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第二十一章 夢想剣
一
何者の手引きかは判明していないが、水戸藩の家老/山野辺義清が老中/小笠原長重の上屋敷正門前で自害して果てた。血染めの直訴状には、企てには水戸藩ならびに真榮館は関わっておらず、全て自分一人が画策したことと藩の関与を否定した内容だった。
老中/小笠原長重は、直ちに大目付/仙石伯耆守と松前伊豆守に知らせ、また筆頭老中/土屋政直に判断を仰いだ。
閉門蟄居の身であった水戸藩藩士に、刀を持たせ屋敷を抜け出せたかは報告されなかった。発見が早朝ということもあり、事は内々に処理された。
江戸城の御用部屋には前回同様、側用人/柳沢吉保、大目付/仙石伯耆守、そして折井淡路守も呼ばれていた。松前伊豆守嘉広は染物屋の賀茂屋についての調べで京にいた。
「して、此度のいっ・・・。」
吉保は口を開こうとしたが、裏徒組との約定を思い出し慌てて口を噤んだ。吉保の気を察した政直が、代わりに口を開いた。
「此度の一件、各々方はどのように捉えているか・・・意見を伺いたい。」
屋敷前を自害の場として使われた小笠原長重が口火を切って発言した。
「それは決まっておりまする。真実がどうであれ、武士が全ての責を背負っての自害。これを聞き入れずして何が武士道でござるか。」
裏徒組の意向もあったが、長重は責任を一人で背負い藩を救おうとした心意気を汲み取りたかった。
「しかし、水戸藩が後ろ盾となっている真榮館から謀反の証拠となる武具を押収致せしは明らかでござります。これ、全てを不問にせよとの仰せにござりまするか。」
久尚は老中たちに訴えた。
「では、伯耆守に尋ねる。」
同じく老中/阿部正武が久尚に言った。
「水戸藩を取り潰して・・・残った藩士、ならびに四つの支藩の処置を如何するつもりだ。」
ぐうの音も出なくなってしまった久尚は、袴を掴んで悔しがる。
「短絡的な裁きは、松之廊下で十分だ。」
普段物静かな正武が、鋭い目つきで久尚を睨む。正武の鋭い眼光は久尚を震え上がらせた。
「賀茂屋の調べは、如何相成っておるのだ。」
政直は場の空気を変えるかのように議題を変えた。久尚が口を開こうとした時、それを遮るように長重が叫んだ。
「報告など、どうでもよいわ!」
長重の声は、江戸城内に響き渡った。
「武士の心は、どこへ行ってしまったのだ。御三家水戸藩の家老職についていた男が、責任を一身に背負い我が屋敷の前で腹を切ったのだ・・・。その思い無にしては政を預かる我等、武士の情を知らぬ薄情者よと、きっと末代まで嘲りを受けましょうぞ。」
長重の迫力に側用人/柳沢吉保、大目付/仙石伯耆守、折井淡路守などは体が震え始めていた。
「まさに命を賭けた武士の心を、我等が受け止めずして誰が受け止めましょう。」
筆頭老中/土屋政直、阿部正武は何度も頷き、長重に理解を示す視線を送った。長重のこの一言で、水戸藩の処分は決まったのである。
二
昨夜、老中たちとの会談を終え中院通躬は、滞在している品川宿本陣へ駕籠に乗り向かっていた。品川宿へ向かう道のりは、横に海を眺めながら歩ける美しい道だった。老中諸侯には、政を担う幕府の中枢である水戸藩の不始末を声高に訴えたばかりであった。元禄十七年九月(10月)となれば、日の落ち方は早く暮れ六つを迎えると辺りは一層暗くなる。
その駕籠へ一人の男が近寄って行く。供廻りの者が気付いて寄せ付けぬ仕草をするが、駕籠の中の通躬は側に来る事を許した。男は駕籠と並んで歩きながら、中にいる通躬へ話し掛けた。
「一右衛門配下、多三郎と申します。」
「何事か。」
「水戸藩がお咎めなしと相成りました。」
多三郎の報告を受け、駕籠の小窓が勢いよく開いた。中から険しい顔の通躬が多三郎を見つめていた。その顔に恐れを抱き多三郎は通躬から視線を外す。
「何故、急にそうなったのだ。」
「はい。今朝方、老中/小笠原長重の上屋敷門前にて水戸藩家老/山野辺義清が自害いたしました。」
視線を外した多三郎だったが、恐る恐る通躬の顔を覗き込んだ。険しい顔の通躬が、能面のようないつもの表情に戻っていた。
「山野辺義清は直訴状も抱えていて、真榮館の事も何もかも全て自分一人で画策したと・・・。」
「人の情というものは、とかく青臭いことに弱いものだな。」
言葉に抑揚のない通躬の語り口は、左近寺織人を彷彿させる。多三郎は、通躬からの指示を待った。
「わかった。暫く品川宿の本陣におる。一右衛門には、そう申し伝えておくように・・・。」
「はい。」
「下がってよい。」
多三郎は、駕籠に一礼して通躬の駕籠から離れて行った。
― 腹を切る、その手があったか・・・。―
通躬を乗せた駕籠は、沖から吹く潮風を感じながら品川の宿場町に入って行った。
三
口入屋/長兵衛の家に多都馬と隼人が来ていた。昼頃から始まった談義も、いつの間にか時刻は四つ時を迎えていた。夜になれば吹く風も肌には冷たく、どの家も戸板をきっちりと閉めて寒さを凌いでいた。
この口入屋にも、広島藩外聞衆の警護がついていた。暗闇に目を凝らす外聞衆が、裏庭を歩いている姿が時折見える。口入屋の女子たちには女子の外聞衆が数人いて、彼女等をつかず離れず守っていた。長兵衛の妻/おみよには、さらに専属の外聞衆がついていて完璧な警護をしていた。
「多都馬様。なんだか申し訳ありません。」
長兵衛は、至れり尽くせりの状況に申し訳なく頭を下げる。
「また何を言ってやがる。みんな大事な俺の家族なんだ。むしろ、みんなは被害者だ・・・くだらねぇ侍の面子と権力の犠牲になっているんだ。謝らなきゃならねーのはこっちだぜ。」
長兵衛の隣で聞いている三吉は、多都馬の言葉に目頭が熱くなっていた。
「長兵衛。多都馬さんとは付き合いも長いんだろ?・・・いい加減、その神妙過ぎる態度も大概にしろよ。」
「しかし、神月様・・・。」
隼人は、長兵衛が何か言おうとしたのを手を上げて制した。
「おーっと、もうそこまでにしな。互いに恐縮し合っているのを見てると鳥肌が立っちまうぜ。」
” この野郎 ”とばかりに隼人の肩を多都馬が叩く。二人の光景を見ながら長兵衛は思っていた。
― この御方にお仕えして良かった。―
ちょうどそこへ、おみよが新しい酒と空になった徳利を下げに来た。
「おっ、すまねぇな。」
「いくら、多都馬様のお相手とはいえ程々にしときなよ。それから多都馬様も、うちの人にあまり飲ませないでくださいね。」
小気味よく弾むようなおみよの声は、その場を瞬時に和ませた。空になった徳利を運んで部屋を出て行ったおみよの鼻歌が廊下の先から聞こえてくる。多都馬たちは、互いに顔を見合わせて笑った。
「長兵衛・・・いい女房だな。」
多都馬がしみじみ言った。長兵衛は頭を掻きながら照れている。
「ところで・・・。」
隼人が話の口火を切って言った。
「奴等・・・、次はどう出てくるかか?」
多都馬は、隼人の目を見ながら呟いた。
「水戸藩お取り潰しのどさくさに紛れて、江戸へ軍勢を引き連れて来る算段が、これでつかなくなったな。」
