第十八章 仁者必勇

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第十八章 仁者必勇

              一  激闘の一夜が明けた早朝、浅野本家上屋敷に三次藩浅野家から郡兵衛の死を告げる使者が送られてきた。  多都馬は使者と共に三次藩下屋敷に向かった。多都馬を出迎えたのは、用人である落合与左衛門だった。与左衛門の案内で多都馬は下屋敷の奥座敷に向かった。郡兵衛の亡骸は、下屋敷の奥座敷に横たわっていた。奥座敷には戸田局等お付きの者の姿はなく、悲しみに打ち拉がれた瑤泉院がだけがいた。 「瑤泉院様。」   多都馬は奥座敷の外、廊下に座し瑤泉院の背に声を掛けた。多都馬に顔を向けた瑤泉院の顔から、一晩中泣き続けても未だ枯れない涙が流れていた。 「郡兵衛の顔を見ても宜しゅうございますか?」 「はい、是非。」  多都馬は立ち上がり、郡兵衛の亡骸の側へ座った。郡兵衛は穏やかな顔をして眠っていた。  「郡兵衛。」 「多都馬、郡兵衛を褒めてあげてください。」 「郡兵衛・・・。お主、惚れた女子を守り抜いた気分はどうだ?・・・さぞ、満足だろうな。」  多都馬の言葉に驚き瑤泉院の体が固まってしまう。二人が人知れず契りを結んだ事は、誰にも知られていないと思っていた。 「・・・多都馬。」 「瑤泉院様、惚れた女子がいる男なら誰でも分かります。郡兵衛は、心の底から瑤泉院様をお慕いしておりました。」  多都馬がそう言うと、瑤泉院は郡兵衛の顔を覗き込み頬をそっと撫でた。 「多都馬・・・。」 「はい。」 「わらわは郡兵衛の想いに、殿が御存命中より気付いておりました。」  長矩存命中より、郡兵衛の気持ちを知っていたと言うのだ。 「わらわは嫌な女子ですね・・・。大名の妻でありながら、心は他の殿方に惹かれていたなんて・・・。」  瑤泉院は郡兵衛の頬を撫でながら、生前の姿を思い出しているようだった。 「瑤泉院様・・・そのような事、思ってはなりませぬ。人を思う心に、大名の妻であろうと関係御座いません。」  瑤泉院は愛おしいそうに郡兵衛の顔を見つめる。見つめるうちに瑤泉院の頬をまた、とめどなく涙がつたっていく。 「多都馬・・・。」 「はい。」 「郡兵衛の仇・・・討ってください。」  瑤泉院は再び郡兵衛の胸元に覆い被さり、声を上げて泣いた。 「瑤泉院様・・・。郡兵衛だけではござりませぬ。彼奴等のせいで志を奪われた者全ての仇、必ず討ってみせまする。」  多都馬は瑤泉院の悲しみを心に刻み、三次藩下屋敷を後にした。裏の通用口を出て振り返ると、傷を負った萩原兵助と儀左衛門が立っていた。二人は深々と頭を下げ、多都馬の姿が見えなくなるまで見送っていた。氷川坂を下って調達屋への帰路の途中、大目付/松前伊豆守嘉広の一行が三次浅野家の下屋敷に向かうのが見えた。昨夜の襲撃事件の取り調べであると容易に想像がついた。 - 大目付が来たところで、何もわかりゃしねーだろな。 ー               二    金杉橋の賀茂屋の店は、朝から店が閉まっていた。夕七ツを過ぎ日も傾きかけるはずだが、夏の季節はまだ燦々と太陽は輝いている。  賀茂屋と取引がありそうな商人が、閉まっている戸を叩いて確認している。その賀茂屋を外聞衆/頭領の野尻次郎右衛門が、数人の配下と人混みに紛れ監視していた。 「動きは?」 「昨夜から、こうして見張っておりますが、戸はあのように閉まったままです。物音ひとついたしません。」  両隣の店が景気良く開店しているのに比べ、戸を閉めて物静かな賀茂屋は一際異様さを放っていた。 「裏口からなら目立たずに中を改める事が出来ますが・・・。」  配下の一人が次郎右衛門に判断を委ねる。 