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第十五章 際会
一
金杉橋の賀茂屋の店は、珍しい京の染め物が手に入ると評判になっていた。店には連日、武家の娘や町人たちが押し寄せていた。店の前には編笠を被った侍が二人、周囲に気を配りながら立っていた。その二人は仙台藩の隠密部隊/黒脛巾組組頭の世良修理介と大林坊晟海だった。
「御頭・・・。何だこの店は。」
背丈が六尺ほどもある晟海が呟く。
「女子だらけの騒々しい店だ。」
修理介は店の賑わいに興味がなさそうだった。
「御頭!」
わかっているとばかりに修理介は頷く。
店の角から二人を見つめている男がいた。男は二人にさり気なく近付くと二人に深々と頭を下げた。
「北の方々とお見受けいたします。主が奥座敷でお待ちしております。さ、どうぞこちらへ。」
男は常に腰を低くして、修理介と晟海を店の裏へと案内した。裏木戸の戸を開けると、山水を表現している小さな庭があった。足音が聞こえたのか、障子戸が開いて一右衛門が下座に座り平伏していた。
修理介と晟海は、案内されるまま上座に座った。
「遠路、御足労お掛け致しました。」
修理介と晟海に茶が差し出され、二人はそれを一口飲んだ。晟海は修理介に目配せをして、周囲の部屋から感じる殺気を伝えた。
“ 気にするな ”と修理介が、笑みを浮かべながら首を横に振る。
「染物屋を隠れ蓑にするとは考えたものだな。」
部屋を見渡して修理介は静かに呟いた。
「恐れ入り奉りまする。」
「一右衛門。我等を呼んだ理由を聞こう。」
「はい。まず・・・此度のご加勢、畏れ多い事でござりますが、上皇様に成り代わり厚く御礼申し上げ奉りまする。」
一右衛門の過渡な振る舞いに、修理介は呆れてしまう。
「一右衛門、勘違い致すな。我が主が計略に加担いたすは、お公家様の御威光にあらず。弟君/村和様の御無念、そして仙台藩の恩人である浅野内匠頭様を、陰謀により落とし参らせた公儀への報復である。我等は、誰の指図も受けぬ故、左様心得よ。」
「承知仕りました。」
「用向きはそれだけか。では、我等はこれで・・・。」
晟海がそう言って立ち上がる時、一際大きな声で一右衛門が叫んだ。
「お待ち下さいませ!」
修理介と晟海の動きが止まった。
「まだ、お話は終わってはおりませぬ。」
一右衛門は、これまで見せなかった鋭い眼光で、修理介と晟海を睨みつける。
「・・・ならば聞こう。どんな話だ。」
晟海は床が鳴り響くように座るが、修理介は立ったまま腰を下ろさなかった。
「今、我等の計略を脅かす人物が江戸におります。」
「何だと?」
獣のような形相で晟海は、一右衛門を睨んだ。
「その者、織人様と同門で関白/近衛基熙様をお守りいたす衛士でございました。」
「だから、どうした。」
「我等の企て全てを知っております。必ずや我等の妨げとなりましょう。それ故、排除せねばなりません。」
「その者を始末することに力を貸せ・・・と申すのだな。」
一右衛門は、両手をつき深々と頭を下げた。
「戦国の世を震撼させました黒脛巾組。御加勢頂けるのであれば、我等も心強うござりまする。」
修理介と晟海は、互いに顔に見合わせた。
「わかった。その者の人相、出で立ちなど詳細に申してみよ。」
修理介の返事を聞き、一右衛門の口元が一瞬緩んだ。それと同時に修理介と晟海を囲んでいた殺気が、潮が引くように一斉に消えていった。
二
側用人/柳沢吉保は、御用取次部屋で一人思い悩んでいた。赤穂浪士討ち入りの一件以来、その権勢に陰りが生じ始めていた。老中諸将からの報告もなく、ただ日に日に衰えていく綱吉の病状を見守るだけであった。
― このままでは上様の治世も地に落ちてしまう。何か手立てを講じなくては・・・。 ―
