第十四章 心の奥

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第十四章 心の奥

             一  朝廷へ年賀の挨拶から畠山基玄(もとはる)と品川伊氏(これうじ)が戻って来た。二人は戻って来るや否や、血相を変え老中のところへ出向いて行った。江戸城内御用部屋で二人は、老中諸将が現れるのをひたすら待っていた。 「遅うございますな。」  伊氏がしびれを切らして言う。 「江戸府内は、今荒れておる。その対応に大わらわなのであろう。」 「しかし、こちらは急を要しているのです。事態は公儀が及びも付かぬところまできています。」  二人が話をしているところへ、御用部屋に向かい廊下を歩く音が聞こえる。基玄と伊氏は、平服して入室を待った。  筆頭老中/土屋政直を先頭に、阿部正武、小笠原長重の順に御用部屋に入って来る。 「天子様への年賀の挨拶、大儀であった。」  政直の言葉に基玄と伊氏は揃って平服した。 「さて、此度は二人打ち揃って訴えたき儀があると聞いたが、如何様な事であるか。」 「はい。」  年長者である基玄が答える。 「まず、奇妙な事が一つ。関白太政大臣であらせられる近衛基熙様が急な病にて、お出になりませんでした。」 「病ならば挨拶に出られずとも、奇妙な事ではなかろう。」  正武が言った。 「代わりに出て来た者が、問題なのでございます。」 「誰だ?」  長重が予想がついているかのように尋ねる。 「数年前、関白の座を追われた一条冬経様でございます。」 「何だと!」  政直は驚き、正武は唖然としていた。ただ一人、長重だけは眉間にしわを寄せ険しい表情だった。 「別段、何か申される事もござりませでしたが・・・上皇様が・・・。」  そう言うと基玄は口籠ってしまった。 「どうした、上皇様が如何いたしたのだ。」 「はい、此度の江戸府内で起きております数々の厄災について言及されております。」 「相変わらず、差し出がましい事がお好きな御方だ。」  長重が不機嫌そうに話す。 「これ、長重殿。口が過ぎますぞ。」  政直が軽く嗜める。 「上皇様は、何と申したのだ。」 「上様のご病状ならびに、厄災に苦慮している公儀に際し朝廷より援助を差し向けると・・・。」 「何?」 「上皇様自ら江戸へ下向し、公儀と力を合わせ復興支援をなさると申された次第でございます。」  基玄の報告に、政直たち三老中は言葉を失ってしまう。沈黙を破るように長重が口を開いた。 「復興支援など片腹痛い。これは我等公儀に対する反逆じゃ。王政復古の御旗を立て、支援を名目に大名諸将に檄を飛ばし軍勢を差し向けるつもりだ。」 「ま、まさか・・・そのような。」  混乱している江戸に、乱を起こすと長重は言っているのである。信じられぬと長重以外は沈黙している。 「早々に策を講じなければ、上様の治世もこれまでじゃ。」  長重は大坂夏の陣以来、平和に慣れた天下に動乱の渦が巻き起こる事を恐れていた。              ニ  二月四日。今日は一年前、赤穂浪士四十六名が切腹して果てた日である。多都馬は須乃と数馬、そして弥次郎を伴い泉岳寺に墓参りに来ていた。今や庶民の英雄に祀り上げられた浪士たちの墓には、数多くの人が線香を手向けにやって来ていた。多都馬は堀部安兵衛の墓の前に座り手を合わせる。 ― 安兵衛。そっちでも達者にしているか。 ―  多都馬に倣い須乃と数馬、弥次郎も手を合わせる。隣で手を合わせている多都馬が気になって、須乃はその表情を覗った。その悲痛な表情は、普段の多都馬とは違っていた。  浪士たち全員の墓前に線香を手向けた後、多都馬たちは泉岳寺を後にした。数馬は学問所で調べることがあると弥次郎を伴い行ってしまった。 「少し、歩かないか。」 「はい。」  震災と火災の後、江戸の天候は晴れる日が多かった。今日の天候も雲一つない青空が広がっていた。 「愛宕神社まで足を伸ばして、その帰りに鶴屋八幡で饅頭でも買って帰ろう。」 「まぁ、それはいいですね。数馬殿やちゃんも喜びます。」  愛宕山へ向かう途中、須乃は多都馬の表情を気にかけながら歩いた。空元気というか無理をして笑っているのが、須乃にはわかっていた。月に一度、堀部安兵衛の墓前に必ず線香を手向けに行くが、その日の多都馬は今日のように悲痛な表情をする。  