確認するように隼人は言った。
「その穴埋めを・・・奴等どうするかだが。」
「多都馬様。何故・・・水戸藩の家老は老中の小笠原長重様を選んだのでしょうか。どうせなら、筆頭老中の土屋政直様を選ぶのではないでしょうか。」
長兵衛が首を傾げながら呟く。その疑問に隼人も頷きながら多都馬を見る。
「今の政は、老中が担っているわけじゃねぇ・・・。良くも悪くも、上様自ら政務に関心を持ち裁定から裁きまで口を出していると聞く。」
「へぇ〜犬公方様も大したもんじゃねーですか。」
三吉が感心して言う。
「馬鹿野郎!上様に対しなんて口の利き方だ。」
調子に乗った三吉を長兵衛が叱りつけた。
「小笠原様は大名でありながら、一刀流と新陰流の遣い手だ。故に家臣たちに日頃から、武芸を磨くよう推奨している。」
「えっ!?お強いんですか?」
三吉が目を丸くして驚いている。
「そういう御仁だ。気骨のあるところを見込まれたのさ。」
「誰に・・・でございますか。」
「・・・裏徒組か」
隼人が言った。多都馬は、大きく頷いた。
「今の老中は、小笠原様が右を向けば右、左を向けば左を向く。影響力は絶大だ。」
「するってぇと・・・。」
察しがついた長兵衛が呟いた。
「そうだ。奴等、次は必ず小笠原様を狙う。」
確信した多都馬の目が鋭くなった。
「しかし、どうする。流石の多都馬さんでも、老中とは繋がりはねーだろ。縁も所縁もない俺たちが訪ねても、門前払いが関の山だぜ。」
困ったように隼人が呟いた。長兵衛も三吉も、大きな溜息をついた。
「いや・・・知らせずともその場に居合わせればいい。奴等は城内では襲わない。小笠原様が御駕籠に乗って、どちらかに向かわれるときを狙う筈だ。」
「では、多都馬様。俺たちは小笠原様の動向を探ればよろしいですね。」
三吉の目が輝いた。
「いいか、何度も言っているが・・・。」
「わかっておりやす!命は一つしかありやせんから・・・。」
多都馬は、” 頼む ”と言葉を発する代わりに、杯を目の高さまで掲げ一気に飲み干した。決戦の日は近づいていた。
四
品川宿は遊郭もあり、数々の誘惑が多い町でもある。行き交う人々の表情も活気に満ち溢れている。通躬が逗留している本陣に、宿泊していることが分かる旗が置かれている。
一右衛門と佐十郎は、案内されるまま本陣宿の奥座敷へ向かっていた。
「節操のない町だな・・・。」
佐十郎は、品川宿の町並みを見て呟いた。
「はっ・・・何か仰られましたか・」
旅籠の手代は怪訝な顔をして振り返る。
「いや、別に。」
手代は首を捻りながら納得いかない顔で先を歩いている。中院通躬の部屋の前では、護衛のような二人が険しい顔をして座っていた。その二人は一右衛門と佐十郎を睨みつける。
「賀茂屋一右衛門、罷り越しました。」
中から通躬の声が聞こえ、一右衛門と佐十郎は部屋に入った。中に入ると通躬が一人晩酌をしていた。いつも傍らにいる天玄と地玄の姿が見えなかった。
「来たか・・・。」
一右衛門と佐十郎は、通躬に促されるまま対面に座った。行灯の明かりに照らされた通躬の表情は、妖しさを増し背筋を寒々とさせた。
「天玄様と地玄様の御姿が見えませんが・・・。」
「二人は京まで、八咫烏の五神を呼びに行かせたのでな。」
「い・・・今、なんと。」
「五神だ・・・間もなく、ここ江戸に参る。」
「それは・・・。」
八咫烏の五神は、上皇ならびに公家たちを御所で守るのが役目であった。その役目を放棄させ江戸へ下向させるということは、多都馬への直接対決を迎える日も近いということだった。
「一右衛門・・・水戸の話は確かだな。」
「はい。城内におります茶坊主が口を滑らしておりますれば、間違いないと存じます。内々の話とはいえ、近々正式に公儀から通達されましょう。」
「左様か。」
通躬は動揺するわけでもなく、淡々と酒を飲んでいる。
「・・・やはり、手強いの。」
「いかがいたしましょう。」
「今の幕閣諸侯には死んでもらう。特に、老中首座/土屋政直、同じく老中/阿部正武。そして、小笠原長重。此奴を亡き者にせんと、王政復古に際し一番の障害になる。」
「小笠原様を・・・。」
「既に城内御用部屋にて、何度か会うたが・・・なかなか気骨のある人物だった。恐らくだが、水戸藩の処分にも此奴の主張が反映しているに違いない。小笠原長重・・・将軍家・・・いや、庶民のためなら命をも捨てる覚悟がある奴。」
危機意識が欠落した元禄の御代に、長重のような大名がいたことに一右衛門は驚いていた。
「しかし、通躬様。老中諸侯を襲撃するには兵が足りませぬ。我等、始末屋だけでは到底・・・。」
「案ずるな・・・此度は、ワシ自らが江戸に残っておる八咫烏を率いて襲う。」
一右衛門は驚いて隣にいる佐十郎と顔を見合わせる。
「ワシに策がある。お前は、指示通りに動けばよい。」
いつもなら己の頭の良さに陶酔して高らかに笑う通躬だが、能面のような冷たい表情は崩れなかった。
「然すれば、通躬様・・・。策とは、どのような・・・。」
通躬は後ろにある陶磁器を出して中から数枚の文書を取り出した。
「これは・・・。」
「小笠原長重を始めとする老中諸侯の朝廷への文書だ。そして、瑤泉院の物もある。・・・それぞれ花押まであるが、筆跡を真似て文書を作れるか。」
「はっ、そのようなことは造作もなく・・・。」
「ならば早速取り掛かれ・・・内容は、追って申しつける。」
一右衛門は通躬から陶磁器を受け取り本陣を出た。二人は人混みの中を江戸府内の潜伏場所へ歩き出した。
「御頭・・・。」
覚悟を決め強張った表情の佐十郎が突然立ち止まった。
「どうした・・・。」
「お互い・・・これで一段落つきますな。」
宿場町だけあって旅姿の人間が、二人の横を何人も通り抜けていく。
「この件が落着し生き残れたら、足を洗おうと思っています・・・。」
「そうか・・・。」
「御頭は?・・・。」
「いや・・・。」
一右衛門は軽く頭を振った。
「そうですか・・・。」
町を見渡すと陰謀渦巻く権力への火種が、今この品川宿にある事など感じさせない賑わいがあった。それから二人は言葉を交わさず人混みに紛れ品川宿を後にした。
五
調達屋を本拠地として連日連夜、小笠原家の動向を多都馬たちは監視していた。その日も長兵衛の配下の者が入れ代わり立ち代わり、調達屋を出入りする姿が見えた。
多都馬と長兵衛は、長重が動き出す時を待っていた。
「今日も動きは無さそうだな・・・。」
「はい。」
店内の結界に座っている須乃は、心配そうに奥座敷にいる多都馬を時折見つめていた。
「御老中の方々を襲うとなると、そうそう機会は訪れないかと思うんですがね。」
「無ければ作るのさ・・・奴等、そういう連中だ。」
機会を作るという多都馬の言葉に、納得して長兵衛は何度も頷いた。
その時、店の表を見張っていた一蔵が屋内に戻ってきて、多都馬と長兵衛のもとへ駆け寄って来る。
「多都馬殿。奴等の一味とは思えぬがのだが、編笠を被った怪しい男が一刻ほど前から店を見張っている。」