陽も下がり始め、昼八つも終わろうとしていた。
「柳沢様。」
名を呼ばれ項垂れていた頭を上げる。障子戸の向こうに影はなく、辺りは静まり返っていた。空耳かと吉保は我に返る。
「柳沢様。」
自分の名を呼ぶ声がはっきり聞こえ、吉保は勢いよく立ち上がった。吉保は障子戸を開け廊下を見渡すが、そこには誰もいなかった。御用取次部屋に戻り、周囲を見渡すがやはり声の主を見つける事は出来なかった。
「何者だ!出て参れっ!」
江戸城内で騒ぎを起こしてはならないと、本能的に察した吉保は小さな声で姿なき者に言った。そして、背後に気配を感じゆっくりと振り返った。そこには黒頭巾を被った男が立っていた。
「お気遣い、忝のうございます。」
男は叫び声を上げなかった吉保に感謝した。
「勘違い致すな、城内で騒ぎを起こさぬためだ。しかし、ワシの一声で直ぐに多勢の人間が参るぞ。」
「死人が出るだけで、得策ではございませんな。」
「何者だ。」
「名は名乗れませぬ。裏徒組・・・とだけ申しておきましょう。」
” 裏徒組 “その名を聞いて吉保は戦慄した。御側用人に就任した際、綱吉から直々にその名を聞かされていた。
「お主等が、あの将軍家隠密の・・・。」
「お初にお目にかかります。」
吉保が戦慄したのは、裏徒組が例え将軍家でも和を乱す悪政をすれば処分すると聞いていたからだった。
「まさか・・・お主たち、上様を。」
「いいえ。」
違うと首を横に振るのを見て、吉保は震え上がる。
「では、このワシを。」
「それでもござりませぬ。」
「で・・・では何故にワシの前に現れた。」
その時、障子戸の向こうから吉保を心配する茶坊主の声が聞こえてくる。
「柳沢様。何かございましたか?」
「い・・・いや、何でもない。下がっておれ。」
こちらに一礼して下がっていく茶坊主の影が見える。
「お主たちは、その時代の治世を守るのが役目のはず。今頃になって何をしに参った。」
「世を乱す悪を葬る為です。」
「何だと?」
「ご納得いかぬようで・・・。」
「当たり前だ!」
声の大きさに注意を払いながら、吉保は続け様に言った。
「ならば何故、赤穂浪士共の討ち入りを黙って見過ごしたのだ。そのせいで上様は・・・。」
黒頭巾の男は、吉保の言葉を遮るように呟く。
「武家同士の私闘に、我等裏徒組が動くことなどあり得ませぬ。むしろ、どうなろうが興味さえ湧かなかった・・・と、申しておきます。」
己の歯が欠けそうなくらい、吉保は食いしばり悔しがった。
「まだあるぞ、これならば何と申し開くつもりだ。まさか泰平の世に慣れ過ぎて、失念したと申さぬだろうな。」
「何の話でございましょう。」
「生類憐れみの令だ。」
吉保は御側用人の権威など、最早どうでも良いとばかりに捲し立てる。
「柳沢様は、悪法だとお考えか。」
「いかにも。あれこそ、世の民草を苦しめた悪そのものではないか!」
「我等は、そのように思ってはおりませぬ。むしろ、そのお陰で世の口減らしや捨て子が、どれだけ無くなった事か・・・。」
何も言い返す事が出来ない吉保の体は、小刻みに震えていた。
「綱吉公は、神君/家康公の教えをお守りになったのでございます。」
「貴様等〜、何様のつもりだ!」
「我等は極書に書かれし、神君/家康公の願いを遂行しているに過ぎません。」
吉保は何事も言い包められる状況に、膝を落として落胆する。目の前の男は、その黒頭巾の下で吉保を嘲笑っているように見えてしまう。黒頭巾の男は黙したまま、吉保の前から消えようせず立っている。その状況に吉保は再び問いかけた。
「上様でもなく、ワシの命を殺りにきたわけでもないとなると、貴様は何をしに参ったのだ。」
「柳沢様が今後、余計な事をせぬよう釘を刺しに参りました。」
「何!」