増上寺の前を通り、暫くすると八十六段の石段が見えてきた。 「疲れたか?」  多都馬が須乃を気にかけ、労るように言った。 「いいえ。」  須乃は" 大丈夫"と言わんばかりに駆け足で登り始める。 「足元に気をつけろよ。」  この六十八段の階段を登れば、心地よい涼しい風に当たることが出来る。夏場であれば炎天を忘れる別天地となるのが、この愛宕神社である。武家屋敷家を眼下に、遠くは海を見渡す絶景が広がっている。最初は勢いよく駆け上がったものの、途中で力尽きて多都馬に抜かれてしまった。 「大丈夫か?」  多都馬は須乃に、そっと手を差し伸べた。多都馬の温かい手を握り、須乃はやっとの思いで登り切った。額に浮かぶ汗を手で拭い、眼下に広がる景色を眺めた。 「気持ちいいですね~」  景色を眺めて須乃が呟く。隣の多都馬を覗うと、心地良さそうに目を閉じて陽の光を体全体に浴びていた。 「疲れたろ?少し座ろう。」  二人は左脇にあった東屋内の床几に腰掛ける。愛宕神社は江戸有数の観光場である。神社への参拝と景色を堪能しに多数の人が訪れている。 「多都馬様。」 「ん?」 「・・・(わたくし)は、とても幸せです。」  多都馬は須乃の言葉に、いきなり何を言うのだと困惑した表情をする。 「そうか。」 「多都馬様の側にいる者は皆、同じ気持ちでございます。」  何が言いたいのだと多都馬は首を傾げている。 「・・・でも。」  須乃は俯いて黙ってしまう。多都馬は須乃を優しく握りしめる。 「どうした?」 「・・・多都馬様は、お幸せでございますか?」 「あぁ。」 「本当ですか?」  先程とは様子が違う須乃を多都馬は心配そうに見つめた。 「そのように御振る舞いでですが、本当の御心はどうでしょう。安兵衛様を失った傷が癒えぬまま、心の奥深くでは御自分を責めていらっしゃる・・・。」  そんな事はないと頭を振るが、須乃は続けた。 「安兵衛様も大石様も、そして吉良様も・・・多都馬様のおかげで権力に立ち向かう事が出来たのです。安兵衛様の・・・最後の後ろ姿は、本望であると・・・そのように語っておりました。」  須乃の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。多都馬の心を労ろうとする須乃の気持ちが嬉しかった。 「二階堂平法を学んだ頃・・・。」  多都馬は須乃にゆっくりと話し始めた。 「師から命の重みを、尊さを学んだ。」 「はい。」 「師は・・・こうも言った。二階堂平法は、絶対不敗の剣だ。味方についた側に必ず勝利をもたらすと。」 「お師匠様の仰っしゃられた通りです。多都馬様は、皆様を見事討ち入りへとお導きいたしました。」 「しかし、俺は・・・。」  “ 安兵衛を救えなかった ” 多都馬は言いかけるが、須乃はそれを遮るように言葉を重ねた。 「安兵衛様も大石様も・・・そして吉良様も、多都馬様のお優しい思いは、その御心に伝わっております。」 「須乃・・・。」 「(わたくし)を、これからもずっと多都馬様の御側においていただけますか?」  参拝客で賑わう境内の中で、多都馬は須乃の手を強く握りしめていた。              三    口入屋の店先をは、手拭いを被り箒を持って掃除をしている。長兵衛配下の若衆も、に倣い掃除を手伝っている。 「お前たち、うちの店先だけじゃないよ。ご近所の皆様方の店先もやるからね。いいかい!」  の威勢のいい掛け声に、若衆たちも背筋を伸ばして反応している。 「さん、いつもすまないね〜。」  口入屋の隣の越前屋の大番頭が頭を下げる。3つ 「何を言ってんだよ。困った時はお互い様って言うだろ。」  は、早々(はやばや)と口入屋の前を掃除し終えると越前屋に移って店先を穿き始めた。震災と火災の後、人通りもめっきり減った日本橋だが、漸く活気が戻りつつあった。 「さん。」  振り返ると政吉の娘/お艶が立っていた。 「どうしたの。珍しいわね~」 「泉岳寺の帰りなの。」 「そっか、今日は命日だもんね。」 「うん。」 「一人?」 「神月様に送ってもらったの。」 「神月様は?」 「お勤めがあるからって、さっき行っちゃったわ。」 「どうせ、山村座で芝居を観ているか、昼寝をしているか、どちらかよ。」  お艶はの言葉が声を上げて笑っている。 「元締は?」 「今日は本郷辺りで支援の真っ最中よ。皆んな、ここが踏ん張り時だもの。」  