直ぐ様、腰を上げた多都馬と長兵衛は、一蔵と一緒に店の格子戸から外を見た。須乃とおしのは、邪魔にならぬように奥へ引っ込んだ。人通りの賑やかな日本橋の道に、明らかに場違いな見窄らしい姿の男が様子を窺っていた。
「多都馬様、どういたします。」
「長兵衛・・・、弥次郎と一緒にあの男に目立つように近づいてくれ。」
「はい。弥次郎、聞いていたな。」
長兵衛は弥次郎を見て言った。出て行く二人を見た後に、多都馬と一蔵は裏から出て行く。
編笠の男は、調達屋から出て来た長兵衛と弥次郎に気付いて踵を返した。人混みに紛れて逃げようとするが、行く手には多都馬と一蔵が立ち塞がっていた。
「どこへ行くつもりだ。」
編笠の男に多都馬が詰め寄ると、観念したようにその場に座り込んだ。
六
編み笠の男は調達屋の裏庭へ、多都馬と一蔵に連行されていった。一蔵を持ち場へ戻し、聴取には吉之丞と多都馬で行った。編み笠を取って現れた顔は、六十路を過ぎているらしく病的なまでに痩せこけていた。抵抗できる体力もなかったのか、編み笠の男は終始神妙であった。
「名を聞かせて頂こう。」
編み笠の男は俯き無言を貫いている。
「・・・言えぬか。」
吉之丞が立ち上がって脇差を抜いた。編み笠の男は、斬られる覚悟でいるのか黙って目を瞑った。
「素性を明かさぬつもりか・・・。」
喉元に脇差を当てても黙して語ろうとはしなかった。
「今、この調達屋は陰謀を画策している輩から狙われている。このままだと、その一味とみなして公儀に突き出すが・・・。」
どうすべきか意見を聞こうと多都馬は長兵衛の顔を覗き込んだ。変わらぬ態度に長兵衛はお手上げだと、呆れ顔を多都馬に見せた。
判断に困っている多都馬たちに、裏を警戒していた半之助が割って入ってきた。
「お主・・・元赤穂藩、番頭/伊藤五右衛門殿であろう。」
編み笠の男の目が大きく見開き反応を示した。
「アンタ侍か?・・・。」
大小を差していない姿は、農民か商人にしか見えない。
「半之助殿が申された通り、お主・・・伊藤殿なのか・・・。」
吉之丞はそう言うと、喉元に当てていた脇差を納めた。
「伊藤殿・・・もしや、脱盟したことを気に病んでおられるのか。」
五右衛門は多都馬の問い掛けにも無言を貫いた。
「世間が何と言おうと、ここにいる我等はお主たち脱盟組を蔑むようなことはせぬ。」
必死に説得する多都馬の横を、須乃がお茶を持って現れた。須乃はお茶を乗せたお盆を縁側に置いた。
「さ、伊藤様。お茶をどうぞ・・・長旅、さぞお疲れでしょうから。」
須乃に言った通り五右衛門の足元は、足袋には汚れが目立ち草鞋は紐が片方切れていた。
「伊藤殿・・・さ、お熱いうちに。」
多都馬は五右衛門の腕を取り、縁側に座らせた。五右衛門はお盆の上の茶を見つめたまま、手をつけようとはしなかった。
「さ、どうぞ。」
須乃は湯飲み茶碗を手に取り、五右衛門に差し出した。
五右衛門は手を震わせながら湯飲み茶碗を受け取り、熱さも忘れ一気に飲み干した。飲み干した茶碗を見つめたまま、五右衛門はうずくまって嗚咽した。
七
多都馬は五右衛門を連れて、氷川坂の三次藩下屋敷に来ていた。瑤泉院に五右衛門を引き合わせるために、
奥座敷で待つ五右衛門は緊張で少し表情が強張っていた。日が暮れ始めていたが、多都馬は五右衛門をいち早く瑤泉院に引き合わせたかった。
奥座敷に向かって歩いてくる音が聞こえ、多都馬と五右衛門は平伏して入ってくるの待った。瑤泉院と戸田局、用人の落合与左衛門が中に入ってきた。
「このような刻限に瑤泉院様の御都合も弁えず、参上仕りましたこと平にご容赦願い奉ります。」
一向に頭を上げない多都馬と五右衛門に瑤泉院が声を掛けた。
「多都馬。当屋敷を遠慮のう訪れよと申したのはわらわのほうです。さ、頭を上げてください。」
多都馬と五右衛門は頭を上げた。五右衛門の身なりについては、須乃が多都馬の衣服を貸して格好だけはついた。しかし、日頃の生活のやつれだけは隠せなかった。
「多都馬殿。そちらに控えられておられる御仁はどなたでございますか?」
側近の戸田局が多都馬に訊ねる。
「はい。元赤穂藩番頭/伊藤五右衛門殿にございます。」
元赤穂藩士と聞いて、瑤泉院も戸田局も衝撃を受けている。
「瑤泉院様。伊藤五右衛門にござります。」
五右衛門のやつれた様子に、胸が締め付けられる瑤泉院だった。
「討ち入りに参加せず、己の命惜しさに恥を忍びながらも生きな永らえておりました。」
「五右衛門。」
再び俯いてしまう五右衛門に瑤泉院は声を掛けた。
「はっ。」
「恥などと申してはなりませぬ。よく・・・よくここまで生きてくれました。礼を申します。」
思いもよらぬ瑤泉院の言葉に、五右衛門は声を上げて泣いた。
「も・・・勿体のうございます。」
「元はと言えば、殿の御病気・・・いえ御短慮の無さが引き起こしたこと。」
「瑤泉院様。」
悲しむ瑤泉院の目を見た五右衛門は、畳に額を擦りつけるほど頭を下げた。
「多都馬殿・・・。」
与左衛門が場の空気を変えるような口調で多都馬を呼んだ。
「今日は伊藤殿を瑤泉院様に引き合わせるために参られたのか。」
「五右衛門殿が某の店を訪ねられたのには、元々訳がございました。」
「うむ。その訳とは・・・。」
与左衛門が身を乗り出して言った。
「郡兵衛を始め、稲川十郎右衛門殿 多芸太郎左衛門殿 建部喜六殿、某が知っているだけでも四名の元藩士が非業の死を遂げております。五右衛門殿の兄、大野九郎兵衛殿も元禄十六年四月某日に御生涯を閉じられたとか・・・。」
「何、大野殿が・・・。」
与左衛門が驚きの声を上げた。
「大石殿等、赤穂の浪士たちが切腹し果てた日から数えて、四十九日目の出来事だったそうです。」
瑤泉院、戸田局、落合与左衛門も絶句している。恐らく四十九日の法要を待って自害したのだと想像できた。世間の悪意に満ちた中傷に耐えられなかったのかも知れない。
「瑤泉院様。未だ世情は討ち入り脱盟者を"卑怯者" "臆病者"と蔑み、生きづらい世となっております。」
五右衛門の心の内を多都馬が代弁していた。
「他にも・・・。地方へ散った元赤穂藩士たち、何れも再仕官も叶わず日々の生活に困窮しているとのこと。そこへ追い打ちを掛けるように誹謗中傷を受ければ、耐えきれなくなり命を絶つの者が増えることでしょう。」
訴える多都馬の表情も悲痛な思いで溢れていた。
「多都馬、わかっております。何とか致しましょう・・・。」
瑤泉院の言葉に多都馬と五右衛門は体を震わせた。
「五右衛門、どれほどの日数が掛かるかわかりませんが、力を貸して下さいますか?」
「はっ、どのような御役目でも御申しつけ下さいませ。」
生き甲斐を得たような五右衛門を残して、多都馬は一人奥座敷を出て行った。廊下を歩きながら庭に目をやると、大きな銀杏の木が新緑から紅葉へ移り変わろうとしていた。
「多都馬殿ーーっ!」
呼ぶ声が聞こえ振り返ると、落合与左衛門が懐に文書を抱え走って来た。
「多都馬殿、お帰りのところお引止めして申し訳ござらぬ。」
「如何された。」