「あなた様は、上様のご病状の心配だけしていればよろしい。後の始末は我等、裏徒組の仕事でござります。」
黒頭巾の男の言葉に吉保は絶句してしまう。
「余計な動きを少しでも見せたなら・・・。お分かりくださいますな。」
口の中は乾いていた筈だが、吉保は聞こえるような音で唾を飲み込んだ。
「それでは、某はこれにて・・・。」
黒頭巾の男は、外された天井板に吸い込まれるように消えていった。御用取次部屋は、また元の静けさを取り戻していた。
三
日が落ちそうな夕暮れ時、夕七つを知らせる鐘が鳴る。活発だった人の流れも、日が落ち始める頃には少なくなってきている。一党を引き連れ黒脛巾組南組の阿部舎人は、沙霧たちを取り囲んでいた。黒脛巾組は東・西・南・北・天・地の六部隊に分かれ、舎人はその第一部隊の南組を率いている。
一党の最後列で舎人は沙霧たちを見ていた。舎人は襲撃の命を躊躇っていた。舎人は何故、自分が沙霧を亡き者にすることを躊躇しているかわからなかった。女を手に掛けた事など幾度となくあった。此度も修理介からの命を受け、特段の支障もなく受け入れた。しかし、沙霧たちを目の前にし、己の心がざわめき立ち下知を下すことが出来なかった。
「組頭、そろそろ御下知を・・・。」
参謀各の熊ヶ根重助が、堪らず舎人へ催促をする。沙霧たちは両国橋を渡っていた。
「重助。俺は気が乗らぬ。」
「組頭、今になって何を・・・。」
再三の重助の言葉にも舎人は動く様子はない。
「なりませぬぞ。このまま彼奴等を見過ごせば御頭から厳しい処罰が下りますぞ。」
「・・・引くぞ」
「な・・・何を仰っしゃられた。」
「引くと言ったのだ。」
舎人と重助が言い争う間も、黒脛巾組は陣形を崩さず沙霧たちを追っている。
「組頭、何を血迷うておられる。」
「此度の御下命には、我が仙台藩としての意義が見えぬ。」
「馬鹿な・・・。」
「殿、御自らの御下命ならいざ知らず、身元賤しき京の染物屋の加勢などワシは合点がいかぬ!」
あくまでも襲撃を拒む舎人に、重助は困惑してしまう。そうしている間にも、沙霧たちは両国橋を渡り切ってしまった。
「組頭!」
重助が願いを込めて舎人に訴えた。
四
沙霧と伊十郎は、両国橋の袂に佇んていた。連日人探しをしている疲れと、江戸の人の多さに参っていた。圧倒され続けていた沙霧は、とうとう座り込んでしまった。京都以来、付き従う治右衛門が心配気に顔を覗き込む。伊十郎も沙霧に声を掛けた。
「沙霧殿。そろそろ戻らぬか。」
「しかし、吉之丞様も黛様も、まだ見つかっておりません。」
「それはそうだが、沙霧殿は彼奴等の企てを知る唯一の生き証人。ワシが彼奴等なら、今斯様な時こそ狙う。」
沙霧は、自身の不甲斐無さに思わず地面を叩いた。その時、伊十郎は周囲を取り囲む不穏な気配に気づいた。
「沙霧殿。やはり彼奴等、狙うてきたぞ。」
治右衛門は刀の柄に手を置き、臨戦体制に入る。
「慌てるな。ここは天下の往来激しい両国橋だ。このまま居れば襲っては来ぬ。」
そう言っている間にも、沙霧たちの横を丁稚奉公の年少者が風呂敷を背負って通り過ぎる。
伊十郎は往来する者たちに聞こえないように、治右衛門と甲府藩付きの配下二名に伝えている。
「伊十郎様。とはいえ、時が経てばその往来もなくなります。さすれば、数が少ない我等は不利。」
悩む伊十郎に配下のもう一人が続け様に捲し立てる。
「このまま藩邸に逃げましょう。さすれば、助かる道もありましょう。」
「それはならん!彼奴等を引き連れて逃げ込めば宰相様の御命が危険に晒される。」
八方塞がりの五人は、両国橋を動けなかった。両国橋から望む通りも、日が落ちるにつれ人通りが少なくなる。
沙霧たちを囲む気配も、まだ消えていなかった。
「沙霧殿。京八流が不利な立地は何だ。」