いつもと違う様子が気になり、はお艶を口入屋の店に誘った。 「ちょっと寄んなさいよ。美味しいお饅頭があるのよ。」 「うん。」 「アンタたち、あたしは店に戻るから後は頼んだよ。」  口入屋の若衆は、声を揃え返事をした。 「さ、行こう行こう。」  はお艶の手を取り、店に戻って行った。子分が数百はいる長兵衛の口入屋は、店内も威勢のいい若衆で活気づいている。お艶が入ると皆、挨拶をしてくる。  お艶はに連れられ、奥間に案内された。 「今、お茶とお饅頭を用意するからね。」   に言いつけられた若衆の一人がお茶と饅頭を用意してやってくる。 「さ、召し上がれ。美味しいわよ~」 「頂きます。」  口いっぱいに広がるアンコの甘みが堪らなく、お艶は目を閉じて溜息を付く。 「美味しい〜。」  目の前で無邪気に饅頭を頬張るお艶が可愛くては目を細める。 「お艶ちゃん、最近とっても幸せそうね。」  がそう話すと、お艶は笑みが消え真顔になった。いらぬ事を言ったかと思ったが、お艶は塞ぎ込んでいるようではなかった。 「さん、あたしね・・・。」  お艶は言いかけて口をつぐんでしまう。 「岡野様の事かい?」  「わかるの?」 「だてに、何十年も生きちゃいないよ。」  何度も頷きながら、お艶はお茶を啜った。 「あたし・・・最近、神月様の事が気になるの。」 「そうかい。」 「神月様って・・・ぶっきらぼうだし、あの黛様にさえ乱暴なお話し方をされるでしょ。」 「そうね。」 「でも本当はね。とってもお優しくて一緒にいると安心する方なの。」  そう話すお艶だが、その表情はどこか浮かない顔をしていた。 「お艶ちゃん・・・アンタの言う通りよ。悪党連中には" 噛みつき隼人 " “ 八丁堀の牙 ”なんて言われているがね・・・本当は、お艶ちゃんが感じた通りの御人。」 「でも、九十郎さんが亡くなって一年しか経っていないのに・・・あたし。」  込み上げてきた涙を隠すように、お艶は俯いてしまう。は、黙ってお艶の背中を優しく擦った。 ― 可哀想に・・・。今まで誰にも話せず、苦しんでいたんだね。 ― 「神月様といると九十郎さんと過ごした日々が、少しずつ・・・少しずつ薄らいでいくのよ。」  お艶の声は涙声になっていた。 「それでいいんだよ。」  不意の声には驚き振り向いた。そこには長兵衛が立っていた。 「お前さん。」 「お艶ちゃん。亡くなった人が願うのはな、生きている人の幸せなんだぜ。」  長兵衛は泣き崩れるお艶の前に座って優しく呟いた。 「忘れていいのさ。岡野様も、きっとそう思っている。誰よりもお艶ちゃんを大事なさった御方だからな。」  は、優しくお艶を抱きしめ頭を撫でた。に抱きしめられ、抑えていた感情が溢れ出した。 「岡野様が望んでいるのは、お艶ちゃんが幸せになることなんだから。」  一頻り泣いてお艶は漸く落ち着きを取り戻した。店のほうから掃除を終えた若衆たちが戻って来る声が聞こえる。 「さん、ありがとう。」 「神月の旦那は、いい男だよ。」 「元締も・・・ありがとう。」  泣いた目は赤くなってしまったが、お艶の顔はどこか救われたような表情になっていた。  家までの帰り道、長兵衛は若衆を三、四人付けてお艶を送らせた。長兵衛とは、お艶の姿が見えなくなるまで店先で見送った。              四  長兵衛とが店に戻ると、その場の空気が引き締まる。長兵衛が帳場に座るとが自分を見つめている視線に気付く。 「なんでぇ・・・。何か付いてるか?」 「お前さん・・・惚れ直したよ。」  は長兵衛の隣に座り、すり寄って上目遣いに見つめる。 「ば・・・馬鹿野郎。お天道様は、まだ昇っていらぁ~。」  長兵衛は顔を真っ赤にして、絡めてくるの腕を振り解いた。店内の若衆たちが、そんな二人を微笑ましく見つめていた。 「それにしても、お前さん。お艶ちゃん・・・よっぽど辛かったんだね。」  お艶の気持ちを思うと、の胸も締め付けられるように痛くなる。 「俺は、あのお艶ちゃんの涙を見て、多都馬様が何故討ち入りに後ろ向きなお気持ちだったか、何となくわかった気がするよ。」 「あたしもだよ。」 「本人は満足かも知れねーが、遺された(もん)の人生は長く長く続くんだよな。」  は、その通りだと何度も頷いている。 「オギャーオギャーと生まれてきてよ。もう、そん時から何があっても死んじゃならねー理由が出来るんだよ。」  