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「そっか……それならよかった。私、こないだつい意地になっていろいろ問い詰めちゃったから、もしそのせいで葵のこと追い詰めてたりしてたらどうしようって怖くなっちゃって。葵には葵の事情だってあったかもしれないのに……」
まったくもって今さらの歩み寄りだ。
でもそれは、こうしていつもより元気のない彼を目の前にしてこそ自然と出てこれた本音なのだ。
「……それで?」
こんなふうに期待が混じった薄笑みを浮かべて次の言葉を待たれてしまうと、ますます言葉に詰まる。
「だ、だからっ……その……」
言いたいこともききたいことも山ほどあるはずなのに、まだ完全に疲れが取れたふうには見えない葵に向かってこれ以上口うるさくまくし立てる気にはなれない。
「ま、まぁ……元気になったんなら安心したし、私はもう帰るからゆっくり休んでてね!」
そう笑ってヒラヒラと手を振り、身を翻そうとした時……
後ろから肩を掴まれた手に体ごと持っていかれ、抱きしめられた。
「あっ……!」
——いつもの、葵の匂い。
嗅ぎ慣れた、爽やかで行動的で……ほんの少しいつもより甘い気がする、柑橘の香り。
「——ダメ、もう帰さない」
「でも……」
「今までのこと、ちゃんと全部話すから……行くなよ」
そう言って一層強く抱きしめる腕も、いつもより少し熱い体も、いつになく寂しくてすがるようなその声も、そのすべてがそこから立ち去る気力を奪っていった。
——リビングのソファーの前にいつもあるローテーブルの上には、あの日見たのと同じ婚約指輪のカタログが積まれて置かれていた。
それをチラリと横目で流し見て、綾乃は視線を宙へと逸らす。
眼前に広がるのは、相変わらず綺麗に片付いた部屋。
……のはずが、ふと、その一角の見慣れないスペースに目がいく。
「(……あれ? こんなの前までなかったよね?)」
興味を惹かれるままに近づいたのは、部屋のインテリアの邪魔をしないデザインのシステムデスクだ。
立派なデスクトップパソコンが1台の他に、タブレットやプリンター、そして小さな本棚にはデザインや経営学に関する参考書などが羅列されている。
それらを立ったまま小首を傾げて眺めている綾乃の後ろで、キッチンに立つ彼が話し始めた。
「頭ん中にやりたいことがギューッていっぱい詰まってて、そのうちのどれか一つですら手を抜いたり妥協することがどうしてもできなくてさ。……で、結果的にパンクしちゃったって感じ」
ティーバッグの入った2つのマグカップの隣でケトルに水を入れ、湯沸かしのスイッチを入れる葵の背中を振り返った。
「そのやりたいことって何? もしかして、あのウエダさんって人に関係あるの……?」
なんとなく、あの日スーツを纏った葵が会っていた女性との繋がりを感じた。背後でその存在感を放つデスクを見た後の今、綾乃の頭の中で一つのある可能性が見え始めていたのだ。
そしてようやく、その答えを葵は口にした。
「あれは……俺の個人的なクライアント先の社長だよ」
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