第十二章 影法師

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第十二章 影法師

             一  江戸府内の被害は小田原や房総に比べれば軽微だった。全壊家屋も江戸府内では二十二軒だけだった。被害が酷かった相模の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害が出た。小田原領内の倒壊家屋は約ハ千戸、約二千三百名の尊い命が奪われた。各地の宿場でも家屋が倒壊し川崎宿から小田原宿まで被害は広かっていた。この小田原藩に対し幕府は金一万五千両を復旧のための資金として貸付け、利息無し十ヶ月賦で返済する決まりとした。  多都馬たちの調達屋は大きな被害はなく、大名や大店に貸す貴重な品々も無事だった。地震が発生した時間が深夜だった事も被害が少ない要因の一つだった。  しかし震災の痛手が癒えぬ七日後、小石川の水戸藩上屋敷が火元となり火事が広がった。火の手は東に進み湯島聖堂や神田明神を焼きました。更に本郷に広がり加賀藩前田家上屋敷から駒込近辺までを延焼してしまいます。風向きが途中で北西に変わり、勢いを増した火は不忍池のほとりにあった寺院を燃やした後、谷中から上野の寛永寺の一部を燃やしてしまう。  火の勢いは衰えず一帯を火の海にした。亥の刻ごろから風もいっそう強くなり浅草橋が焼失、両国橋も焼け落ちた。火災はさらに隅田川を越えて本所・深川に広がり、回向院・霊厳寺などの寺社を灰にした。この水戸藩上屋敷の火が鎮火したのは翌十二月一日の早朝だった。  小石川の水戸藩上屋敷の火事から数日後、多都馬は隼人を連れ広島藩上屋敷に来ていた。地震の影響で藩邸内も各所に瓦礫が散乱していた。藩邸内は瓦礫の処理に藩士たちが右往左往している。  出迎えた江戸家老/上田主水の後に付いて進むと、奥座敷に綱長と吉長が多都馬を待っていた。また一段下がったところに広島藩国許の剣術指南役/間宮五郎兵衛久一(まみやごろべえひさかず)が控えていた。多都馬と隼人は、綱長と吉長の御前に平伏して挨拶を済ませる。 「多都馬、とにかく無事で何よりじゃ。」  地震と火事の被害で被害を受けた話は綱長にも入っていた。 「須乃と数馬に怪我はないか?」  吉長は二人の安否を身を乗り出して聞いている。 「二人共、怪我もなく無事でございます。」 「多都馬殿。此度の水戸様御屋敷の出火にて小石川から上野、その先の深川まで被害は拡大しておりました。」  外聞衆から報告を受けていた主水は、被害状況を多都馬に伝えた。 「日本橋も上野に隣接している地域は、延焼被害を受けておりますが・・・、幸いな事に我等地域一帯の延焼被害は最小限で済みました。町火消しを始め、皆一丸となって火事を防ぎました。」 「日本橋は流通の源じゃ、よくぞ・・・よくぞ守り抜いた。」  結束する人々の力に綱長は感激していた。 「しかし・・・。」  場の空気を一変させる声がする。 「この混乱に乗じ敵も動かなかった・・・いや、動けなかったのか。とにかく、まずは安心でござる。」  間宮五郎兵衛久一(まみやごろべえひさかず)が言った。 「間宮殿。」 「黛殿、お久しゅうごさる。」  挨拶をしながらも久一の目つきの鋭さは変わらない。 「間宮殿も、国許より遠路はるばる御苦労でござる。」 「五郎兵衛には、吉長の警護を申し付けておる。それで良いのだな。」  綱長が多都馬に確認する。 「はい。間宮殿が若殿のお側におれば敵も迂闊には手を出せませぬ。」  五郎兵衛は多都馬に軽く会釈をした。 「多都馬。後ろに控えておるのが神月隼人か。」  多都馬が隼人に答えるように視線を送る。 「はっ。南町奉行所同心、神月隼人と申します。」 「町方同心のそちには関わり合いのない事ではあるが、広島藩士とその家族、領民のため力を貸してもらいたい。」  隼人は訴える吉長の目を見た。沈黙している隼人を心配して多都馬は振り返る。  「どうした隼人。」  隼人は沈黙したまま、吉長を見つめている。 「多都馬。急かすでない。」 「は?」 「隼人は、わしが本心で言うておるのかを確かめておるのだ。」  見抜かれていたが隼人だが、少しも臆する事なくゆっくりと頭を下げた。 「若殿様。某の無住心剣流が御役に立てるのであれば何なりと・・・お申し付け下さりませ。」  綱長と吉長に深々と頭を下げる隼人を見て、多都馬は胸を撫でた。 「神月殿も多都馬殿に負けず劣らず、なかなかに豪胆でござるな。」  主水は隼人の肝っ玉の強さに感心していた。 「主水殿。こいつのは、ただの無礼。一緒にしてもらっては困る。」 「それは、こちらも同様だ。第一、俺は殿様を剣術で打ちのめすような事はせぬ。」 「隼人!お前、それ誰から聞いた!」  広島藩主と嫡男を目の前にしながら、言い争う二人にその場の空気が一瞬にして和んだ。 「これこれ、二人共その辺で矛を収めよ。」  