後ろから若衆が、気を利かして二人にお茶を差し出した。 「おぅ、済まねーな。」  お茶を置いた若衆は自分の持ち場へと戻って行った。 「死んじゃ駄目だよね、どんな事があっても。」  は運ばれて来たお茶を啜る。 「お武家様の大儀なんてものは、俺たちのような(もん)にはわからねー。だがな、面子ならわかる。それがテメェの命よりも大事だっていうのもわかる。」  話す長兵衛の顔が、次第に悲しみを帯びた表情に変わっていく。 「しかしな・・・愛する(もん)より大事なものなんて、この世にはねーんだよ。だから、そういうモンのために最後の最後まで生きなきゃならねー。テメェ勝手に死を選ぶような生き方をしちゃならねーんだよ。」 「多都馬様は、凄い御方だよね・・・。」  が、一言呟く。 「あぁ。それに、お優しい御方だ。」  長兵衛とは、お艶の悲しみを見て生きる事の大切さを痛感していた。              五    裏徒組が根城としている旅籠/相模屋の離れに、鳳四郎は五郎兵衛と密談をしていた。二人は囲炉裏を囲み、京次やお仙の報告を待っていた。  品川宿に店を構えている相模屋だが、日本各地の珍しい郷土料理を旅人に提供している。評判はたちまちに広がり店は繁盛していた。今夜も店は大賑わいであった。  五郎兵衛は客の賑やかな声を、満足そうに目を閉じて聞いていた。 「御頭。あたしゃ、この賑わいが何より好きでね。」  宿泊部屋からの笑い声が離まで聞こえてくる。 「だが、この賑わいを失う何かが始まろうとしている。」  鳳四郎が囲炉裏の中の炭を、火箸で転がしながら言う。 「彼奴らの全容が掴めず難義いたします。」 「そうだな。」  自在鉤に引っ掛けられた鉄瓶が沸騰して蓋が鳴る。五郎兵衛は鉄瓶を取って、急須にお湯を注ぐ。鳳四郎は五郎兵衛に注がれた茶を飲んで一つ溜息をついた。 「美味い。」 「京次たち・・・遅いですな。」 「そう急かすな、そろそろ二人揃って現れるさ。」 「これはあたしとした事が・・・年を取ると時が短く感じてしまって。」  五郎兵衛が恥ずかしそうに頭を掻いている。一息つこうと五郎兵衛も、自分の茶を一口啜った。 「五郎兵衛、今わかっている事は何だ。」 「はい。まず黒幕とおぼしき者は、恐らく元関白太政大臣/一条冬経様。」 「王政復古が目的か・・・。」 「はい。」 「尾張と水戸は相変わらず騒いでいるようだな。」 「それが・・・。」 「どうした?」 「このところ、尾張藩は鳴りを潜めているようでして・・・家老の渡辺半蔵などは、屋敷内に引き籠もっている様子。それに筆頭家老/成瀬正親の行方がわかりませぬ。」 「企ての一党から外されたか・・・。」  その時、離れの外に気配を感じ五郎兵衛が声を掛ける。 「京次か?」 「はい。お駒も一緒です。」 「入れ。」  鳳四郎が足元にある取っ手を引くと、障子戸が上に上がる。京次とお駒が頭を下げながら入り、五郎兵衛の隣に着座した。 「何を掴んだ。」 「はい。水戸様が新たに柳川藩を抱き込みました。」  京次の報告に鳳四郎と五郎兵衛は驚愕して、互いに視線を合わせた。 「真榮館の講師を請け負っていた安東侗菴が、若年寄配下の御先手組に斬られたらしいのです。この安東侗菴、柳川藩士でございます。」 「御先手組が斬ったという証拠は?」 「なんでも、安東侗菴の遺体に御先手組同心の刀が突き刺さっていたと・・・。」 「藩主/立花鑑任(たちばなあきたか)が若年寄の井上正岑に詰め寄ったらしいのですが、そのような事をする謂われもないと弁明するのに必死だったとの事にございます。」  五郎兵衛は腕を組み、鳳四郎は天井を見上げて考え込む。 「御頭・・・。」  五郎兵衛が何か言いたげに、腰を浮かして持論を話そうする。 「あぁ、わかっているよ。こいつは、真榮館が仕組んだ(はかりごと)だ。御先手組の仕業に見せて、大名たちの公儀離れを企んでやがる。」 「仰っしゃる通りで・・・。」 「黒田家、毛利家、伊達家・・・そして立花家か。」  鳳四郎の眉間のシワが一層深くなった。 「立花家は藩祖/立花宗茂公以来、武門を尊ぶ家柄。故に柳川藩は、公儀から数々の警護役を仰せつかっている。」 「すると御頭・・・柳川藩は反体制の急先鋒になり得ると?」   お駒が不安気な表情を浮かべる。 「伊達家の黒脛巾組、毛利家の座頭衆。一条冬経も押さえるところは押さえている・・・さすがでございますな。」  