「不利な立地などありません。どのような場所であろうと、己の持つ敏捷性と脚力で敵を圧倒いたします。」
勝ち目のない戦いに伊十郎は、判断を迷っていた。沙霧を身を挺して守っても守りきれない事は明らかだった。
― 運を天に任せるしかないか。 ―
時は、そろそろ暮れ六つを報せる鐘が鳴る頃だった。
「沙霧殿、やむを得ん。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。参ろうか。」
沙霧と伊十郎は、刀の柄に手を置き臨戦態勢を取った。伊十郎を先頭に沙霧たちは、右手に神田川を見ながら走り出しす。先頭を行く伊十郎の視界に、前方を塞ぐ黒ずくめの集団が見える。路地に入ろうとするが、そこにも黒ずくめの集団が待ち構えていた。
「沙霧殿。」
「伊十郎殿、後ろにも!」
沙霧たちは四方を取り囲まれていた。
「沙霧殿。某の側から離れるなよ。」
「伊十郎殿、そのような戦い方が通用する相手ではございません。」
「しかし・・・。」
「私なら大丈夫です。」
伊十郎は、沙霧の目を見つめた。その目は武人として覚悟決めた目だった。沙霧たちは意を決して互いの死角を庇うように背中合わせに構えた。
五
沙霧たちを囲んだ黒脛巾組は取り囲みはしたものの、舎人からの下知はなく困惑していた。統率が乱れた集団に、最早沙霧たちを襲撃する事など出来なかった。黒脛巾組一の部隊である南組は、明らかに浮き足立っていた。
「・・・組頭。」
配下の一人が小走りに駆け寄って来る。
「どうした?」
重助が苛立ちを抑えながら舎人に代わって答えた。
「毛利家の座頭衆を名乗る者が組頭に話があると・・・。」
「何?」
「重助、何を驚いている。お前ほどの男が気付かなかったか?先程より我等の周囲を囲んでいるぞ。」
舎人は、視線を動かずに呟いた。重助は、舎人が渋った理由がそこにもあると気付いた。
「姿を見せず失礼仕る。」
舎人と重助の上部より声だけが聞こえてくる。
「伊達家黒脛巾組の方々とお見受けいたしまするが・・・。」
「いかにも・・・。」
「組頭!」
素性を安易に明かす舎人に異を唱え、重助は叫んでしまう。
「獲物を前に、何を躊躇されておられるのか。」
日が暮れ始め、空は紺色に染まっていた。舎人は風に乗って聞こえてくる言葉に返答しなかった。
「手を下す御つもりがなければ、我等座頭衆にお譲り頂きたい・・・。」
「ご随意に・・・。」
舎人が、そう発すると黒脛巾組南組の一党は、沙霧たちの囲みを解き一斉に引き上げてしまう。
残された座頭衆は、黒脛巾組と入れ替わるように沙霧たちを囲んだ。
「御頭。邪魔者が漸く消えましたな。」
腹心の男が、“ 御頭 ”と呼んだ男に耳打ちをした。痩せ細った蝙蝠のような風貌の男が、夜陰に紛れていた己の姿を現した。男は毛利家の忍、座頭衆の頭である覚禅であった。
「さて、では・・・あの女子の始末、つけようではないか。」
覚禅の合図で座頭衆が一斉に、沙霧たちに襲い掛かった。四方を取り囲まれた沙霧たちは、正に袋の鼠であった。
六
沙霧たち一行は、襲われる死角を無くすため隅田川を背にしていた。春の訪れは間もない時期だが、日が暮れる時間は速かった。辺りは一気に闇に包まれていた。
総勢力三十人ほどの忍が暗闇を切り裂いて、左右の通りから挟み込むように迫って来る。沙霧と治右衛門は京八流の特性を生かすため、ひとっ飛びに建物の屋根に飛び移る。
「沙霧殿!」
伊十郎が、沙霧に向かって叫んだ。沙霧を気に掛ける伊十郎に向かって座頭衆が斬り込んで来る。伊十郎は刀を正眼に構え、左右の敵に意識を集中させた。暗闇を駆ける足音を捉え、伊十郎に振りかざす刃を紙一重で躱した。空を切った座頭衆の二人は、体制を崩して前のめりになる。伊十郎は目にも止まらぬ速さで二人の頸動脈を斬った。座頭衆は伊十郎の剣さばきに怯んだ。その隙を見逃さない伊十郎は、右側で構えていた座頭衆を、また瞬時に斬り倒した。