「多都馬殿を待ちますか?」  多都馬は到着を待つよう次郎右衛門に伝えていた。次郎右衛門は、ここ最近の多都馬の活躍を知っている。浅野家を刺客たちから守り、旧赤穂藩士への公私に渡る援助など、まさに獅子奮迅の働きで休む間もなかった。 「表には二〜三人残し、後はワシと裏へ参れ。京の始末屋・・・我等で始末をつける。」  次郎右衛門は手勢を連れ、賀茂屋の裏手に回り込んだ。賀茂屋裏手の路地は、道幅も狭く大勢で行き来出来るような幅ではなかった。次郎右衛門は、賀茂屋の塀を飛び越え侵入を開始した。静まり返る空気は、店の表側と何ら変わりはなかった。 「中へ入る。油断するな・・・。」  次郎右衛門の命を受けた数人が戸板を押し上げ音を立てずに外した。中に人の気配はなく気味が悪いほど静かだった。 「逃げたのでしょうか。」 「・・・いや、油断するな。」  戸板が次々に開けられ各部屋に日が差し込む。次郎右衛門たち外聞衆は、賀茂屋の店を捜索し始める。 「蔵の中も調べろ。何か手掛かりがあるやも知れぬぞ。」  次郎右衛門が命を下したその時、中に入っていた者たちが刀を抜いて後退りしてきた。暗がりの中から一人の侍が外聞衆に囲まれながら、ゆっくりと姿を現した。外聞衆たちは、室内から庭へ後退した。 「何者か。」  中から出てきた男に次郎右衛門が審問する。 「この状況で、そう問われて答える者がいると思うか・・・。」 「賀茂屋一味の一人だな・・・逃げ遅れでもしたか。」  次郎右衛門は、目の前の不審な男に言う。 「そうだと言ったら、どうする。」 「捕らえて隠れ家を吐かせるつもりだが・・・。」 「なるほど・・・。それではやってみろ、相手になるぜ。」  男は中腰になり両手を交差して構える。外聞衆たちも一斉に刀に手を掛ける。次郎右衛門は、静かに刀を抜いて八相に構えた。男と次郎右衛門、外聞衆たちの間に張り詰めた空気が漂う。 「俺を待つ約束じゃなかったのか?」  この空気の中、多都馬が現れる。多都馬はゆっくりと次郎右衛門と男の間に割って入る。目の前の男は、多都馬が現れても構えを崩さない。 「多都馬殿・・・、体は平気なのか。あのように激しい立ち合いの後ではござらぬか。」 「御心配無用。・・・それより、この男・・・お主の敵う相手ではないぜ。」  多都馬の言葉を受け、次郎右衛門は一歩下がった。 「他の者たちも同じだ・・・下がってな。」  外聞衆たちは、素直に多都馬の指示に従った。 「何者だ・・・。」  途中から割って入った多都馬に男が言った。 「おい・・・。つい先ほどお前が言ったぜ、名乗る奴などいねぇってな。」 「確かに・・・。」  男は多都馬の言葉に苦笑いをした。  多都馬と男は、お互い間合い範囲のぎりぎり外にいた。男は多都馬の足許を凝視している。二人の睨み合いは暫く続いた。周囲を囲む外聞衆たちは呼吸をするのも忘れ、二人の立ち合いを見つめている。  多都馬の足が間合いのギリギリ内側に踏み入れた瞬間、男は交差していた手で刀を抜き多都馬を斬りつける。二刀の居合抜きである。 ― いかん!あれでは多都馬殿は避けられぬ! ―  次郎右衛門は、多都馬が斬られたと思い前へ踏み出した。ところが男の居合抜きは交差する途中で、多都馬の繰り出した居合抜き一刀に弾き返される。  自分の技量に自信を持っていた男は、初めて跳ね返された事に驚く。 「心形刀流、二刀の技か・・・。」  多都馬は呟きながら脇差しを抜き、男と同じ二刀を構えた。自分と同等もしくは上の腕を持つ多都馬に、男は久し振りに本気になった。 「どうした・・・心形刀流の技、こんなもんじゃねーだろ。」  男は太刀と脇差しを交差して構えた。 「手加減はいたさぬ。」 「したら、お(めえ)は死ぬだけだ。」  