綱長が笑いを堪えて言った。和やかになっている場を変えたのは、五郎兵衛の一言だった。 「それにしても・・・尾張の他に水戸までも関わっているとなると些か厄介でござりますな。」  真榮館での出来事は、既に綱長たちの耳にも入っていた。 「水戸藩が企ての黒幕と申すか。」  綱長が言った。 「いえ、そうは思いませぬ。尾張藩が手を引いた後も、真榮館は閉鎖しておりませぬ。手を引くどころか未だ隆盛を極める勢い。」 「左様か・・・。」  一筋縄でいかぬ敵に綱長は大きな溜息をついた。 「水戸藩と同等、若しくはもっと大きな後ろ盾があるやも知れませぬ。」  多都馬の言葉に一同顔を見合わせた。 「次の手はどう打ってくるかの・・・。」  綱長が重い口調で言う。 「今、我等は守りの一手です。焦って迂闊に行動を起こすべきではありません。先日は、その焦りで敵にこちらの素性が露見してしまいました。」  多都馬は真榮館を偵察した事を言っていた。 「それは違う。多都馬殿のお陰で真榮館が怪しむべき場所と言う事がわかったのだ。」  主水は多都馬を庇って言った。 「水戸藩が藩を上げての事なのか、または一部不逞の輩だけなのか。」  考え込む吉長の眉間のしわが一層深くなった。 「我慢くらべ・・・ですな。」  主水が言った。再び沈黙が続く中、多都馬は頃合いを見計らい奥座敷を出て行った。  綱長たちへの一応の挨拶と、広島藩の近況を知る事が出来た多都馬と隼人は上屋敷を去った。まだ瓦礫が散乱している中を、多都馬と隼人は重々しい気持ちで日本橋へ戻っていった。              二    江戸の予震は現在も続き、人々の不安は消えていなかった。吉之丞と沙霧たちは中山道板橋宿を過ぎ、目指す日本橋まで後僅かの地点まで来た。街道は織人等に待ち伏せされる恐れがあるため、沙霧たちは街道の脇道を歩いていた。暫くすると、勾配のきつい坂道が沙霧たちを待ち構えていた。 「吉之丞様、少し休まれますか?」  高齢の吉之丞を気遣い沙霧が言った。 「お主たちは先を急ぐのであろう。年寄りに気遣いは無用だ。」  沙霧の従者である治右衛門が、吉之丞に一礼して先に歩き出そうとする。 「待て!」  吉之丞が二人に声をかけた。吉之丞の声に沙霧と治右衛門が動きを止める。吉之丞は振り返って刀に手を掛けた。吉之丞が見つめる先に、頭巾を被った集団がこちらに向かって走って来るのが見えた。 「吉之丞様!」  沙霧は自身の刀に手を掛け、腰を低く構える。 「沙霧殿。ここはわしに任せて先に行かれよ。」 「そのような事、出来るわけが・・・。」  沙霧が躊躇している間に、頭巾の集団は三人の前に立ちはだかった。十数人が一斉に車太刀を抜く。 「じじぃ!失せろ、目障りだっ!」 「言葉に気をつけよ。」  吉之丞は呟くと同時の目にも止まらぬ速さで抜刀し、まず前列にいた四人を斬った。四人が血しぶきを上げながら崩れるように倒れた。吉之丞が納刀する音だけが辺りに響く。 「居合い・・・。」  沙霧が小さな声で呟く。 「二階堂平法・一文字・・・。」  吉之丞は残っている敵を睨みつけながら言う。まさに一瞬の出来事に頭巾の男たちがたじろいでいる。吉之丞は間髪を入れず奥義・心の一方を四人の後列にいた五人に放つ。心の一方を受けた五人は身動き出来ず固まっている。呼吸が出来ないのか、喉を掻きむしりながら倒れる。苦しみもがいて息絶える仲間を見た三人は、じりじりと後退る。 「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・お主たち、三人だけになったな。」  吉之丞が笑みを浮かべながら近付いて行く。三人は意を決したように構え吉之丞に向かって歩いていく。 「そうか・・・。馬鹿者共が、命を無駄にしおって。」  三人は縦に隊列を組み吉之丞に突進して行く。 「吉之丞様ーっ!」  沙霧が思わず叫ぶ。縦に隊列を組めば後ろの二人に心の一方は効かないと考えたのだ。  二人目が一人目の背中を土台にして高く跳躍する。一人目と三人目は左右に別れ吉之丞に襲い掛かる。  吉之丞は居合いではなく二刀を抜き八の字に構える。三方同時の打ち込みに、沙霧は吉之丞から目を逸らす。 ― 吉之丞様・・・。 ―  目を逸らしながらも沙霧は祈った。  吉之丞は老齢には見えぬような跳躍をし、頭上から打ち込む刀を八の字に構えた左右の太刀で受け止め弾き返した。左右から襲い掛かった二名は、空を切った互いの刀で斬られ血を吹き出しながら倒れる。  吉之丞に弾き飛ばされ体勢を崩された二人目は、そのまま地面に叩き付けられる。体勢を立て直そうと立ち上がるが、着地した吉之丞に唐竹に斬られて絶命する。遺体を見下ろす吉之丞の目は虚しさに溢れていた。 「吉之丞様!」  沙霧は吉之丞に駆け寄った。 「吉之丞様、お怪我は?」 「大事ない。さて、先を急ぐかの。」 「はい!」  三人は甲府宰相綱豊の屋敷を目指し再び歩き出した。