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第十三章 幕開け
一
新しく年が明け本来ならば厳かに、そして賑やかに武家も庶民も過ごす正月。しかし、先々月に発生した地震、火災の影響で祝い事を自粛していた。店先を飾る門松も心無しか寂し気であった。
弥次郎は店先を掃除しながら時折、天を仰いで溜息をついていた。空は抜けるように青かった。
「弥次郎さん、先ほどから溜息ばかり。いけませんよ。」
須乃が多都馬と共に店から出てきて言った。
「すいません・・・つい。」
須乃は店の外観を確認している。地震の被害が少なかったとはいえ、屋根瓦が落ちるなど土葺きが剥き出しになっていた。
「多都馬様、いかがでしょう。」
須乃が綺麗に張り替えられた瓦屋根を見て、目を輝かせている。
「うん、見事だ。」
「お正月を迎えるのに縁起が悪いと思いまして・・・。」
多都馬は見事な出来映えの屋根よりも、須乃の明るい笑顔に見惚れていた。
「多都馬様。須乃様に見惚れるのもよろしいですが、屋根の出来映えも、ちゃんと見てあげてください。職人の方々の手配やら何やら大変だったのですから。」
後から出て来た丹が、多都馬をからかって言った。全て多都馬を喜ばせたくてやったのだと。
「た・・・丹殿!」
その光景を見ていた近所の者たちが、一緒になって冷やかし始めた。
「見てみろ!黛の旦那が赤くなってやがるぜ。」
「無敵の旦那も、須乃様には敵わねーってわけだ!」
笑い声につられて他の店からも人々が集まって来た。
「てめぇ等、見せもんじゃねーぞ。」
多都馬が人集りを散らそう手を払う。しかし、それが火に油を注ぐ形になって皆の笑いを誘った。
「大体、黛の旦那がいけねーんだよぉ!須乃様みてーなべっぴんさんを待たせていなさるんだからな。」
「野郎抜かしやがって、ただじゃおかねーぞ!」
冷やかしていた魚屋の留吉を、多都馬が捕まえようと追いかける。留吉が敵わぬとばかりに須乃の後ろへ逃げ込んだ。
「須乃、ちょ・・・ちょっとどけ。」
「おい留吉、須乃さんの側を離れるなよ。斬られちまうぜ。」
人集りの中から隼人が現れ、面白がってからかった。
「多都馬様。今日のところは皆様の事、許してあげてくださいませ。」
首を少しだけ傾け頼んでいる須乃に、多都馬はまた見惚れてしまう。
「おいおいおい、見せつけてくれるねーお二人さんよぉ!」
その光景が更に皆の笑いを誘っていた。
「そうだ!皆さん。地震だ火事だと塞ぎ込んでも始まりません。今日は皆でお餅やおせち、お酒などを持ち込んで楽しみませんか!」
須乃が突然、集まった群集に声を掛けた。
「須乃様、そりゃいいや!」
「それなら俺は魚を持ってきやすぜ!」
留吉が叫んだ。
「じゃあ、あたしゃ家から漬物でも持ってくるよ。」
「俺は・・・何にもねーけど。」
塞ぎ込んだ一人が呟く。
「何にもねー奴は、ただ踊って騒げばイイんだよ。」
隼人が男の肩を組んで呟いた。
調達屋を中心に、皆急いで宴の準備に掛かった。向こう隣の呉服屋が一生樽を持って来た。
「土屋様の御屋敷に持って行こうかと思ったが、年賀のご挨拶も無くなっちまった。今日は、こいつを皆で飲んじまいましょうや!」
各家々から盃や枡を持ち寄り、楽しげに騒ぎ飲み始める。多都馬は先ほどと変わらず皆に冷やかされている。丹も嬉しそうに、そして暖かい眼差しでその光景を眺めていた。料理を持ってこようと店に戻る須乃は、振り返って活気に溢れる皆を見て強く思った。
― 大丈夫、負けるものですか! ―
楽しげな宴は陽が落ちても終わることはなかった。
二
織人と一右衛門は、地震によって倒壊した流円寺を捨て、金杉橋近くの商家跡に居を構えた。表向きは京都で店を出している賀茂屋の看板を出した。怪しまれぬため京都の本店から商品を運び、売るという方法を展開していた。
店奥の囲炉裏のある小さな座敷に織人と一右衛門は向い合わせに座っていた。時は亥の刻を過ぎようとしていた。一右衛門は火箸で炭を転がし、火の調節をしている。部屋の隅で蝋燭が一本、ゆらゆらと妖しい火を灯している。織人は囲炉裏の中で、真っ赤に燃える炭を見つめていた。
「一右衛門さん。」
無言だった織人が突然喋り出した。
「・・・甚八郎殿が殺られたらしいですね。」
甚八郎の一件を聞かれ一右衛門が僅かに反応する。
「何やら一人で勝手な事をしていたらしいですが・・・。」
「そのようですね。」
「一右衛門さん、知っていたのではありませんか?」
「いえ、まさかそのような事は・・・。」
蛇が獲物を狙うような目つきで一右衛門を見つめる。時折、いつものような薄笑いを浮かべている。
