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第十六章 さらば 友よ
一
仙台藩伊達家下屋敷、黒脛巾組が控える部屋に一の部隊南組の組頭/阿部舎人と腹心の熊ヶ根重助が来ていた。
黒脛巾組/頭領の世良修理介と参謀格の大林坊晟海が、二人を呼び寄せていた。
「舎人。何故、御頭の命に背いた。」
晟海は目の前にひれ伏す二人に言った。
「申し訳ござりませぬ。」
突然、重助が半歩前に出る。
「何だ重助。」
「はっ。命に背いたのは組頭にあらず。あの女子は某の一存にて、後に控えし毛利家座頭衆に譲り申しました。。故に組頭と配下の者には、何の咎もござりませぬ。何卒御容赦の程、願い奉ります。」
重助は一人で全てを被ろうとしていた。
「重助。そのような話、信じると思うか。」
「舎人。何も申さねば、お前に死を与えねばならぬが・・・。」
修理介は、舎人を見つめて言った。舎人は、黙ったまま何も答えなかった。
「ご存分に・・・。」
舎人はそう言って再び頭を下げた。舎人の姿を見て、修理介は大きな溜息をついた。
「舎人。お前のその心意気、誠に見事なものよ。」
舎人は両手をついたまま、頭を上げていない。修理介は困ったように晟海を見る。
「だがな・・・少しは重助や配下の者たちの気持ちも考えよ。」
頭を上げた舎人は、修理介の真意がわからず顔をしかめる。
「わからぬか・・・お前の武人としての誇り、南組配下の者たち、全員がわかっているのだ。」
晟海が後ろの襖を開けると、南組配下の者たちが勢揃いしていた。
「お前たち・・・。」
「皆、お前の命乞いを嘆願しに参ったのだ。」
二十数名いるであろう南組の面々が部屋を埋め尽くしていた。
「なぁ、舎人。何故、あの女子を討たなかった。お前ほどの腕なら、例え幻の剣術であっても敵ではなかったはず。」
舎人は修理介の後ろに控える配下の面々を見つめた。皆、舎人と共に死を覚悟する顔つきだった。
「八方を敵に囲まれ、少しも臆せず立ち向かう姿に我を取り戻しました。我等の敵はあくまで公儀のはず、あのような手負いともいうべき女子は討つべき敵ではありませぬ。それ故、修理介様の・・・いや、伊達家の名誉に傷をつける所業は出来ませんでした。」
己の思いに一途な舎人の目を、修理介は暫くの間見つめていた。隣で晟海が修理介に向かって大きく頷いた。
「舎人。済まなかったな。」
「御頭・・・。」
思いも寄らぬ修理介の言葉に、舎人は驚いていた。
「忍びとはいえ、我等は武人の端くれ。武人としての誇りは捨ててはいかん。」
修理介は、舎人だけではなく南組配下にも言った。
「故に、此度の事は不問にいたす。」
「御頭。しかし、それではお公家様ヘの申し開きは如何されるおつもりで・・・。」
「舎人、案ずるな。御頭は、既に伊達家としての立場を伝えておる。」
晟海が豪快に笑い飛ばした。
「御家老も御承知なされる筈だ。」
重助は安堵の余り肩を激しく揺らしながら呼吸をした。互いに喜び合う中、舎人はただ一人訪れる不安を胸に抱えていた。
ニ
赤坂の三次藩下屋敷に向かって多都馬と須乃は歩いていた。調達屋の店には昨夜から、吉之丞が逗留している。二人が三次藩下屋敷に出向くのは、用人である落合与左衛門たっての願いによるものだった。赤坂は多数の武家屋敷が建ち並び、江戸城の西側の要衝として築いた町だった。氷川坂を登ると三次藩下屋敷があり、出迎えた瑤泉院の付人と共に奥座敷ヘ向かった。奥座敷に近づくにつれ、瑤泉院と与左衛門の言い争う声が聞こえてくる。
奥座敷の前で立ち止まり、多都馬と須乃は平伏して襖が開かれるのを待った。
「瑤泉院様。」
付人が部屋の外から声をかけた。
「着きましたか?」
中から戸田局らしき声が聞こえる。
「調達屋の黛多都馬殿と須乃殿です。」
襖を開けたのは、高田郡兵衛だった。
「郡兵衛殿・・・。」
郡兵衛は多都馬と須乃に一礼すると、部屋の隅に静かに進み着座した。部屋の梁には、郡兵衛の槍が掛けてあった。
郡兵衛は瑤泉院の側近くで警護をしているようだった。
「多都馬殿、よう参られた。」
「多都馬、須乃・・・よう来てくれました。」
多都馬と須乃の顔を見て、瑤泉院の表情が僅かだが綻んだ。多都馬と須乃は奥座敷に入った。二人は、瑤泉院の御前で平伏し挨拶をする。
「瑤泉院様。ご機嫌麗しゅう・・・では、無さそうですな。」
歯に衣着せぬ言い方は、誰の前であろうと変わらない多都馬である。多都馬がそう言うと瑤泉院は、少し咳払いをして腰を浮かして座り直した。
「一体何があったのです。皆様方の御声は、五間先からでも聞こえましたぞ。」
「多都馬殿からも言うて下さらぬか。」
与左衛門が縋るように言った。