五郎兵衛は、鳳四郎の顔色を覗き込みながら呟く。 「冬経のそれではないだろう。優れた側近がいるに違いない。他にはないか?」 「その側近とおぼしき人物と京次が交戦しました。」 「お駒の助けがなければ、殺られていたところでした。」  京次がお駒を見つめて呟いた。 「京次の(いたち)返しを難なく躱しました。」  その時の光景を思い出したのか、お駒の顔色が悪くなる。 「それほどの遣い手か・・・。」 「御頭と同等。い・・・いえ、それ以上かも。」  京次は交戦時を思い浮かべ恐れていた。 「気になる事が、もう一つございます。」  お駒が身を乗り出して話し出す。 「何だ。」 「江戸府内の元赤穂藩士斬殺の件です。いつの間にか沈静化しているのが気になります。それに呼応して尾張藩が一党から外れています。これは、いかなることでございましょう。」  投げ掛けたお駒は、鳳四郎、五郎兵衛、京次の顔を順に見渡す。その疑問に答えられる者はいなかった。外から聞こえる客の賑やかな声が、沈黙する室内を余計に際立たせていた。              六  赤坂の三次藩下屋敷で高田郡兵衛、萩原兵助・儀右衛門は今日も瑤泉院の警護に任についていた。  瑤泉院は、庭で鳴いている鶯の声で目覚めた。障子戸が朝陽に照らされ神々しく輝いて見える。 「瑤泉院様のお目覚めでございます。」  瑤泉院が起きた事を確認し、お付きの侍女たちが声高に叫んだ。戸田局がお供を連れて廊下を歩く影が障子戸に映る。   瑤泉院は障子戸を開け庭を眺めた。 「御後室様、お早いお目覚めで・・・。」 「今朝は、空気も澄んでいるような気がします。」  瑤泉院が足下に目をやると、郡兵衛が槍を下に置き平伏していた。 「郡兵衛!」 「はっ。」 「其方は、一晩中ずっとここにおったのですか?」  郡兵衛は顔を上げずに返事をした。瑤泉院が郡兵衛の手足に目をやると、鬱血しているかのように赤くなっていた。二月の朝夕の寒さは、鍛錬をしている武芸者とはいえ厳しいはずだった。 「郡兵衛。さ、早う屋敷に入り暖を取るのです。」 「いえ。それでは瑤泉院様の警護、相勤まりませぬ。」 「郡兵衛・・・。」 「勿体無い御言葉、痛み入りまする。」  郡兵衛の姿に瑤泉院の胸が熱くなっていた。 「戸田、わらわも庭へ降ります。」  戸田局が侍女に命じ、履物を用意させる。郡兵衛は頭を下げたまま、いっこうに顔を見せない。  屋敷を取り囲む木々から、鶯の鳴き声が聞こえてくる。瑤泉院は鶯の声のする方へ歩いて行こうとする。戸田局と侍女たちが後を追おうとする。 「戸田・・・人払いを。」  戸田局は侍女たちに他に行くように命じた。 「戸田、其方も外してもらえぬか?」 「・・・・・畏まりました。」  戸田局は瑤泉院から静かに離れて行った。下屋敷の庭は瑤泉院と郡兵衛の二人きりになった。 「郡兵衛、顔を上げなさい。」  それでも郡兵衛は、顔を伏せたままである。 「・・・瑤泉院様、某は討ち入りから脱盟した不忠者でございます。」  瑤泉院には、郡兵衛の心に何本もの刀が突き刺さっているのが見えていた。 「止むに止まれぬ事情があった事は、多都馬から聞いております。あの時は、そうせざるを得なかったのです。」 「いえ。あの時、逆上した安兵衛の刃を某は受けるべきでございました。」   郡兵衛の肩が小刻みに震えている。 「そのような事を申してはなりませぬ。郡兵衛が抜けて出たおかげで討ち入りは露見しなかったのです。」 「そうではありませぬ。某は・・・多都馬殿に助けて頂き、安堵していた己の心が許せぬのです。」  郡兵衛の震える手は、土を掴み力一杯握りしめていた。瑤泉院は郡兵衛の前にしゃがみ込み、土まみれの手を握りしめた。 「・・・多都馬が申しておりました。何者かが、わらわの命を狙うておると。以来、この屋敷は切迫した状況が陥っております。」  郡兵衛は穏やかに話す瑤泉院の目を見つめた。 「しかし、わらわは少しも恐れてはおりませぬ。」  瑤泉院は土で汚れた郡兵衛の手を優しく払う。 「それは何故か・・・わかりますか?」  言葉にならない郡兵衛は、黙って首を横に振った。 「郡兵衛。其方が側に居てくれるからです。」  郡兵衛の目から大粒の涙が溢れた。 「生きていてくれて・・・本当に嬉しく思います。」  郡兵衛は瑤泉院の手を強く握り返し、声を押し殺し男泣きに泣いた。