第十七章 竜攘虎搏(りゅうじょう こはく)

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第十七章 竜攘虎搏(りゅうじょう こはく)

                一    将軍/綱吉の娘であり、紀州藩主/徳川綱教の御簾中/鶴姫が宝永元年四月十二日に生涯を閉じた。その日のうちに紀州藩は、流行り病にて急死したと公儀に届け出た。正体不明の何者かに鶴姫を殺害された事実は伏せられていた。  鶴姫を溺愛していた綱吉の悲しみは、想像を絶するもので報せを聞いた途端に卒倒してしまった。一年半近く療養し漸く容態も安定していたが、元の木阿弥となってしまった。  幕閣はこの事態に筆頭老中/土屋政直を始め、小笠原長重など連日連夜議論を交わし、それは御用部屋の明かりが消えぬほどだった。  長兵衛の口入屋の奥座敷に、多都馬と長兵衛が向かい合わせで酒を飲んでいた。 「多都馬様。警護の件、お気遣いいただきありがとうございます。」 「気にするなって、このほうが俺が安心するんだよ。」  言いながら多都馬はお猪口に入っている酒を飲み干した。御膳の上にはツマミとして、郡兵衛から貰った佃煮が並んでいる。 「あの連中は人の気配を感じる事が出来る。危うくなりそうになったら、俺を呼ぶ手筈になっている。心配はいらねぇよ。」 「調達屋のほうは・・・。」 「あっちには、師匠がいる。これほど心強い事はない。」  須乃や数馬の事を思い、長兵衛は胸を撫で下ろした。 「多都馬様。」 「ん?」 「どういたします。・・・相手は上皇様や御公家様ですぜ。」 「いや、上皇様や冬経様は恐らく神輿だ・・・。厄介なのは担ぎ手と先導役さ。だが、こいつ等さえ倒せば全てが微塵と化す筈だ。」  「そいつが・・・左近寺織人と賀茂屋一右衛門ってわけですか。」   頷きながら長兵衛は、お猪口の酒を飲んだ。多都馬は空になったお猪口に酒を注ぐ。 「外聞衆(そとぎきしゅう)の調べによれば、奴等とうとう上様の御息女/鶴姫様を手に掛けやがった・・・。」 「紀州藩は、御公儀になんと。」 「病死とでも報告したのだろうな。」  長兵衛は悔しさのあまり、拳で膝を強く叩いた。 「奴等、次から将軍家御世継ぎ様を片っ端から狙うつもりだろうよ・・・。」 「では、甲府宰相様が・・・。」 「恐らくな・・・。」  穏やかに振舞っている多都馬だが、長兵衛には込み上げてくるその怒りが見えた。 「これだけの事をやりやがったんだ。瑤泉院様やご本家のお殿様は狙わねんじゃねーですか。」 「確かに仕上げに入っているかも知れねぇが、殿と瑤泉院様は必ず狙ってくる。理由(わけ)は相変わらずわからねぇがな、一右衛門か織人のどちらかに浅野家へ固執する何かがあるんだろ。」  多都馬は、お猪口を手に取り注がれた酒を飲み干した。続けて飲もうと酒を注ごうとしたが、空になった徳利から涙のような滴だけが落ちた。それを見た長兵衛は、手を叩いて追加の酒を頼んだ。これを聞いた配下の者が徳利を二本お盆に乗せ入ってくる。 「済まねーな。」  多都馬が運んできた配下の者に声を掛ける。早速、持ってきた徳利からお猪口に酒を注いだ。 「・・・二十七歳か。」  多都馬が飲みながら呟いた。 「は?」  上手く聞き取れず、長兵衛が首を傾げる。 「鶴姫様の歳だよ。二十七歳だ。」 「左様でございますか。」 「藩主/綱教様との夫婦仲は、とても良かったらしい。」 「綱教様は、さぞお悲しみあそばされておられるのでしょうな。」 「己の野望のために、かけがえのない命を奪う。・・・俺は、絶対に許さねぇ。」  心優しい多都馬が、これほどまでに怒りに震えているのを初めて見た長兵衛だった。                 二  金杉橋にある賀茂屋の店は、織人と一右衛門にとって都合のいい隠れ蓑になっていた。この日も、織人と一右衛門は次の計画の話を詰めていた。賀茂屋の奥座敷には、赤岩四郎兵衛/六平太兄弟、一右衛門配下の佐十郎、多三郎、お仙もいた。日が暮れ始め、手代たちも店を閉める準備をしている。 「一右衛門さん。」  一同打ち揃う中、織人が口を開いた。 「はい。」 「私を欺きましたね。」 「そのようなつもりは御座いませんが・・・何か、お気に召さなかった事が?」 「あなた・・・最初から鶴姫を殺す事が目的だったのでしょ。」  見抜かれ動揺した佐十郎と多三郎の僅かな動きを織人は見逃さない。 「いえ。次期将軍家御世継ぎである綱教様に、ご生涯賜わることが目的で御座いましたが。」 「そうは仰いますが。そこの多三郎さんの釣竿のような得物は鶴姫目掛けて放っていましたよ。」  そう話す織人の目は、いつも通り陽気に笑っていた。しかし、その奥底には一右衛門への明らかな殺気が漂っていた。  佐十郎と多三郎は腰を僅かに浮かせ、臨戦態勢の姿勢になっている。 「以前にも申しも上げましたが、私は女子を斬る剣は持ち合わせておりません。」 「存じ上げております。」 「女子とはか弱き者・・・。か弱き者と始めからわかっているものを斬るは卑怯千万な剣。」  多三郎がごく自然な動作で懐に手を入れた。その瞬間、小柄が飛んで来て多三郎の腕に突き刺さる。小柄が刺さった腕を押さえ、多三郎が苦痛でのたうち回る。この一連の流れに四郎兵衛も六平太も、一右衛門さえも身動き出来なかった。お仙は一右衛門に命ぜられて多三郎を奥座敷から連れ出した。 「一右衛門さん。伝わりにくいかも知れませんがね。これでも、私は相当怒っているのですよ。」 「・・・申し訳御座いません。」  一右衛門は、畳に額を押し当てて頭を下げる。  「紀州藩は武を尊び、剣術指南役に新陰流の木村助九郎がおります。藩士たちの腕も相当なものと聞き及んでおりました。」 「一右衛門さんよ。ならば六平太と俺を呼べば良かったんじゃねーか?」  四郎兵衛は一右衛門を一瞥して言った。一右衛門は四郎兵衛を無視して、頭を上げて織人に向き直って言った。 「鶴姫様は将軍家の泣き所です。必ず仕留めなければなりませんでした。そのために織人様の御力が、どうしても必要だったのです。」  一右衛門は必死に訴えた。 「次は・・・いよいよ、浅野家を()りに参ります。織人様には、綱長/吉長親子を・・・。