「ま・・・、いいでしょう。」
そう言うと再び囲炉裏の火を見つめている。
「しかし、甚八郎殿を殺ったのは誰なのでしょう。」
火を見つめたまま織人が呟く。
「自身番の番太に金をつかませ聞いたところ、南町奉行所の同心だとか・・・。」
「へぇ~、同心がね・・・。」
「町方にも相当な遣い手がいるということですね。」
織人は自身の愛刀を引き抜き、囲炉裏の火が反射する刃先を眺める。
「その同心が、二階堂平法の男かは分かりませんが・・・。多少こちらが不利になりましたね。」
「そうでしょうか。」
「あちらに京八流の太刀筋、知れてしまいました。」
「そんな、ただ一度の立合で・・・。」
一右衛門は言い掛けたところで口を噤んだ。凡人ならいざ知らず、相手は相当な遣い手である。ただ一度の立合で見抜く筈であった。
「企てが首尾よく進み、彼奴等を窮地に立たせているように見えますがね・・・窮地に立っているのは我等の方かも知れませんよ。」
織人がいつもの冷たい目つきで言っている。
「そんな事は・・・」
一右衛門は織人の表情を見て背筋が凍った。
― どの口が言うのだ。 ―
織人の表情がそう言っていた。車太刀を抜いて襲い掛かり一右衛門を斬る、今にもそう動き出しそうだった。
「赤岩五郎佐、尾張藩、甲賀五人衆・・・そして、甚八郎殿。痛手の大きさは我等のほうが上ですよ。それに・・・。」
その時、一右衛門は廊下に気配を感じ、織人に手をかざして話を止めさせる。
「誰だ。」
「多三郎です。」
障子を隔てた向こうから話をする。
「どうした?」
「織人様に・・・。」
「何でしょう。」
「沙霧様が江戸に入られました。」
「何!」
驚いた一右衛門は思わず立ち上がった。
「わかりました。下がっていいですよ。」
「織人様・・・。」
険しい顔で一右衛門は織人を見つめた。
織人は火箸を掴んで真っ赤に燃える炭に突き刺した。
「・・・対処しなくてはいけませんね。」
三
甲府宰相綱豊の上屋敷に沙霧は匿われた。綱豊の正室である近衛熙子は、沙霧たちが守護する関白/近衛基熙の娘である。
吉之丞とは、この上屋敷で別れた。同行を懇願する沙霧に、窮屈で堪らないと言って立ち去ってしまった。
再会を果たした二人は、姉妹のように喜びあった。沙霧は京で起きた事全てを熙子に話した。
徳川の治世を脅かす事態に熙子は綱豊を頼った。熙子に呼ばれ綱豊は奥御殿に間部詮房と新井白石、柳生新陰流の村田伊十郎を伴って現れた。
「沙霧と申したな・・・苦しうない、面を上げよ。」
「沙霧。殿と、この甲府藩ある限り心配は無用じゃ。」
熙子は今にも泣きそうな沙霧を心配して声を掛ける。
「熙子様を巻き込んでしまい申し訳ございませぬ。」
「何を言う、困難を乗り越えよう知らせてくれました。父上の事もあるのです、巻き込むなどと申してはなりません。」
沙霧は深々と頭を下げた。
「詮房。沙霧の話だが最早猶予はないぞ。いかがいたす。」
綱豊に求められても、詮房は険しい表情で無言だった。白石も俯いたまま言葉を発しない。
「宰相様。」
伊十郎が重たい空気を振り払うように口を開いた。
「伊十郎、何か妙案はあるか?」
「妙案はございませぬ。」
「何?」
「沙霧殿の話によれば、天子様も関白様もご無事な様子。とすれば、京はまだ安全でございます。」
「うむ。」
「京八流の左近寺と申す者、江戸に一部隊を率いて潜伏しているはず。合わせて賀茂屋とかいう始末屋の一味も加わっているなら、我等が相対するには数において圧倒的に不利。宰相様や沙霧殿を守るだけで精一杯でございます。」
説得力のある伊十郎の言葉だった。
「そうだ!」
沙霧が突然、叫んだ。
「こちらにお連れすることは叶いませんでしたが、味方は私たちにもおります。」
「誰なのですか?」
熙子は身を乗り出して沙霧に尋ねた。
「二人おります。」
「二人?二人では到底・・・。」
沙霧は伊十郎の言葉を遮るように訴える。
「いえ!あの御方たちが味方なら織人等に立ち向かえます。」
「どのような者だ。」
詮房が言った。
「一人は私たちを、ここまでお送り下さったご老人。」
「老人と・・・。」
「御高齢なれど織人の配下十数人を相手にし、少しも危ぶむところはございませんでした。御名は村上吉之丞様。」
半信半疑の一同の中、伊十郎は名前を聞いて驚く。
「なに村上吉之丞だと?」
「伊十郎、その村上某という人物は何者なのだ。」
伊十郎の驚く様を見て綱豊が言った。
「二階堂平法という剣術の伝承者にて、あの宮本武蔵が対戦を怖れ逃げ回ったという話がございます。」