二人の側で鶯が、まるで労るように鳴いていた。              七  「武蔵野は月の入るべき山もなし 草よりいでて草にこそ入れ」  万葉集に詠まれている歌である。武蔵野は視界を遮る山もなく月は草原から出て草原に沈んでゆく、そんな情景を歌っている。織人は甲州裏街道を歩き、金杉橋の隠れ家から五里ほどの武蔵野まで来ていた。陽は西へと落ち始め、時は八ツ半を過ぎていた。人気のない雑木林を探し、織人は京八流の鍛錬を始めた。二階堂平法の遣い手との立ち合いが間近に迫る予感がしていた。  風の音、鳥のさえずり、生い茂る草木の匂い、五感を全て研ぎ澄ませ集中する。背負っている車太刀を抜き二刀を構える。風が吹き枝が揺れ木々の隙間から陽の光が一瞬、織人の顔に照射される。織人は、それを機に一気に跳躍する。密集している木々を使い、より高く飛び上がる。最高地点に達し下を見ると枯れ葉がユラユラと舞い落ちていた。織人はそれを攻撃目標に定め、奥義“ 村雨 ”を放った。その枯れ葉は“ 村雨 ”を喰らい、跡形もなく風に舞っていった。  次の技を繰り出そうとしたが、人の気配を感じて動きを止めた。雑木林の入り口に、近くの集落から来たであろう子供たちが来た。子供たちは十ニ・・・四歳頃であろうか、武家の子らしい少年一人を苛めていた。 「卑怯者の子!」 「不忠者ーっ!」  真ん中にいる少年の頭を小突きながら罵声を浴びせていた。苛められている少年は、手で頭を覆いながら必死に耐えている。少年の体に痣が出来ているのが遠目からでも分かる。織人は京八流の鍛錬を止め、暫くその光景を眺めていた。  子供たちの苛めは、時として大人より酷い場合がある。今もなお、執拗に罵声を浴びせ、殴る蹴るを繰り返している。しかし、少年は殴られても蹴られても負けずに立ち上がった。苛めっ子たちは、その様子に恐れをなして逃げ出して行った。一人残った彼は、ゆっくりと腰を降ろした。顔を殴られ唇から血が出ている。  織人は彼に近付いて話し掛けた。 「何故、反撃しない。」  背後から突然話し掛けられ驚いて振り返る。 「あなたは・・・、どなた様でございますか?」  話し方、毅然とした態度、織人は少年を武家の出と確信した。 「おぉ・・・これは失礼いたした。左近寺織人と申す。」 「私は、井口忠吾と申します。」 「互いに名乗り合うたな。では、改めて聞くが・・・何故、反撃しなかった。」  織人は忠吾の目の前にある倒木に腰掛けた。 「大切なもののためでございます。」 「ん?・・・言っている事が、よくわからないのですが。」 「私の父は、元赤穂藩士/井口忠兵衛と申します。父は私や母、妹のため討ち入りの盟約から脱盟し不忠者という烙印を押されました。」  忠吾は時折、先程受けた暴行の痛みを堪えながら話している。 「あの時・・・。私が反撃に転じ同じように振る舞えば、脱盟した父を世間は何と言うでしょう。」  遠くから忠吾の名を呼んでいる声が聞こえてくる。その声を聞いた忠吾の顔に笑みが溢れる。 「それに父は卑怯者でも、不忠者でもありません。死する道より、生きる道を歩くほうが勇気がいるのです。」  忠吾を呼ぶ声が次第に大きくなってくる。 「父を見て、強さとはそういうものだと学びました。」 「強さとは武芸ではないと言いたいのですか?」  忠吾は頷くでもなく、強い眼差しで織人を見つめた。 「耐えるだけでは、何れ死んでしまいますよ。」  「いいえ、決してそのような事にはなりません。辛抱していれば村の方々も必ず、その事をわかってくださいます。」  忠吾が言った事を織人は黙って聞いていた。いつものように薄笑いを浮かべる織人の姿はなかった。  生い茂る草を掻き分け、忠兵衛が現れた。傷だらけの忠吾を見て、心配そうに駆け寄って来る。 「大丈夫か?」 「はい。いくつかは、まともに受けてしまいましたが・・・。」 「済まんな。」  忠兵衛は、忠吾の頭を優しく撫でた。そして、落ち着いたところで漸く、織人の存在に気付く。 「貴殿は?」 「倒れている私を心配して、側についてくださりました。」 「そうでしたか・・・、これは失礼いたした。某は・・・。」  名乗ろうとする忠兵衛を、手をかざして織人は制した。 「元赤穂藩士/井口忠兵衛殿でごさろう。先程、御子息が教えてくださりました。」  忠兵衛が労るように忠吾の背に腕を回した。 