刻は昼八ツ半を過ぎようとしていた。              三    予震が続く江戸府内。北町奉行所同心/樋口弥八は、岡っ引きの茂助と深川辺りを夜回りしていた。水運の町深川には東西南北を走る水路である掘割、猪牙舟(ちょきぶね)や船宿がある。夜も更けた子の刻、人通りはなく地震と火事の影響を受け屋台の蕎麦屋も出ていなかった。付近は焼け跡特有の焦げ臭い匂いが漂っていた。当然のように水路の側を歩く道は、弥八と茂助しかいなかった。 「樋口様・・・、いつまで続くんすかね〜。」  茂助は閑散とした家々を見ながら呟いた。 「さぁな、世直し大明神様のなさる事だ。俺たちの預かり知らない事さ。」 「御上のなさった事に、何でアッシらが報いを受けなきゃならねーんでさ。」 「それも世直し大明神のなさる事。何を考えたってどうにもなるもんじゃねーよ・・・ん?」  弥八は暗闇の中、こちらに向かって歩いて来る人影を視野に捉えた。姿格好は浪人風だが、腰に見慣れない刀を差していた。茂助が提灯を掲げて浪人風の男を照らした。 「北町奉行所同心/樋口弥八だ。お主、こんな夜更けに何をしている。」  男は弥八の問い掛けを無視したまま立ち尽くしている。 「おい!聞こえねーのかっ。」  茂助が十手を突きつけて詰め寄った。  その茂助の体の前で月明かりに照らされ何かが光った。それと同時に茂助の体が血しぶきを上げて倒れた。 「茂助!」  それを見て弥八は刀を抜いた。男は不敵な笑みを浮かべながら、小太刀ともいうべき刀を構えている。  弥八は刀を八相に構え、男の出かたを待った。 「お主、少しは使えるようだな。」  男は弥八の構えを見て呟いた。 ― 何者だ・・・。 ―  弥八がそう考えた瞬間、男は踵を返し走り出す。 「待て!逃げるかっ。」  弥八は抜刀したまま男を追いかける。男は弥八を誘うように対岸を結ぶ橋を渡り始めた。弥八も橋を渡ろうと後を追った。後を追った男は、いきなり橋から消えていた。姿を消したように見せた男は、弥八の頭上に飛び上がっていた。  男は弥八の頭を目掛け刀を振り下ろした。弥八は刀を頭上にかざし間一髪で受け止める。暗闇の中で火花を散らして刀が弾き合う。 「本当にやるじゃないか、お主・・・。」  男は次の跳躍へ向けて姿勢を低く構えた。弥八は跳躍される前に仕掛けようと打って出る。頭上を取られぬよう先んじて上段から斬り下ろした。男は上に跳躍せず橋の欄干へ飛び移り、そこから跳躍し弥八の背後に飛び上がる。がら空きになった弥八の背中にそのまま刀を投げた。男の放った刀は弥八の背を貫く。弥八は橋の中央で崩れるように倒れた。 「奴等を炙り出す良い餌になってくれればいいがな。」  男は天を仰いで大きな溜息を漏らした。月明かりが僅かだが男の顔を映し出した。  男は巽甚八郎だった。              四  被害と呼べるほど地震の影響を受けなかった多都馬たちは、調達屋の商売を始めていた。心配していたの家も被害は無かった。震災の影響を受け調達屋も客足がぱったり無くなっていた。多都馬も朝から帳場机に頬杖ついて暇そうに外を眺めている。 「暇っすね・・・。」  弥次郎が多都馬の前に腰掛け、溜息をつきながら呟いた。 「あぁ。」  退屈そうな声で多都馬が返事をする。退屈そうにしながらも多都馬は真榮館での出来事を考えていた。 ― ただ者ではない。 ―  そこへ数馬が勉学の道具を抱えて二階から降りて来る。 「叔父上、行って参ります。」 「数馬。学問所は、大丈夫なのか。」  「そうですよ。確か・・・」 「学問は外でも出来ますので・・・。あ、お暇なら二人共、須乃殿と丹様の手伝いをして下さい。先ほどより女子二人が重たい布団を抱えて悪戦苦闘しておりました。」 「自分のものはやったのか?」 「当然です。」  そう言うと数馬は、二人を気にもせず出掛けて行った。 「・・・弥次郎、やるか。」 「へい、どうせ暇でございますから。」  多都馬と弥次郎は、須乃と丹のいる二階へ上がっていった。須乃と丹は重そうに布団を抱え、一階へと運ぼうとしていた。 「多都馬様!弥次郎さん!」  須乃は目を丸くして驚いている。 「須乃、丹殿。後は、俺たちでやるよ。」 「大丈夫です。これは女子の仕事ですから。」 「女子の仕事なものか。それに俺たちでやったほうが早く済む。なぁ。」 「須乃様。多都馬様とあっしがやりますから。」  多都馬と弥次郎が布団を受け取って一階の縁側へ運んでいく。二人の行動に面食らう須乃だが、丹は目を細め笑みを浮かべて見つめている。 「もうっ、多都馬様ったら!」  須乃は納得いかぬ様子で頬を膨らませている。 「須乃様。」 「はい。」 「あれでよろしいのです。昔、私も旦那様に同じ事をして頂きました。」 「えっ、十内様が?」 「えぇ、私の腕が折れたら如何する・・・とか何とか。」  丹は昔を思い出し笑っている。須乃もつられて笑い出す。そうしているうちに多都馬と弥次郎が、残りの布団を片付けに二階へ上がってきた。 