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キッチンの台に腰からもたれて立つ彼が、紅茶を一口すすった。
——葵が会社を辞める。
今までそんなことを考えたこともなかっただけに、その衝撃は大きい。ディレクターに昇進して以来、上司や他部署からの信頼もより一層厚いものとなっている彼が退社するとなると、会社にとってもそうとう痛手になるはずだ。
「でもどうして? ディレクターっていう管理職になって、順風満帆って感じだったのに……」
「そう、だからなんだよ」
「……え?」
「確かに責任ある仕事にはやり甲斐も感じてる、けど……ディレクターって言ってもそれは会社内での肩書きなだけで、実際は自分の手でやりたい仕事も人に任せなきゃいけなくて、ちょっと歯痒かったりするんだ」
管理職になって得たものもあれば、逆に失ったものもある……ということだろうか。葵が何を求めているのかがまだはっきりしない中、彼はさらに語気を強めて言った。
「ずっと前から考えてたんだ。自分っていう一人のデザイナーをブランド化して、人から買われたいって」
その目は、綾乃が今まで見たこともないぐらいに力強く、そしてまっすぐに自らの夢を見据えていた。
そして、ふっとその表情を緩ませると、前に立つ綾乃に語りかけるのだ。
「……でもさ、現実ってそんなに甘いもんじゃないだろ? 一人でやってくためにはデザイナーとしてのスキルだけじゃなくて、集客力……つまりは営業力や経営学なんかも必要不可欠だから、独学だけどずいぶん勉強もした」
綺麗好きの葵にしては珍しく、デスクの上には読みかけの本やノートなどが乱雑に積み上げられていた。そしてそれらは、彼がなりふり構わず努力していたことを証明しているのだ。
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