身代わり

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「何これ」  目の前に落ちて来た物体を見詰める。分厚い札束。それが突然降って来た。辺りを見回す。右手には畑。左手には田んぼ。近くに建物は無い。空を見上げる。夕焼けの中には雲だけが浮かんでいた。 「札束、だろうな」  綿貫が答えた。見ればわかると言いたくなるが唇を噛んで堪える。 「見ればわかるよ。問題は、何で札束が落ちて来たのかってこと」  しかし結局橋本がツッコんだ。遠慮の無い奴め。だがその通りだ。車が通ったわけでもない。電柱の上にも誰もいない。浮遊物も見当たらない。一体この札束はどこから落ちて来たのか。振り返ると、同じクラスの上田君が遥か遠くに見えた。あそこから札束をぶん投げてもここまでは届かない。第一、高校の同級生がこんな札束を持っていて、なおかつぶん投げてくるなんてそれはそれで意味がわからない。進行方向には杖をついたおばあちゃんが歩いている。あの位置からぶん投げれば届くだろう。しかし一歩十センチくらいの歩幅で小刻みに進んでいるようなおばあちゃんが、こんな厚い札束をぶん投げられるものなのか。 「無いな」  思わず呟く。何が、と橋本が俺の背中をつついた。 「いや、誰かがぶん投げるぐらいしかここに落ちて来ないよな、届きそうなのはあのおばあちゃんしかいないな、って思って。でもあのおばあちゃんには無理だよなぁ」  橋本と綿貫がおばあちゃんを見詰める。俺達三人の視線を感じたのか、おばあちゃんが立ち止まり振り返った。俺は慌てて目を逸らす。こんちわ、と綿貫が声を張り上げた。横目で見ると、おばあちゃんは首を振って歩行を再開した。 「お前、よく知らない人に挨拶出来るな」 「こういうのはな、びびったら負けなんだ。こっちから声をかければ逃げて行くのよ」 「チンピラじゃん。もしくは動物」  元はと言えば俺達がガン見したせいなのだが、文字通り目を瞑るとする。さて、問題は片付いていない。この札束をどうするか。まあ常識で考えれば。 「警察に届けるか」  当然の選択だ。真面目な市民として、他に選択肢は無い。 「え、貰わないのか」  真面目でない市民が隣にいた。綿貫が目を剥いている。驚きたいのはこっちだ。 「馬鹿かお前。そりゃ泥棒だぞ」 「落ちてたんだから拾ったっていいだろう。それにほら、今はほとんど人もいないから俺達が拾ってもバレないって」 「いやいや、こんな大金だぜ。落とした人は困っているよ」 「困るくらいなら最初から落とすような運び方はしない。どうせ金持ちがいくつもある札束の一つを落としたんだろ。そうでなければすぐに気付くはずだ」  要するに金持ちからは搾取しても構わない、と言っているのか。とんでもない理屈だ。当然のように力説する親友に恐ろしさを覚える。 「駄目。警察に届ける」 「何でだよ。勿体無い」 「俺は泥棒なんてしたくない」  地団太を踏む綿貫を尻目に俺は札束に手を伸ばした。その時、本当に大丈夫かな、と橋本が漏らした。 「何が」  手を止める。橋本は腕組みをして顎に指を当てた。 「これ、やばい金なんじゃないのか」  そう言って口を噤んだ。続きを待ったが再開しない。中腰でいるのに疲れたので、一旦体勢を元に戻す。 「何だよ、やばい金って」 「札束だよ。おかしくないか。振り込みなんてATMでも出来るぞ。いくらこの辺が田舎で人は少ないと言っても、こんな現金を持ち歩くなんてリスクが高すぎる。逆に言えば、現金でなければいけない理由があるんだ」  橋本は言葉を切った。そうして、やや間を空けた後、例えば足がつかないようにしなきゃいけない金とか、と告げた。その話し方は不安を余計に増幅させた。足がついたらいけない金。大金。札束。それって。 「現金を持っているなんて当たり前だろ。俺だって現金しか持ってないよ」  時代遅れな綿貫に、二丁目の駄菓子屋がキャッシュレス決裁を導入したぞ、と教える。こんなクソ田舎の駄菓子屋でキャッシュレス決裁って、と頭を抱えた。 