あまりの話に言葉を失う綱豊たちだった。
「あと一人とは?」
白石が期待を込めて尋ねる。
「その吉之丞様の弟子にございます。」
「それが、この江戸のおるというのだな。」
「吉之丞様は、そう申されておりました。」
綱豊は詮房の顔を覗き込み、目配せをして意を伝えた。
「沙霧。伊十郎等と村上吉之丞と、その弟子を探し出すのだ。出来るか?」
「やらねば我等の負けにござりましょう。」
「沙霧、いけません!殿!」
「熙子。やらねば父君も天子様も、お救いすることは出来ぬのだ。」
綱豊は熙子の手を優しく握りしめた。
「熙子様、心配には及びません。沙霧殿は某が・・・・柳生新陰の剣に賭けて・・・お守りいたしまする。」
伊十郎がどのように言おうとも、熙子の心配は消えなかった。そんな熙子の心配をよそに、沙霧は伊十郎と共に奥御殿から出て行った。
四
いつものようにおしのが店先をほうきで掃いていると、通りの向こうから三吉が血相を変えて走って来るのが見える。おしのは、多都馬を呼びに中に戻った。
「多都馬様ーっ!三吉さんが、もうすぐお見えになりますよーっ!」
須乃もおしのと一緒になって多都馬を呼んだ。その時、ちょうど三吉も店の中に駆け込んで来る。
「多都馬様!」
三吉のよく通る声が店内に響き渡る。
「どうした?」
店の奥から多都馬が出て来た。
「お・・・お知らせしたいことが。」
何事が起きたのかと、数馬と丹も集まって来る。弥次郎は走って来た三吉に、そっと水を差し出した。三吉が差し出された水を一気に飲むと、他に聞こえないように多都馬に耳打ちをする。三吉の知らせに多都馬は驚いた様子で三吉に何度も確認している仕草が見られた。その間、幾度となく多都馬は丹を見つめていた。
「多都馬様?」
丹は怪訝な顔をして多都馬を見つめた。
「丹殿、奥へ・・・。」
奥の座敷へ丹を誘った。
「皆んなも来てくれ。」
多都馬と丹を囲んで、一同が奥座敷に集まった。
「丹殿。今、長兵衛から知らせがあってな。きっと驚かれると思う。俺も正直、頭の整理がついていなくてな。」
「はい。」
「心して聞いてほしい。」
「はい。」
「白河藩に徳之丞という若者がいて、その若者が十内殿の忘れ形見だという事がわかったのだ。木瓜の家紋が入った脇差しも持っているというのだが。」
衝撃の事実に丹は驚きを隠せなかった。側に控える須乃たちも驚きで開いた口が塞がらなかった。
「今、長兵衛がその身を預かっているが・・・いかがいたす?」
物事の整理がつかない丹は、なかなか言葉を発する事が出来ないでいた。丹は大きく深呼吸をして、ゆっくり語り出した。
「長兵衛さんは、徳之丞殿をどうやって探し出されたのですか?」
「長兵衛たちは毎月、浪士たちの墓参りを挙ってやっている。その時、たまたま十内殿の墓に脇差しを供える若者を見たのだそうだ。声をかけたが逃げるように、去って行こうとしたのを無理矢理押し留めて・・・やっと、事の次第がわかったということらしい。」
丹は静かに何度も相槌を打ちながら、多都馬の話を聞いていた。
「徳之丞殿は、丹殿の気持ちを考えて墓参り取り止めようと考えていたらしい。だがやはり、ただ一度・・・ただ一度だけ、父と兄の弔いをしたかったんだ。」
須乃は静かに立ち上がり丹の側に座った。須乃は丹の背中を優しく撫でた。
「多都馬様。長兵衛さんのところへお願いいたします。」
「わかった。須乃、一緒に来てくれ。」
「はい。」
多都馬と須乃は、丹を連れ徳之丞のいる長兵衛の口入屋へ向かった。
五
口入屋に着いた三人は、おみよに案内され奥座敷へ進んだ。座敷の障子を開けると、長兵衛と徳之丞が待っていた。三人が入ると長兵衛の隣に座っていた徳之丞は深々と頭を下げた。頭を下げたままの徳之丞に、丹が優しく声をかける。
「元赤穂藩京都留守居役/小野寺十内が妻、丹と申します。面を上げて下さい。」
畏れ多いと感じているのか、徳之丞はなかなか面を上げない。その様子に多都馬たちは苦笑いを浮かべた。
「徳之丞殿。顔を上げなきゃ何も見えねーぜ。」
徳之丞はゆっくりと顔を上げた。まるで十内が若がえったかのように生き写しだった。十内を顔を見知っている多都馬も驚いた。
「こ・・・これは。」
「はい、旦那様によう似ておりまする。」
「御母上樣。御初にお目にかかります、古田徳之丞と申します。」
「実の母上様は、いかがされておられるのかしら?」
丹が聞くのは憚ると思った須乃が徳之丞に尋ねた。
「母上は、数年前に亡くなりました。」
苦労が覗える道程に徳之丞を労る空気が漂う。徳之丞は、終始俯いている。
「丹殿、いかがいたす。徳之丞殿は小野寺家の立派な跡継ぎ。これで小野寺の家は残ります。」