私共は、瑤泉院を・・・。」  織人は一右衛門の訴えに耳を傾けた。 「しかし、くれぐれもお気をつけ下さいませ。浅野本家には、二階堂の男が必ずおります。」  織人の顔から一瞬のうちに笑みが消えた。 「恐らく・・・二階堂の男を倒せば、企てはほぼ・・・。」  一右衛門は織人に“ 倒せるのか ”という視線を送った。 「織人様?」  言葉を発しなくなった織人に声を掛ける。 「・・・わかりました。二階堂の男は、私にお任せ下さい。」  そう言うと織人は、立ち上がり奥座敷から出て行った。後を追うように、四郎兵衛と六平太兄弟も部屋を出て行った。  一右衛門は天を仰いで、ひとつ大きな溜息をついた。佐十郎は、そんな一右衛門を心配そうに見つめながら部屋を出て行った。 「一右衛門。」  襖ひとつ隔てた向こうから、一右衛門を呼ぶ声が聞こえて来る。一右衛門は、立ち上がらず膝を擦りながら襖に手を掛けた。襖を開けると、雅な雰囲気を漂わせる公家と従者二人が座っていた。三人共、太刀を左に置いている。 「これは中院通躬(なかのいんみちみ)様。」  中院通躬は東山天皇の勅命により、霊元上皇の第十皇子の沢宮寛敦親王家別当に任ぜられていた。 「うむ。今し方、こちらに着いた。」 「思いの外お早いお着きで・・・。」 「いやいや、江戸は遠いわ。」 「お父上様であらせられる通茂様のお加減は宜しゅうございますか。」 「気にもせぬことを、わざわざ口に出さずともよい。」   賀茂屋の手代らしき者が、お茶を人数分運んで来る。 「茶か・・・。」 「酒のほうが宜しゅうございますか?」 「いや、喉が渇いておる。これでよい。」  通躬と従者二人は、茶托に乗った茶を啜った。 「事が順調に運んでおるよう聞いておったが・・・そうでもなさそうじゃな。」  通躬は織人たちが出て行った方角へ顔を向けながら呟いた。申し訳ないとばかりに、一右衛門は深々と頭を下げた。 「旗振り役に難儀しておりまする。」 「上皇様も冬経様も、京でたちからの吉報を待っておられるのだぞ。」 「はい。伊達家・毛利家・黒田家・立花家・島津家共に、上皇様を奉じて江戸へ下向する手筈は整っております。今しばらく、お待ち下さいますよう、御願い奉りまする。」 「これまで首尾よく事が進んでおるようじゃが、この先は僅かな綻びが企ての命取りになる。心して係るがよい。」  一右衛門は、額を畳に擦り付けながら頭を下げた。 「先ほど漏れ聞こえた二階堂平法の男・・・ワシが相手をせねばならぬやも知れぬな。」  通躬付きの武官が、一右衛門を睨みつけた。通躬の言葉に答えず、一右衛門は頭を上げて通躬等三人を睨むように凝視した。沈黙が続いた後、一右衛門は落ち着いた口調で話し出した。 「そのような事が起きぬよう相務め致しますが、予期せぬ事態は戦には付き物でございます故・・・一刀流の秘奥義/夢想剣、ご披露頂くやもしれませぬ。」  まるで脅しているかのような一右衛門の口調に、通茂付きの従者二人が刀の唾に手をかける。通躬は二人の動作に、睨みを利かせ場を鎮める。 「さて、状況は掴めた故、ワシは暫く江戸見物でもいたすか・・・。」  通躬は、そういうと立ち上がり部屋を出ていこうとする。 「ご逗留先は、どちらへ・・・。」 「用があれば、こちらから参る。」  通躬は不敵な笑みを浮かべながら、従者二人を引き連れ出て行った。三人を見送った一右衛門は、炎のように広がる茜空の色相を見上げていた。その時、暮六つを報せる鐘が鳴っていた。                  三  浅野本家を隼人に託し、多都馬は長兵衛を伴い麹町の紀州藩上屋敷の外周を歩いていた。尾張藩の上屋敷など多くの武家屋敷に隣接している紀州藩を襲うなど、敵の行動も次第に大胆になってきていた。警戒しているのか紀州藩上屋敷内は篝火が炊かれているようで、僅かだが邸内から明かりが漏れていた。 「忙しいのに済まんな・・・。」 「また、何を仰るんで〜。」 「今、この時期に浪人が一人で武家屋敷をウロチョロしていると妙な誤解をされるんでな。」  闇に包まれた通りは、先々まで見通すことが出来ない。 「多都馬様。何故、上屋敷を検分しようとお思いになったんですか?」 「奴ら必ず浅野本家と瑤泉院様を襲う。瑤泉院様は、恐らく龍光寺からの帰路。郡兵衛もそれは承知している筈だ。」 「ご本家様は、桜田の上屋敷を・・・。」 「あぁ・・・。そこで侵入経路の確認だ。」 「多都馬様は、一応の検討はついてらっしゃるんですか?」 「あぁ、俺なら女子たちのいる奥向きと表の境目をから侵入する。」 「なるほど、女子なら戦力は低い。容易に制圧できるというわけですか・・・。」 「そういことだ。」  そう呟いている間に、多都馬は壁の前で突然無くなっている複数の足跡痕を見つける。 「どうやら、ここから侵入したようだな・・・。」  多都馬は足跡が確認できる壁を辿り、壁を強く蹴り上げた痕のようなものを指差した。塀の中では勢いよく燃える篝火の明かりがユラユラと蠢いている。 「長兵衛。」  通りの向こうから気配を感じ、多都馬は長兵衛を呼んだ。暗闇の中から図体の大きい侍と、少し後から六十代の老人と五十代くらいの侍が編笠を被って歩いて来る。  多都馬と長兵衛は、すれ違い様に会釈をしてやり過ごした。しかし、三人の侍は多都馬たちに向き直り呼び止めた。 「そこの二人、暫し待たれい。」  呼び止められ多都馬と長兵衛は振り返る。振り返るといきなり、二人に目掛けて小柄が飛んで来る。多都馬はそれを人差し指と中指二本で受け止め、長兵衛は紙一重で避けた。 「何をしやがる!」  長兵衛が多都馬の盾になるように前に出て叫んだ。多都馬は投げつけられた小柄を手に取りマジマジと眺めた。小柄には葵の紋が刻まれていた。 「暗闇の中、我が藩邸を覗き込み塀を入念に調べている。御姉上様の御命を奪った賊徒か、公儀隠密に違いはあるまい。いずれにしても、我等の敵には違いはない。」    図体の大きい侍は、後の二人の主らしく威風堂々としていた。 「我が藩邸だと・・・。」 「そうだ。俺は藩主/綱教が弟、松平新之助頼方だ。」  この頼方と名乗った血気盛んな青年は、後に八代将軍となる徳川吉宗である。頼方は名乗ると刀を抜いて、多都馬と長兵衛に向かって行った。 