「多都馬殿に見ていただきたい密書がございまして・・・。」
与左衛門は言いながら懐から密書を出した。その密書は江戸郊外の寺社にて、旧赤穂藩士遺児たちの赦免について会合を開こうと記されてあり、各老中たちの花押まであった。
「これは罠です。」
「やはり・・・。」
「瑤泉院様には御自重あそばされるよう、与左衛門殿より御進言下されば・・・。」
「それが御聞き届け下さらぬのです。」
多都馬が言い終えぬうちに与左衛門が言った。
「事が、旧赤穂藩士遺児の話になると目の色が変わり盲目的に御成りになる。」
無理もなかった。夫/長矩の短慮のせいで三百余名の家臣その家族、一族郎党の運命を変えてしまったのだ。
「与左衛門殿。我等も御供をいたし、瑤泉院様の御命お守り致しましょう。」
与左衛門は多都馬の手を握り、安心したように大きな溜息をついた。
「多都馬殿・・・忝い。」
与左衛門は多都馬が同行することを一早く伝えたかったのか、踵を返し足早に瑤泉院のもとへ戻って行った。その時、下屋敷庭の落ち葉が風に煽られ勢いよく舞った。舞い上がる落ち葉の中に、一刀流/夢想剣を扱う敵の姿が浮かんでは消えていた。
八
桜田の広島藩上屋敷に、多都馬は隼人と長兵衛を連れやって来た。上皇一派の襲撃を警戒し、屋敷内は武装した藩士たちで物々しくなっていた。
上屋敷の奥の間には藩主/綱長の他、嫡男/吉長、広島藩江戸家老/上田主水、用人/井上正信、剣術指南役/間宮五郎兵衛、外聞衆頭領/野尻次郎右衛門など、錚々たる顔ぶれが揃っていた。
多都馬は、老中諸侯の花押が記されている文を綱長に見せた。
「これが、その文か・・・。」
「花押の真贋については、某は判断できませぬが・・・。文字面に些か違和感がございまする。小笠原様は豪放磊落な御方と聞き及んでおります。旧赤穂藩士遺児たちの赦免の目途がついたなら、このような回りくどい方法を取るとは思えませぬ。」
目を皿のようにして文を見ている綱長に多都馬は言った。
「それに老中が政の最高決定機関とはいえ、江戸城以外の場所に、ましてやこのように一箇所に集まるとは到底思えませぬ。」
綱長は嫡男/吉長に、その文を渡した。その文は吉長から主水へ、そして正信、五郎兵衛、次郎右衛門へと回された。
「しかし・・・瑤泉院殿はその文面を信じ、その場所へ向かうというのだな。」
綱長が大きく雨息をつく。
「父上、多都馬が瑤泉院殿の警護につくと申しておるようですが、どう考えても多都馬と隼人の二人だけでは、戦力に差があり過ぎます。次郎や五郎兵衛も加えてはいかがでしょうか。」
「うむ。上皇一派も総力を挙げて命を奪いに来るであろう。」
これを聞いた多都馬が、綱長の言葉を遮るように言った。
「殿、御身の回りの警護を疎かにしてはなりませぬ・・・。奴等がいつ何時、襲撃の矛先を浅野家に変えてくるかわかりませぬ。」
「いや、多都馬殿。」
次郎右衛門が間に割って入り、多都馬に言った。
「上杉の軒猿を相手にしたときの事を思い出して下され。隼人殿や無人殿が助太刀に来られたから事なきを得たが、いかに剣の遣い手であっても相手は京の隠密/八咫烏でござるぞ。」
次郎右衛門は必死に訴えた。
「次郎殿。今は初めから隼人がおります。心配はござらぬよ。」
次郎右衛門は隼人の顔を除き込むが、隼人は厳しい表情を崩さなかった。江戸府内を震撼させている大名襲撃事件は、未だ解決してはいない。元赤穂藩士殺害事件についても同じである。様々な事案が解決出来ていない現状に、公儀や各大名も浮足立っていた。
「多都馬!」
いきなり正信が多都馬に向かって叫んだ。
「強がるのも大概にいたせ!」
多都馬とは、折から馬の合わない正信が珍しく吠えていた。
「お前は今日、何をしに参ったのだ!我が浅野家に助勢を頼みに参ったのであろう。」
余りの剣幕に多都馬を始め、綱長も吉長も唖然としてしまった。
「この大馬鹿者めが、命を粗末にしおって!お前のような愚か者など、気にかけている者などここにはおらぬが、家に帰れば須乃が待っておろうが。それが分からぬか!殿、このわからず屋の見栄っ張りに言ってやって下さりませ!」
面食らって黙っている多都馬に、綱長が穏やかな口調で話し始める。
「多都馬よ。正信の気持ち、有難く受け取ってはもらえぬか。ワシと吉長は、大丈夫じゃ。次郎や五郎兵衛もおる。」
吠えまくっていた正信は、顔を真っ赤にして多都馬を睨みつけている。その目の奥には敵意ではなく、懇願するような何かがあった。
「次郎。手練れの者十人ほど、多都馬につけよ。」
「はっ。」
次郎右衛門は、多都馬を見つめ微笑んだ。
「多都馬殿。一人で背負わずとも良いではないか。」
その様子を、隼人は後ろから安心したように見ていた。上皇一派への対抗策が決まった頃、町は寝静まり日付けも変わっていた。
九
浅野家上屋敷を出た多都馬と隼人は、それぞれの住処へ戻って行った。夜空には満月が光り輝き、江戸の町を明るく照らしている。
調達屋まであと僅かに差し掛かった時、ある気配を感じて多都馬は立ち止まった。
「おい・・・用があるなら姿を見せろよ。」
姿を現さぬ何者かに向けて多都馬は言った。すると物陰から苦笑い浮かべ、裏徒組/頭領の出雲鳳四郎が出てきた。
「アンタを尾けることは止めにするよ。」
思いも寄らず間の抜けたことを言う鳳四郎に、多都馬は吹き出して笑ってしまう。
「どうした・・・何か変わったことでもあったのか。」
「それは、こちらが言う台詞だ。」
鳳四郎は全てお見通しだと言わんばかりの口調である。
「・・・そうか。」
「中院通躬、いよいよ出張ってくるか。」
「そのようだな。」
二人の歩く先に提灯が見え、隣にいる鳳四郎が身構える。
「案ずるな、あれは最近ウロウロしている目付の夜回りだ。」
夜回りが提灯を二人に照らして、警戒するように通り過ぎて行った。
「瑤泉院様のところへ密書が届いたそうだな。」
「あぁ・・・旧赤穂藩士遺児たちの赦免について進展があって、然るべき場所で事の詳細について話がしたいとあった。」
「それで、アンタが瑤泉院様の警護を務めるというわけか・・・。」
「まぁ、そんなところだ。」
二人は鍛冶橋を渡って日本橋界隈に辿り着く。どの店も固く戸を閉め、辺りは静寂に包まれていた。
「多都馬殿。中院通躬の夢想剣、どう対処されるつもりか。」
「対処も何も、まだこの目で見たことはないからな。」
「見た時には、アンタはこの世にはおらぬよ。」
鋭い目を多都馬に向けながら鳳四郎が呟いた。
「中院とは相対したことがある・・・と以前言っていたな。」
「あぁ、成す術もなかった。」
「夢想剣とは、どのような剣だ。」
多都馬は鳳四郎に訊ねた。
「四方八方、死角のない剣だった。体術にかけては忍びである俺の方が上だと踏んで、絶対の死角である真上から斬り込んだ。斬ったと思った瞬間、思いがけぬ方向から刀が飛んで来た・・・それで、この様さ。」
鳳四郎は着物を開けて胸の傷を見せた。真一文字に斬られた痕が、はっきりと残っていた。