一方、屋根で応戦している沙霧と治右衛門も互いに背中を合わせ座頭衆と対峙していた。足場の安定しない屋根の上だが、沙霧と治右衛門は体制を崩すことなく構えている。
「何をしている!始末を付けよっ!」
覚禅が下知を下す。
座頭衆等が屋根瓦を鳴らしながら、沙霧と治右衛門に迫る。沙霧と治右衛門が、さらに上へと飛び上がる。座頭衆たちは一斉に見上げるが、暗闇に沙霧と治右衛門の姿はかき消される。暗闇の中から雷の如く沙霧と治右衛門が現れ、見上げる座頭衆の頭蓋に車太刀を突き刺した。突き刺した車太刀を引き抜き、そのまま左右の敵を斬り払う。斬られた座頭衆は、屋根から転げ落ち地面に叩きつけられる。
その様子を見ていた覚禅は、高く手をかざし何か配下に命じた。座頭衆たちは一斉に扇を逆さにした陣形を取った。
治右衛門は、斬りかかろうと踏み出した足を元に戻した。
「沙霧様。」
「わかっている。」
沙霧は“ 迂闊に踏み込むな ”という治右衛門の合図に応えた。その時、下で奮戦していた甲府藩士二名の叫び声が聞こえてくる。沙霧の目に座頭衆の刃に斃れる二名の姿が見えた。自分のせいで命を奪われることになった二名を思い、沙霧の胸は切り裂かれるように痛んだ。
「沙霧様!」
憐れんでいる場合ではないと、治右衛門が沙霧を奮い立たせようと叫ぶ。下では伊十郎が絶体絶命の危機に瀕していた。甲府藩士二名を斬った座頭衆が、伊十郎を取り囲んでいるのである。
「伊十郎殿!」
沙霧が気にかけて、伊十郎の名を呼んだ。しかし、その僅かな隙を座頭衆はつき、沙霧に刀を振り下ろす。沙霧が間一髪で受け止め、勢いをそのままに刀を弾き返した。
覚禅は指を軽く鳴らして再び指示を下した。伊十郎を囲んでいた数名が、屋根の上に移動をする。
投網が投げられたように沙霧と治右衛門、伊十郎は周囲を囲まれ身動きとれなくなった。
「殺れ。」
覚禅が静かに呟いた。
七
隅田川を一艘の渡し舟が客を乗せ流れて来る。客は寒さで凍えているのか、体を丸めて震えていた。川を流れていると、右側に見えている日本橋方面は火災を逃れていたためかか各家々は無事だった。本所方面は復興が進んだとはいえ震災と火災の爪痕は未だに残っていた。
「お侍様、もうすぐ両国橋に着きますんで・・・。」
「さっきから、そう申しておるが一向に着かねではないか。」
申し訳なさそうに船頭は肩を竦める。
「しかし、この寒さは老人には堪えるの〜。」
「お侍様、もうすぐですんで・・・。」
渡し舟の客が日本橋方面に顔を向けた時、屋根上の暗闇の中に煌めく白刃が見えた。
「船頭。今すぐそこの岸に舟をつけてもらいたい。」
「お侍様、両国橋をもう少々越えれば・・・。」
「いや、もうここでいい。」
侍の機嫌を損ねたと思い込んだ船頭は、身を竦めながら舟を岸に付けた。
侍が懐に手を忍ばせ金を出そうとする。
「お侍様、野犬の群れからお救い下された御礼でございやす。金はいりやせん。」
船頭は頭を下げながら、老齢の侍に言った。
「済まんな。」
「何を言いなさいます。この御恩は、忘れやいたしやせん。」
「船頭。家族を大事に致せよ。」
「お侍様も、早く御弟子様と会えるといいですな。」
船頭は、そう言うと隅田川を帰って行った。
老齢の侍は船頭を見送った後、大きく溜息をついて呟いた。
「全く・・・江戸は物騒なところじゃのう。」
八
屋根の上と、その下で沙霧たちと座頭衆の攻防は続いていた。両者とも睨み合い、互いの息遣いが聞こえるようだった。屋根上にいた沙霧と治右衛門は下にいた伊十郎と三人、陣形を組んで構えていた。