身を乗り出して多都馬に訴える与左衛門は、大声を出し過ぎたせいか疲弊気味であった。瑤泉院は戸田局と与左衛門に強い視線を向けていた。郡兵衛は着座してから瑤泉院を守ることに専念しているようで、侵入者の気配に集中している。
「わらわは、何が起きようと佐渡守様と会いまする。」
― 佐渡守といえば、老中/小笠原長重。瑤泉院様は、老中と会って何をするつもりなのだ。―
「瑤泉院様。佐渡守と申せば、御老中/小笠原長重様。その御方に、どのような御用がお有りなのでしょうか。」
多都馬の問いかけに、瑤泉院は俯いて黙ってしまう。
「多都馬殿。瑤泉院様は・・・。」
与左衛門が言いかけたところで、瑤泉院が割って入った。
「与左衛門。よい、わらわが申します。」
側近くにいる戸田局は辛そうな表情をして俯いた。
「佐渡守様は、近く龍光寺に御先代様ならびに藩祖/忠知公の墓参に参られるとのこと。わらわは、その際に流罪になった遺児と今後罪に問われるであろう家族の赦免を願うつもりなのです。」
「願うと申されましても、小笠原様はどのように仰せられておるのでしょうか。」
「心配せずともよい。わらわの思いをお聞き下さり、龍光寺にてお会い頂けることになった。」
戸田局も与左衛門も、瑤泉院の話に苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「瑤泉院様。小笠原様とお会いになる道筋は、どなた様がお決めになられたので?」
多都馬の問いに、与左衛門が間髪を入れず答えた。
「御父上であらせられる長照様です。」
「ならば・・・。」
多都馬が答えようとするところを遮るように与左衛門が続ける。
「殿は瑤泉院様の状況をわかってはおられぬのだ。命狙われることなど露ほども感じておらぬ。」
「与左衛門!父上に対し無礼であろう!」
「先程より、無礼を承知で何度も申し上げております。この与左衛門、瑤泉院様の御命をお守り出来るなら・・・お手打ちになろうとも本望でごさる。」
主を守ろうとする与左衛門の決意が、波動となって多都馬の胸に伝わってくる。
「与左衛門殿、落ち着いてください。」
多都馬が与左衛門の気持ちを鎮めるように言う。
「瑤泉院様。与左衛門殿が申されているとおり、御命が狙われている事は確かでございます。数ヶ月ほど前、大石殿の御内儀/りく殿が何者かに襲われました。」
「何、りくが・・・。」
瑤泉院は不安気に郡兵衛を見る。
「ご安心くださいませ。本家の外聞衆が、ご実家の豊岡までお送りいたしております。」
戸田局と与左衛門が大きく溜息をつく。
「りく殿を襲った何者かでございますが。京に御座します元関白太政大臣/一条冬経様の一党でございます。江戸にて乱を起こそうと画策しておりまする。」
「乱を?」
瑤泉院と戸田局は息を呑み、その恐怖に身を震わせた6。
「自ら火を付け、そして消しに来るのです。今までの赤穂藩士斬殺事件も、物語の序章に過ぎませぬ。政に不満を抱く外様大名、旗本八万騎でさえ抱き込んで攻め入ってくることでしょう。」
「戦になるというのか・・・。」
瑤泉院は、恐れを隠しながら尋ねた。
「最悪の事態を想定すると、そうなりまする。」
戸田局も与左衛門も俯き、緊張で身を強張らせている。郡兵衛は変わらず、微動だにせず座っている。
「瑤泉院様は、その火種の元にござりまする。今、不用意にお出掛けなされば、彼奴等に絶好の機会を与えます。御命が奪われることになれば、それを好機とばかりに公儀を糾弾いたしましょう。そして、上様に政を治める器量なしと大名諸侯に知らしめるのです。」
多都馬の訴えを瑤泉院は、目を閉じて心静かに聞いていた。
「瑤泉院様・・・。」
名を呼ばれ、瑤泉院はゆっくりと語り出した。
「多都馬・・・戸田、そして与左衛門。聞いてください。」
三
瑤泉院は話を始める前に、郡兵衛に声を掛け閉めていた障子戸を開けさせた。桜は既に散り木々は装いを変え、そよ風は肌に心地よくなっていた。郡兵衛は注意深く辺りを警戒しながら、瑤泉院を守るようにその場に座り込んだ。
「多都馬。」
「はい。」
「其方、此度の事件に及び、何名の遺児が罪咎に処せられ、またどれだけの者が生活に困窮しているか知っておりますか。」
「はい。吉田伝内殿、間瀬左太八殿、中村忠三郎殿、村松政右衛門殿が八丈島へ。大石殿の遺児を含め十五名が、十五歳を迎えると同時に何らかの刑に処せらることになります。生活に困窮する者は・・・。」
途切れることなく話す様子に、多都馬が赤穂の藩士たちのことを、どれほど気にかけていたか。その思いは須乃の胸を締め付けた。
「そうです・・・数百にも及ぶ人々が、先の将来に不安を抱え生きていかねばならなくなりました。また、吉良家も御家断絶になったと聞き及んでおります。だとすれば、その数は千を超すかも知れません。」
瑤泉院の脳裏には日々の暮らしに苦しんでいる元藩士たちの姿が浮かんでいた。