「御姉上の仇、覚悟せい!」 「ちょ・・・ちょっとお待ち下さいませ!アッシ等は・・・。」 「長兵衛。こいつ等、聞く耳を持っていないようだぜ。下がってな。」  多都馬は、長兵衛を下がらせ身構える。  「頼方様。」  二人の従者が心配そうに声を掛ける。 「心配いたすな・・・黙って見ていろ。」  頼方は刀を抜いて半身になり刀を中段に構える。 「なるほど・・・新陰流か。」  二人の従者は、多都馬が只者ではない事を見抜き臨戦態勢を整える。 「抜け!」   無防備な構えの多都馬を見て、侮られたと感じた頼方は苛立ち叫んだ。 「お構いなく・・・さぁ、参られよ。」 「おのれ〜!」  頼方が多都馬に斬り掛かる。ところが多都馬の凄まじい剣気が頼方に向かって放たれ、勢いよく後方に吹き飛ばされる。吹き飛ばされ壁に勢いよく叩きつけられた頼方は、石のように固まったまま気絶してしまう。 「心の一方・・・。」  従者の一人が呟いた。 「柔心!」  一人では敵わないと思ったもう一人が刀を抜いて叫んだ。 ― 柔心?・・・あの関口流柔術の関口柔心か。するともう一人は、木村助九郎。 ―  柔心と助九郎は左右に別れ、多都馬を挟み打ちにする。多都馬は腰の大小を抜き、二刀を八の字に構える。闇夜に緊迫した空気が漂う。柔心は万が一助九郎が斬り損ねた時、一気に掴みかかり体落としを掛けようと考えていた。しかし、多都馬の実体は目で捉えているものの、そこに存在しないような錯覚に惑わされていた。 ― 一体これは、どういう事だ。 ―  柔心と助九郎は二人同時に多都馬に襲い掛かった。柔心と助九郎は互いに” 斬った “、そして” 掴んだ ”と思った。しかし、そこには多都馬の姿はなかった。我に返った瞬間、二人の首筋には多都馬の二刀が当てられていた。 「何故、斬らぬ。」  助九郎が多都馬に言った。 「あんた方は、俺達の敵じゃねーからな。」  多都馬はそう言うと二刀を鞘に納めた。 「全く、説明くらいさせて下さいませ。」  長兵衛は気を失っている頼方を介抱しながら言った。 「初めて御意を得ます。木村殿、関口殿。」  柔心も助九郎も呆気に取られ、呆然と立ち尽くしたままだった。                 四  紀州藩上屋敷の取次部屋に案内された多都馬と長兵衛は、部屋の真ん中でただ待たされていた。鶴姫が犠牲になったが紀州藩だったが藩主/綱教は存命であった。邸内は次の襲撃に備え、藩士たち総出で警護をしていた。 「何だか妙な展開になって参りましたね。」 「全くだな。」  多都馬は差し出された茶を手に取り飲み干した。 ― 不味い茶だぜ。 ―  時間が経ち茶はすっかり温くなっている。その時、廊下を歩く音が聞こえ木村助九郎と関口柔心が現れた。 「失礼仕る。」  二人は部屋に入るや否や、両手をついて頭を下げた。 「此度は我等御無礼の断、平に・・・平に御容赦願いたい。」  助九郎と柔心は頭を上げぬまま、必死に多都馬に訴え続ける。 「頼方様は御信頼されていた御簾中様を失い、その哀しみ故に御貴殿にあのような・・・。」 「わかったよ。」 「頼方様の具合は?」  長兵衛が心配して容態を尋ねた。 「御心配忝い。御安心下され、奥の部屋で高いびきで寝ておりまする。」 「黛殿。御簾中様が賊徒の手に掛けり御生涯を閉じられた事、そして殿が手傷を負うた事をどこでお知りになられた。」 「綱教様も傷を負ったのか。」 「御簾中様が盾となって防いだが、敵の刃は御簾中様を貫いて殿にまで・・・。」  柔心は悲痛な表情で拳を何度も膝に打ち付けた。 「鶴姫様が綱教様の盾に・・・。」   長兵衛は鶴姫の勇気に心を打たれ呟いた。 「木村殿、関口殿。鶴姫様は、ある人物の野望の犠牲になったのだ。」  多都馬は、今まで起きた事件の経緯と朝廷の陰謀を隠さずに話した。助九郎と柔心は、多都馬の告白に衝撃を受けた。気がつけば多都馬の話は半刻を経過していた。多都馬の話が終わってから、言葉を失う助九郎と柔心だった。  助九郎が多都馬と長兵衛の御茶に目をやった。冷え切った茶を取り替えずにいた不作法に気づき、慌てて取り替えさせた。侍女が茶托に乗せた茶を運んでくる。 「・・・して、事の最後に浅野本家と瑤泉院様を狙ってくるというのか。」  多都馬は黙って頷いた。 「黛殿・・・我等、紀州藩。広島藩と瑤泉院様に御助勢いたしたいが。」 「御助勢、忝なく思うが御三家の紀州藩が出張れば奴等の思う壺。ここは、浅野家だけで治めようと存ずる。」 「防ぐ事が出来るのだな。」 「こちらも、ただ手を拱ているだけてはござらぬよ。」  柔心と助九郎は、多都馬の顔をじっと見つめる。多都馬が 「わかり申した。くれぐれも油断なきよう。」  ふと庭に目をやると、藩士たちが各自持ち場を死守していた。藩士たちの緊迫した気持ちが、ひしひしと伝わってくる。 「長兵衛、そろそろ戻ろう。」 「はい。」  多都馬と長兵衛は立ち上がった時を合図のように夜風が急に強くなった。風に煽られた篝火の火の粉が天高く舞い上がっていった。               五   真榮館で剣術の稽古が終わり、長沢幾右衛門は井戸で水を汲み上げ汗を拭っていた。父/六郎右衛門は赤穂藩組外衆三五〇石だったため、藩の中では新参者だった。これから能力を発揮し他の役職へ配属される筈だった。しかし、そこへ刃傷事件が起き再び浪人生活に舞い戻ってしまったのだ。  幾右衛門は、井戸の水を口に含みうがいをする。手ぬぐいを水に浸し汗で汚れた体を拭いた。空を見上げると、今にも雨が降りそうだった。何気なく裏口の木戸に目を向けると、人目を避けるように蔵に木箱を運ぶ数名の男達を見掛ける。その木箱の数は、数十箱にも及んでいた。 「おい、その木箱は何だ。何を運んでいる。」  男達は幾右衛門を無視して、黙々と木箱を運んでいる。入れ墨を隠した怪しい風体の男達が幾右衛門を睨みつける。 「おい、その木箱は何だと聞いている!」 「皆様の講義にお使いになる書物や、食料などでございますよ。」 「書物や食料だと・・・?。見せてみろ。」   答えた男は口を閉ざして幾右衛門を睨みつけた。 「お侍様。」  背後から声を掛けられ、幾右衛門は振り返った。佐十郎が高圧的な態度で立っている。 