丹はいつもの優しい眼差しで徳之丞を見つめていた。
「父上の記憶はありますか?」
「・・・いえ。物心ついた時にはもう・・・。」
「そうですか。」
「ただ、月毎に下さる文がございました。父上のその御心遣いを心の糧として生きて参りました。」
徳之丞の話に涙を拭う長兵衛とおみよだった。
「どうかな、丹殿。徳之丞殿と二人、これから一緒に過ごされては・・・。」
「まぁ、そいつはいいお話でございますこと。」
おみよが手を叩いて喜んだ。しかし、多都馬も須乃も長兵衛も浮かない顔をしている。
「なんだい、どうしたんだい。皆んな浮かない顔をしてさ。」
「おみよ。徳之丞様は、御年二十七。公儀の御触れに引っかかるんだよ。」
長兵衛が言った公儀の御触れとは、元禄十六年二月四日に四十六士の遺族に対して処罰の事である。赤穂浪士の遺児十九名に対し遠島を申し付けたのだ。
「父共儀 主人之讐を報し候と申立、四十六人致徒党、吉良上野介宅江押込、飛道具抔持参、上野を討候始末、不恐公儀段不届ニ付、切腹申付候、依之世悴共遠島申付もの也。」
以上が遺児たちへ申し付けた主文である。しかし、十五歳未満の遺児たちは親類へ預け、十五歳になったら刑を執行するとされた。妻女や親類縁者はお構いなしという事で刑は免れていた。十五歳以上の遺児は吉田伝内、間瀬定八、中村忠三郎、村松政右衛門の四名であった。彼等四人は遠島となり、親類御預けとなったのは十五人だった。
二十七歳の徳之丞は、この公儀の裁定に引っかかるのだ。
「なぁに、んなもの。気にする事はねーよ。」
重い空気を振り払うように多都馬が言い放った。
「多都馬樣!それは、いくら何でも・・・。」
「だから、今は古田のままでいいじゃねーか。」
一瞬、その場の空気が時が止まったようになる。
「そうですよ、丹樣!いずれ・・・いえ、必ず将軍様の恩赦があります。その時こそ、大手を振って親子だと名乗れば良いのです。」
須乃の明るい声に一同の顔に笑顔が戻っていく。
「徳之丞殿・・・亡き父、亡き兄上の跡を継いで小野寺の家を遺すのだ。いいな。」
「よろしいのですか?」
徳之丞は、目の前の丹に伺いを立てた。
「一緒に暮らしましょう。」
そう言う丹の目には涙が浮かんでいた。
「決まったな。」
須乃は思わず隣にいる多都馬の手を強く握りしめる。須乃の目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
六
その夜、口入屋/長兵衛の店で丹と徳之丞の旅立ちを祝う会が行われている頃、沙霧たちは伊十郎等と共に吉之丞と多都馬を探していた。伊十郎は劣勢を強いられている甲府藩に、剣の師でもある柳生宗弘に援軍を要請していたが招集は遅れていた。
― 伊十郎殿も相当な遣い手だが織人を倒せるとは思えない。やはり吉之丞様とその弟子を探さなければ。 ―
沙霧の腕では到底織人には敵わない事はわかっていた。天賦の才というべきか、織人は瞬く間に京八流を会得していった。父/大膳は、織人の事を公儀への切り札として考えていた。ところが隠していた野心に気付かず、大膳は反旗を翻され斬殺されてしまったのだ。
「沙霧殿。今日はこの辺にして、そろそろ屋敷へ戻ろう。」
「はい。」
広い江戸を少ない人数、少ない手掛かりを頼りの捜索は難航していた。伊十郎等は沙霧を囲み、周囲を警戒しながら歩き出した。
「宰相様の屋敷に入れば安心だ。」
「御言葉を返すようで申し訳ありませんが・・・。」
「なんでござる。」
「織人等を侮らぬほうが宜しいかと存じます。」
「どういう事だ。」
「織人に同行し此度の企てに加担している賀茂屋一右衛門は、闇の始末屋として京で暗躍する大物。」
「わかっておる。」
「元忍びや盗賊など得体の知れない輩を配下にしており、怪し気な技を使い数々の殺しを行っておりまする。」
「賀茂屋一右衛門の素性はわかっておるのか。」
「元はどこかの藩に仕えていた武士という以外、正体は謎のままでございます。一右衛門自身は陰流の遣い手で、その技を使い瞬く間に勢力を拡大させていったようです。」
沙霧を囲む男たちは、嫌でも聞こえてくる賀茂屋の話に脅威を感じ背筋を凍らせていた。他の大名家と違い甲府藩は親藩である。藩固有の自衛手段を持たぬため、尾張柳生新陰流から伊十郎が遣わされていた。
「明日以降は、いよいよ日本橋を探してみましょう。人も多く難義する事は間違いないと思います。心して掛かりましょう。」
沙霧たちは速度を早めて歩き出した。甲府藩の屋敷へ急ぐ沙霧たちの後を、一つの影が追いかけていた。
七