「その全てが殿の刃傷によるもの・・・。」
「御後室様!」
それは言ってはなりませぬと、釘を刺すように戸田局は声を上げた。
「多都馬の警告は身に沁みております。ですが・・・こうしている間にも、皆貧しさと屈辱に耐えて生きているのです。」
瑤泉院の言葉は、多都馬を始め居並ぶ皆に伸し掛かった。
「多都馬。」
「はっ。」
「これは、わらわの使命だと思っておるのです。」
「瑤泉院様・・・。」
“ そうではない ”と首を振る多都馬に、瑤泉院も説き伏せるように続けた。
「成さねばならぬのです、多都馬。・・・何としても。」
瑤泉院の目は涙に濡れていた。
「戸田・・・与左衛門、そして多都馬。わかってください。」
瑤泉院は、戸田局と与左衛門、多都馬に向かって頭を下げた。瑤泉院の並々ならぬ決意に、多都馬は言葉を失った。やるせない気持ちを抱えながら沈黙はつづいた。
漂う重たい空気を取り払うように、瑤泉院は明るい声で呟いた。
「佐渡守様が会うて下さるのじゃ。これは明るい兆しが見えたといえるのではありませんか?」
「・・・瑤泉院様。」
「多都馬、案ずるでない。わらわには、郡兵衛が付いております。」
瑤泉院は外を警戒している郡兵衛の背中を、じっと見つめながら言った。その瞳の奥から湧き上がる熱い血潮を多都馬は感じていた。
四
瑤泉院との対話を終え、多都馬と須乃は奥座敷を退出した。小笠原長重との対面を、多都馬は諦めさせる事が出来なかった。廊下を歩く足取りは自然と重くなっていた。
郡兵衛がいるからと強がっていたが、命を狙われる恐怖は消えるはずはなかった。だが、その恐怖をものともしない信念を多都馬は理解していた。
「多都馬殿!」
声を掛けられ多都馬は振り返った。郡兵衛が多都馬と須乃を呼び止める。
「多都馬殿。お帰りのところ申し訳ない。お急ぎでなければ、どうであろう・・・一献。」
「それでは私は先に・・・。」
「いや、須乃殿もご一緒に・・・。」
須乃は多都馬を見つめ同席の確認をする。多都馬は小さく頷き、郡兵衛の後を付いていく。郡兵衛は割当てられた武家長屋の前で止まり、多都馬と須乃を招き入れた。
「さ、少々手狭だが・・・。」
多都馬と須乃は、郡兵衛の武家長屋に上がった。
「殺風景な部屋だな。」
多都馬は部屋を見渡し苦笑して言った。
「御部屋を賜ったが、瑤泉院様に付きっきりでござれば・・・いやお恥ずかしい。」
郡兵衛は照れながら台所で酒の用意をしている。それを見た須乃は、すかさず立ち上がり手伝いに行く。
「須乃殿・・・忝い。」
「高田様、後は私がやりますので多都馬様とゆっくりなさってください。」
郡兵衛は小さな樽を二つ取り出して須乃に差し出した。
「これはあさりと蜆の佃煮でな。多都馬殿の好物だ。酒と一緒に頼む。」
樽の蓋を開けると、煮汁がしっかり染み込んだあさりと蜆が詰まっている。
「まぁ、美味しそう。」
「須乃殿、摘んでみないか?」
「よろしいのですか?」
「当たり前ではないか。役得というもんだ。」
須乃は、箸で一摘み口に入れた。少し塩辛いが生姜が効いて、煮汁が口の中で広がる感じが美味しい。
「気に入ってくれたようだな。左程、荷物にはならぬ筈だ。帰りは、樽ごと持って帰ってくれ。数馬殿も喜ぶと思うが・・・。」
「ですが・・・それでは高田様の分が・・・。」
「某は瑤泉院様の警護がある。珍味なんで腐らせたら勿体ない。」
「おーい。さっきから何を二人でコソコソと話しをしているんだ?」
時折、聞こえる童のような須乃の声が気になったのか、隣の部屋から多都馬が声をかけた。
「多都馬殿が、須乃殿にヤキモチをやいておるわ。」
郡兵衛は屈託のない笑顔を須乃に向けて、隣の部屋に待つ多都馬のところへ行った。
五
郡兵衛が一升徳利を抱えてやってきた。
「おっ、郡兵衛殿・・・それは剣菱ではないか。さすが大名屋敷だ。いい酒が置いてあるな。」
多都馬は堪らず舌舐めずりをしている。
「瑤泉院様より頂いた。開けるのは、今日が始めてだ。」
郡兵衛は多都馬に猪口を渡して自慢の酒を注いだ。多都馬と郡兵衛は互いに猪口をかざして酒を飲んだ。
「いやぁ~、美味い!」
そうしているうちに須乃が皿に、あさりと蜆の佃煮を盛り付けやってくる。
「お待たせいたしました〜。」
「おぉ、須乃殿!あなたも一献。」
須乃は差し出された猪口を受け取った。郡兵衛が上機嫌に酒を注ぐ。須乃は注がれた酒を一気に飲んだ。
「いい飲みっぷりだ。さぁ、どんどんやってくれ。」
多都馬と須乃はあさりの佃煮に手を伸ばす。二人とも、佃煮の美味しさに舌鼓を打っている。一通り酒が回ってきたところで、郡兵衛は猪口を下においた。そして、手を付いて頭を下げた。
「多都馬殿・・・誠に恩に着る。」
「いきなり、どうされた。」
真剣に話し出した郡兵衛の様子に、須乃は持っていた箸を卓の上に置いた。