「多都馬様、何だか楽しそうですね。」 「ん、あぁ。」  多都馬は弥次郎の話など気にもせず布団を抱えて下へ降りていった。 「くそ〜稽古不足が祟ったな。」  楽しげな須乃と丹を気にしながら、弥次郎は布団を抱えて降りていった。多都馬は天日干しをしている布団の上に寝そべっていた。弥次郎は空いているところに最後の布団を並べた。 「多都馬様〜・・・んなことをなさると、須乃様に叱られますよ〜。」 「弥次郎、お前もやれよ。」 「出来ませ・・・須乃様は、まだ降りて来ないですよね。」  弥次郎が自分もと多都馬の横に行こうとする。 「多都馬様!」  後ろで須乃が叫ぶ声がする。  弥次郎は須乃の声に驚いてあたふたしている。須乃は多都馬の手を引っ張り起こそうと必死になる。多都馬は薄目で須乃を観察し、わざと寝たふりをしている。戯れ合う二人に丹と弥次郎は、呆れ顔で見つめていた。  この和やかな情景を、一変させる声が店の表から聞こえてくる。 「黛様〜!黛様〜!、辻斬りですぜ。」              五    斬殺された弥八と茂助の遺体は、発見場所である深川の番所に運ばれた。多都馬が到着すると、隼人が筵を取って検分していた。 「わざわざ済まねーな。また、例の辻斬りだ。」 「真上からの斬り口か・・・。」 「いや、前と斬り口は違うが、上から下にかけての刺し傷は同じだ。」  隼人は遺体を起こして多都馬に見せる。 「刀か槍を投げ付けたような傷だな。」 「あぁ、飛び上がってな。」 「こっちは、抜き打ち・・・居合いだな。」  一通り検分を済ませ、弥八と茂助の遺体に筵を被せた。多都馬と隼人、新八等は遺体に手を合わせて冥福を祈った。  二人は外に出て側にある床几に腰掛けた。通りは昨夜の惨劇など無かったかのように活気づいている。時折、棒手振が右から左、左から右へと魚を運んでいる。 「こいつは稲川殿や多芸殿を斬った奴とは違うな。」 「あんたも、そう思ったかい。」 「あぁ・・・。確か死んだ同心の刀には、かなりの刃こぼれがあったな。」 「かなりの力で打ち込まれような刃こぼれがな。」 「恐らく上段からの打ち込みを受けたのだろう。横薙ぎに払ったのであれば、刃先を滑った跡がある。」  隼人が隣りで頷いている。 「間違いなく言えるのは、同じ流派の剣と言う事だ。」  たどり着いた答えも、未だ下手人への手掛かりの少なさに溜息をつくばかりであった。 「俺は今夜から夜回りに出る。」 「今月の月番は北町じゃねーのか?」 「関係ねーよ。見つけたら、たたっ斬ってやる。」 「・・・待てよ。殺るのは洗いざらい吐かせてからだぜ。」 「そんな余裕はねぇーと思うぜ。」 「・・・そうかもな。」  多都馬と隼人は、互いに見つめ合い大きく頷いた。隼人は視線の先に同心に連れられ血相を変えて走って来る武家の女と町娘を見ていた。二人は多都馬と隼人のいる自身番を目指しているようだった。  二人の女が自身番に入るや否、泣き叫ぶ声が周囲に響き渡る。隼人が拳を握りしめ怒りを堪えているのが多都馬にも伝わってきた。隼人は立ち上がり自身番の戸を開けて、悲しみに暮れる女二人に伝えた。女たちが泣き腫らした目で隼人を見つめる。 「仇は・・・俺が必ず取ってやる。」              六  隼人とは途中で別れ、多都馬は無外流の祖である辻月丹の道場を訪れた。小石川の道場は相変わらず多くの門弟で活気に溢れていた。多都馬は二十歳前に無外流を学び、めきめきと腕を上げ免許皆伝を得ていた。二階堂平法を学んだ後も、月丹の道場には時を見て顔を出していた。  月丹は奥座敷の縁側で特に風情もない庭を見つめていた。数百の弟子を持つ月丹だが、金に拘りはなく粗末な身なりであった。 「先生。」 「おぅ、多都馬か。」 「ご無沙汰しております。」 「よく来たな・・・ま、中に入れ。」  月丹は立ち上がり座敷の中の火鉢の前に座った。多都馬は遠慮がちに少し離れたところに座る。 「多都馬。遠慮をするな、もっとこっちに来い。」  多都馬は月丹が手を温めている火鉢の横に座った。 「先生、先ほどは何をされておられたのですか?」 「うむ・・・あの枝に留まっておる(つぐみ)がどうやってワシの殺気を感じ取れるのか考えておった。」 「して・・・それはお分かりになったのですか?」 「それがわかったら修行などいらぬだろうよ。」  そこへ月丹の弟子が多都馬に茶を運んで来る。 「数馬のほうは腕を上げたか?」 「いえ、あいつは剣よりもこっちのほうが・・・。」  多都馬が頭を指差す。 「須乃殿も息災か?」 「はい。」  月丹は大きな目を更に広げて多都馬を見つめる。月丹の圧力に多都馬はたじろいでいる。 「な・・・何でしょうか。」 「お前、いつ祝言を挙げるのだ?」  この話しは、今どこへ行っても必ず言われている。 「先生、勘弁して頂けないでしょうか。・・・どこへ行ってもその話をされるので・・・。」 