宴を催した翌日、丹は徳之丞を連れ調達屋から旅立とうとしていた。見送りには口入屋/長兵衛の面々も揃い賑やかなものになった。
多都馬の口利きで、二人は浅野本家がある広島の地へ向かう事となった。
「丹様、道中お気をつけて・・・。」
須乃とおしのは過ごした時間が長い分、込み上げてくる寂しさに涙が止まらない。
「徳之丞殿。互いに慣れぬ間柄、始めのうちは気骨の折れる事も多いかも知れん。だがな、それも直ぐに無くなるさ。二人は親子なんだからな。」
多都馬は徳之丞の肩を掴んで元気づけた。
「はい。」
多都馬の励ましに明るく答える徳之丞を、丹は優しい眼差しで見つめていた。
「丹殿。」
多都馬は懐から一通の文を取り出した。丹は不思議そうに文を受け取った。
「広島に着いたら、それを筆頭家老/浅野忠義様に渡してください。恩赦が出た後に、広島藩で徳之丞殿を取り立てるよう書いてある。」
「多都馬様。」
丹と徳之丞が、多都馬に深々と頭を下げる。
「いやいや、俺は何にもしていませんよ。藩主/綱長様の御厚情ですよ。」
「多都馬様。何と申したらよいか。」
多都馬が綱長に働きかけた事は言うまでもなかった。
「さ、広島まで先は長い。くれぐれもお体には御気をつけなさって・・・。」
「はい。皆様、本当にお世話になりました。」
「丹様・・・お別れは申しません。また・・・いつかお会いいたしましょう。」
泣き腫らした目で、嗚咽を堪えながら須乃は言った。
「はい。」
丹の目にも涙が浮かんでいた。
丹と徳之丞は長兵衛配下の若者二名に先導されると、見送る全員に一礼して広島へ向かって行った。
「丹様ーっ!お幸せにーっ!」
須乃は通りの向こうまで歩いていた丹の背中に叫んだ。須乃の声に振り返った丹は大きく手を振って応えた。
隣で大粒の涙を流している須乃を、多都馬は優しく抱き寄せた。長兵衛配下の、いかつい男たちも同様に涙を流していた。
この惜別の場に、隼人がひょっこり現れた。隼人が現れると須乃は多都馬から遠慮がちに離れる。
― もっと、くっついてたっていいのに・・・遠慮しやがって全く・・・。 ―
奥ゆかしい須乃の様子に隼人が苦笑いをした。
「今頃のこのこやって来やがって。丹殿は、もう行っちまったぜ。」
「あぁ、わかってるよ。」
「多都馬様。見送りに来るわけありませんよ。だって隼人様があの場にいたら、一緒になって泣いていましたもの。」
「な・・・何を言ってんだよ。んなこと、あるわけねーだろ。」
須乃に真意を知られ狼狽している。
「神月の旦那、須乃様が仰っしゃられた事は本当かい?」
「おいおい、そりゃ噛みつき隼人が形無しだぜ!」
須乃の話を聞いた長兵衛等が、隼人をからかい始めた。 「おいおい、お前たち!その辺で勘弁してやれよ。」
多都馬は、揉みくちゃにされている隼人の手を取って引っ張り出した。しんみりした場が明るくなり、皆各自の居場所に戻って行った。
「全くあいつ等、覚えてやがれ。」
「許してやれよ。皆んなお前がすきなんだよ。」
店に戻る須乃とおしのの顔には笑顔が戻っていた。
「多都馬さんよ・・・。」
「ん?」
「俺たちゃあ、いつまでも感傷に浸っている場合じゃねーんだぜ。」
「わかっているよ。」
多都馬は通りを歩く人々、必死に商いに勤しむ商人たちを見つめていた。震災、火事、数々の試練を与えられても、日本橋庶民たちは勇気を振り絞り頑張っている。この平和はなんとしても守らねばならなかった。
「ここ数日、各町内の自身番にアンタの事を聞いて回る男装姿の女がいるらしい。」
「女だと?」
「あぁ。その女だがな、小太刀のような短い刀を腰に差していたらしいぜ。」
「何?」
“ わかってるよ "と言わんばかりに隼人は大きく頷いた。
「そうだ。例の連中かも知れねーな。」
日本橋の道幅は約十間、行き交う人々の数は多い。多都馬は通りの遥か向こうをじっと見つめていた。敵の息遣いが忍び寄るように迫ってくる事を感じていた。
八
剣術の稽古なのか真榮館から時折、大きな掛け声が聞こえてくる。地震や火事の被災者への救済活動など、真榮館の人気は高まるばかりだった。入塾者も後を絶たない状況で、その数は数百を超える勢いだった。
長澤六郎右衛門は、その真榮館の正門前に立っていた。帰農していた六郎右衛門の身なりは、裾が長めの麻の着物を尻端折りをして下半身は股引を履き脚絆を巻いていた。立ち尽くしている六郎右衛門に門番が声を掛けた。
「あの〜何か御用でも・・・。」
「あの・・・、長澤幾右衛門という侍にお取次ぎ願いたいのですが。」
「失礼ですが。」
「長澤六郎右衛門と申します。」