「瑤泉院様の事・・・。本意ではないと思うが、最後は納得してくれたではないか。」
「瑤泉院様の赤穂藩士たちへの思い、あれ程とは思わなかった。」
「いや、瑤泉院様は殿が刃傷に及んだことを御自分の責任だと感じておいでなのだ。」
「馬鹿な・・・瑤泉院様にどのような責めがあるというのだ。」
郡兵衛は、話すべきか迷っていた。須乃は郡兵衛の様子を辛そうな面持ちで見つめている。
「高田様。私からお話しいたします。」
そう話す須乃の顔も悲しみに満ちていた。
「多都馬様。覚えていらっしゃいますか・・・あの日の事を。」
多都馬は須乃との縁が生まれた、ある事件の事を思い出した。
きっかけは不明だが浅野内匠頭長矩は、脇差を抜き須乃たち腰元を追い回していたのである。特に須乃に対して執着していて、逃げる須乃を追いかけていた。御前試合の後、堀部安兵衛に招かれ下屋敷に滞在していた多都馬が出くわし須乃の窮地を救ったのだ。
「長矩様と瑤泉院様は、もう随分長く前から御夫婦関係は破綻しておりました。」
「なに・・・。」
「長矩様の好色振りは際限を知らず、痞の症状が出た時は特に酷くなり、あの夜のようなお振舞いを・・・。」
そう言った後、須乃は目を閉じて俯いてしまった。隣りにいた多都馬が、須乃の手を優しく握り締める。
「しかし、長矩様は御側室を一人も持たなかったではないか。それは瑤泉院様を、一途に思っていたからではないのか。」
須乃が多都馬を見つめながら、首を横に振った。郡兵衛は辛そうだ須乃の代わりに多都馬に真相を話す。
「そこが殿の狡猾なところよ。側室など置けば化粧料など費用がかさむ。手近な腰元を、その都度慰みものにすれば金は掛からぬし、公儀への報告もせずに済む。」
「あの折も・・・、長矩様は瑤泉院様の腰元を御寝所へ連れて行こうとしていたのです。その腰元は、まだ十五にも満たぬ子供でした。激しく抵抗いたしたのがお気に触り、長矩様も興奮して刀を抜いたのです。」
あまりの出来事に多都馬は絶句してしまう。
「斬られる寸前、私はお手討ち覚悟で懐剣を抜き、振り下ろされた刀を弾き返しました。」
御前試合を行ったその夜、そのような事があったのかと多都馬は愕然としてしまう。
「瑤泉院様の” 逃げなさい “という御言葉に、我に返り座敷から出て行ったのです。」
「そこに俺が出くわしたわけか・・・。」
長矩の振りかざす刃を躱しながら、逃げて来る須乃の姿は今も脳裏に焼き付いている。当時の恐怖を思い出し震える須乃の体を、多都馬は優しく労るように抱き締めた。
六
多都馬は須乃が落ち着くまで抱き締めていた。郡兵衛は二人から少し離れたところに立ち、窓から見える空を眺めていた。陽は傾き空は橙色に染まり始めていた。
家臣である郡兵衛に長矩の事を語らせない須乃の気遣いに胸か締め付けられていた。
「須乃殿・・・忝い。」
郡兵衛は振り返り、須乃に礼を言った。
「多都馬殿・・・瑤泉院様は刃傷が起きたあの日、何も言葉を交わさず見送りもせず・・・そのようにして殿を送り出した事を悔やんでおられるのだ。藩主の妻という立場を忘れ、女として振る舞ったせいで取り返しのつかない事態を招いたと・・・御自分を責めている。」
瑤泉院が必死に訴えている時、須乃は終始無言だった。それは、瑤泉院の心の内を理解していたからだった。
「須乃・・・。」
多都馬は須乃の髪を優しく撫でた。
「郡兵衛殿・・・。もし瑤泉院様に言上出来る機会があったら言っておいて頂きたい。」
「承ろう。」
「瑤泉院様の御気持ちは、当たり前・・・ごく普通なのだと。」
「当たり前・・・。」
「そうだ。」
須乃は多都馬の胸の中から、その表情を見上げていた。人の気持ちを思い遣る多都馬の顔はいつも優しい。
「女である以上、そして人であるならば、当たり前の感情じゃあないか。」
「多都馬殿・・・。」
落ち着きを取り戻した須乃は、立ち上がり郡兵衛の側に歩み寄る。
「高田様。」
郡兵衛は心配そうに近付いてくる須乃の顔を見つめた。
「私は、瑤泉院様のお陰で多都馬様と出会えました。・・・そして今、私はとても幸せです。・・・私の側には、いつも多都馬様が優しく寄り添ってくださります。」
郡兵衛が不思議そうな顔をしていると、須乃はいつもの明るい笑顔で話しを続けた。
「ですから高田様は・・・もっと、もっと瑤泉院様の御気持ちに寄り添って頂きたいのです。高田様ならば、必ず瑤泉院様の抱えている呪縛を解いて下さると思っています。」
それから、三人は佃煮をツマミに酒を飲み始めた。楽しい一時は過ぎていくのが早い。夕七つを告げる鐘の音が聞こえる。多都馬は、郡兵衛から貰った佃煮の入った樽を小脇に抱え立ち上がる。
「そろそろ行くか・・・。」
「はい。」
郡兵衛は二人を門まで送りに出た。
「瑤泉院様を頼むぞ。」