「沙霧殿、俺が突破口を作る。その間に藩邸まで全速力で駆けよ。」
「馬鹿な、それでは・・・。」
無謀な行動をしようとする伊十郎に沙霧が言った。しかし、すぐに口を閉じた。伊十郎は沙霧を生かすために犠牲になる覚悟でいるのだ。沙霧の目に涙が浮かんできた。
「伊十郎殿。某もお付き合い致します。」
治右衛門が伊十郎に微笑みながら言った。伊十郎も治右衛門の言葉に大きく頷いた。
伊十郎と治右衛門の二人が活路を切り開こうと踏み出そうとしたその時、後方から座頭衆たちの呻き声が聞こえてくる。
「何事!」
沙霧たちの正面にいた覚禅が、異変に気づき叫んだ。沙霧たちも、その異変に気づいて振り返った。沙霧たちを囲んでいるはずの配下の者たちが、石化したように固まり動けずもがいている。動きを封じられた座頭衆たちの中を、一人の老齢の侍がゆっくりと姿を現す。
「吉之丞様!」
沙霧が歓喜の声で叫んだ。老齢の侍は、行方を探していた村上吉之丞だった。
覚禅は吉之丞の姿を見て戦慄した。
「沙霧殿、このような所で何をしておる。」
「多都馬殿を探しておりました。・・・そして、吉之丞様も。」
吉之丞は座頭衆が囲む中を悠々と歩いて来る。座頭衆は、吉之丞に“ 心の一方 ”をかけられ身動き出来なかった。沙霧の目から大粒の涙が溢れ出ていた。
「左様か・・・それは済まなかったの。」
吉之丞は沙霧を慰め、労るように頭を撫でた。そして、ゆっくりと覚禅の方へ向き直った。覚禅に向けられた吉之丞の目は恐ろしいほどに冷たかった。
「全員が座頭に扮したその出で立ち。お主等、毛利家の座頭衆だな?・・・だとしたら、そこにおるのは覚禅か?」
名を言われた覚禅は、過去の忌まわしい記憶が甦っていた。細川家に騒動を起こそうと画策した際、吉之丞とは相対していたのだ。
「あの折、命だけは助けてやったに。毛利家は、まだ懲りておらぬようだな。」
覚禅は静かに少しずつ後退りしていく。吉之丞は、ゆっくりと覚禅たち座頭衆との間合いを詰めていく。
「覚禅、観念いたせ。」
吉之丞はそう言うと手を前に突き出し、渾身の“ 心の一方 ”を覚禅等座頭衆に叩き込んだ。
覚禅は隣に立っていた配下を盾にして、“ 心の一方 ”を逃れた。
「引けぃ!」
覚禅は残りの配下に命じ、座頭衆を引き上げさせた。“ 心の一方 ”で動きを封じられた座頭衆を残し、一党は疾風のように去って行った。
「村上殿。危ういところを・・・忝い。」
伊十郎は涙を隠しながら吉之丞に頭を下げた。隣に並ぶ治右衛門は肩を震わせながら俯いていた。方々に刀傷を負っていた伊十郎は、安心し力尽きたように膝を落とした。治右衛門が慌てて伊十郎を支える。
「さて、沙霧殿。参ろうか・・・。」
「では、宰相様の御屋敷に来て頂けるのですか?」
「このような事態では、致し方あるまい。」
「はい、では!」
沙霧と吉之丞が歩き出そうとした時、治右衛門は二人に声をかける。
「お二人共、お待ち下され。この者等は、いかがいたしまする。」
「放って置け。いずれ捕り方が来るだろう。」
そう吉之丞が言っている時、御用提灯の明かりが近付いて来た。“ 心の一方 ”で動きを封じられた座頭衆は、微動だにせず立っている。
「そら、来たぞ。」
御用提灯を手に現れたのは、隼人と新八だった。新八は沙霧たちを見つけると、十手を抜いて勇ましく叫んだ。
「御用だ!てめぇ等、一体何者だ!」
隼人は黙したまま、身動き出来ず固まっている座頭の集団を観察している。
「旦那、何なんっすか。こいつ等・・・。」
隼人は吉之丞を見つめ、暫く様子を探っていた。隣にいる男装の女は車太刀を差していた。隼人と沙霧たちの無言の睨み合いが暫く続いた。言葉は発していないが、互いに気持ちをぶつけ合うように向かい合っていた。
「おい、もう直ぐ目付衆が来るぜ。早く逃げたらどうだ?」