「愚か者が・・・それは己に甲斐性がないからであろうが。」  剣の師でもあり、人としての在り方を教授してもらっている月丹には何も言い返す事が出来ない。 「あの娘は、大した女子(おなご)だ。剣術、算術、どれをとっても申し分ない。しかも商売の才もある。お前には勿体ないほどだ。」 「はっ、申し訳ごさまりませぬ。」  多都馬が月丹に頭を下げる。 「数馬に遠慮しているなら無用だぞ。あの子は、お前の何倍もしっかりしている。案ずる必要はない。」 「先生。数馬が私と須乃の事を?」 「随分前より気に掛けておる。」  いつも嫌味や小言を言ってばかりいる数馬の成長を感じた多都馬だった。 「須乃は我が生涯を賭けて幸せにいたしまする。」 「嬉しい知らせを待っておる。」  剣術も講釈も月丹には叶わない。 「多都馬。ワシに何か用があったのではないか?」  須乃との事で危うく尋ねそびれるところだった。 「はい。今、江戸を賑わせている辻斬りの話ですが・・・先生にお聞きいたしたい事があるのです。」 「どんな事だ。」 「はい。京八流と呼ばれる剣術についてです。」 「下手人は京八流を使うのか?」 「断定は出来ませぬが・・・恐らく。」 「お前、町方に手を貸しておるのか。」 「先生も耳にされておられるはず、下手人は赤穂浅野縁の者を狙うております。」   「そうだったな。確か・・・堀部安兵衛と懇意にしておったな。」  亡き安兵衛を思い出し、二人の間にしみじみとした空気が流れる。 「しかし、京八流は天子様を守護する剣。しかも当主の麻角大膳は人としてもなかなかの人物。」 「会った事があるのですか?」 「立ち会うた事もある。」 「先生が勝ったのですか。」  月丹は苦笑いをして首を横に振った。 「京八流は、車太刀という通常より少し短い刀を使う。その時々の地形を利用し跳躍、絶対の死角である真上からの攻撃を主とする剣術だ。」 「車太刀・・・。」 「源平合戦では源義経が・・・そして、あの武田信玄の軍師である山本勘助が会得したと言われ・・・。」   言い掛けていた事をやめ、月丹は何か思いついたように険しい顔になり黙り込んでしまう。  庭では(つぐみ)がけたたましく鳴いている。 「先生。」  黙っている月丹に多都馬が声を掛ける。 「多都馬。畏れ多い事だが、天子様が裏で糸を引いておるやも知れぬぞ。」 「まさか、そんな!」   月丹の言葉に多都馬は呆然としてしまい、衝撃のあまり言葉を失ってしまう。 「京八流は天子様の守護隊だ。天子様の命がなければ麻角大膳という男は動かぬ。大膳という男の後を付いていく門弟の数も相当数いるはず。」  言った後の月丹は、以降言葉が続かず押し黙ってしまう。  多都馬には企ての全容が、朧気ながら浮かんで来ていた。              七  震災の復興に向けて江戸の大工たちは、休みなく働いていた。大工たちの元締めである政吉は、被害に遭った現場各所を回っていた。毎日、陽が沈むまで職人たちと被災者のために身体に鞭打って頑張っていた。心身共に疲れ切っていた政吉は歩くのもやっとだった。そして、とうとう道端に座り込んでしまう。酉の刻を知らせる鐘は、とうに鳴り止み通りの店は皆閉まっていた。お艶は傍らで心配そうに政吉の背中を擦っている。 「お父っつぁん大丈夫?」 「大丈夫(でーじょぶ)だよ。でもよ、ちーとばかし休ませてくれねーか。」  政吉はお艶に笑ってみせた。 「政吉。俺が担いでいくが、我慢出来るかい?」  お艶と政吉が驚いて声のする方へ振り返った。そこにいたのは隼人と岡っ引きの新八だった。 「神月様!」 「お艶さん、こいつを持っていてくれねーか。」  隼人は刀をお艶に預け、政吉を背負おうとしゃがみ込む。 「か・・・神月様!そ・・・そんな滅相もない。」 「何を言ってやがる。目方の重いお前(おめえ)さんをお艶さんに担がせるつもりかよ。」 「し・・・しかし、アッシなんかにそのような事、神月様のご身分にさわりましょう。」  政吉は頑なに隼人の申し出を断る。 「身分だと?病人を前にして、そんな事言ってられるかよ。黙って大人しくしてろ。」  隼人は新八に協力させ、強引に政吉を背負おった。 「さ、行くぜ!お艶さん、後をついて来な。」  隼人は政吉を背負って歩き出した。  お艶は父を背負おう隼人を後ろから漠然と眺めていた。しかし隼人のぶっきらぼうな優しさに、心が動いている自分にまだ気づいてはいなかった。              八    隅田川側の水戸藩下屋敷に藩主/綱條(つなえだ)をはじめ、家老の山野辺義清も避難のため移って来た。間に隅田川を挟んだことで、火の手は回らなかった。 「まさに世直し大明神じゃな・・・。」  綱條(つなえだ)が奥座敷の縁側に座り一言呟いた。 「しかも仕掛ける我等が痛手を被るとは、悪い事は出来ぬものよな。」  力なく笑いながら天を仰いだ。綱條(つなえだ)の心の中とは対照的に、空は抜けるように青かった。 「殿。