「橋本。これ、こわい人の落とし物ってことか」  俺の言葉に、わからない、とゆっくり首を振った。そりゃあそうだ。断言出来るわけがない。 「でも、拾った途端にこわい人が出て来て、俺達をどこかへ連れ去るかもしれない。人の金に手を付けやがって、とかいちゃもんをつけて」 「こわい人が隠れられる場所なんて無いぞ」 「田んぼから飛び出してくるんじゃないの。間抜けだけど有り得なくはない」  三人顔を見合わせて、同時に札束へ視線を落とす。いや、これは最早札束ではない。地雷だ。時限爆弾だ。触ってはいけない物なのだ。 「放置しよう。関わらないのが一番だ。ここを通る別の奴に任せよう」  俺の言葉に、そうだな、と橋本も頷く。多少気は引けるが関わらなければトラブルに巻き込まれることも無い。誰かが警察に届けるかもしれない。あるいは貧乏くじを引くかもわからない。だが俺達は自分の安全と平穏が第一だ。  歩き出そうとした俺と橋本に、しかし綿貫が待て、と声をかけた。 「何だよ。早く行こうぜ」  一刻も早くこの場を去りたいのに、この馬鹿はどうしたのか。 「俺は、この金を、諦めきれない」  馬鹿が想像を上回ってきた。話を聞いていなかったのか。 「やめとけ。関わらない方が絶対にいい」 「綿貫、拾うのにはリスクが伴うけど関わらなければ少なくとも損はしないんだ。もう行こう」  二人がかりで必死に説得する。しかし綿貫は膝に手をつき、頑として動こうとしなかった。 「札束だぞ。大金だぞ。三人で山分けしても数十万円は貰えそうなんだぞ。欲しいじゃないか」  人はこんなにも欲望に対して正直でいられるのか。凄い馬鹿みたいだけど凄い素直な気持ちを吐き出している。 「俺は欲しい。この大金があれば、ゲームを買える。ダンベルも買える。服も靴も鞄も帽子も、欲しい物は何でも買えるんだ」 「何でもは買えねえよ。この札束にどんだけの可能性を感じているんだお前は」  思わずツッコむ。 「まあこの金があれば、俺達高校生が欲しい物は大体買えるよな」 「橋本は何で唆しているんだ。散々こわい話をしておいて、よく拾わせる方向に話を持って行けるな」  橋本の頭を引っ叩く。案の定、そうだろ、と綿貫は目を輝かせた。 「まあ全額ネコババするのは人として駄目なことだと俺でもわかる。じゃあ仮に警察へ届けるとして、お礼を満額の二十パーセント貰うとするだろ。この札束が仮に百万円だとして、二十万円は俺達の物だ。山分けしても一人六万円以上手に入る。ゲームと服と靴とダンベルが買える。その上で、キャッシュレス決裁を導入した二丁目の駄菓子屋へ行って思う存分現金で豪遊してやる」  綿貫は最早瞳孔が開いていた。金の亡者とはこのことか。しかし六万円か。確かに魅力的な額だ。一瞬黙り込んだ俺の気持ちを亡者は素早く察した。 「いいか。その六万円は、ちゃんと法に則って受け取れるんだ。やましいことなど一つも無い。むしろいいことをした報酬として手に入る。不自然な金回りを家族に不審がられたとしても、正当な金だと主張できる。大手を振って駄菓子屋で豪遊出来るんだ」 「駄菓子屋での豪遊は希望してねえよ」  そう言いつつ気持ちは揺らぎ始めた。駄菓子屋での豪遊にではない。いるかいないのかわからない、こわい人に怯えてみすみす六万円を逃すのか。そんな大金を、手に出来るはずの金を、俺は素通りするのか。 「惜しいだろ。惜しいよな。見逃すことは無いと思うんだよぉ」  綿貫が畳みかける。その嗅覚に恐れ入る。俺は色々言った。色々言ったが、本当は。本当の気持ちは。 「俺だってこの金欲しいよお」  ついに口から出てしまった。こわい人なんて知るか。警察なんてくそくらえ。この金を全部持って帰りたい。欲しい物は全部買ってやる。焼肉食って、寿司食って、デザートに飽きるまでおはぎを平らげてやる。 「欲しいよな。そうだよな。やっと言えたな田中」  肩を掴んで揺すられた。綿貫のツバが顔にかかる。その手を振り払い、この金全部俺のもんだ、と札束を掴もうとした。抑えが効かない。さっきまでの、真面目な市民だった俺はもういない。