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——誘われるままに再び立つことになったキッチン。
さっきと比べて違うところは、隣に白いトレーナーの袖口を捲り上げた葵が立っていることだ。
「本当は牛肉と野菜を最低でも半日以上は赤ワインに漬け込んだ方がいいんだけど、今からそんなことはできないから……まずはバターをひいた鍋で、牛肉と玉ネギを焼き色がつくまでよく炒めるんだ」
口でそう説明しながら包丁を手にし、まな板で食材をカットしていくその慣れた手つきはほんの数秒単位で下拵えを終わらせてしまった。
「は、速いっ……!」
そして、あっという間にジュワァァーッと鍋の中で肉が炒めつけられる芳しい匂いが、隣に立つ綾乃の鼻をくすぐり始めた。
「いい感じに炒まったらたっぷりの水を入れて……人参、ニンニク、ローリエと一緒に火にかける」
説明と動作のタイミングが完全にマッチしている。尋常ではない手際の良さだ。
「沸騰したら弱火にして肉が柔らかくなるまで煮込むんだけど、そうだな……2時間はかかるかな?」
「に、2時間?! (私なんて、強火で15分ぐらいしか煮てないけど)」
「そうそう、2時間も待ってられないけど、これ圧力鍋だから30分に時短できるんだ」
「なるほど……! ルーはまだ入れないの?」
「先に入れると肉と野菜のアクでダメになっちゃうんだよ。だからルーは最後だな」
「へえぇ……」
——30分後。
圧力鍋の蓋を開けると、肉と野菜が煮込まれたいい匂いが湯気とともに上がるのだった。
「す、すでに美味しそう……」
ヨダレをすする綾乃の隣で、葵はまたテキパキと動きながら説明する。
「そろそろ肉が柔らかくなった頃だから、別で煮込んでアルコールを飛ばしといた赤ワインを入れて……半分ぐらいの量になるまで煮詰めるんだ。だいたい15分ってところかな!」
ふむふむ、と隣でメモを取る綾乃。
「あ……この時、赤ワイン入れすぎちゃったら酸味とえぐみが出てマズくなっちゃうから、入れる量には要注意!」
「はいっ、わかりました葵先生!」
——さらに15分後。
デミグラスソース缶を開けて鍋の中に流し入れ、軽く混ぜてから味見をして葵は「うん」と満足げに頷いた。
「デミグラスソースを入れて味を整えてから、塩コショウを少々、隠し味に醤油とミリンと砂糖を少々っ」
調味料類が怒涛の速さで投入されていく。
「ビーフシチューに醤油なんて入れて大丈夫なの?」
アシスタントからのそんな質問にも、葵先生は快く答えてくれる。
「もちろん入れすぎたら醤油が自己主張し始めるから、あくまで隠し味だよ。ちなみに……綾乃が入れた生姜も実はアクセントになるし、パイナップルだって意外とビーフシチューには合うんだよ」
「じゃ、じゃあ私の作り方って間違ってなかったのねっ?!」
「綾乃の場合は極端に入れ過ぎ……だな(笑)どいつもこいつも自己主張しまくってて味が大変なことになったんだよ……」
「そ、そっかぁ……」
改めて今回の失敗の理由に納得する綾乃。
そんな中、鍋からはデミグラスソースが溶け込んだ凄まじく食欲をそそる匂いが漂い始めた。
「よっし!そろそろ良さそうだな」
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