隼人が促すと沙霧たちは一礼して、その場から去って行った。
「旦那・・・。」
新八が心配そうに隼人の顔を覗き込む。そうしている間に、予てより若年寄・井上正岑から密命を受けて動いていた目付衆が駆け付けてきた。
「町方!何だこ奴等は!」
数十人が身動き出来ず固まっている姿は、異様な光景だった。
「さぁ・・・。伊賀守様んとこへ入った盗っ人の類いじゃねぇのか?」
隼人は目付衆に惚けてみせた。
「後は、アンタ等に任せていいな?行くぞ、新八!」
「おい、町方!ちょっと待て。」
目付衆を完全に無視して、隼人は新八を連れ足早に去って行った。目付衆を残して歩き出した隼人は、暫くして足を止めた。
「旦那。どうかなさいましたか?」
「新八。すまねぇが多都馬さんを呼んで来てくれ。俺は、長兵衛のところに行っている。」
「わかりました。」
新八は隼人の言いつけとおりに、多都馬がいる調達屋へ走って行った。新八が去って行った事を確認した隼人は、刀を抜いて物陰に向かって正眼に構える。
「さぁ、遠慮はいらねぇ。かかってきな。」
隼人に言われ物陰に隠れていた沙霧たちが姿を現した。
「お待ち下さい。私たちは敵ではありません。」
沙霧は腰に差していた車太刀を右手に持ち替え敵意が無いことを隼人に示した。
「あなた様は、黛多都馬殿をご存知なのですか?」
「何?」
「先程、” 多都馬さんを呼んでくれ “・・・と。」
必死に訴えかける沙霧に、隼人は抜いていた刀を鞘に納めた。
「黛多都馬殿に会わせていただけませんか?」
返答に困っている隼人に、吉之丞が追い打ちをかけるように言う。
「多都馬はな・・・ワシの弟子なのだ。」
「はぁ?」
沙霧と吉之丞の思わぬ言葉に、隼人は唖然となり立ち尽くしてしまった。
― どうなってんだ、これは・・・。 ―
九
新八に連れられ多都馬は、長兵衛の口入屋に到着した。
「隼人!長兵衛!、今着いたぞ!」
沙霧と吉之丞が来ている事など知らぬ多都馬は、我が家のように上がり込む。新八を引き連れ長兵衛のいる奥座敷に向かうと、三吉が血相を変えて走って来る。三吉は勢い余って新八に衝突してしまう。三吉と新八は、互いに尻餅をついて床を転がっている。
「おいおい、どうしたってんだ。」
「だ・・・旦那、大変な事になっておりますぜ・・・落ち着いて聞いておくんなせー。」
多都馬は、三吉を引き起こした。
「落ち着くのはお前だろ。」
「む・・・村上吉之丞様っていうお侍をご存知ですか?」
その名を聞いて多都馬は驚いた。
「三吉!何故、師匠をお前が知っているんだ!」
「い・・・いらっしゃるんですよ。今、元締とお話していらっしゃいます。」
多都馬は部屋の境の襖を次々に開けて奥座敷ヘ急いだ。近づくにつれ、懐かしい師匠の声が聞こえてくる。最後の襖を勢いよく開けると師匠である村上吉之丞が座っていた。
「師匠!」
「おぅ、多都馬!」
腰に差した刀を右手に持ち替え、多都馬は吉之丞の前に頭を下げた。
「ご無沙汰しております。」
「うむ。久し振りだな。しかし、元気そうで何よりだ。」
「師匠もお元気そうで・・・。しかし、熊本からわざわざ江戸に来られたのですか。」
「お前に授けた二階堂平法、正しき事に使われているか気になってな。」
「それは・・・。」
吉之丞は手を掲げて多都馬の言葉を止めた。
「わかっている。・・・お前がここへ来る間に、この方たちに聞かせてもらった。」
吉之丞は、隼人と長兵衛の顔を見渡して言った。
「隼人・・・長兵衛。」
多都馬が二人を見つめて呟く。
長兵衛は恥ずかしそうに鼻を啜り、隼人は愛想悪そうに顔を背けた。
「須乃さんの前で、いつも鼻の下を伸ばしているアンタの事を言ったまでさ。」