「もんどりうって倒れた俺を配下の者が運んでくれ、なんとか逃げ果せることが出来た。アンタ以外で敵わなかったのは中院ただ一人。」
黙って聞いている多都馬に、鳳四郎は続けて言った。
「夢想剣を打ち破らねば、アンタに勝ち目はねぇぜ。」
話をしているうちに二人は調達屋に着いた。裏に回り二階に目をやると、半之助が外を警戒しており多都馬と目が合った。
「休んでいくか?冷だが酒ぐらい出せるぞ。」
「いや、帰らせてもらうよ・・・アンタの帰りを待っている須乃さんに嫌われたくないからな。」
踵を返そうとした鳳四郎だったが、何かを思い出して動きを止めた。
「あ・・・そうそう、伝えとくぜ。我等、裏徒組も手を貸すぜ。」
そう言うと鳳四郎は、自分たちの本拠地である相模屋へ戻って行った。鳳四郎が走り去って行った暗闇の中に、剣を構えた通躬の幻がぼんやりと浮かぶ。その幻を吹き飛ばすように、二階堂平法/一文字で叩き斬った。
十
江戸郊外の寺院が老中諸侯たちとの会談の場所であった。寺院まで四里ほどの距離を、黒駕籠に揺られ瑤泉院は向かっていた。途中、休憩を入れながら向かっていた為、寺院まで二刻半以上掛かっている。
「瑤泉院様、漸く寺院の総門が見えました。」
用人の落合与左衛門が、やや疲れた声で黒駕籠の中の瑤泉院に伝える。多都馬は黒駕籠の左に、隼人は右に黒駕籠を挟むように警護している。一行の最後尾には、鉄砲を抱えた萩原兵助、儀右衛門兄弟が後詰めのような形で控えていた。
「多都馬。」
瑤泉院が黒駕籠の中から多都馬を呼んだ。
「はい。」
「親元を離れ八丈島に流罪となった彼等を、これで漸く呼び戻すことが出来ますね。」
上皇一派の罠だとは知らない瑤泉院に、多都馬は真相を言えず返事が出来なかった。
瑤泉院を乗せた黒駕籠の一行が総門をくぐり抜け、山門にたどり着くと既に小笠原家、土屋家、阿部家は到着しているようで本堂の前に駕籠が並んでいた。与左衛門は、駕籠の側に控えている家老らしき男たちに瑤泉院が到着したことを伝えに行く。寺院内に控えている老中三家の家臣たちは、張り詰めた空気の中にいた。
「多都馬さん。やはり不味いな・・・。」
隼人は周囲を見渡しながら呟いた。回廊で本堂や法堂を正方形で囲っていて見通しはいいが、それは敵からも同じである。四方から力押しで一斉に攻められたら持ちこたえるのも困難であった。
「心配ない・・・手筈通り、裏徒組が加勢に入る。」
瑤泉院は黒駕籠から出て、与左衛門と戸田局に付き添われ法堂に控えている三家の老中のもとへ向かった。
「多都馬さん・・・何故、道中で伝えなかった。」
「瑤泉院様は・・・あの事件以来、長矩様と御自身を責めておられる。例えそれが罠であっても、一縷の望みさえあれば、それに縋りたいのだ。そんな時、周りの声など聞こえやしねーよ。」
与左衛門が法堂の戸を開け、瑤泉院を中に入れた。
「残酷なようだが・・・直ぐに罠だと知らされる。」
多都馬は閉ざされた法堂の戸を見つめて呟いた。暫くして、中に入っていた与左衛門が戸を開けて出て来た。本堂の前で待機している多都馬と隼人に合図を送る。
「隼人、行くぞ。」
多都馬と隼人は、瑤泉院がいる法堂に向かう。法堂の戸を開けると、小笠原長重や土屋政直等はたすき掛けをして戦闘態勢を整えていた。
「小笠原様!」
長重は太刀を腰に差し襲撃に備えていた。
「我等両名、瑤泉院様の警護をしている黛多都馬と神月隼人にございます。」
多都馬と隼人は長重等の前に出て一礼した。
「そうか。では両名共。瑤泉院殿をお守りし、一早くこの寺院から脱出せよ。」
「・・・御老中は?」
「ワシの事なら気にいたすな、斬りかかってくるものは全て、我が刃の錆にしてくれる!」
「いえ、小笠原様。ここは一先ず、御控え下さりませ。」
「なんだと⁉」
長重は多都馬を睨みつけた。
「敵がこの寺院を選んだのは、四方からの力攻めで我等を圧倒するため・・・。そして、疲弊したところ見計らい止めを刺しに参ります。」
近くにいた同じく老中の阿部正武が、長重に近づき説得する。
「長重殿、ここは逃げの一手で御座いますぞ。その者の申す通り、この人数で力攻めで来られたら、我等ひとたまりもない。」
正武の必死の訴えに、長重は渋々従った。
「では、御老中三家の御家中の方々に申し上げます!」
多都馬は、よく聞こえるように大声で怒鳴った。
「御老中ならびに瑤泉院様の御命を狙いに来る賊徒たちが、これから間もなくこの寺院に現れます!この賊徒の相手は、ここにいる神月隼人ならびに某が承ります。方々は攻めに転じず、ひたすら御老中をお守りくださりませ。」
多都馬が法堂内にいる全ての者に伝えた。その時、これを見計らったように外で銃声が二発聞こえた。
十一
隼人は外の様子を確認するため、法堂の戸を開けた。銃声は萩原兵助が放ったものだった。外に控えていた各三家の家臣たちは、山門を通り抜け、塀を乗り越えてくる八咫烏や始末屋一味を迎え討っていた。そして同時に、法堂の天井を突き破って刺客たちが一斉に現れる。多都馬と隼人は現れた刺客たちを、次々に斬り伏せていく。
「隼人!瑤泉院様をお守りしろ!」
「わかった!」
隼人は、多都馬の指示を受け瑤泉院の側へ駆け寄った。瑤泉院を囲むように正面には与左衛門が、右脇には戸田局が構えていた。刺客の一人が瑤泉院を狙う。戸田局は襲い掛かる刺客の前に立ち塞がり、その刃を懐剣で受け止める。隼人が戸田局と鍔迫り合いをしている刺客を一刀両断する。
「戸田様、お怪我は?」
「大丈夫です!」
大きく肩で息をしながら戸田局は答えた。
「隼人殿。御後室様は、私がお守りいたします。こちらは気にせず、賊徒共をお討ち取り下さりませ!」
戸田局は、こう叫ぶと瑤泉院の前に立ち懐剣を構えた。
その頃、寺院の外で中院通躬が毛利家の忍軍/空目と座頭衆、伊達家の黒脛巾組、始末屋である賀茂屋/一右衛門を従え戦況を見守っていた。
「ほう〜っ、近頃の武士もなかなかやるではないか。」
特に小笠原家の家臣たちには、八咫烏等を法堂に近づけないよう奮戦していた。日頃から武芸を奨励している小笠原家の家臣たちは、それぞれが剣の遣い手揃いであった。小笠原家の家臣に斬り掛かる八咫烏たちは、次々に斬られ斃れていった。一右衛門の目に力攻めで優勢だった八咫烏が、次第に数を減らし追い詰められていくのが見えた。
「通躬様!」
一右衛門は、身を乗り出す。
「待て・・・。戦いというものは、まずは歩からだ。瑤泉院を討ちたければ、今少し情勢を見極めてからだ。」
通躬は一右衛門の耳に囁くように呟いた。不敵な笑みを浮かべながら、同じく戦況を見ている伊達家/世良修理介と毛利家/世鬼玄番に声を掛けた。通躬の声に伊達家の世良修理介と毛利家の世鬼玄番が、通躬の御前に膝をついた。
「さて、毛利家、伊達家の方々・・・出番で御座いますぞ。存分に御働き召されい!」
通躬の命を受けた世良修理介と世鬼玄番は、配下が待つ持ち場へ戻って行った。
毛利の持ち場に戻ると座頭衆の覚禅が玄番の帰りを待っていた。
「お待ちしておりました。」
「準備はよいな。これにて長年に渡り我等を苦しめた二階堂平法の残滓を打ち切る時が来たのだ。かかれーーっ!」