「承知いたした。」
他人行儀な郡兵衛の物言いに多都馬は苦笑いをした。
「郡兵衛殿・・・いや、郡兵衛。友には、そんな受け答えはしないぜ。」
多都馬は、手を差し出して言った。郡兵衛は差し出された手を握って言う。
「心得た。」
郡兵衛の返事に多都馬が微笑んだ。
「友よ、また会おう。」
そう言って多都馬は、三次藩下屋敷を後にした。郡兵衛は氷川坂を下っていく二人の姿を、見えなくなるまで見送っていた。
「・・・さらば、友よ。」
七
日が暮れ客がいなくなった金杉橋の賀茂屋は、店を閉めるため使用人たちが後片付けをしている。その中を頭巾を被った侍が入って来る。使用人の一人が、その侍の前に躍り出て声を掛ける。
「織人様と旦那様が奥でお待ちしております。」
頭巾の侍は、そのまま上がり込んで先を歩く使用人の後に続いた。庭の石灯籠の明かりは、美しさより妖しさが際立ってみえる。使用人は奥座敷の前で立ち止まり、中にいる織人と一右衛門に伝える。
「旦那様・・・。お見えになりました。」
「お入りくださいませ。」
一右衛門の低い凄みのある声が聞こえる。中に入ると下座に織人と一右衛門が座っていた。
「山野辺様・・・よくぞお越しくださいました。」
頭巾の侍は、水戸藩家老/山野辺義清だった。義清は頭巾を取り、織人と一右衛門を睨みつけた。
「賀茂屋・・・例の女子、取り逃がしたそうだな。」
「面目次第もございません。」
「我等が取り逃がしたわけではありませんよ。」
織人が例の如く、薄笑いを浮かべて言う。
「しかし、お主たちが命じたのであろう。」
「二階堂平法の男が現れたのです。私以外、相手にはなりませぬ・・・むしろ敵わぬ相手に兵を引いた判断は正しかったと存じますが・・・。」
正論を言い放つ織人に、義清は返す言葉もなく押し黙ってしまう。相変わらず薄笑いを浮かべる織人は、義清を小馬鹿にしているように見える。
「ま・・・起きてしまった事をとやかく言っても詮無いこと、座頭衆の皆様は我等の企てにはまだまだ必要でございます。いずれ、別の事で御活躍頂きます。」
一右衛門は憤慨している義清の気持ちを宥めた。
「・・・で、京の方は如何が相成っておる。」
「西国諸国の大名たちへの手筈は整っておりまする。毛利家、立花家、黒田家、島津家は御所様の御命令で兵二万、江戸に進軍出来る手筈は整っております。」
「全部で八万の軍勢か・・・。」
「ただ・・・。」
一右衛門は一言呟くと、義清を凝視した。
「ただ・・・何だ。」
「軍勢を繰り出す呼び水には、まだまだ足りませぬ。」
「なに?」
「御三家ならびに甲府藩が残っております。」
義清は自分が狙われていると感じたのか、脇差にそっと手を掛ける。その動作を見て織人が突然笑い出した。
「何が可笑しい!」
「いや、これは失礼。一右衛門さん、我々はつくづく信用されていないのですね~。」
「山野辺様、御三家というのは紀州のことでございますよ。」
義清は脇差から手を離し腰を下ろした。
「尾張には吉通様がおわしますが、尾張からは将軍家は出さぬと決まっております。しかも、尾張の家老たちは継承問題には及び腰でございます。」
「紀州に手を引かせる手段は?」
「それはお任せを・・・。」
「光貞公を亡き者にするつもりか?」
「それでは将軍家は痛くも痒くもありません。」
「何を企んでおる。」
「知らぬほうが・・・よろしいかと。」
義清は織人と一右衛門を交互に見つめた。織人の薄笑い顔は、纏わりつくようで気味が悪い。
「さて・・・山野辺様。お食事でもいかがですか?ご用意いたしました。」
織人と一右衛門の後ろの襖が開くと、豪華な食事と女たちが並んでいた。一右衛門は義清を部屋へ誘った。織人は立ち上がり一人部屋を出ていく。
― 付き合いきれませんね。 ―
八
寝静まる深夜の丑三つ時、三次藩下屋敷の瑤泉院の寝所前に郡兵衛は槍を構え警護している。風が草木を揺らす度、郡兵衛の鋭い視線がそこに注がれる。
「郡兵衛・・・。」
部屋の中から瑤泉院の声が聞こえる。
「はい。」
「夜風は思いの外、冷え込みます。寒うはありませぬか。」
「御心配には及びません。」
「そうですか・・・。」
瑤泉院の声は、どことなく寂し気だった。
「・・・今夜も異常は無さそうですね。」
「はい・・・ですが、油断は出来ませぬ。」
郡兵衛には、瑤泉院がまだ眠れず起きているのが息遣いでわかっていた。
「おやすみになれませぬか・・・。」
瑤泉院からの返事は返ってこない。
「あの時・・・多都馬と須乃には、嫌な気持ちにさせてしまいましたね。」
「そのような事はございません。二人とも三次藩がお取り寄せいたしました剣菱を美味そうに飲んでおりました。」
「それは、良うございました。」
郡兵衛は瑤泉院の事が心配になっていた。声に力がなく、どこか上の空に返事をしていた。
