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今までお互いに「結婚」というワードを口にすることがなかっただけに、少しの期待が胸をザワつかせる。
実は密かに意識し始めていたものの、女の口から迫るようなことはできずにいたのだ。
しかし、まだ現段階で先を見据えることなどできない綾乃としては……
「そ、そう……かな? で、でもっ、葵だって今はなかなか将来のこととか考える余裕なんてないよねっ? ほ、ほら、つい2ヶ月前にはディレクターっていう管理職にも就いたわけだしっ?!」
……とまぁ、こんなふうに焦りのあまりに誤魔化しともいえる無用な気遣いの言葉を返してしまうのが精一杯なのだ。
そして、一方の葵はというと……
「……まぁ、忙しいといえば忙しいのかもな。今までは自分がすべき仕事だけに集中してこれたけど、それじゃディレクターは務まらないからなぁ」
「だ、だよね? ほんと、葵ってすごいよ! 23歳っていう若さで、それも入社3年目で先輩デザイナーを押し退けてディレクターに昇進したんだもん! ますます仕事に熱が入るねっ!」
「……そうだな」
「うんうんっ! (仕事の話に脱線しちゃったじゃないのっ……私のバカバカ!)」
心の中で綾乃はガックリと肩を落とした。
視界の外で、視線を落として俯く葵に気づくことがないまま——。
そうこうしているうちに、なんとか出来上がった綾乃お手製のビーフシチュー。
お玉ですくい、スープ皿に盛ってテーブルへと運ぶ綾乃は終始ニコニコしていた。彼氏に初めて手料理を振る舞うのだ、その心の内は嬉しい反応が返ってくることへの期待に満ちていて当然なのだ。
それなのに、神様は残酷だ。
そんな健気な綾乃に、易々と小さな幸せすら与えてはくれないのだから……。
「はい、どうぞっ! 召し上がれ!」
目の前に出された、茶色くドロドロに澱み、所々に泡状の白い灰汁が浮かんだスープ。その中には溶けかけたジャガイモやブロッコリー、そして見るからに硬そうな牛肉がゴロゴロと自己主張している。
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