玄番の掛け声とともに、空目と座頭衆が寺院の四方から攻めかかった。
黒脛巾組頭領の世良修理介は、号令を受けても配下たちに命を下していなかった。
「修理介。さぁ、命が下ったぞ。どうする?」
「晟海、知れたこと・・・。御老中と瑤泉院様をお守りするのよ。」
修理介は、振り返って黒脛巾組面々の顔つきを見渡した。その中には、南組組頭/阿部舎人もいた。全員、修理介に命を預けたと言わんばかり信義に満ちた目をしていた。
「よ~し、あの自惚れ野郎の公家に一泡吹かせてやろうではないか!続け~っ!」
修理介が先頭に立って、毛利家の忍軍/空目と座頭衆の背後に襲い掛かった。
十二
瑤泉院の黒駕籠の周りで、戦っていた萩原兵助と儀右衛門兄弟は新手の刺客に手を焼いていた。押し寄せる波のように次々に討ちかかってくる刺客に体力も限界に達していた。そして萩原兵助に一瞬の隙が生まれる。すかさず刺客が兵助を襲う。
「兄上ーっ!」
弟/儀右衛門は、襲われる兵助に向かって叫んだ。” これまでか”と観念した兵助だったが、何者かがその窮地を救った。窮地を救ってくれた者に兵助は礼を言った。
「忝い・・・。」
「ここまで、よくぞ守り抜いた。後は、我等にお任せあれ。」
兵助を救ったのは、裏徒組/出雲鳳四郎だった。
「よいか、二人一組で怪我を負っている者の側につけ。攻めに転ずるな、防御のみに徹せよ。」
鳳四郎の指示に裏徒組二十数名が動いた。毛利忍軍の先鋒を務める座頭衆は、裏徒組の出現に浮足立つ。覚禅は新手の出現を、空目の頭領/世鬼玄番に伝える。
「玄番様・・・新手が現れました!」
「何を慌てている、後詰には伊達家の黒脛巾組が・・・。」
玄番が後ろを振り返ると、驚きの光景が広がっていた。
伊達家/黒脛巾組は、毛利の忍軍である空目を次々に斬り倒していた。伊達家の裏切りに覚禅と玄番は呆然としてしまう。
「裏切りだ・・・。伊達家の裏切りだぁーーー!」
覚禅が玄番の隣で大声で叫ぶ。
その玄番と覚禅に、背後から鳳四郎が斬りつける。玄番も覚禅も間一髪でそれを避ける。寺院の中は、老中三家と瑤泉院たち、そして上皇一派、毛利忍軍と黒脛巾組、そして加勢に入った裏徒組など混戦状態になっていた。
「通躬様・・・伊達が・・・。」
一右衛門は驚愕の事態に絶句していた。
「フッ・・・フフフ。戦とは、予想も出来ぬことが起きるものよの~」
そう言うと通躬は顔を頭巾で覆い、黄金色に輝く太刀を掴んだ。
「一右衛門、ワシと一緒に参れ。一気に裏手に回り、法堂の屋根から中に入る。」
「はっ!」
その声に一右衛門の側には、佐十郎と多三郎が両脇に従う。
「よいか、ワシは長重を狙う。其方は、迷わず瑤泉院を狙え。」
「はい。」
「いくぞ!」
その掛け声とともに、通躬と一右衛門たちは寺院の裏手へ突き進んで行った。
十三
寺院の中で戦っていた八咫烏は、裏徒組の加勢もあり全滅した。毛利家の忍軍/空目と座頭衆も、伊達家/黒脛巾組の裏切りにより壊滅状態に陥っていた。座頭衆の覚禅は、黒脛巾組南組組頭/阿部舎人に追い詰められ刀を喉元に突きつけられている。
「これまでだ。観念致せ・・・。」
「裏切り者め・・・。」
恨みを込めて覚禅が言う。
「裏切りだと?・・・何を言う、お主たちはそもそも、この国の民草を裏切っておる。」
ぐうの音も出なくなった覚禅は、隠し持っている苦無に手を伸ばした。南組腹心の熊ヶ根重助が、その動きを見逃さず喉元に当てた刃で覚禅を斬り捨てた。
空目の頭領である世鬼玄番は、黒脛巾組頭領/世良修理介と対峙していた。周囲には従う配下もなく、晟海を始めとする黒脛巾組に囲まれていた。
「最早、これまでと観念した。最後に黒脛巾組の頭領と思われる貴殿と一騎打ちを所望したいが・・・。」
「よかろう・・・お相手仕る。」
修理介が刀を構えた。
「忝い・・・。」
玄番もこれに応え、刀を逆手に持ち構えた。
黒脛巾組に囲まれる中、玄番は修理介と対峙した。微動だにしない二人に晟海を始め、周囲の者は息を呑んだ。先に動いたのは玄番だった。逆手に持った刀を下から、目にも止まらぬ速さで斬り上げた。正眼に構えていた修理介の刀を跳ね上げ、空いた胴に刀を突き刺そうとしていた。
しかし、修理介の刀は跳ね上がらなかった。修理介の刀は、斬り上げた玄番の刀を押さえ付けた。そして、そのまま流れるように修理介の刀は玄番の胴に突き刺さった。勝負は一瞬で決まった。
「お・・・お見事。」
そう最後に言い残し、玄番の体は崩れるように倒れた。
修理介は辺りを見渡した。通躬が連れて来た八咫烏は全滅し、始末屋の残党は敵わないと見るや、次々に寺院から抜け出し逃げて出して行った。
「追わずともよい。捨て置けぃ!」
配下の者たちに号令をかけた修理介は、老中や瑤泉院がいる法堂を見つめていた。
その頃、法堂の中では襲い掛かる八咫烏や始末屋を全て排除し、静寂を取り戻そうとしていた。
「手傷を負うてる者の手当をいたせ。」
長重は無傷な家臣たちを集め、傷を負い倒れている者の手当をさせた。
「御老中、まだ終わってはおりません。御油断無きよう。」
多都馬が長重に注進する。
漸く怪我を負った者の手当を出来るようになり、長重や各諸侯たちも警戒を緩めつつあった。だが、その静寂を打ち破るように通躬と一右衛門等が天井から法堂内へ舞い降りて来た。
「やっと真打登場か・・・。」
現れた通躬を見て、多都馬が呟いた。
十四
法堂内に突然現れた中院通躬は、黄金色に輝く刀を携えていた。通躬の後ろには、始末屋/賀茂屋一右衛門等が控えていた。通躬も一右衛門も頭巾を被り顔を隠している。
「一右衛門、行け・・・。」
通躬の命令と同時に一右衛門は、瑤泉院目指して駆け出した。瑤泉院の前に、落合与左衛門と戸田局が守るように立ちはだかる。
「待てよ。」
声のする方へ一右衛門等が振り返ると、そこには隼人が立っていた。
「瑤泉院様には指一本触れさせやしねーぞ。」
一右衛門を守るように佐十郎と多三郎が躍り出る。しかし、その佐十郎と多三郎にどこからか苦無が無数に飛んで来る。飛んで来る苦無は、一右衛門から二人を引き離すように狙ってきていた。その空いた空間に隼人が脱兎の如く駆け出して一右衛門に一太刀浴びせる。一右衛門は隼人の一太刀を、差し込まれながらも払い除けた。
「てめぇ等だな、始末屋ってーのは。」
隼人は瑤泉院を守るように一右衛門の前に立ち塞がった。
「御頭!」
佐十郎と多三郎が一右衛門に駆け寄ろうするが、小槍が付いた流星錘が二人の前に突き刺さる。
「お前たちの相手は俺たちだよ。」
裏徒組の京次は突き刺さった流星錘を、自分のところへ引き戻して言った。京次の後ろからは、苦無を持ったお駒と九尺槍を抱えた五郎兵衛が現れる。
長重に近づこうとする通躬を、小笠原家、阿部家、土屋家の家臣たちが立ち塞がり囲もうとしていた。
「よしなっ!無駄に命を落とすだけだ。こいつの相手は俺がする。」
多都馬の声で三家の家臣たちは、通躬から離れていく。
「その物言い、なんと無礼な奴め・・・。」