・・・そのように後ろ向きな御心では、死んだ信成殿も草葉の陰で嘆いておられましょう。」  綱條(つなえだ)の側に控える義清が呟いた。 「そうであったな・・・許せ。」   予震の数も減り穏やかになりつつある江戸だが、復興への道程は厳しい現状だった。  冬の寒空の下ではあったが陽射しが降り注ぎ、その日は穏やかな気候だった。数日前までは、まさに地獄の惨状が続いていたのだ。 「来たか・・・。」  綱條(つなえだ)は廊下を歩いてくる音を聞き、その方向に目をやった。用人に先導さ織人と一右衛門が歩いてくる。互いに目配せをして綱條(れつなえだ)と義清は、奥座敷に上がった。織人と一右衛門は、綱條(つなえだ)の対面に座った。 「水戸様。度重なる災害の中、ご無事で何よりでございました。」  織人の空々しい物言いに義清は顔をしかめている。 「真榮館の被害は?」 「日本橋は深川などと違い、延焼は最小限に留まっておりまする。」  一右衛門は頭を下げながら綱條(つなえだ)に報告していた。 「此度の大火、火元は小石川の上屋敷でございますが・・・我等、不審に思うところがございました故、大火の原因を調べて参りました。」 「台所の火が飛び火したのではないのか。」 「それだけで、あのように燃え上がりましょうや。」  綱條(つなえだ)は、あることを思いつき戦慄した表情を浮かべた。 「一右衛門、もしや・・・。」 「お察しの通りでございます。」 「ワシを亡き者にしようと・・・。」 「一右衛門・・・確たる証拠はあるのか。」  凄味を利かせた声で義清が一右衛門に詰め寄る。一右衛門は廊下に控える小姓に合図を送る。小姓は一右衛門に小さく頷き、足早に奥座敷を後にした。何かを待つ間、重苦しい沈黙が続いた。耐えられなくなった義清は、一右衛門を追い立てるように言う。 「一右衛門。何が始まるのだ。」  義清がそう言うのと同時に、佐十郎と多三郎が猿ぐつわを噛まされた男を連れて来る。酷い拷問を受けたらしく、身体中傷だらけだった。 「この男。出火直後に小石川邸から出て参りました。そこを我が配下の者が取り押さえ、問い詰めたところ白状いたしました。」  猿ぐつわの男は、必死に首を振っている。 「この男の正体は・・・。」 「御先手組でございます。」  御先手組と言えば、若年寄配下の公儀の番方である。厳しく荒っぽい取締りは、江戸庶民を震え上がらせていた。 「連れて行け!」  一右衛門の命を受けた佐十郎と多三郎は、猿ぐつわの男を連れ綱條(つなえだ)と義清の前から消えた。 「おのれ長重〜。」  綱條(つなえだ)が老中/小笠原長重の名を、恨みを込めて口にした。 「水戸様、長重様というのは小笠原佐渡守(さどのかみ)長重様の事で?」  綱條(つなえだ)は小さく頷いた。 「御老中の御命、我等がお縮め致しましょう。」  一右衛門が呟く。  綱條(つなえだ)と義清は目を合わせ確認しあった。 「では、的お一つ追加でございますな。」  それだけ言うと一右衛門は織人を連れ、綱條(つなえだ)と義清の前から立ち去って行った。義清は閉められた障子戸を開け空を見上げた。 「殿。亡き光圀公の御志、必ずや果たしてみせましょう。」               九  水戸藩下屋敷を後にした織人と一右衛門は隅田川沿いを歩いていた。川向こうの深川などは、火元である小石川邸の出火により被害が大きかった。 「権威や権力に取り憑かれると、ああも人を狂わせるものなのでしょうか。引き出した者を御先手組と安々と信じてしまうのですから。」  隅田川の風に煽られながら、織人がしみじみと言った。 「その二つには、金という魔物が潜んでおりまする。」  魔物という言葉を噛みしめながら織人は、隣を歩く一右衛門でじっと見つめた。 ― その魔物は、お前だな。 ―  織人の心の声が聞こえる一右衛門だった。 「水戸様も山野辺とかいう家老も、自分が的の一つであることに気づいておらぬとはね・・・。」  一右衛門も薄笑いを浮かべている織人を見て思っていた。 ― 命を己の糧にしか思っておらぬ魔物よ。 ―  互いに心の内を覗き合い二人は歩みを止めた。 「どうしましたか?」 「いえ、別に・・・。」 「一右衛門さん。」 「はい。」  二人は再び歩き出した。 「あれ以来、現れませんね。二階堂平法の男。」 「あちらも慎重に事を進めているのでは?・・・我等にとっても一番厄介な手段でございます。」 「どのようにお考えですか?」 「織人様が申されました通り、二階堂平法の男を相手にしている時ではありません。彼奴は、その過程において必ず現れるでしょう。相手は、その時に・・・。」  織人が再び足を止めた。 「如何なさいました?」 「先に行っててください。」  一右衛門は、首を捻りながら真榮館へ向かって行った。一右衛門が去ったのを確認し、織人は突然何者かに向けて叫び出す。 「何か掴めましたか?」  織人が叫んでも何も返答はなかった。 「私の他に誰もいませんよ。