「歩けるか?」 「はい。」  忠兵衛は、時折蹌踉(よろめ)く忠吾を支えながら歩き出した。 「それでは・・・。」 「忠吾殿。」  織人に呼ばれ二人は振り返る。 「これを。」  織人は懐から袋を取り出し、忠兵衛に渡した。 「これは?」 「打ち身に効く妙薬です。治打撲一方といいまして、よく効きます。京にいる頃、修行中の若い医師に頂いたものです。」 「かたじけない。」  二人は織人に何度も頭を下げながら立ち去って行った。気づけば空の色は、赤紫色に変わっていた。               八  金杉橋近くの商家跡に構えた新しい隠れ家で、一右衛門は密かに運ばれている積荷を眺めていた。夜中の作業は、物音に細心を注意を払いながら実施せねばならない。物見を立て、町方の動向に気を配り慎重に行われていた。蔵の中に運ばれている積荷は、積み重ねて置かれていた。その数は十数個になっていた。 「待て、それを開けてみろ。」  佐十郎の指示で配下の一人が積荷を開ける。開けられた積荷には艶やかに染められた反物が多数入っていた。佐十郎が反物を幾つかどけてみると、そこには槍や刀など多数の武具が隠されていた。 「よし、行け!」  佐十郎の号令で、配下の者が再び動き出した。 「織人様・・・、お帰りが遅うございませんか?」 「気まぐれな御方だからな、帰路の途中で何やら見つけたのかも知れん。」  佐十郎は納得した様子で無言で頷く。 「これで最後です。」  最後の積荷が蔵に運ばれていく。運び終えた者たちは、一右衛門と佐十郎に一礼して去って行った。 「さて・・・。」  一右衛門が座敷の障子戸の開けると織人が座っていた。 「織人様。」 「気まぐれとは、酷いですね。」  織人の口元は笑みを浮かべている。佐十郎は織人を一瞥して、一右衛門の顔色を覗った。” 心配ない “と目で伝えると、佐十郎は静かに二人の前から立ち去って行った。 「遅かったですね。どちらに行かれていたのですか?」 「武蔵野まで・・・。」 「随分、遠くまで行かれたのですね。」 「えぇ。」 「成果はございましたか。」 「成果はありませんが、面白い事がありましたよ。」 「面白い?」  一右衛門は首を傾げる。 「赤穂の元藩士と出会いました。」 「織人様、まさか・・・。」  一右衛門は戦慄した。織人が、その藩士を斬ったと思ったのだ。 「一右衛門さん。私にも、少しくらい人としての感情は残っていますよ。」  表情では笑っていながらも、織人の目は獲物を狙う蛇のように冷たかった。 「その赤穂藩士と何がございました。」 「赤穂藩士というより、その息子といささか・・・。」 「息子?」 「えぇ・・・。」  一右衛門の配下の者が酒を宗和膳に乗せ運んでくる。 「さ、どうぞ。」  一右衛門が織人の盃に酒を注いだ。 「話せば長くなりますが、その息子から薫陶を受けたのですよ。」  織人は言いながら笑っている。しかし、およそ見せたことのない常人の目をしていた。 「ところで・・・。一つお聞きしたいことがあるのですが。」 「何でしょう。」 「一右衛門さんが、赤穂藩士にあそこまで拘るのは何故ですか?」  一右衛門は口元まで持っていった盃を止めた。 「聞いてはいけなかったですか?」 「い・・・いえ。」  一右衛門は盃の中の酒を一気に飲み干した。二人の間に気まずい静寂が漂う。 「織人様。場所を変えて話をいたしましょうか。」              九  織人と一右衛門は、徳利と盃を持って二階の見晴らし台に座っていた。海側に面している賀茂屋は、二階に登ると海がよく見えた。 「こう高い所に立つと江戸はやはり広いですね。」  一右衛門は織人の話しに乗らず、酒を黙々と飲んでいる。 白けた空気が漂う二人の間に、酒を注ぐ音だけが妙に際立って聞こえる。 「・・・私は以前、ある小藩に仕えていた武士でした。」  何の前振りもなく一右衛門は語り出した。 「ある日、江戸上屋敷におられるご正室様への土産をと、私は京へ遣わされました。京の反物屋を方々巡り、とある店で私はある女と出会いました。」 「一右衛門さんに、そのようなお話があるとは驚きました。」  感心したように織人は何度も頷いている。 「互いに想い合うようになり、女のお腹には赤子が出来たのです。」 「では一右衛門さんには御子が?」 「赤子が出来ても身分の違いがあり、私は女を娶ることは出来ませんでした。」  