通躬は自身の刀を見せびらかすよう抜いた。唐鍔に施された金銀が神々しく輝いて見える。鞘を無造作に放って通躬は、長重を守る多都馬に近づいていく。通躬の刀の鞘には表面に漆が塗られ、贅沢にも煌びやかな螺鈿や蒔絵が施されていた。
「趣味の悪い刀だぜ・・・。」
多都馬は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「その趣味の悪い刀に、お前は斬られるのだ。」
通躬は頭巾の下で多都馬を嘲笑った。
「悪党っていうのは、どいつもこいつもお喋りが好きだな。御託はいいから、さっさと掛かってきな。」
そう言うと多都馬は、二階堂平法奥義/一文字を繰り出す構えに入った。
「来るか、二階堂平法。」
通躬も刀を力なく、だらりと下に構えた。朽ちた案山子のように立つ姿は、無防備そのもので隙だらけの構えだった。
― 一刀流/夢想剣・・・たっぷり味合わせてもらうぜ。 ―
十五
佐十郎と多三郎は、一右衛門に加勢出来ず焦っていた。京次と五郎兵衛の勢いに押され、いつの間にか法堂の外に出ていた。法堂内の一右衛門を見ると、まだ隼人と交戦せず対峙したままであった。
佐十郎は九尺槍を構える五郎兵衛を排除するため、忍ばせていた鞭を取り出し空気を切り裂きながら振り回した。唸りを上げて鞭が五郎兵衛の首を目掛けて飛んで来る。佐十郎は五郎兵衛が九尺槍に鞭を絡ませると予測していた。ところが予想とは違い、五郎兵衛は鞭を左腕に絡ませて動きを封じてきた。
― なにっ! ―
鞭が絡んでいる五郎兵衛の左腕は鬱血したところから血が滴り落ちている。佐十郎は鞭を引き寄せようと引っ張るが、五郎兵衛の体は微動だにしない。京次は流星錘を巧みに操り多三郎を佐十郎から引き離すことに成功した。窮地に立たされている佐十郎に加勢したくても、目の前の京次が悉く行く手を塞いでくるのであった。しかも、京次の側には苦無を手に多三郎を狙うお駒もいた。
― あの得物は、一度躱せば僅かな隙が生まれる。そこを突くしかない。―
京次が操る流星錘に多三郎は苦戦を強いられていた。多三郎の得物は二丁鎌である。流星錘の間合いでは、二丁鎌は勝負にならない。
― さぁ・・・、もう一度、そいつを投げてこい。―
多三郎が身を低く構え、流星錘の攻撃を待った。京次は流星錘を振り回し勢いをつけて、多三郎目掛け投げつける。投げつけられた流星錘を多三郎は紙一重で避ける。
― もらった!―
この瞬間を待っていた多三郎が一気に京次との間合いを詰めた。” 仕留めた “ と思った時、多三郎の背中に京次の放った流星錘の小槍が突き刺さった。流星錘を操る京次が得意とする技/鼬返しである。
「馬鹿な・・・躱したはず。」
そう言い残し、多三郎は死んだ。多三郎の死に様を見せつけられた佐十郎は、膠着状態になっている現状を脱せずにいた。
「そろそろ観念しろ。上皇一派の企みを隠さず申せば、命だけは助けてやるぞ。」
声がする方へ視線を送ると、裏徒組の頭領である出雲鳳四郎が立っていた。
「ふざけるな!これで勝った気でいるのか。」
佐十郎は、そう言うと力の限り鞭を引っ張った。体勢を崩した五郎兵衛は佐十郎に引き寄せられていく。五郎兵衛の九尺槍を掴んでその自由を奪い、取り回し不能する。勝機を得たと思った佐十郎は鞭の柄から小刀を取り出し、それを掴んで五郎兵衛に襲いかかった。ところが佐十郎が掴んでいた九尺槍が突然は二つに分離する。分離した小槍は二本の槍となって、五郎兵衛はその槍を佐十郎の胸に突き刺した。
「ば・・・馬鹿な。そんなカラクリが・・・。」
佐十郎は目を見開いたまま、崩れるように倒れた。
「カラクリは、お前等始末屋の常套手段だろ。」
五郎兵衛の左腕の傷を確認しに鳳四郎が行った。
「五郎兵衛、大丈夫か?」
「傷は大したことありませんが。さすが・・・西の始末屋、手強かったですよ。」
鳳四郎は戦っている多都馬と隼人を心配して、場となっている法堂を見つめた。
「大丈夫でしょうか・・・あの二人。」
五郎兵衛が不安げに呟いた。
「大丈夫だと思いたいが・・・万が一の場合もある加勢に行くぞ。」
鳳四郎は、五郎兵衛、京次、お駒を連れて法堂に向かった。
十六
法堂の中では、二組の対決を固唾をのんで見守っていた。鳳四郎たちが駆け付けたが、互いに向き合ったまま微動だにしていなかった。
陽が傾き始め、辺りは薄暗くなって来た。鳳四郎たちが駆け付けて来たのを、一右衛門は視界の外に捉えた。
― 二人共、殺られたか。 ―
隼人は一右衛門の僅かな動揺に気付いて言った。
「始末屋、余計な事は考えるなよ。」
この緊迫した状況の中で、余裕綽々な隼人に一右衛門は苦笑いをした。
「これはお気遣い忝い。そろそろ睨み合いも飽きたが、かかって来ぬのなら、こちらから参る。」
一右衛門の心は、侍に戻っていた。
「そうこなくちゃな。」
長い睨み合いの末、隼人と一右衛門は剣を合わせた。
一方・・・。
「向こうは、始まったようだな。」
多都馬を見つめながら、通躬が呟いた。
「慌てるなよ。それとも、何処ぞに女でも待たせてあるのかい・・・。」
多都馬が不敵に笑う。
「その人を食ったような態度・・・。貴様、人からの評判は良くはあるまい。」
「まぁな。それは、てめぇと同じさ。」
この時、撃剣の衝撃で法堂の戸板が吹き飛ばされ隼人と一右衛門が外に飛ばされる。多都馬は、それには目もくれず通躬の動きに集中している。
「仲間を助けなくてもよいのか?」
「心配いらねーよ。隼人は簡単に殺られるような奴じゃねーさ。」
多都馬の返す言葉に、通躬は僅かに苛立っていた。
互いを吹き飛ばすほどに激しくぶつかり合った二人は、立ち上がって再び剣を構えた。一右衛門の激しい撃剣が襲いかかるが、隼人はこれを全て払い除ける。
「我太刀を打ちつける折は矢の如く、引く折は用心して注意深くすべし・・・か。」
隼人が薄笑いを浮かべながら陰流極意の一説を呟いた。
― こ・・・此奴。 ―
一右衛門は、人生二度目となる本気の立ち会いを覚悟する。
「始末屋。出し惜しみしねーで、さっさと奥の手を出してこい。」
挑発する隼人に対し、一右衛門は動揺もなく抜刀していた刀を鞘に納めた。
「居合か・・・。」
隼人は一右衛門の動きに全神経を注いだ。一右衛門の居合に違和感を抱いた隼人は、構えを一旦正眼に構えなおした。
― まさか! ―
隼人が閃いた時、一右衛門の居合が発動した。一右衛門が隼人の胴を払おうと横一線に刀を抜いた。しかし、一右衛門は左手で脇差しを逆手でつかみ、一呼吸遅れてて抜いた。脇差は最初に抜いた刀に軌道を隠され隼人目掛けて飛んで行った。隼人はそれを太刀で受け止めず、僅かに抜いた自身の脇差で弾き飛ばした。
- 躱したか!だが、まだ間合いの外だ。-
一右衛門が右手の太刀を袈裟懸けに斬ろうとして持ち替えた。ところが、間合いの外だと推測した隼人の太刀が、一右衛門の左頸動脈を捉えていた。
「馬鹿な・・・間合いの外だったはずだ。」
吹き出す血を抑えながら、一右衛門は片膝を付いた。
「八寸の延金・・・。」