「余計な事に首を突っ込まぬほうが、よろしいと思いますが・・・。」  佐十郎と睨み合いになるが、視線の先にを見つける。争いを避けるため、幾右衛門は佐十郎の言葉に素直に従った。 「・・・わ、わかった。」  引き下がりながら幾右衛門の目は、運び入れている蔵を見続けていた。は幾右衛門を探しているようだった。 「おこん、いかがした?」 「幾右衛門様!」  は陽の光のような笑顔を振り撒いて歩み寄ってくる。 「お食事の用意が整ったようです。先ほど部屋に運ばれて来ました。」 「わかった。」  は嬉しそうに部屋に戻っていく。幾右衛門は再び振り返って蔵を見た。男たちは変らず木箱を搬入している。幾右衛門は、この様子を真榮館が良からぬ方向へ変化していく兆しに見えていた。               六  昼過ぎから雨が降り始め、賑やかな日本橋の通りも人の往来が少なくなっていた。一日の店仕舞いには早過ぎるが弥次郎とは、多都馬に言われて調達屋の暖簾を片付けていた。  隼人は変わらず広島藩浅野本家/浅野綱長の警護に当たっている。口入屋を束ねる長兵衛は、多都馬と共に各所に放った配下の者たちからの報告を待っていた。  奥の座敷には、まるで自分の家のように(くつろ)いでいる吉之丞がいる。そして広島藩外聞衆警護の者二名は、一右衛門たち襲撃に備え周囲を警戒していた。 「この雨・・・二〜三日は降るかの。」  吉之丞は寝転び空を見上げて呟いた。そこに須乃が茶を運んでくる。  「御師匠様、お茶でもいかがですか?」  気付いた吉之丞が半身を起こして茶を受け取った。 「これは、これは須乃殿、忝い。」  長兵衛も須乃の気遣いに頭を下げる。  須乃は深刻な表情の多都馬が気になったが、茶をそっと渡すと帳場に戻っていった。 「多都馬様。三吉からの報告で、真榮館に怪しい動きがあるようです。」 「怪しい動き・・・。」 「はい。金杉橋の一右衛門の店から複数の木箱を荷車に乗せ、真榮館に運び入れたということでございます。」 「・・・木箱。武具の類だな。」 「アッシもそう思います。木箱は三尺ぐらいの大きさだったらしいです。」 「鉄砲だな。」  同じ事を考えていた長兵衛も険しい顔で頷いた。 「戦でも、おっ始めるつもりでしょうか。」  長兵衛の口から” 戦 “という言葉が発せられ、多都馬の表情が一層険しくなった。 「多都馬。」  横になって背を向けたままの吉之丞が、多都馬を呼んだ。 「はい。」 「あれだな・・・わざと見せつけておるな。」 「はい。」  多都馬が見抜いてた事に、吉之丞は笑みを浮かべる。 「御師匠様。では、アッシ等が見張っているのをわかっていてやったというのですか。」 「長兵衛。奴等は真榮館よりも、もっと違う何かを隠したいのさ。」 「違う何か・・・そいつは、いったい何でしょうね。」 「長兵衛・・・。それがわかれば苦労はせぬわ。」  吉之丞が茶を啜りながら笑い飛ばして言った。吉之丞の諧謔的な物言いに長兵衛は、思わず苦笑いをしてしまう。 「師匠。」  多都馬が冗談が過ぎると吉之丞に釘を刺す。吉之丞は多都馬に呼ばれ、振り返って長兵衛を見た。長兵衛は、恐縮して縮こまっている。多都馬の剣の師匠ともなれば、長兵衛は多都馬以上に頭が上がらない。 「ん?・・・お、済まん済まん。気を悪くするなよ。」 「は・・・はぁ。」  多都馬は立ち上がり吉之丞が寝そべっている隣りに座った。 「師匠・・・留守の間、須乃や数馬たちのこと、頼みます。」  吉之丞は空になった湯飲み茶碗を多都馬に渡し、先ほどとは違い真面目な顔で言った。 「心配無用じゃ。」                七   江戸郊外の人里離れた森の中に外界と接触を絶っているような寺がある。古い社寺の境内には樹齢数百年を経た大銀杏が青々と葉が繁っている。昼過ぎから降り始めた雨は勢いを増し、大銀杏の木を激しく打付けていた。闇夜の中で聞こえてくるのは、それら激しい雨音だけだった。  二人の男が本堂にて蝋燭の灯の中で、真剣で立ち合いを行っていた。立ち合っている男は、中院通躬の従者二人だった。通躬は本堂の中央に座し、二人の立ち合いを眺めている。 「地玄(ちげん)!斬り込みが浅い。」  通躬に地玄と呼ばれた男の勢いが増し、もう一人を追い詰めて行く。 「天玄(てんげん)、どうした押されておるぞ!」  地玄に押されていた天玄が脇差しを抜き、二刀で地玄の刀を受け止めた。鍔迫り合いをしていた地玄と天玄だが、力の均衡が崩れ二人は弾き飛ばされる。 「それまで!」  通躬は再び斬り合おうと刀を構えた二人の立ち合いを止めた。 「二人共、腕を上げたな・・・。」 「恐れ入り奉ります。」  地玄と天玄は刀を納めながら、平伏して言った。 「通躬様・・・一右衛門にこのまま任せしてよろしいので?」  地玄が立ち去ろうとする通躬の背に尋ねた。 「あ奴は所詮、我が企ての人柱。失態を犯せば切り捨てるだけだ。」 「左様でございますか・・・。」 「今はただ、静観しておればよい。」 「はっ。」 「いや・・・やはり、二階堂平法の男は気にはなるのぉ・・・。」  立ち去ろうとしていた足を止め、地玄/天玄の二人に振り返った。 「我等が対峙するような事態になるでしょうか・・・。」  顔色を変えずに天玄が言った。 「なる・・・やも知れぬな。」  通躬の言葉に地玄と天玄は互いの顔を見合わせる。お互い気持ちが引き締まるような思いが込み上げてくる。 「そうなったとしても・・・二階堂平法など一刀流夢想剣の敵ではない。」  言い放った通躬の顔は、穏やかな公家の表情は消えていた。通躬は、そのまま己の寝所へと消えて行った。  残った地玄と天玄は立ち上がり、再び刀を抜いた。激しい雨が降る中、夜が明けるまで二人は剣の稽古に励んでいた。                八  折からの雨もやんで、雲一つない空が広がっていた。地面の水たまり、瓦屋根の雨粒などに日の光が反射し町中が輝いて見える。  多都馬は調達屋を吉之丞に任せ、桜田の広島藩上屋敷には昼過ぎに到着した。上屋敷御用部屋に藩主/綱長、嫡男/吉長、家老/上田主水正、用人/井上正信、剣術指南役/間宮五郎兵衛、そして神月隼人等が勢ぞろいしていた。 「多都馬。まさに我慢比べじゃな。」  