら公私ともに女性からはモテまくりである。それがゆえに、交際1年を過ぎた現在でも心配ごとは絶えない。
その具体的な理由はというと……
「……あ、ごめん。残業組の奴らから電話だわ。ちょっと待ってて」
こんなふうに軽く綾乃をあしらったその足で、まだ着信中のスマホを持ったままバルコニーの外へと出て行く……という行動を繰り返しているからなのだ。
「(また私に隠れるみたいにして誰かと話してる……。会社からの電話なら、今までみたいに私がいても目の前で会話すればいいのに。怪しいったらありゃしないっ)」
——葵に限って浮気なんてありえない。
そう頭ではわかっていても、何かを隠されるとつい悪い方向へと思考が傾いてしまう……それが人間というものだ。
バルコニーに立って電話をしているその後ろ姿を横目で見つめた後、綾乃は小さくため息を一つつくのだった。
そして……
「ごめんごめん、なんかコーディングミスしてシステムバグッちゃってたみたい」
そんな無難すぎる言い訳をしながら葵が戻ってくる。そして、キッチンで料理中の綾乃の傍らで、葵は冷蔵庫から出したポットで麦茶をグラスに注ぎながら興味ありげにそれを覗き込んだ。
「そういや、綾乃が料理なんて珍しいじゃん。どういう風の吹き回しー?」
「だって、いつも外食ばっかでしょ? 私たちって。だからこうして家にお邪魔させてもらう時ぐらい、たまには作ってあげたくなっちゃって」
「ふぅん……で、何作ってんの?」
「それは出来てからのお楽しみっ!」
嬉しそうな綾乃の後ろ姿を見つめて、葵は言った。
「そうやってお前がエプロンしてキッチンに立ってたら、なんだか俺たち新婚みたいだな」
その言葉にドキッとする。
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