昔の事とはいえ、無念な思いは消えなかった。一右衛門は、盃の酒を一気に飲み干した。 「しかし私は、その女と添い遂げたかった。藩を捨て家も捨てようと、女がいる京の店に行きましたが・・・女は生まれた赤子と一緒に姿を消したのです。」  一右衛門は話を続けた。織人は手酌で酒を飲んでいる。 「その後、私がいた藩は藩主が増上寺で刃傷を起こし改易になりました。藩が無くなり父も母も他界、私を縛るものが無くなったのです。」 「それで?」  さして興味も無さそうに織人は一右衛門に聞いた。 「女は既に流行り病で死んでおり、生まれた子は岡場所へ売られていました。」 「一右衛門さん・・・まさか、その子を身請けする為に始末屋の商売を?」  答える代わりに一右衛門は、無言のまま空になった盃に酒を注いだ。 「身請けする金は出来ましたが、始末屋の仕事が後を絶たなくて私も動きが取れなくなりましてね。しかし、娘の動向は配下に命じて掴んでいたのですよ。」 「良かったじゃないですか。」  織人はつまらなそうに呟く。 「死にましたよ。」  “ 死 ”という言葉を聞き、織人は前のめりになる。 「浅野内匠頭が刃傷を起こし赤穂藩は改易になった。」  「その事と娘さんの死は、どんな関係が?」 「娘に入れ込んでいた男は、元赤穂藩士/橋本平左衛門という男でした。赤穂と吉良、そして上杉との争いに巻き込まれ死んだのです。相対死を装って・・・。」 「復讐でしたか・・・。」 「・・・そればかりでは、ありませんがね。」  一右衛門は、隣の織人を見る。自分で聞いておきながら感心がなさそうに無表情で酒を飲んでいる。 「内匠頭は死んでしまいましたから、赤穂の者共には娘の死の無念を晴らさせてもらいます。」 「では、まだ大きな的が残っていますね。」 「瑤泉院は、私に譲って頂きますよ。」  一右衛門は盃をかざし、眺めながら呟く。 「私は素より女を斬るつもりはありません。御存分に・・・。」  織人と一右衛門は、互いに盃を交わして一気に飲んだ。いつの間にか遠くに見える水平線が橙色に変わっていた。              十  日は昇り始め、空は黄金色に輝いている。早朝は吐く息も白く、寒さは体の芯まで冷たくしていた。真榮館内の武家長屋で幾右衛門は、隣で眠るを見つめていた。谷中村を二人で飛び出してから一年ほど経過していた。真榮館に辿り着くまでの幾右衛門は、やさぐれた日々を過ごしていた。  しかし、真榮館で過ごす毎日は何か吹っ切れたように生き生きとしていた。儒学、算術、兵法、剣術など様々な学問を習い、漸く訪れた充実した毎日に安堵していた。真榮館で学び得たものを再仕官の際に役立てるのだ。そんな幾右衛門の決意も、知る由もなくは安心しきったように眠っている。の顔にかかるほつれ毛を優しく払いのけて、しみじみ見つめる。この一年振り返ればには、嫌な思いばかりさせていた。 ― 済まなかったな。 ―  は谷中村の名主の娘だった。の父である作兵衛、そして谷中村の村人達は幾右衛門等を快く受け入れてくれた。元赤穂藩士で脱盟者というだけで罵倒され罵られてきた幾右衛門は、谷中村に辿り着くまで各地を転々していたのである。  すやすやと眠るの顔を見つめていると、干からびた心に水が注がれるような気持ちになる。 ― だけは不幸にしてはならぬ。・・・よいな。 ―  その時、父/六郎右衛門の言葉が幾右衛門の脳裏に過った。 ― わかっている。―  だからこそこの真榮館で学んだ事を活かし再仕官を果たすのだ。が寝返りを打って、横向きになっていた体が上向きになる。幾右衛門は乱れたの胸元を整え、掛け布団を掛け直した。  幾右衛門は布団から出て立ち上がる。土間に降りて草履を履いた。瓶に貯めてある水を柄杓で飲むと、冷たさで寝ぼけた頭が一気に目覚める。  幾右衛門は、障子戸を開け表に出た。外には同じように目が覚めた者が数人ほど、剣術の鍛錬をしていた。汗が湯気のように体から立ち昇っている。 ― 安穏とはしていられない。 ―    幾右衛門は自分の頬を叩いて鼓舞し、鼻息荒く部屋に戻って行った。同じ頃、真榮館の裏門から人目を憚るように数人の男が出て行った。幾右衛門の預かり知らぬところで、織人たちは着々と計略を進めているのである。
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