屋敷内を警戒している藩士たちの姿を見て、綱長がしみじみと呟いた。綱長を守るためいずれの藩士も、油断のない顔つきで警護の任に付いていた。 「はい。されど、それもあと暫くの辛抱でございましょう。」  多都馬の言葉に、一同が騒めき出した。 「何?すると、近々襲撃してくると申すのだな。」 「早ければ今夜、遅くても二~三日中には・・・。」 「決戦じゃの。」 「はい。向こうも主力を差し向けて参りましょう。」  吉長は無意識のうちに脇差に手を掛けている。多都馬はその動作を見逃さなかった。 「若殿。」 「ん、なんだ多都馬。」 「若殿は逃げの一手にごさりまするぞ。」 「わかっておる。そのために隼人がおるのであろう。」   吉長の言葉を受け、隼人が軽く頷いた。 「若殿は将来、広島藩を背負って立たねばならぬ御方。御身大事でございます。」 「承知いたしておる。」  逸る吉長に灸をすえたような多都馬であったが、すぐに切り替え綱長に上体を向き直す。 「殿。本日より、某もこの広島藩上屋敷の張り番をいたします。間宮殿は殿のお側近くでお守り下され・・・守りの要にござります。」 「心得た。」  険しい表情を崩さぬまま五郎兵衛は答えた。 「御家老。」   多都馬は主水正に向き直った。 「藩士の方々に申し伝えてもらいたい。」 「何なりと・・・。」 「各自、持ち場の守りに徹する事。敵が退いたとしても、後を追ったり攻めに転じてはなりませぬ。」 「承った。」  主水正の多都馬に対する信頼は揺るぎない。 「攻めは、某と隼人にお任せ下され。」  隼人が多都馬を見つめ大きく頷いた。 「多都馬。」  多都馬の名を呼ぶ綱長は不安気に俯いていた。 「瑤泉院殿の方はどうかの・・・彼奴等の襲撃を防げるか。」 「宝蔵院流槍術の高田郡兵衛がおります。郡兵衛ならきっと瑤泉院様をお守りいたすと信じております。」  隼人は祈る多都馬の顔を見つめていた。それは極力犠牲者を出さないと己に誓った極めて険しい顔だった。                九  日は疾うに暮れ始め空は紫色から藍色に変わっていた。先の大火で焼け落ちた水戸藩上屋敷の修復作業現場に一右衛門等は潜伏し、瑤泉院の駕籠が通るのを待っていた。菩提寺となっている龍光寺に老中/小笠原長重(おがさわらながしげ)は、江戸城からの帰路立ち寄っていた。瑤泉院は老中/小笠原長重に浪士たちの家族ならびに遺族への赦免と救済、そして上杉家ならびに吉良家の名誉回復を訴えていた。一右衛門は龍光寺からの帰路を襲撃することを企てていた。毛利家座頭衆/頭の覚禅(かくぜん)も、一右衛門と同様に襲撃の機会を窺っていた。  修復中の屋敷の隙間から一右衛門たちは、瑤泉院を乗せた駕籠が通るのを待っていた。 「御頭・・・。」 「どうした?」 「毛利家座頭衆の覚禅様がお見えで御座います。」  薄暗くなり人の顔の判別も難しくなってきた。覚禅は人をかき分け一右衛門のもとへ歩いてきた。覚禅は苛立っているようだった。 「一右衛門、まだ来ぬのか?」 「・・・長引いておるのでしょう。必ず行列が見える筈、もう暫く御辛抱下さりませ。」 「辛抱だと?我等が立てた企てならいざ知らず、貴様らが立てたものなど当てにはならぬわ。」  覚禅の態度で、その場に険悪な空気が漂う。 「それから申し伝えておくが。我等は御家老の命により、お主たちの助勢をしておる。故に指図は受けぬ、よいな。」 「はい。瑤泉院を乗せた駕籠が見えたら、行動を起こして頂ければ十分でございます。」  覚禅が冷ややかに一右衛門を見る。 「わかった。・・・ところで、浅野本家の方は大丈夫か。」 「何か気に掛かる事でも・・・。」 「この一件には、二階堂平法の者共が関わっておるではないか。」 「それが何か?」  何も気に留めていないとばかりに一右衛門は軽くいなした。 「お前は知らぬのであろう。あの恐ろしき剣術を・・・。」 「いえ、存じ上げております。ですから、浅野本家を織人様にお願いいたしておりまする。」 「大丈夫なのだな。」 「はい。」  覚禅は先ほどから、一度も目を合わさず話をする一右衛門の態度に憤懣やるかたない思いでいた。 「仕損じるでないぞ。」  覚禅は一右衛門を嘲るように言い放って持ち場へ戻って行った。佐十郎は覚禅が去ったところへ唾を吐いた。 「御頭、俺たちも持ち場へ戻ります。」  佐十郎とお仙は、数名の配下の者たちと急ぎ持ち場へ戻って行く。一右衛門は身に纏った復讐心に飲み込まれぬよう、闇夜の中で瑤泉院の到着をひたすら待っているのだった。                十  夜陰に紛れ黒装束に身を包んだ織人等は、桜田の浅野本家上屋敷外に集結していた。屋敷の中では篝火が焚かれているらしく、火の粉が夜空を舞っていた。織人は襲撃部隊を二手に分け、北側を赤岩四郎兵衛に任せていた。  織人は京八流の配下十名を連れ、今まさに上屋敷の外壁を乗り越え侵入しようとしていた。配下の者に突破口を作らせ、自分は綱長の御寝所へまっしぐらに向かう策を立てていた。それは北側を受け持つ四郎兵衛も同様だった。 -静かだ・・・いや、静か過ぎる。-  織人は侵入前に胸騒ぎを感じていた。  侵入開始の合図である虎鶫(とらつぐみ)の鳴き声が聞こえ、配下の者たちは塀を一気に飛び越えて行った。 ― 何か可怪しい・・・。 ―  織人は違和感を抱えながら後に続いて塀を飛び超えた。塀下では配下の者たちが織人を待っていた。躊躇している織人に、配下の者たちは一様に首を傾げる。  そうこうするうちに、上屋敷の北側で四郎兵衛たちの雄叫びが聞こえくる。織人は心に違和感を抱えながら、上屋敷の蔵を飛び超え庭に侵入した。  着地して周囲を見渡すと物陰から弓を構えた広島藩士たちが一斉に姿を現した。その中には家老である上田主水正もいた。 「おい、京八流。」  どこからか、織人を呼ぶ声が弓を構える藩士たちの間から聞こえてくる。 「随分、遅いじゃねーか。」  弓を構える藩士たちの間から、額当てに襷掛けをした戦闘態勢の多都馬が現れ立っていた。                十一  北側を受け持った四郎兵衛たちは、南側の織人たちと同じように広島藩士たちに囲まれてしまっていた。屋根、屋敷の陰、木々の間などから現れ、大勢の藩士たちが四郎兵衛たちを弓で狙っている。 