しかし後ろから羽交い絞めにされた。落ち着けよ、と橋本が俺にしがみついていた。 「やばい金だったらどうするんだよ」 「そんな奴いねぇよ。いるなら出て来いよ。なあ。かかって来いよ」  後先も考えず叫ぶ。喧嘩なんてしたことも無いのに。それでも橋本は俺を離さない。綿貫も手伝えよ、と訴えるのが遠くに聞こえる。 「いいじゃん、ようやく田中が自分に素直になれたんだから」 「いいわけ無いだろ。六万円くらいバイトして稼げよ」 「バイト出来るような店なんてこの辺に無いわ」  二人のやり取りが鬱陶しい。どうでもいい会話をしている暇があるのなら、とっととあの金を持って帰らせろ。橋本を引き摺り金へと縋る。届かない。もう少し。もう少し。 「うーん、でもそうだな。流石にちょっといつもの田中じゃないな」  そうして綿貫も加勢した。今度は二人がかりで俺を札束から引き離す。全身全霊で俺はもがいた。あれは俺の物だ。俺の金だ。今すぐ手にしたい。離せ。離しやがれ。  不意に両の頬が熱を持った。綿貫が俺の顔を両手で叩いていた。 「落ち着け」  じっと目を見詰められる。札束が視界から外れた。頭の中が熱い。呼吸がひどく荒れている。落ち着け、と綿貫が繰り返す。背中には橋本の体温を感じる。二人が俺を止めようとしている。しばらくそのまま硬直していたが、やがて俺は首を一つ振った。体の力を抜く。 「ごめん」  その言葉で緊張がほどけた。綿貫と橋本が、ゆっくりと俺から離れる。びっくりしたぞ、と綿貫が肘で小突いた。 「ごめん。急に抑えが効かなくなって」 「疲れた。筋肉痛になったらどうしてくれる」  橋本は地面に座り込んだ。ごめん、と繰り返す。深呼吸をした。さっきまでの衝動。止められない自分。急に恐怖を覚えた。どうしてあんなにも突然金が欲しくなったのか。親友二人が止めてくれなかったら、俺はどうなっていたのか。あの金を手にして、欲求に従って好き放題を重ねて。まともじゃない。でも抗えない。欲の塊。それは、人間じゃない。  ありがとう、と胸中で呟く。口にはしない。照れ臭い。  暴れた当事者として、話し出すのは気まずい。そう思っていたら、そういやさ、と綿貫が切り出してくれた。 「そもそもあの札束って何処から来たんだ」  首を傾げた。何処からって。 「上から落ちて来ただろ」 「いや、田中も最初は気にしてたじゃん。建物は無い。周りには杖をついたおばあちゃんしかいない。じゃあ何処から来たんだ。田んぼから誰かがぶん投げたのか」  綿貫は小走りに田んぼへ向かった。だがすぐに手をバツにして戻って来た。 「誰もいない。こわい人も、農作業をしている人も、誰もいない」  そうだ、確かに初めは気になっていた。どうやって、何処から、あの札束は落ちて来た。飛行機やヘリコプターだって通っていなかった。ドローンだって飛んでいない。誰もいない。何も無い。こんな札束が落ちてくるわけがない。背中に冷たい物が走る。さっきまであんなにも欲しかった札束。今は見ることも出来ない。おかしい、と呟く。 「落ちてくるわけの無い状況で俺達の前に札束が落ちて来たのも、そもそもこんな札束が落ちて来ること自体も、何より欲しいと思った途端に全く自制がきかなくなったのも、全部、全部おかしい。おかしいことに気付けなくなっていたのだっておかしい」  またも顔を見合わせる。その時、物が地面に当たる音がした。丁度、あの札束と同じくらいの重さの物体が、真っ直ぐに落ちて来たような、そんな音。一つ。二つ。三つ。揃って上を見る。何も無い。その瞬間、四つ目の音。  やばい、と誰が叫んだかわからない。或いは俺かも知れない。一斉に駆け出す。有り得ない。あってはいけない。どうして俺達がこんな目に遭う。俺達が何をした。心臓が痛い。吐き気がする。呼吸が乱れる。痺れたように感覚の遠い手足を懸命に動かす。前を走る綿貫がおばあちゃんを追い抜いた。後ろからは橋本の足音が聞こえる。とにかく全力で遠くへ行かなければいけない。あの札束から離れるのだ。  お地蔵様の前で、綿貫はようやく足を止めた。