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0・期待と恐怖
キィーーーーーーーー…………。
私の目の前にいる男は不作法に、ナイフを皿に擦り付け音を立てる。そして、フォークで肉を突き刺し口元まで持って行ってからニコリと微笑んで淑やかな声で言った。
「失礼致しました」
声の余韻が消えない内にラズベリーソースを絡めた肉を頬張る。些か大きかったのか、口の端から溢れる肉汁を指で抑えて肉を半分ほど飲み込んでから口の両端を舐め、ナフキンで拭う。
その様子を見ていると、彼が目線を上げる。その彼の、柔らかく笑んだアースアイに息を呑んだ。西日に照らされ透けた瞳は、平常ではスカイブルーしか見取れなかったがそのブルーは外側の輪郭のみで、内側には美しいピーコックグリーンが揺蕩う。光が差して狭まった瞳孔の周囲を、鮮やかなアンバーが囲んでいた。私は暫し瞠目してから、震える声で応じる。
「ぃ、え…」
「…ふふ。怖いのですね。…仕方ありません。こんなに血生臭い男は、ロンドン…否、イギリス中を探し回ってもいないでしょうよ」
ぺろり、と彼はフォークの根本についたラズベリーソースを赤い舌で舐め取る。マナー的には行儀が悪いその仕草は、ヘーゼルの髪を揺らす彼がするだけで妖艶な仕草へと様変わりした。
今彼が言ったように、彼ほど快楽の血に塗れた男はいない。常人にはない物腰の柔らかさと紳士然とした動作を持つこの男こそ、ロンドン中を震え上がらせる切り裂き魔・リッパーなのである。
快楽殺人者であり、ヘマトフィリアである彼は様々な裏組織との仲介人だ。頭の回転が速い彼は、彼が働く組織では重宝されているそうだ。彼を殺し屋に、と望む者は少なくはないが彼の殺人にもある程度のポリシーがあるそうだ。気に入った女しか殺さない彼のその殺人衝動は、彼の唯一であり彼なりの歪な愛だそうだ。生憎、殺してくれと頼んだ私はポリシーから外れていて、まだ生きていろと言われてしまったが。
――――今宵は月が満ちる。
私は初めて、目前で人が殺される瞬間を見るだろう。手に掛けたことはあっても殺される場面は未だ遭遇したことがない。
紫掛かった青色にくすんできた空に、未だ黄金の月が登ろうとしている。巨大な恐怖と少しの期待、それに僅かな興奮を感じながら私は澱の沈んだグラスの中の赤黒いワインを飲み干した。
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