見窄らしい六郎右衛門の身なりを気にしながら門番は、六郎右衛門を中に招こうとする。
「長澤様ですね、では中に入って・・・。」
「いや、こちらで・・・。」
「・・・左様でございますか、では御待ち下さいませ。」
門番は首を傾げながら、中に入って行った。暫くして中から幾右衛門が駆け足でやって決た。
「父上!」
「元気か・・・。」
「はい。母上は?」
「元気にしている。日毎夜毎とお前の事ばかり、心配しているよ。」
家を飛び出した時の母の顔が脳裏に浮かぶ。
「父上、こんなところで立ち話も何ですから中へ・・・。」
「いや、ここでいい。直ぐ帰る。」
「父上に真榮館を見ていただきたいのです。ここで学んでいる事も・・・。」
「学ぶ?何を学んでおるというのだ。」
「基本的には儒学ですが、軍学に剣術など学ぶものは多岐に及んでおります。」
「そなたは山鹿流を学んでおろうが。」
「はい。しかし、水戸藩の山鹿流はいかがなものかと一から学び直しております。」
「おこんは、いかがいたした。」
「真榮館の武家長屋で、某と暮らしております。」
「どのような事をしようが、そなたの人生だ。最後まで己の信念を貫く事に、わしはとやかく言うつもりはない。だがな、おこんだけは不幸にしてはならぬ。・・・よいな。」
普段柔和で優しい六郎右衛門の顔が、この時だけ険しく厳しい顔に変わった。
「は・・・はい。」
「これは・・・母上からだ。受け取るかよい。」
六郎右衛門は、懐から僅かな金と小さなお守りを出した。
「よいか・・・本当に守るべきものは何なのか、よく考えよ。そして、見誤るでないぞ。」
そう言うと六郎右衛門は踵を返し、真榮館から去って行った。家を出る前、あれ程口論をした父が波風立てる事なく去って行った。胸に杭を打ち込まれたような衝撃を感じながら、幾右衛門は去って行く父の姿をいつまでも見つめていた。
九
真榮館で儒学の講義を行っている安東侗菴は、父/省庵の跡を継ぎ儒学者となっていた。柳川藩士であった彼だが、水戸藩で私塾を開くという事で客分として講義をしていた。日も暮れて辺りはすっかり暗くなっていた。月もない漆黒の闇は足元を照らす提灯の灯りだけが頼りだった。
「まだ焼け跡が生々しいな。」
侗菴は焼け落ちた家屋を見て言った。
「浅草の御屋敷も半分は焼けてしまいましたから。」
中間の和助が辛そうに言う。
「しかし、命あっての物種だ。それで良しとせねば・・・。家や物はまた作る事が出来るが、命には代えがない。」
和助は大きく頷きながら足を進めた。護衛を務める侍は、真榮館が付けてくれた。彼はまだ一言も喋っていない。
「侗菴様、少し急ぎましょう。のんびりしていると御先手組の同心に呼び止められ面倒な事に。」
侗菴は和助に続いて歩き出した。護衛の侍が立ち止まったまま動かない事に侗菴が気づいて声を掛ける。
「いかがされた?」
護衛の侍は、辺りを見渡して警戒している素振りをしている。侗菴は、その仕草に違和感を持ち少しずつ離れる。
「侗菴様?」
和助が怪訝な顔して侗菴を見つめた。護衛の侍は予告なく和助を斬りつけた。和助は、声を発する間もなく崩れ落ちる。侍は、抜刀した刀を直ぐさま鞘に納める。刀は小太刀だった。
「何をする!」
侗菴は恐れおののき反射的に刀を抜く。その時、提灯を持ち夜回りをしていた先手組の同心二名が現れる。抜刀して向い合う二人を見て駆け寄って来る
「我等は、若年寄/本多正永様配下の先手組だ。お主たち、何をしている!」
「某は柳川藩士、安東侗菴!この者がいきなり中間、和助を斬ったのだ。」
「なんだと!」
「曲者、神妙に縛につけ!」
侗菴の話から先手組の二人は、抜刀して身構えた。護衛の侍は臆する素振りもなく無防備のまま立っている。
「貴様、聞こえているのかっ!」
護衛の侍は何も答えることなく、ゆっくりと先手組二人に近付いていく。
「お・・・おのれ、手向かいいたすか。」
先手組の二人は、護衛の侍を挟むように二手に分かれる。
「手向かいいたせば・・・。」
「斬るか?」
護衛で侍が初めて口を開いた。その顔には笑みが浮かんでいた。
「安東殿、此奴何者でござる。」
先手組の一人が尋ねた。
「確か・・・。」
「赤岩六平太だ・・・冥土への土産代わりだ、よく覚えて置くんだな。」
六平太は、そう呟くと真っ先に侗菴目掛けて突進して行った。侗菴は恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。先手組の二人が侗菴を守ろうと六平太に斬り掛かる。
左右同時に襲い掛かる刀の切っ先が振り下ろされる寸前、六平太は方向転換して躱した。
侗菴を守るように先手組の二人が立ちはだかる。