相変わらずの俊足だ。ややあって俺、だいぶ遅れて橋本が追い付く。物心ついた時から知っていたこのお地蔵様に、ここまでの頼りがいを覚えたのは初めてだ。大丈夫、お地蔵様なら怪奇現象からも俺達を守ってくれる。多分。  恐る恐る振り返る。何もいない。札束がまだ落ちているのかは、ここからだと遠くてわからない。  懐から百円を取り出す。お地蔵様の前に置いて手を合わせた。 「どうか、お守りください」  高校生にもなって、とは思わなかった。怖いものは怖い。綿貫と、まだ息の整わない橋本も百円を取り出す。そうして手を合わせて、お守りください、と繰り返した。深々と頭を下げる。しばしお地蔵様を見詰める。夕陽に照らされた笑みは柔らかく、暖かかった。 「帰るか」  遠回りにはなるが、綿貫と橋本の家を経由して帰った。橋本は一人になる俺に自転車を貸してくれた。俺の家が一番遠いので心細かったが、自転車は少しだけ安心感を与えてくれた。その日の夜は嫌がる弟に土下座をして、同じ部屋で寝かせてもらった。  翌日。上田君は学校に来なかった。  担任が、一緒に帰った奴はいないか、と朝のホームルームで呼びかけた。俺は手を挙げて、帰りに歩いているところを見ましたと答えた。一限までは僅かな時間しかなかったが、職員室に連れて行かれた。隣の教室にいた綿貫と橋本も連行した。  上田君は、昨日家に帰らなかったそうだ。捜索願も出されていた。一緒に帰ったのかと担任は身を乗り出した。俺達のずっと後ろを歩いているのを見ただけです。そう言うと、時間や場所を詳しく訊かれた。 「変わった様子は無かったか。変な輩と一緒にいたとか」 「一人で歩いていました。彼の周りにも、特に怪しい人はいませんでした」 「おばあちゃんが歩いていただろ」 「まあいずれすれ違いはしたかもな」  俺達の言葉に、そうか、と担任は溜息をついた。そうして、またお前達に何か訊くかもしれんと頭を掻いた。職員室を出た俺達は一言も喋らなかった。三人とも、昨日のことを考えているに違いない。上田君の失踪は怪奇現象と関係があるのか。あそこは一本道だ。彼は俺達の後にあそこを通っただろう。だがそもそも昨日のことを現実にあったと認めたくない。気のせい。思い過ごし。白昼夢。そうであってほしい。  その日の帰り道はいつもよりお互いの距離が近かった。 「今日は別の道で帰るか」 「そうだな、たまにはそれもいいよな」 「気分転換になるしね」  だいぶ大回りにはなるが、畑の反対側を通る道を選んだ。怪奇現象があったことを認めたくはないが、昨日の今日で例の場所を通るのも不気味だ。いつも通り、他愛のない話をした。ゲームのこと。クラスメイトのこと。テレビ番組のこと。不自然なほど、札束も上田君も、話題にのぼらなかった。そうして昨日と同じように、順繰りに家へと入って行った。今日は自転車が無いので、俺は小走りで帰った。  自宅の門を潜ると橋本の自転車が目に入った。そうだ、返さなきゃ。鞄を玄関に放り出す。だらしない、と母さんの声が聞こえた。 「ちょっと橋本の家に行ってくる」 「着替えくらいしたらどう」  生返事をして自転車に乗る。ライトが自動で点いた。便利なもんだ。 「別に急がなくてよかったのに」 「チャリが無いと不便だろ。ありがとうな」  出迎えた橋本に礼を述べる。お互い、言いたいことを呑み込んでいるのが伝わる。どうにも落ち着かないので、じゃあな、と早々に引き上げることにした。 「気を付けて帰れよ」  眉をしかめた橋本に、また明日、と手を振った。  空を見上げる。日暮れが近い。家までは歩いて十五分程。暗くなる前には帰れる。歩きながら、今日の宿題は面倒臭いなとか、やりかけのゲームをどこまで進められるかなとか、とりとめのないことを考え続けた。気を抜くと、昨日のこと、上田君のことが浮かんでしまうから。嫌だ。考えたくない。上田君は無事であってほしいと思う。それでも、彼のことを考えているとまた何かに巻き込まれそうで心底恐ろしかった。  角を曲がる。一人のおばあちゃんが目に入った。