「瑤泉院様・・・何か御心配事でもお有りでしょうか。」
やはり、瑤泉院からの返事はない。
「・・・御命を狙う輩の事でしたれば、この郡兵衛が命に代えましても必ずやお守りいたします故に。」
そして、また沈黙が続いた。瑤泉院からの返事はない。
「・・・郡兵衛。」
「はっ。」
「そちらへ行ってもよろしいですか?」
「なりませぬ。相手は手段を選ばぬかも知れませぬ。鉄砲の類いならいざ知らず、弓矢であれば対処が遅れます。」
また瑤泉院は黙ってしまう。郡兵衛は辺りを警戒しながらも瑤泉院を気にかけていた。
「瑤泉院様。」
「郡兵衛・・・。わらわの側に来てください。」
思いも寄らぬ瑤泉院の言葉に、郡兵衛は戸惑っていた。
「郡兵衛?」
「なりませぬ。某と瑤泉院様では御身分が違いまする。某のような者がお近くに参れば、瑤泉院様の御身体が汚れてしまいまする。」
「では、わらわがそちらに参ります。」
すると障子戸が開いて、夜着のままの瑤泉院が廊下に出て来た。
「なりませぬ、瑤泉院様!」
郡兵衛は廊下に上がり、瑤泉院の盾になって周囲を警戒した。すると瑤泉院は、郡兵衛の背中を掴んで寝所へ引き入れた。
「何をなさいます!」
「今宵は、わらわの側にいてくれぬか。」
そう言うと瑤泉院は、郡兵衛に抱きついた。
「このような事をなさっては、御身体が汚れまする。」
「・・・郡兵衛は、わらわが嫌いですか?」
郡兵衛の腕の中で瑤泉院が縋るように言った。月明かりに照らされた瑤泉院の頬に涙が伝っていた。郡兵衛は開けられた障子戸を閉め、何も言わずに瑤泉院を抱き締めていた。重なり合う二人の陰が月明かりに、くっきりと浮かび上がっていた。
九
桜田の広島藩上屋敷内には、煕春園と名付けられた美しい庭園が設けられていた。池や築山、土橋はもちろん滝まであって、園内を歩きながら美しさを堪能出来るようになっていた。広島藩主/浅野綱長は多都馬との話し合いを、この庭園が見渡せる座敷に決めたのだ。綱長の他、嫡男/吉長、家老/上田主水正、用人/井上正信、外聞衆組頭/野尻次郎右衛門、そして剣術指南役/間宮久一が列席していた。
「この庭の美しさは、我が藩の自慢ですな。作庭中の六義園も敵うまい。」
用人/井上正信が自慢気に呟いた。
「井上殿。多都馬殿の前では、そういった類いの話はお控えなさったほうがよいと存じます。」
江戸家老/上田主水正が苦笑しながら言う。
「何故に・・・。」
「多都馬は、金をかけ人の手によって作られたものが嫌いなのじゃ。いわゆる権力の象徴のようなものだからの。」
綱長が困ったように呟いた。
「殿・・・。あのような礼儀知らずの無法者に、そこまで御気を遣われる必要はございませぬ。」
綱長、嫡男の吉長、主水正が互いに呆れ顔を見せる。そうしたところへ、取り次ぎが多都馬を連れてやって来る。
「黛多都馬殿、ご到着にござりまする。」
「うむ、入れ。」
綱長が一声発すると、障子が開いて多都馬が一礼して入って来る。多都馬は、着座して綱長等に挨拶をした。
「多都馬。進展があったと次郎右衛門から聞いたが・・・何を掴んだのだ。」
「はい。赤穂藩士たちを斬殺した一連の企ての全貌が明らかになりました。」
「なんと!」
綱長を囲む一同は驚きの声を上げた。
「して、どのような企みだ。」
身を乗り出して聞く吉長は、込み上げる怒りを必死に抑えていた。
「はい。端的に申し上げます。これは霊元上皇様による公儀への反逆です。上様に成り代わり、政を執るお考えなのでしょう。」
「上皇様が・・・。」
正信は多都馬の言葉に唖然としてしまう。
「い・・・いや、信じられぬ。ま・・・まさか上皇様が、そのような。多都馬、お・・・お主いい加減な事を申すでないぞ!」
動揺を隠せない正信は呂律が回っていない。
「正信、狼狽えるでない。多都馬はそのような事を申す男ではないわ。」
自分を庇う吉長に多都馬は軽く会釈をした。
「霊元上皇様は、朝廷に政権を戻し王政復古を目論んでおられるというのだな。」
「はい。」
企ての大枠を捉えたのか、綱長は腕組みをして考え込んでいる。
「その噺は、どこから・・・。」
久一が静かに呟いた。
「某のもとへ、はるばる京の都から命懸けで来た者から。」
「多都馬殿。霊元上皇様の凶行を報せに参ったという、その者たちはどのような者たちでごさるか。」
主水正が多都馬に出所を聞いた。
「天子様ならびに御公家衆には代々、京八流の一門が警護に当たっております。その京八流の一門が、霊元上皇様と側近の一条冬経様と結託し、東山天皇と関白太政大臣/近衛基熙様を軟禁状態にしております。」
「な・・・軟禁状態だと!」
正信の声が一際響き渡る。
「報せに参ったのは、東山天皇と関白太政大臣/近衛基熙様を警護している者たちでございます。」