「おい、待ちくたびれたぜ。」  弓を構える藩士の間から、十手を手にした隼人が現れる。  四郎兵衛に従う他八人が刀の鍔に手を掛け、対抗姿勢を見せる。 「待ちなっ!妙な事を考えるんじゃねぇ。」  配下の八人は、隼人の声に動きを止める。 「お(めぇ)たちは袋の鼠だ。大人しく縛に就くっていうなら命までは取らねぇ・・・。ただ・・・。」  隼人は言いながら四郎兵衛たちに近付いてくる。 「あくまで歯向かうっていうなら、遠慮はいらねぇ・・・叩っ斬ってやるから掛かってきな。」  隼人は近付きながら刀を抜いて正眼に構えた。  互いに睨み合い、緊迫した空気が漂う。  その均衡を破ったのは四郎兵衛だった。四郎兵衛は配下の一人を盾にして、勢いよく後ろに飛び上がった。隼人は四郎兵衛の動きを見逃さず、配下八人の中を勢いよく突進して行く。四郎兵衛を追う隼人を斬りつけようと八人が刀を抜いた。隼人は突進して行く途中で、前列にいた二人を瞬時に斬り裂いた。他の六人は弓を構えた広島藩士が正確に射抜いて隼人を援護した。無数の矢が六人に突き刺さり、北側の刺客たちは全滅した。  四郎兵衛が蔵の壁に行く手を塞がれ立ち止まる。隼人が驚異的な速さで追いつく。 「(あめ)ぇんだよ。逃がすわけねーだろ。」 「逃げる?」  四郎兵衛は振り返りながら声高に笑い出した。 「阿呆が・・・何が可笑しい。」   「こっちもな・・・貴様を斬るために誘ったんだよ。」  四郎兵衛が見を低くして構え、刀の鍔を押し上げ右手を柄に乗せた。 「居合か・・・。」  隼人は八相に構えた。後ろから弓を構えながら、広島藩士数名が追いかけてきた。 「馬鹿野郎!持ち場、離れんじゃねー!」  隼人の怒声に、弓を持った数人が慌てて持ち場に戻っていく。四郎兵衛は微動だにせず、居合の構えを崩さない。 ― 野郎、口だけじゃねえな。 ―  隼人と四郎兵衛の膠着状態は暫く続いた。ところが、その均衡が崩れる瞬間は突然訪れた。四郎兵衛が、目にも止まらぬ速さで抜刀したのだ。  隼人は先読みして、辛うじて一撃目を躱した。躱したのも束の間、二撃目が上段から振り下ろされる。二撃目を刀で受け止めた隼人は、四郎兵衛と睨み合う。 「よく躱したな・・・。」  四郎兵衛は不敵に笑い出した。刀を合わせる事を嫌った四郎兵衛は、隼人を押し出して間合いを空けた。二間ほど空いた間合いで二人は再び睨み合う。 ― 此奴、デキるな・・・。―  四郎兵衛も居合の斬撃を躱した隼人を、只者ではないと感じていた。 ― 俺の太刀筋を知られた以上、次はないな。・・・とっておきを使わざるを得んな・・・。―  四郎兵衛は鞘に納めた太刀を体で隠すように構え、姿勢は地を這うように低くくした。四郎兵衛は視界の隅に隼人の姿を捉えていた。しかし、隼人が構えを変えたことに気づき四郎兵衛は、一旦一呼吸を置いて動くことを思い留まる。隼人は四郎兵衛を前に、目を閉ざし体を安定させずユラユラと動きながら立っている。 ― それが構えか?・・・。我が剣を愚弄しやがって。 ―  隼人は刀を下段に構え、体は風に吹かれる柳のように揺れていた。 ― そのような虚仮威しは通用しねーぜ。 ―  四郎兵衛が風を切り裂くように、下から地を這うように隼人を斬り上げる。四郎兵衛の一撃は虚しく空を切った。空を切ったが瞬時に上段からの振り下ろしに切り替える。 ― 死ね! ―  上段からの渾身の二撃目が隼人を襲う。隼人は風に舞う羽のように三撃、四撃をも躱す。この連続四連撃が四郎兵衛の奥の手だった。 ― ば・・・馬鹿な。―  奥の手を初めて躱された四郎兵衛は、生まれて始めて恐怖を覚えた。 「これまで殺めてきた罪無き人の無念を思い知れ。」  隼人はそう呟くと、風になびく柳のように四郎兵衛の喉元に刃を滑らした。喉元から血飛沫が勢いよく舞い、四郎兵衛の体はゆっくりと膝から崩れ落ちていった。 「な・・・何だ。今の技・・・は。」  四郎兵衛は虫の息で呟くと、目を見開いたまま死んでいった。 「無住心剣流奥義/柳風剣だ。」  隼人は四郎兵衛の見開いた眼を閉じ、その亡骸を暫く見つめていた。そして、南側の方角を見つめた。 ― 多都馬さん、そっちは頼んだぜ。 ―                十二  上屋敷南側の庭で、織人はただ一人追い詰められていた。京八流の配下九人は、広島藩士たちの弓に射られた。矢を辛うじて躱した一人が多都馬に斬りかかったが、多都馬が放った居合抜きの一撃で斬られ絶命した。 「命を粗末にしやがって。」  斬られた配下の死体を見下ろしながら、悔しそうに多都馬は呟いた。配下の者が死んでも顔色ひとつ変えない織人に多都馬が怒りの声で叫んだ。 「京八流!」  多都馬の言葉に織人が反応することはなかった。 「おい聞こえてんのか?」 「それにしても、あなた失礼ですね・・・。私の名を知りながら、先ほどから京八流・・・京八流と。」  織人は薄笑いを浮かべながら話した。 「冗談言うな。剣の道を示してくれた師を惨殺し、己の野望のために罪もない人を殺める、てめえの名なんざ呼びたくもねぇ。」 「・・・そうですか。」  窮地に追い込まれている状況だが、織人には余裕さえ窺える。 「・・・あなた、一右衛門さんの話じゃ相当お強いんですってね。」   まるで遊び相手を与えられた子供のようにはしゃいでいる。 「大人しく縛につこうって気はねーようだな。」  多都馬は左手の指で刀の(つば)を押し上げた。多都馬の後ろに控える広島藩士たちも、再び弓を構え織人に狙いをつける。 「待て・・・。」  後ろで弓を構える広島藩士たちを多都馬が制する。 「こいつは、俺が相手をする・・・手出しするな。」 「そう言って下さると思っておりました。」  織人は満面の笑みで腰と背中の車太刀を抜いた。  静まり返った夜に、篝火の火種が弾ける音だけが聞こえる。庭内の篝火の灯りが、二人を橙色に照らしている。  篝火の火種が弾ける音を合図に、多都馬が疾風怒濤の速さで織人に斬り込みに行く。多都馬は先手の一撃に、二階堂平法の“ 一文字 ”を放つ。織人はこの一撃を、驚くべき跳躍力で回避する。多都馬は頭上を見上げるが、漆黒の闇に紛れ一瞬見えなくなる。暗闇の空に消えた織人を追って多都馬も飛び上がった。