「さすが公儀の番方、一筋縄ではいかぬな。」
六平太が、まるで楽しんでいるように呟く。先手組の一人が六平太に上段から斬り掛かる。これを上段にて受け止めるが、瞬時に半身を捻りその勢いを流した。侍は前のめりになり体勢が崩れる。六平太が頸動脈を狙い小太刀を振るった。体勢を崩された仲間を救おうと、もう一人が六平太に斬り掛かる。六平太は、それを躱して二人に向き直る。
「今のうちに逃げろ。」
先手組の一人が侗菴に向けて言った。侗菴は刀を納めて一目散に駆け出した。先手組の二人は、それを横目に六平太に同時に斬り掛かった。
六平太は突きを繰り出す刀の上に飛び乗り、もう一人の頸動脈を体を捻りながら斬った。突きを繰り出した一人は、がら空きとなった背中を斬られ崩れ落ちるように倒れた。
倒された二人を見た侗菴は、蛇に睨まれた蛙ように立ち尽くしてしまう。
「終わりだな。」
侗菴に追い付いた六平太は、袈裟懸けに斬った。断末魔の叫び声を上げ侗菴は倒れる。六平太は斬り捨てた先手組の一人の刀を奪い、瀕死の侗菴に突き刺した。
六平太は小太刀を鞘に納め、何事もなかったように来た道を悠々と帰っていった。いつの間にか辺りは静けさを取り戻していた。
十
山村座の「傾城阿佐間曾我」は、人気を集め客席はいつも満員だった。隼人は客席の隅で退屈そうに居眠りをしている。隼人の隣にいる客が居眠りをしている隼人を、怪訝な顔をして見つめている。芝居が終わり客が帰っても隼人は眠りから覚めないでいた。
「神月の旦那、起きてくださいな。」
座元をしている五代目/山村長太夫がやって来て隼人を起こしている。隼人は眠たい目を擦りながら、気怠そうに半身を起こした。
「旦那〜。この芝居が、そんなに退屈でございますか。」
長太夫が呆れ顔で尋ねる。
「あぁ。山村座始まって以来の駄作だぜ。」
「ンなこと言ってるのは旦那だけ。」
浪士たちの討ち入りの関係者である隼人は、人々を楽しませるための娯楽作品に納得がいかないのだ。
「今日も大入りかい。」
「えぇ、お陰様で・・・。」
やっと目が覚めたとばかりに隼人は背伸びをして立ち上がる。
「しかし、よろしいんですかい?こんな所でお勤めを怠けてらっしゃって・・・。」
「いいんだよ。俺は今、精力を温存中だ。」
「いつもじゃ、ありませんか!」
長太夫は、隼人の様子に苦笑いを浮かている。
その時、新八が血相変えて芝居小屋に入ってくる。
「ほら旦那、新八っあんですよ。」
新八は隼人を見つけると、慌てて駆け寄って来る。
「ここだと思って急いで参りました。」
「どうした?」
「どうしたも、こうしたもありゃせん。奉行所が大変なんでさ!」
一刻も早く隼人を連れ出したい新八は、のんびりしている姿がもどかしくて堪らない。
「さっ、早く参りましょう!」
新八は隼人の背中を押しながら、芝居小屋を出て行った。新八のあまりの様子に山村座の面々は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
十一
丹が徳之丞と浅野本家の広島藩に出発して数日が経っていた。須乃は裏庭で洗濯物を干し、多都馬はその姿を煙草を燻らしながら眺めていた。寝そべりながら見上げた空は、抜けるように青くまさに洗濯日和であった。
洗濯物を干しながら、須乃が大きな溜息をつく。まるで心ここにあらずとばかりに、遠くを見つめていた。
「須乃、どうした?」
「あっ、い・・・いえ。」
突然話し掛けられ驚いている。
「珍しいな。」
「丹様がお発ちになってから、何だかこう・・・心に穴が開いたようで・・・。」
「そうだな。」
「天気の良い日は、いつもここでお話しをしながら洗濯物を干していました・・・。」
泉岳寺で丹を見かけて以来、家族のように過ごした数ヶ月だった。
「数馬は学問所か?」
「はい。朝餉を召し上がられた後、直ぐに。」
「今日も、客は来ねーだろ。おしのと弥次郎を呼んで茶でも啜ろうぜ。」
「はい。」
須乃は軽快な足取りで台所に向かった。おしのと弥次郎を呼ぶ声が多都馬の耳に入って来る。その時、裏路地を歩いてくる気配を感じて目をやる。垣根の上に隼人の頭だけが見える。相変わらず気怠そうに歩いて来る。
「なんだ寝てねーのか。」
「昨夜、奉行所で一悶着あってさ。」
「どうした?」
「安東侗菴って奴を知ってるかい?」
「あぁ、あの真榮館で儒学を教えている奴だろ。」
「そいつが昨夜、何者かに殺されたよ。」
「なにっ!」
驚いた多都馬は、勢いよく起き上がる。
「他にも御先手組同心の遺体が二体あった。全部で三体の遺体が転がっていたが、侗菴って奴の体には御先手組同心の刀が刺さっていた。」