隼人が言い終えると、吉之丞の隣に座っている沙霧が向き直って頭を下げた。沙霧に続き、伊十郎もそれに倣った。
「此度は、ご厄介をおかけいたした。某は宰相様の警護を仰せつかっております。尾張藩の村田伊十郎と申す。」
沙霧も伊十郎に続いて名乗った。
「お初にお目にかかります。京の守護を司る兵衛府にて天子様をお守りいたしております、麻角沙霧と申します。」
「同じく、成田治右衛門と申します。」
「麻角・・・?では、あなたは麻角大膳殿の・・・。」
「娘にございます。」
「御父上は、如何された。」
無外流の師である辻月丹から名前を聞かされていた多都馬は、その動向が気になっていた。
「殺されました。」
「誰に・・・。」
「我が流派の伝承者である・・・左近寺織人と申す者にです。」
これで一つ得心出来たと多都馬は思った。月丹は大膳を評価していた。その人物が非道なことに加担するわけがないのだ。
「それにしても何故、長兵衛の店に・・・。」
「俺が連れて来たんだ。」
長兵衛の隣に座る隼人が、バツが悪そうに話した。
「理由がわからねーな、全く・・・。」
「恐れ入ります。私が最初からお話し申し上げます。」
沙霧は事の次第をゆっくりと話し始めた。
「まずは私共が江戸へ参りました理由をお聞き下さい。今、宮中は御先代霊元上皇様が、御譲位なされた東山天皇陛下様の御代でござります。」
政に関わる話になりそうな予感がして、長兵衛は席を外そうと腰を上げた。三吉や新八も、それに倣って立ち上がる。
「長兵衛。それからお前たちも聞いておいてくれ。」
多都馬が長兵衛の肩を掴んで座らせた。
「しかし、霊元上皇様は今も尚、実権を握っており宮中にて院政を引いておられます。」
三吉と新八は沙霧の話す内容がわからず、少し離れたところでヒソヒソと話しをしている。“ 静かにしろ ”と長兵衛が振り返り二人を睨みつける。
「その上皇様が王政復古を目論み、公儀へ反乱を企てておるのでございます。我等は、それを阻止すべく江戸へ参りました。」
「上皇様はただの神輿だろう・・・実際の旗頭は誰だ。」
「上皇様の側近であり前の関白だった一条冬経様です。そして実働部隊を率いているのは我等京八流でございます。それに・・・裏の始末を生業としている賀茂屋一右衛門。」
「京八流だけではないぜ。」
「えっ?」
「尾張藩、水戸藩も一枚に絡んでいる。」
「何!」
尾張と聞いて伊十郎は驚き立ち上がった。
「落ち着きな。加担していた連中は、俺達が叩き潰した。既に一党から抜けている、安心しな。」
伊十郎は安堵したように静かに腰を下ろした。沙霧と治右衛門は、顔を見合わせ驚いている。
「冬経様の企ての詳細はわかりません。しかし、今際の際に父が遺した言葉がございました。冬経様たちが、この江戸で乱を起こし機に乗じて幕府を倒す・・・と。」
「火をつけておいて、自分で消しに来る・・・か。」
隼人が呟いた。
「多都馬様。」
長兵衛が” 厳しい戦いになる “と、険しい表情で多都馬に訴えてきた。多都馬も長兵衛に大きく頷いた。
「多都馬殿。」
沙霧が意を決したように名を呼んだ。
「御助勢、お願い申します。」
「・・・多都馬、どうする。」
吉之丞が多都馬の目を見つめて言った。
「無論、奴等の企てなど俺が叩き潰してやりますよ。」
多都馬の言葉を聞き、長兵衛と三吉が奮い立たった。隼人は表情を変えず、静かに目を閉じた。沙霧と治右衛門は、手を取り合い喜んでいた。
「多都馬殿、礼を申します。」
二人が喜び合うのを尻目に、多都馬は一人庭へ降り立った。長兵衛は、心配そうに多都馬を目で追っていた。見上げた頭上には、眩しいくらいに月が輝いていた。
― 必ず守ってみせる。 ―
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