頭上では多都馬に向け二刀を振り下ろそうと最高地点で構えていた。多都馬が飛び上がって来るとは思っていなかった織人が、苦し紛れに二刀のうち一刀を投げつける。鉄砲玉のように飛んできた一刀を多都馬は弾き返した。空中戦での攻防が終わり二人は同時に着地した。 「おぉ~危ない危ない、斬られるところでしたよ。一右衛門さんの言う通り、あなたは強いですよ。」  多都馬に弾き返された一刀が庭の松の木に刺さっているのを見て、慌てる様子もなく織人は取りに行く。深々と刺さっている車太刀を見て、更に多都馬の力量に感心する。庭の傍らで見ていた主水正は固唾を呑んで見守っている。 ― 多都馬殿の斬撃を二度とも躱すとは・・・やはり只者ではない。 ― 「では、今度は私の番ですね。」  織人は足を慣らしながら二刀を構えた。右腕の一刀を上段に左手の一刀を下段に構える。多都馬は正眼に構え、織人の出方を待った。京の鞍馬山で鍛えた脚力が生み出す跳躍力は常人離れをしていた。 「黛さん・・・行きますよ。」  そう言った瞬間、多都馬の間合いを越えて織人が斬り込んできた。下段に構えた一刀が下から多都馬の右脇を狙ってくる。半身になって躱す多都馬に、回転するように連続で斬り込んできた。二撃、三撃と途切れのない技は、多都馬に反撃の隙を与えない。回転しながらの織人の斬撃を、多都馬は力技で止めた。止められた下段の一刀をそのままに、残る上段の一刀を使って多都馬の頭上に振り下ろす。多都馬は刀で受け止めず、体を捻ってそれを避けた。 「凄いな~、驚きました。京八流/旋風(つむじ)(いかずち)、この二つが通用しないとは・・・。あなたが初めてですよ。」  京八流の技を破られても動揺せず、逆に気持ちが高揚している織人の様に広島藩士たちがどよめき出す。 「うろたえるでない!」  主水正が藩士たちに向かって怒鳴り声を上げた。主水正の声に我に返った藩士たちは、緩めていた弓を再び引き絞り織人を狙う。 「多都馬殿を信じるのだ。」  多都馬の左の手が脇差を抜いて、右手の太刀とともに右脇構えに構える。 「今度は、黛さんの番ですか?」 「(みやこ)の人間は、おしゃべりだな。」  多都馬は織人に向かって一気に斬り込んでいく。多都馬の二刀は振り下ろす剣と横薙ぎの剣が同時に繰り出され、十の字を描くように織人に襲い掛かった。間一髪で躱したつもりだったが、斬られた織人の髪が空に舞っていた。気がつくと織人の頬から一筋の血が流れていた。 ― 奥伝の十文字を躱しやがった。 ―  多都馬は二階堂平法の奥伝/ 十文字を初めて躱され、織人に脅威を抱き始めていた。 「やりますね~。」  織人は頬から流れる血を拭い、そのまま舌で舐めた。 「さて、互いの実力が分かったところで、そろそろ決着を付けますか。」 「いいだろ。」 「私が勝ったら、浅野のお殿様の命、頂戴して帰ります。」  織人の言葉に藩士たちが反応し、今にも弓を射かけるところであった。 「そうはならねえよ。」  多都馬が二階堂平法秘奥義/念の一方を繰り出す。織人が京八流の秘奥義/村雨を繰り出す構えをする。多都馬に" 村雨 "を放とうと何度も試みるが、多都馬の実体がまるでつかめない。 - す・・・凄い。これが二階堂平法の奥義。 -  多都馬は織人との間合いを少しずつ縮めていく。多都馬は織人との間合いを少しずつ縮めていく。多都馬の実体を捉えられない織人は、村雨を繰り出せず後退していく。多都馬は一瞬のうちに織人の間合いに入り込み頸動脈を狙った。”仕留めた”と思った瞬間、織人はまた驚異的な瞬発力で多都馬の刃を躱した。 ― 何だと! ―  ”念の一方”からの斬撃を躱したものなど誰もいなかった。織人はこの時の多都馬の動揺した瞬間を逃さなかった。一瞬で飛び上がり奥義/村雨を多都馬に放った。二刀から突き出される無数の突き技が多都馬を襲った。 ― やった。―  そう思って振り返ると、体に傷一つ負っていない多都馬が立っていた。織人は再び奥義/村雨を放った。 ― 今度こそ!―  またしても多都馬は奥義/村雨を躱していた。互いに肩を激しく揺らし、呼吸も荒くなっている。奥義の多用で多都馬も織人も体力が限界にきていた。 「ま、黛さん・・・やめにしましょう。」  織人は参ったと言わんばかりに手を振った。 「悔しいですが、勝負はお預けです。」 「なにっ!」 「これでは勝負がついても、後ろの方々に捕まってしまいますよ。あなたに勝つには、まだ足りないようです。修行した後、再びあなたの前に現れますよ。」  逃げようと後退る織人を、逃すまいと追うが一歩が踏み出せない。 「次に会う時まで死なないで下さいよ。」  織人は最後の力を振り絞り、上屋敷の塀をひとっ飛びに飛んだ。主水正は、藩士たちに織人を射る命を下す。 「逃すな!放てーーっ!」  逃げた織人に夕立のように矢が襲いかかる。飛んで来る矢を躱し、上屋敷の屋根の上に立った織人は、広島藩を嘲笑いながら闇夜に消えて行った。  織人が消えて行ったことを確認し、多都馬はがっくりと膝をついた。主水正が多都馬の側に駆け寄り体を支えた。 「多都馬殿!しっかりいたせ。」 「いや、心配ありませんよ。少し疲れただけです。」  主水正に支えられ立ち上がると、織人が闇夜に消えて行った方角を見つめた。 ― 逃すものか・・・。 ―               十三  龍光寺での老中/小笠原長重との交渉は四刻以上も続いた。日が落ちた駒込からの中山道を通る帰路は不安が付き纏っていた。途中瓦礫の撤去が未だ終わっていない箇所があり、被害の大きさを痛感させられる。  瑤泉院を乗せた黒駕籠の横には、槍を手にした高田郡兵衛が寄り添うように貼り付いていた。瑤泉院は黒駕籠の中から復興途中の水戸藩上屋敷が見える。復興途中とはいえ、美しいと評判だった庭園も見る影もなかった。 「郡兵衛。」 「はい。」 「止めてください。」  瑤泉院を乗せた黒駕籠は、小石川橋の手前で止まった。 「お加減でも優れませぬか?」 「沢山の人が亡くなったのでしょうね。」  瑤泉院は周囲を見渡して呟いた。 「はい・・・。しかしながら、人は強うございます。幾度となく災害が訪れようと、必ずや復興を遂げる筈。・・・瑤泉院様、我々は絶対に負けはいたしません。」 「そうですね。