多都馬は考え込むように俯いて暫く沈黙する。隼人も多都馬が何か言い出すまで黙っている。
「隼人。奴等の仕業だな。」
「あぁ、恐らくな。」
「ところが、奉行所、御先手組とで揉めているのだろ。侗菴を殺った下手人は御先手組だと。」
隼人は大きく頷いた。
「このままいけば大名と旗本との大喧嘩に発展するぞ。七十年前の渡辺数馬と河合又五郎の一件がそれだ。」
「預かっていた水戸藩主/綱條公も、柳川藩に大分肩入れしているらしい。若年寄の本多正永と井上正岑は、対応に苦慮しているらしいぜ。井上正岑などは、柳川藩の報復を恐れて屋敷に引き籠もっているらしいからな。」
「あの男なら、そうだろうな。」
若年寄の井上正岑は、すこぶる評判の悪い人物だった。とにかく底意地の悪い人物で、彼の評判を表す落書が出回った事があった。
― 死んでも惜しくないもの 鼠捕らぬ猫と井上河内守 ―
「この江戸の城下で争いの火種が燻っているって事さ。」
後ろには、いつの間にか須乃とおしのと弥次郎が立っていた。いずれも顔面蒼白になり呆然としている。
「済まねーな。あんたにだけ伝えるつもりだったんだが。」
怖がらせてしまったと、隼人は須乃たち三人に誤っている。
「大丈夫だ。俺と隼人がいるからな。」
「はい!」
須乃が大きく頷いて返事をした。
「じゃ、行くぜ。」
「あ、お茶でも・・・。」
「ありがとよ、須乃さん。またにするぜ。」
隼人は照れながら、多都馬たちの下から去って行った。
「須乃様。お茶、入れ換えてきますね。」
おしのが須乃からお盆を受け取って台所へ戻って行く。
須乃は、多都馬の隣に腰が抜けたように座り込んだ。多都馬は須乃を安心させるように、白く細い手を優しく握りしめた。
十二
茅場町の真榮館/大広間に全塾生が招集されていた。後ろ盾となっている水戸藩の家臣たちが、塾生たちと対面で座っている。その中に家老/山野辺義清も着座している。
長澤幾右衛門もその中で、今にも飛び出しそうな胸の鼓動を抑えながら座っていた。
「殿の御成りでございます。」
藩主/綱條が現れ一同が一斉に頭を下げる。現れた綱條は、着座せず仁王立ちになって塾生たちを見渡している。
「真榮館は、幕府に役立つ人材を育てるため亡き光圀公と余が思案を巡らせ起てた私塾じゃ。」
一同、皆綱條の言葉を静観して聞いている。
「安東侗菴殿は、その思想に賛同し我等に助力してくだされた賢人である。既に、知っている者もいると思うが・・・。その安東侗菴殿が昨夜、幕府の手の者に殺害された。」
綱條の言葉を一同がざわつき始める。落ち着いて取り乱さぬ者、驚き腰を抜かす者、鼻息荒く刀を握りしめる者、その振る舞いは様々であった。
「安東侗菴殿を斬った者は、目付御先手組の同心二名。侗菴殿は、最後の力を振り絞り見事その同心二名を返り討ちにした。だが、自身も深手を負い亡くなったのだ。」
綱條の言葉に一同の歓声が上がった。
「各々方!」
綱條の側に座していた山野辺義清が立ち上がる。
「我等は、このままでよいのであろうか!生類憐みの令に始まり、各々方御家人衆の処罰や各藩の改易。そして天災、最早天は上様の政を罰を下しておるやも知れぬ。」
幾右衛門は、義清から発せられる言葉を待った。
「己の誤ちを認めず、己の利のみに走る世は変えねばならぬ。今が、その時である。我等が先駆者となって庶民を導いていこうではないか!各々方、力を貸して下され。お頼み申す!」
歓声が一気に沸き上がる。腕を天高く掲げる者、互いの拳を握り合う者、大広間に集まった塾生たちは一つになっていた。幾右衛門の両側に座している岡田利右衛門と塩谷武右衛門は、拳を突き上げ興奮していた。
この歓喜の場を別室で見つめる織人と一右衛門は、冷ややかな目で見つてめいた
「乱を起こす支度が整いましたね。」
笑みを浮かべ、隣にいる織人に呟いた。
「よろしゅうございましたな。」
織人は一右衛門とは対象的に、興味がなさそうに一言呟いて去って行った。佐十郎、お仙、多三郎が一右衛門を囲み指示を待っている。
「見つかったか?」
「はい。」
佐十郎が答えた。
「どこにいた?」
「甲府宰相様の御屋敷に・・・。」
「なるほど、基熙様の御息女/熙子様を頼ったのか。」
「いかがいたします。」
「殺れ。」
返事をする代わりに三人は、頭を下げて一斉に去って行った。一右衛門は、再び歓喜渦巻く大広間を見つめた。塾生たちの歓喜の声は、次の局面へ移る合図のように聞こえていた。
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