いい加減出て来たらどうですか?」  地震が発生し津波の被害に遭った隅田川沿いの家々は、住民は避難をして空家になっていたのだ。川を背にし織人は左上を向いた。織人は屋根を見上げたまま動かない。織人の側に生えている柳の葉が、風に吹かれて揺れている。地震で傾き今にも落ちてきそうな店の看板が、風に揺られてカタカタと鳴っていた。  その時、風を切り裂いて流星錘(りゅうせいすい)が飛んで来る。織人は飛んで来る流星錘(りゅうせいすい)を避け、柳の木を踏み台にして高く跳躍する。その流星錘(りゅうせいすい)(おもり)の代りに小さな槍が付き、織人を外した槍先が地面に突き刺さった。上空で抜刀した織人は、そのまま屋根に飛び移った。飛び移った屋根には、流星錘(りゅうせいすい)を手にした京次がいた。 「二階堂平法の一味か?」 「何?」  京次は外した流星錘(りゅうせいすい)の鉄線を引っ張り手元に戻して臨戦態勢に入る。 「不思議な得物を使いますね。」  京次は鉄線を手繰り寄せ小槍を目線の位置に構える。 「今度は、こちらから参りますよ。」  そう言うと織人は京次との四間ほどあった間合いを一気に詰める。京次もまた、流星錘(りゅうせいすい)を織人目掛けて投げ付ける。詰めた間合いの短さも関係なく、流星錘(りゅうせいすい)の小槍を弾く。鉄線を引き戻す間もないとふんだ織人は、袈裟懸けに斬ろうと振りかぶる。 ― 死ね! ―  斬られる寸前の京次の口元が僅かに笑っていた。それを見逃さなかった織人は、攻撃を止め上空へ逃げた。すると京次の投げた小槍が戻ってきて背後から織人を襲う。間一髪のところで京次の攻撃を躱して着地する。 「やりますね。」  織人は車太刀を逆手に持ち、隠すように背中に回した。足場の不安定な屋根の上で、織人と京次は睨み合う。京次は流星錘を振り回しながら、攻撃の機会を覗う。その時、無数の飛苦無が織人に向かって放たれる。  織人は跳躍して無数の飛苦無を躱した。下の通りからが投げつけたのだ。織人はそのまま通りに着地してを斬りつけようと構える。するとの後ろから、町人に身をやつした数十人の裏徒組が現れる。皆一斉に懐に手を入れ、斬りかかろうと身を屈める。 「なるほど・・・あなたたちは二階堂平法の男とは無関係ですね。」  屋根から京次がを庇うように飛び降りて来る。織人は車太刀を鞘に納め、踵を返し去って行った。が他の裏徒組に相槌を打つと、合図とばかりに一斉に散って行った。 「。済まねえな、助かったぜ。」 「京次が勘付かれるなんて・・・。」 「お頭に伝えるぞ。」  二人は、去って行った織人の道を暫くの間、呆然と見つめていた。              十  元禄十六年も終わりを迎えようとする大晦日。多都馬と隼人は本郷辺りの見回りをしていた。この辺りの被害は酷く、延焼を免れた家屋は一つも無かった。京八流の遣い手と相対した時、足手まといになるため新八は連れていない。 「大晦日くらい須乃さんの側にいてやれよ。」  八つほど年長の多都馬に対しても、隼人の口調は変わらずぶっきらぼうで乱暴だ。 「須乃は、お前さんの事が心配なんだよ。」 「お守りのいる歳じゃねーよ。」  素直じゃないと多都馬は思わず笑ってしまった。焼け跡特有の焦げた匂いは、火事から数日経っても未だに消えていない。場所は焼け野原になってしまった本郷辺りだった。 「おい、なんだって本郷なんだ?」 「街中に噂をばら撒いたのさ。下手人は、同心や剣客風の侍を狙っていやがる。だから新八に、南町の遣い手が本郷を見回るって触れ回わらせたのさ。」 「お前って奴は・・・。」  突拍子もない隼人の考えに呆れる多都馬だった。 「それに今は焼け野原だ。俺たちの巻き添えを食う人間もいねーからな。」  焼け落ちて家屋が無い分遮蔽物がない町は、凍てつく風が身体を斬るように冷たく感じる。 「流石に、この寒さは堪えるぜ・・・。」  隼人は吹き荒ぶ風に身を縮みこませている。 「狙い通りになったな。」  多都馬が一点を見つめ呟いた。視線の先に通常の刀より短い刀を差した侍風の男が現れた。髪は総髪、痩せこけた身体は餓死者のようで気味の悪い風貌だった。男は多都馬と隼人を見ると立ち止まった。僅かに笑みを浮かべていて不気味さが漂っている。足を早めながら男は刀に手を掛け、多都馬と隼人に近寄って来る。そして、多都馬と隼人の間合いの数歩前で立ち止まった。男は巽甚八郎だった。 「てめぇだな・・・同心と岡っ引き、神田神保町の剣客を斬ったのは。」  隼人は一歩前に踏み出した。 「そうだが・・・。二人共、なかなかの腕前だったぜ。」  甚八郎は隼人が近寄ると、その分静かに下がっていく。 「罠にかけたつもりだろうがな。こちらもそんな事は百も承知だ、待ち構えるお主たちの期待に応えてやったのだ。」  勝ち誇ったように甚八郎は笑った。 「さぁ、お主たちのどちらが二階堂平法の男だ。」 「よく喋る野郎だぜ。」  隼人は嘲るように言った。 「なんだと?」  