「その者たちは、今どこにおるのだ。命、狙われる筈であろう。」
吉長が心配そうに呟いた。
「近衛基熙様の御息女が甲府宰相綱豊様のご正室でございます。ひとまず甲府藩の屋敷に匿われております。」
企てを暴く生き証人の無事がわかり、一同は胸を撫で下ろした。
「以前、尾張藩も加わっておったが一味の数は増えているのか。」
綱長、吉長等の問いかけが、矢継ぎ早やに飛んでくる。
「恐らく・・・。」
「戦になるのか・・・。」
正信が不安気に呟く。
「しかし、わからぬのは彼奴等が我等浅野に執着している事だ。反徳川を謳うなら我等浅野家にも近付いてきそうなものだが・・・。」
首を捻りながら綱長は考え込む。
「松の廊下での刃傷、浪士たちの討ち入り・・・そして切腹。戦のない時代に起きた変事を、奴等は上手く利用いたしたのでしょう。」
「多都馬・・・我等はこれから、どのような手段を取ればよい。」
不安に陥る中、吉長が口火を切る。
「若殿、決まっておりましょう。老中諸侯に訴え出て、後の顛末は公儀にお任せするのが得策でございます。」
正信は多都馬を一瞥して得意気に話した。
「証拠は・・・如何がいたしますか。」
多都馬が言った。
「京から報せに参った女子がおるではないか。」
「存在自体、公になっておらぬ者の言葉を誰が信じまする。また仮に信じたとして、京の一条様は知らぬ存ぜぬで相手にいたさぬでしょう。」
「多都馬殿。公儀に任せる任せないは別儀として、上皇様の企ては報せておくべきではござらぬか?」
主水正が暗澹たる思いで言った。
「御家老。浅野家は先の討ち入りで処分を受けた身、幕閣の中では浅野家を快く思わぬ者もいると聞き及んでおります。裏で手を引いているのは浅野家よ・・・と御家を貶めるやも知れませぬ。」
「では、どうしろというのだ!」
扇子を畳に打ち付けながら正信が叫んだ。
「ここは、動かざること山の如し。以前も申した通り、守りの一手に付きまする。こちらから動いてはなりませぬ。攻撃は、某と隼人の役目。」
「多都馬・・・。」
多都馬の言葉に一同鳥肌が立つ。
「・・・殿。殿にお願いいたしたき儀がござります。」
「申してみよ。」
「外聞衆の何人かを、某の店と口入屋長兵衛のもとにお貸し願えませんでしょうか。」
「警護じゃな。」
「御意。」
「殿。直ちに腕の立つものを向かわせまする。」
すかさず次郎右衛門が声を上げた。
「多都馬。泰然自若じゃな。」
「はい。焦りは禁物です。襲撃を受けても深追いをしてはなりませぬ。守りに徹するのです。いずれ必ず・・・必ず攻めに転ずる時が訪れます。」
その後、話し合いは半刻にも及んだ。家老の主水正は、部屋を後にする多都馬を通用門まで見送った。主水正は多都馬の姿が見えなくなるまで立っていた。いつも必ず振り返る多都馬だが、その日は一度も振り返ることなく去って行った。
十
品川宿の旅籠、相模屋の離れの一室に鳳四郎と五郎兵衛は向かい合って座っていた。次々に来る配下の報告を聞き、霊元上皇一派への対策を思案していた。
「御頭。彼奴等の次の指し手が読めませぬな。」
「奴等の潜伏先も掴めてはおらぬな。」
「まさに神出鬼没。」
五郎兵衛が観念したように呟いた。
「感心してどうする。」
呆れたように鳳四郎が五郎兵衛を見た。
「しかし、黒田、毛利、伊達、立花、真榮館・・・そして御三家と見張る相手が多ございます。」
「我等も戦力の分散が見受けられるな。」
困ったとばかりに五郎兵衛は大きな溜息をついた。
「どの家も、まだ表立った動きはないな?」
「毛利が・・・。」
「聞いたよ。両国橋で騒動を起こしたらしいな。」
「はい。毛利の座頭衆が誰を狙うたのか委細は不明ですが、目付衆が座頭衆の残党を数十名捕縛いたしました。」
「目付も、なかなかやるではないか。」
「いや・・・御頭。・・・それが。」
理解しがたいという顔をしながら、五郎兵衛は言葉に詰まる。
「どうした。」
「体が石のように固まっており、抵抗すら出来なかったそうでございます。」
「体が固まっただと?」
「はい。」
「なんでも・・・老人が通りがかった途端、座頭衆の動きが止まったらしいのです。」
鳳四郎は考えていた。そして修行時代の記憶の中で、先代の御頭から聞いた幻の剣術を思い出した。
「・・・二階堂平法。」
鳳四郎が呟いた。
「御頭・・・。」
恐れとは無縁の鳳四郎が自失状態となり、動きが止まってしまう。
「御頭!」
五郎兵衛からの声がけで、鳳四郎は我に返った。
「その女子は、どうなった?」
「町方に連れられ老人と一緒に、日本橋の口入屋に行ったようです。」
「口入屋だと?町方とどういう繋がりがあるのだ。」
「それは・・・。」
五郎兵衛が首を捻る。
「目付が連れて行った座頭たちは今、どうしている。」
「はい。座頭衆の残党ですが、捕われた翌日に全員死んでしまいました。」