傍らで対決を見ていた鳳四郎が呟いた。
「御頭、何ですかその・・・八寸のなんとかってーのは。」
京次が驚いた顔で鳳四郎に訊ねた。
「無住心剣流の奥義と聞いている・・・俺もこの目で見たのは始めてだ。」
鳳四郎の目に一右衛門がゆっくり倒れていくのが見えた。隼人は倒れている一右衛門に近づいて様子を窺った。
「敵ながら、いい勝負だったぜ。」
「何の技か・・・知らぬが・・・お見事でござる。」
「止めがいるかい・・・楽になるぜ。」
「いや・・・け、結構。苦しみながら死ぬるは我等始末屋の運命。」
「そうかい・・・じゃあ、行くぜ。」
一右衛門は、隼人に力なく頷いた。
隼人は立ち上がると、対峙している多都馬と通躬のいる法堂へ歩き出した。激痛とともに一右衛門の視界は、徐々に狭くなっていく。完全に視界が閉ざされる寸前、一瞬だけ亡き娘/お初の笑顔が映し出されていた。
十七
法堂の中で対峙する二人は、一向に動き出そうとしなかった。二人を囲む周囲の人間も、流れる額の汗をぬぐうのも忘れ見入ってしまっていた。隼人は見守る与左衛門に駆け寄って状況を聞いている。
「御用人様、どうなっているんですか。」
「見ての通りだ・・・。」
多都馬は正眼に構え、通躬は構えもなく刀をだらりと下に下げている。会話はしているが、体は固まってしまったように動かない。隼人の声が聞こえた多都馬が通躬に話しかけている。
「あんた一人だけになったな・・・。」
「それがどうした・・・。」
「逃げられねーってことさ。」
多都馬の言葉に、通躬は突然笑い出した。
「何が可笑しい・・・。」
「いや・・・これは失礼。手負いも含め、貴様の仲間は三十人程度・・・。その程度で追い詰めたと思っているのか。」
「逃げ切れると思うならかかって来いよ。睨めっこは、もう飽きたぜ。」
「そうだな・・・。では、貴様から血祭に上げるとしよう。」
通躬はそう呟きながら、多都馬の方へゆっくりと歩き出した。同時に多都馬も、通躬に向かって歩き出した。
多都馬は途中から歩きから、足の運びを早め通躬との間合いを縮めた。そして、二階堂平法/奥義一文字を放った。通躬へ放った一文字は、空気の摩擦で刀身が眩しく輝いた。通躬は、それを刀で受け止めるが勢いで体ごと弾き飛ばされる。通躬の体勢に隙が出来、多都馬が一歩踏み出す。
「踏み込んでは、いかん!」
隼人の側に駆け付けた鳳四郎が、二人の対決を見て思わず叫んだ。
一文字の衝撃をそのままに、通躬は体を回転させ多都馬へ袈裟懸けに斬りつける。多都馬の視界の左上から、通躬の刀が振り下ろされる。それを多都馬は、体を捻って辛うじて躱した。
「ほう・・・やはり、ただ者ではないのぉ。」
多都馬は、直ぐに体勢を整え臨戦態勢に入った。しかし、多都馬の首筋には一直線に斬られた傷がつき、そこから血が滴り落ちていた。
「夢想剣の一撃を躱したのは、貴様が始めてだ。」
多都馬は脇差しを抜き、八文字の構えをする。
「夢想剣とは、あらゆる剣術における究極の返し技だ。」
見つめる鳳四郎が隼人の隣で呟いた。
「返し技だと?」
「夢想剣に死角はない。」
絶望感を漂わせて鳳四郎が言った。
― 頼むぜ、多都馬さん。 ―
隼人は対峙している多都馬の背中に思いを送った。
「なるほど・・・夢想剣、確かに味あわせてもらった。」
多都馬が不敵に笑う。
「その笑い・・・余裕か?それとも、諦めか?」
「確かめに来いよ。」
「左様か・・・。」
通躬が多都馬との間合いを詰めに来る。それを見て鳳四郎が叫んだ。
「多都馬殿!奴には仏捨刀がある気を付けられよ!」
「仏捨刀?」
鳳四郎の横にいた隼人が聞いた。
「夢想剣が受け技なら、仏捨刀は攻撃の技だ。」
八の字に構える多都馬に、通躬の剣が上段から振り下ろされる。多都馬が唐竹に振り下ろされた刀を脇差で受け止めようと頭上に構えた。
― 馬鹿め、この正恒の名刀が真っ二つにしてくれるわ! ―
耳を劈く金属音が法堂内に響き渡る。多都馬は間髪を入れず、右手に握った刀を斬り上げた。その斬り上げた刀を通躬は宙返りをして避けた。通躬の顎に一筋の傷がつき、そこから血が流れる。多都馬の右首筋には夢想剣による傷が、もうひとつ出来ていた。
「あの青病単野郎・・・多都馬さんの刀をへし折るつもりだったようだが、そうはいくかよ・・・。」
隼人が呟く。
「多都馬殿の刀・・・あれは。」
唖然としている鳳四郎を横目に、隼人が続いて言った。
「どこで手に入れたか知らねーが、あれは童子切安綱だ。折れるものか。」
「何!童子切だと⁉・・・。」
童子切安綱は天下五剣のひとつであった。過去に罪人六体の遺体全てを積み重ね切断し、刃が土台まで達したにもかかわらず刃こぼれひとつなかったという剛刀である。
初めて自分と同格の相手に出くわし、通躬は明らかに動揺していた。
「・・・やるじゃねーか。」
二階堂平法/奥義八文字/立風を躱され、多都馬は悔し紛れに言い放った。
― 此奴、想像以上にやる奴だ。―
このままでは逃げ果せぬと踏んだ通躬は、法堂屋根裏に忍ばせていた八咫烏に合図を送る。屋根裏に忍んでいた八咫烏の一人が、老中/小笠原長重に鉄砲で狙いをつける。長重の隣にいた阿部正武が、たまたま天井を見上げたとき銃口が長重を狙っているのを見つける。
「長重殿!」
正武は長重の前に立ちはだかり、盾となって庇う。正武の胸に銃弾が撃ち込まれ、もんどりうって倒れる。
「阿部殿!」
長重は倒れた正武を抱きかかえ、必死に名前を叫んだ。これを見た阿部家の家臣たちは、倒れた主君に倣って長重の盾となって八咫烏の銃弾を防いだ。これを見た小笠原家の家臣たちが、一斉に通躬に斬り掛かっていく。
「待て!早まるなっ!」
多都馬の制止も聞かず、次々に斬り掛かっていく。通躬は混乱により出来た退路から、討ちかかってくる各三家の家臣たちを斬りながら逃げて行く。
「黛!・・・勝負はお預けだ。また、いずれどこかで相見えようぞ。」
多都馬に叫びながら、通躬は法堂から姿を消した。
長重に抱えられ息も絶え絶えだったが、正武は満足気な顔をしていた。
「阿部殿・・・何故、このような無茶な真似を・・・。」
長重の目から涙が滝のようにこぼれ落ちていた。
「長重殿・・・貴殿は、これから公儀を引っ張っていく御仁。このようなところで、死なせるわけにはいかんと思うてな。」
「阿部殿・・・。」
正武は最期に長重に優しく微笑み、静かに息を引き取った。阿部家の家臣たちの泣き叫ぶ声が、法堂内に響き渡る。土屋家、小笠原家、三次浅野家も同様に悲しみに暮れ慟哭していた。
多都馬は通躬が去って行った先を見つめ立ち尽くしていた。多都馬の背中は真綿が水を吸い込むように、家臣たちの悲しみを受け止めていた。隼人と鳳四郎が多都馬のところへ駆け寄る。
「多都馬さん、仇は必ず討とうぜ。」
小刻みに震える多都馬の肩に、隼人は手を置いて言った。
老中/阿部正武が犠牲になったこの事件は、翌日病死として公儀に届けられた。
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