眉間がしわを寄せ甚八郎は言った。 「二階堂平法の男以外、興味は無い・・・。さぁ、どちらだ。」  多都馬は半歩前に出たが隼人に制され止まる。 「俺がたたっ斬る約束だぜ。」  甚八郎が刀を抜き、隼人を無視して多都馬に視線を変える。隼人が多都馬と甚八郎の間に割り込む。 「てめぇの相手は俺だ・・・たたっ斬ってやるから、いつでもかかってこい。」  隼人は刀を抜いて正眼に構えた。 「・・・よかろう。二階堂平法の男よ、そこで待っていろ!」 「油断するなよ京八流。そいつは(つぇ)ぞ。」  甚八郎が構えを低く、隼人に狙いを定めた。そして、まるで放たれた弓の如く突進していく。  隼人はそれを難なく受け止め、その衝撃を逆に甚八郎へ弾き返す。放った斬撃をそのまま跳ね返され、甚八郎は後方に吹き飛ばされる。甚八郎は空中で猫の如く体勢を整え着地する。そして、間髪を入れずに真横に跳躍し水平に斬り込みに行った。甚八郎の右薙の斬撃を、隼人はまたしても弾き返した。勢いが落ちずに弾き返した隼人に脅威を感じ始めた。 「どうした・・・これしきの事で怖気づいたか。」  それに応える代わりに甚八郎は、蛇が獲物を襲うが如き構えで隼人に襲い掛かる。甚八郎は執拗に隼人の足元を襲う。 ― 此奴、隼人が耐えきれなって跳び上がるのを待ってやがるな。 ―  多都馬は、甚八郎の戦法を読んでいた。  隼人は甚八郎の攻めに手出しが出来ず、後ろには倒壊している家屋が迫ってきていた。 ― さぁ、跳んでみろ。逆風(さかかぜ)に斬ってやるわ。 ―  後がない隼人は瞬時に腰を屈めた。 ― さぁ、跳べ! ―  甚八郎は勢いよく頭上へ跳び上がった。跳び上がったはずの隼人は頭上にはいなかった。隼人は跳躍した甚八郎の身体の下をくぐり抜け背後を取った。  素早く起き上がった隼人は、がら空きになった甚八郎の背中を下から斬り上げた。甚八郎は背中を斬られて地面に落下し、叫び声を上げながらのた打ちまわる。 「見事だ、隼人!」  多都馬は思わず叫んでしまった。  斬られてもがき苦しむ甚八郎の側に隼人は歩み寄った。 「おい、黒幕は誰だ。吐けば楽にしてやる。」  甚八郎は苦悶の表情を浮かべ、隼人を睨みつけた。そして、観念したように自身の腹に車太刀を突き刺した。虫の息の甚八郎の目には、刀を納めた隼人が映っていた。 「望み通り介錯はしねーからな。・・・最期まで、苦しんで死ね。」  甚八郎は目を見開き、苦しみ悶えて死んだ。甚八郎の死を見届けた後、隼人が一言呟いた。 「仇は討ったぜ。」             十一    甚八郎の処置は北町奉行所に任せ、多都馬と隼人は帰路についていた。月番ではない隼人であったが、北町奉行所の同心たちは身体を震わせ涙していた。 「やはり手強かったか?」 「あぁ。天子様の守護の剣、なかなかのモンだったぜ。」 「あのような剣士、あと何人いるのか・・・。」  見事に京八流の剣士を斬った隼人だったが、その強さは本物だった。あれ程の遣い手は、米沢藩の軒猿を彷彿させた。 「多都馬さんよ。」 「なんだ?」 「あいつ等にしちゃ・・・今回の手口は随分杜撰な手段じゃねーか。」  隼人の言う通り今回の一件は、敵にしては無計画で場当たり的だ。殺した相手も侍という以外に共通点がない。 「奴等の組織に綻びが出たっていう事じゃねーか?」 「綻び・・・。」 「京八流の男。功名心にはやるあまり、あのような手段に出たのかも知れん。」 「奴等も一枚岩ではねーという事か。」 「ただし・・・これ一回きりだな。」  多都馬の言う事に隣で隼人が大きく頷いた。 「しかしな、実体は見えねーが・・・これで奴等の影はつかんだ。」  多都馬の言葉の裏には激しい怒りに満ちていた。  二人は本郷から日本橋までの距離を半刻ほどで到着した。時刻は亥の刻を過ぎ、間もなく新年を迎えようとしていた。  年の瀬だというのに、ある場所へ向かって長蛇の列が出来ていた。多都馬と隼人は、その列を辿って行った。 「何なんだ、こりゃ。」  隼人が目を丸くして驚いている。多都馬が列に並ぶ一人に声を掛け尋ねた。 「おい、これはいったい何なんだ?」 「真榮館の皆様が、災害で食物も食えねー俺たちに炊き出しをして下さるんだよ。」 「何、炊き出しだと!」 「お侍様も、欲しけれりゃ後ろに並んで下さりませ。」  男は列が前進すると、流れに沿って歩き出した。多都馬も隼人も、ただ呆然と立ち尽くしてしまう。 「おい、八丁堀の旦那!」  一人の男が隼人に詰め寄って来る。 「本来よ、こういう事は御上がやりなさるんじゃねーのか?えーっ、どうなんだ!」  並んでいた連中から、この男を支持する怒号が響く。 「隼人、行くぞ。」  多都馬は立ち尽くす隼人の襟元を掴み、そこから逃げるように去って行った。地震、三度の大火、大衆は綱吉の治世から離れつつあった。  
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