「・・・口封じか。」
「はい、恐らく。体が固まっていたなら成す術もなく、処理されてしまったでしょうな。」
溜息をつく鳳四郎と、天を仰ぐ五郎兵衛は言葉を失ってしまう。その時、離れの外から叫び声が聞こえてくる。やがて離れの戸を激しく叩く音がする。
「御頭ーっ!」
五郎兵衛が離れの戸を開けると、血だらけの京次が戸板に乗せられて運ばれて来る。京次を囲む人だかりの中に、返り血を浴びたお駒が呆然と立っていた。
「御頭、京次が!」
五郎兵衛は鳳四郎を呼んだ。
「京次、しっかりしろ!」
鳳四郎は京次の手を取り呼び掛ける。
「お・・・御頭。」
薄れゆく意識の中で、京次は鳳四郎を呼んだ。
「つ・・・鶴姫様が。」
京次は鶴姫の名を言うと意識を失った。
「医者を呼べ!」
五郎兵衛が叫ぶと配下の者たち二名が走り出した。
「今、手当てをせぬと間に合わんぞ。」
京次の傍らにいる鳳四郎が振り返ると、坊主頭の初老の男が立っていた。
「しかし、このような深手、我等では対処出来ぬ。」
「では、ワシがやってもよいか?」
「医術の心得が?」
「愚か者!なくて声を掛ける理由がなかろう。早う、湯と酒・・・それから、針と糸を持って来い!」
それを聞いて他の者が御勝手に飛んで行った。坊主頭の男は、京次の側に座り脈を確認する。
「御名を・・・御名をお聞きしてもよろしいですか。」
「こんな時に、うるさいぞ。」
「この男は、私たちにとって掛け替えない者なれば・・・。」
「楢林鎮山だ!これでよいか!」
後に彼の医術は楢林流と称され、その腕を聞いた将軍/綱吉が招聘しようとしたが断られたという。
「湯と酒は、まだか!」
鎮山の声は相模屋中に響き渡った。
十一
鎮山の施術のお陰で、京次の容態はなんとか持ち直した。しかし、京次の意識はまだ戻らない。鎮山の額には、大粒の汗が浮かんでいた。京次が眠っている部屋から出て来た鎮山は大きな溜息をついて天を仰いだ。
「先生、本当にありがとうございました。」
「あの男も大したものだ。斬られる寸前に急所を躱しておる。安静にしておれば問題はない。」
「わかりました。先生、重ねて御礼申し上げます。」
鎮山に鳳四郎は、手をついて礼をする。五郎兵衛や、その他配下の者もそれに倣った。
「大げさだな・・・。」
「先生・・・、これは私共の気持ちでございます。」
五郎兵衛が、紙に包んだ小判を渡した。
「ん?何だ、これは?」
「京次をお救い下った、御礼にございます。」
鎮山は、それを受け取るとマジマジと眺めた。
「今日は何人、ここに逗留しておる。」
「およそ百人ほどでしょうか・・・。」
「ならば、ワシを含め皆の宿代をこいつから払ってはくれぬか・・・。」
「しかし、それでは・・・。」
「よいよい、それでよいのだ。」
金を受け取らず豪快に笑い飛ばし、鎮山は自分の部屋に戻って行った。鳳四郎は、もう一度鎮山の部屋の方角へ頭を下げた。
鎮山を見送った後、鳳四郎と五郎兵衛は離れに控えさせているお駒に事情を聞いた。お駒は憔悴しきって座っていた。
「何があったんだ?」
「き・・・京次は、アタシの身代わりになったのです。」
「身代わり?」
鳳四郎は、お駒を見つめた。お駒の目は涙で溢れていた。
「御命令で紀州藩上屋敷を見張っておりましたが、そこへ例の一味が数人で襲って来たのです。」
「何・・・。」
「紀州藩士たちが応戦いたしましたが、次々に斃れていき残るは綱教様と御簾中様のみとなりました。」
「・・・お二人を守ろうと、打って出たというのだな。」
返事の代わりにお駒は頭を下げて平伏した。
「襲って来た連中は、京次が以前相対した男か。」
「はい。」
「それで・・・綱教様と鶴姫様は、如何がした・・・。」
「鶴姫様は、綱教様を庇って刃の前に・・・そして、京次はアタシを庇って。」
「な・・・なんという。」
五郎兵衛は、あまりの事に呆然となってしまう。
「わかった・・・下がって休め。」
鳳四郎がお駒を思い遣って、優しく言った。お駒は、項垂れた様子で離れから出て行った。
「御頭・・・この時期に、まさか御三家を狙うとは。」
「五郎兵衛。綱吉公のご容態、ますます悪うなるはずだ。将軍家にも、張り付けておかねばならんな。」
「はい。」
「一刻も早く、彼奴等の拠点と・・・女子を連れて行った口入屋を調べねばなるまい。」
「それにしても、京次をあのような姿にした男・・・恐るべき遣い手。」
鳳四郎の身を案じながら、五郎兵衛が言った。
鳳四郎は離れの側にある、京次が横たわる部屋をじっと見つめた。あまり自身の感情を表に出さない鳳四郎の肩が、小刻みに奮えていた。百戦錬磨の五郎兵衛も、これまでない巨大な敵に脅威を感じざるを得なかった。
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