信じましょう・・・皆の力を。」  その時、郡兵衛は瓦礫や復興途中の屋敷から放たれる殺気を感じた。郡兵衛の変化を感じ取った落合与左衛門が辺りを警戒する。 「御後室様。御駕籠にお戻りください。」  瑤泉院は、ただならぬ様子の与左衛門を見て急ぎ黒駕籠に乗った。先頭を歩いていた萩原儀左衛門が血相を変えて郡兵衛のところへ来た。 「郡兵衛殿、囲まれたぞ。」 「わかっておる。」 「どういたします・・・。」 「どうもこうもない・・・我らはひたすら守るのみ。儀左衛門、持ち場へ戻れ。」  郡兵衛の言葉を受け、儀左衛門は持ち場に戻って行った。槍を構える郡兵衛の視界に、瓦礫や復興途中の屋敷の陰から次々に刺客たちが現れる。覚禅に率いられた座頭衆が多勢で襲いかかる。 「よいかっ!士分はせいぜい五~六人だ!後は中間、小者の類だ。一気に踏み潰せ!」  覚禅の号令の後、瑤泉院付きの中間、小者たちが一斉に一番上の衣を剥ぎ取る。衣の下にはたすき掛けに鎖帷子を着込んだ三次藩士たちが現れる。各々が各自に隠していた槍や刀を構える。座頭衆が斬り掛かるが、三次藩士たちに返り討ちに遭う。 「ば・・・馬鹿な。」  意表を突かれた覚禅たち座頭衆が浮足立ち、三次藩士たちに斬られ次々に斃れていった。 「愚かな人たちだ・・・。」  一右衛門が佐十郎とお仙、六平太に指図をする。佐十郎の手には、丸い盾のような武具が握られている。よく見ると盾の端が全て刃になっていた。 「佐十郎、お仙。行けっ!」  佐十郎とお仙に率いられた始末屋が、第二陣となり襲いかかる。佐十郎は持っていた盾を瑤泉院の黒駕籠に向けて放り投げた。それに気付いた藩士たちが、刀で叩き落とそうとするが、盾はそれを諸共せず藩士ごと斬り裂く。 「郡兵衛殿!」  与左衛門が気付いて黒駕籠前の郡兵衛に知らせる。郡兵衛は襲いかかる盾に照準を合わせ、飛んで来る盾を槍で盾を一気に貫く。郡兵衛の槍で貫かれた盾は真っ二つは割れた。 「馬鹿め、そんな虚仮威しが通用するわけがなかろう。」  六平太が腰の小太刀を抜いて郡兵衛に斬り掛かった。郡兵衛は、素早く構え六平太の連撃を躱し、または槍で難なく受け止める。 「与左衛門殿!瑤泉院様を頼む。」   郡兵衛は与左衛門に持ち場を任せ、六平太との一騎討ちの相手をする。六平太が小柄を雨あられのように郡兵衛へ投げ付ける。郡兵衛の槍が投げ付けられた小柄全てを弾き返している。 「お前の相手をしている間はない。奥の手があるなら、早く出せ。」 「なにっ!」  逆上した六平太は、小太刀を鞘に納め居合の構えをする。郡兵衛は槍を中段に構え、六平太の出方を待つ。六平太が腰の小太刀を抜かずに突進してくる。郡兵衛は真っ直ぐに槍を突き出し突進してくる六平太の頭を狙う。六平太は郡兵衛の一撃を紙一重で躱し、左手で槍を掴み動きを封じた。間合いがなくなり六平太が小太刀を抜く。ここで郡兵衛の胴を払う技だったが、抜けるはずの小太刀が抜けない。 「惜しかったな。」  郡兵衛が六平太の耳元で呟く。六平太の腰の小太刀は、突き出された郡兵衛の腰の太刀で押さえ込まれていた。郡兵衛は押さえ込んでいた腰の太刀の柄を勢いよく六平太の鳩尾へ叩き込む。鳩尾を突かれ体勢を崩した六平太の胸へ、郡兵衛は引き抜いた槍を突き刺した。六平太は天を仰いで、絶命してそのまま倒れた。  一右衛門は、郡兵衛が黒駕籠から離れた隙を見て突進して行く。郡兵衛の視界に突進して来る一右衛門の姿が見える。 ― 瑤泉院様!―  今から駆け付けても間に合わないと判断した郡兵衛が槍を一右衛門に投げ付ける。投げ付けた槍を追うように郡兵衛が走り出す。郡兵衛の槍が唸りを上げて、横から一右衛門に襲いかかる。  一右衛門は飛んで来る槍を躱して飛び上がった。瑤泉院の黒駕籠が真下に見える。一右衛門は刀を抜いて、上から黒駕籠を諸共に貫こうと構えた。 ― 瑤泉院、覚悟!―   仕留めたと思ったが黒駕籠の上に郡兵衛の体が覆い被さり、中の瑤泉院まで辿りつかなかった。郡兵衛の体を刺し貫いた太刀を抜き、中の瑤泉院を刺そうと構える。黒駕籠の前に郡兵衛と入れ替わり、与左衛門が立ち塞がる。 「御頭ーっ!」  その時、お仙の悲鳴が一右衛門の耳に入る。振り返ると無数の小笠原家の家紋が入った提灯が見える。先頭には馬を駆る老中/小笠原長重がいた。 「おのれ、奸賊!」  長重は太刀を抜いて馬上から、お仙を一刀両断する。お仙の断末魔の叫び声が響き渡る。郡兵衛は薄れゆく意識の中で、刀を抜いて駆けつけて来る小笠原家家臣たちの姿を見た。長重は馬を降りて瑤泉院の黒駕籠を取り囲む一右衛門等を、新陰流の剣で斬り倒していく。小笠原長重が新陰流の達人と知らぬ始末屋たちは、果敢にも挑んでいくが次々にその剣技の餌食になっていった。 「・・・小笠原様。」   黒駕籠の中から郡兵衛が倒れる姿を見た瑤泉院は、駕籠の扉を開けて出てくる。 「郡兵衛ーっ!」   瑤泉院は郡兵衛を抱きかかえる。瑤泉院の駕籠は駆け付けた小笠原家家臣たちが取り囲む。  仕損じた瑤泉院を再び斬り込みに行こうと踏み出すが、佐十郎に止められる。 「御頭、これ以上は無理です。引きましょう!」 「なにっ!」 「御頭!お仙の死を無駄にするおつもりですかっ!」  佐十郎の言葉に一右衛門はやむを得ず従った。覚禅率いる座頭衆は、とうに引き下がっていた。 「引けぃ!」  佐十郎が生き残る始末屋の手下たちに号令をかけた。  瑤泉院のもとへ長重が駆け付けてくる。 「瑤泉院殿、大事ないか。」 「はい。しかし、郡兵衛が。」  瑤泉院の手は郡兵衛の傷口を押さえているため真っ赤に染まっていた。 「早う医者を・・・医者をお願いいたします。」    長重は家臣に医者を呼ぶよう命を下す。  「よ・・・瑤泉院様。」 「郡兵衛・・・死なないでください。」 「これなら、や・・・安兵衛たちも、許してくれますでしょうか。」 「言うまでもありません。」  瑤泉院の言葉に郡兵衛が微笑んだ。しかし、その微笑みを最後に郡兵衛は、静かに息を引き取った。 「郡兵衛?・・・郡兵衛ーーっ!」  激しい戦闘が終わった夜の静寂に、瑤泉院の悲しみの声だけが響き渡っていた。
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