体が強張る。あれは昨日のおばあちゃんだ。昨日と同じ服。同じ杖。同じ歩き方。同じ後ろ姿。徘徊老人なのかな、と気になる。そうだ、この人なら上田君のその後を知っているかもしれない。昨日、俺達が追い抜いた後もまだ近くにいたはずだ。声をかけることにする。有益な情報を得られる可能性が僅かでもあり、そもそも駄目で元々、損をすることも無い。万が一、襲い掛かられてもこの調子なら逃げ切れるだろう。昨日と違ってそこかしこに住宅もある。人がいる、という状態はこんなにも安心を与えてくれるのだと初めて知った。 「すみません」  おばあちゃんの足が止まる。 「あの、聞きたいことがあるんですけど」  大声で挨拶をしていた綿貫を思い出し、丁寧に声をかけた。おばあちゃんは動かない。ちょっといいですかと続けたところ、ゆっくり、ゆっくりと振り返った。腰が曲がっているせいか、随分体が傾いている。長い白髪がばさりと流れ、顔が露になる。それは。その顔は。  上田君の顔だった。  手や首の皺。曲がった腰。ぼさぼさの白髪。確かに老人だ。だけど、それなのに、顔だけは確かに上田君だった。毎日、教室で見かけた彼の顔だ。  瞳孔の開き切った目。小刻みに宙を彷徨っていた視線。不意に俺へ焦点が合う。顎が外れたかのように口を開いた。真っ赤な舌。溢れる唾液。掠れた、しかし野太い声が、俺に告げた。  角から飛び出した俺は車に轢かれた。幸い、足の骨折だけで済んだ。大部屋に入れられて、むしろ感謝した。一人にならないからだ。ただ、夜になると悪夢で起きた。同級生を悪夢呼ばわりしたくはないが、そうとしか言いようのない夢だった。外科に加えて同じ病院の精神科にも罹った。先生と一対一で話が出来たので、ありのままを口にした。妄想にとりつかれていると思われてもいい。全部吐き出さなければ。そのための医者だろう。  精神安定剤と睡眠導入剤を処方された。入院中は外科と精神科を行き来した。総合病院なので、退院したら町の心療内科へ継続して通うよう促された。両親と弟は、俺の頭がおかしくなったのかと心配した。確かにおかしくなっているのかもしれない。皆と共有できる現実で起きたことなのか。それとも俺の頭が作り出した過去なのか。俺にはわからない。  でも、お見舞いに来てくれた綿貫と橋本に老婆と上田君の話をしたら、二人は信じてくれた。幸いなことに、二人とも遭遇はしていないらしい。それでいい。こんな目に遭うのは俺だけで充分だ。  やがてギブスが取れた。リハビリには二か月かかったが、おかげで元通り歩けるようになった。それから三人で電車に乗って、有名な神社へお祓いに行った。ご祈祷、と言うのだと現地で知った。 「お前達、何をした。なんて言われるかな」  綿貫がそう茶化した。むしろ言ってほしい。原因がはっきりしたら、根こそぎ取り去ってくれ。しかしそんな言葉をかけられることは無く、淡々とご祈祷は進んだ。最後にためになるような話があって、あっさりと終わった。 「あっという間だったな」  橋本が大きく伸びをした。 「でも俺、肩が軽くなった気がする」  俺の言葉を、単純だなお前は、ともっと単純な綿貫が笑い飛ばした。 「まあ、田中がまた暴れ出すようなことがあったらどうしようかと思ってはいたよ」 「そうしたらお前らがまた止めてくれるだろ」 「俺はもうやりたくない。あの後本当に筋肉痛になったし」  軽口を叩きながら三人連れ立って歩き出す。蕎麦でも食って帰るか。お、いいね。有名な店とかないのかな。そんな、いつも通りのやり取り。これは三人の現実なのか。俺の頭の中だけに広がる世界なのか。わからない。確かめようもない。でも、俺はこのやり取りが好きだ。親友二人が大好きだ。  上田君はまだ見付からない。あの時彼は、お前だったのに、と振り絞るように叫んだ。あれは化物ではない、上田君本人の気持ちだったのだろう。  俺の身代わりになってしまった彼に、心から哀悼の意を表する。
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