男は刀の切っ先を下げ、下段に構える。その構えに剣客が 発する剣気は感じなかった。 ― なるほど・・・打ち込みの気を一切感じない。これが奴の奥義か 。―   多都馬はそう言いながら、奥義” 念の一方 “の構えに入った。 ― 何だ・・・?奴の気配が掴めぬ。―   男は構える多都馬に戸惑っていた。目の前に立っているのに、多都馬の気配はそこにはなく様々な場所から感じ取れていた。  互いに微動だにせず睨み合いが続いていた。その時、賀茂屋の庭木に一羽の小鳥が舞い降りてきた。この僅かな変化に多都馬が動いた。男は多都馬の斬り込みに逃げもせず観念したように無防備だった。多都馬は刃先を首寸前で止めた。 「おい、さっきの勢いはどうした。」  男は軽く苦笑いをして答えた。 「何故、斬らぬ。」 「潔すぎて斬る気が失せちまったぜ。」  観念している男を見て、多都馬も刀を鞘に納めた。 「次郎殿。こいつは、恐らく敵じゃねーよ。」 「えっ?」  賀茂屋の残党と思い込んでいた次郎右衛門は呆然としてしまう。 「俺たちは広島藩浅野家の(もん)だが・・・。お(めえ)、一体何者だ。」  男は落ち着いた様子で素性を語り出した。               三  次郎右衛門は四人を残し、他の外聞衆を上屋敷へ引き上げさせた。男は賀茂屋の奥座敷に座り込み、多都馬と次郎右衛門に話を始めた。 「裏徒組?」  男は将軍家隠密/“ 裏徒組 ”の頭領を務め、名を出雲鳳四郎と名乗った。その存在は、幕閣でもごく僅かの者しか知らず長らく秘密にされてきたという。 「我等は天下に仇なす者があれば、例え将軍家であろうと排除せよと東照大権現様より仰せつかっておる。」 「東照大権現といえば・・・。」 「神君家康公である。」  多都馬と次郎右衛門は、鳳四郎の言葉に唖然としている。 「それ故、その時々の治世を監視し東照大権現様の御遺言を遂行しているのだ。」 「どこから賀茂屋に目を付けていた。」  「我等は日本中、至る所に間者を送り込んでいる。権力の亡者となっている上皇は監視対象の一番手だ。」  人間は一度権力を手にすると、執着し奪い返そうとする。そして、犠牲になるのは必ずと言っていい程、子供や女など社会的弱者だ。鳳四郎の話に次郎右衛門があることに気づいて問いかける。 「そうか!・・・保土ヶ谷宿でりく殿たちを助けたのは、お主たち裏徒組だったのか?」  泉岳寺に墓参りに行こうと豊岡から江戸へ下向してきたりくたち一行を当時上皇一派だった尾張藩の刺客が襲ったのだ。その時、りくたちを命がけで守ったのが外聞衆たちだった。次郎右衛門は突然、鳳四郎に頭を下げた。 「次郎殿、どうした?」 「多都馬殿。りく殿の盾となり命を懸けて守ったのは、某の配下にて野村久六と申す者。それをお主たち裏徒組が弔いまで済まし、遺体を広島藩邸まで送り届けてくれたのだな。」 「我等も到着があと一歩遅かった・・・。しかし多勢に無勢でありながら、たった一人で大石親子を守り抜いた。誠に見事でござった・・・。」  鳳四郎は久六の勇気に感服して言った。 「知らなかったとはいえ・・・礼を申すのが遅かった。済まぬ。」  次郎右衛門は、鳳四郎に再び頭を下げた。次郎右衛門の隣で、多都馬は鳳四郎の温情に心打たれていた。 「しかし、此度の襲撃で上皇一派も大きな痛手を被ったのではないか?襲撃してきた者は一人を除いて悉く討ち取った・・・これまでにも、多都馬殿が上皇一派に操られていた尾張藩を退けておる。」  頭を上げた次郎右衛門が、広島藩上屋敷での上皇一派の損害を鳳四郎に伝えた。 「では尾張藩が一党から消えたことに、お主たち広島藩が関わっていたのか。」  外聞衆の支援があったとはいえ、多都馬という男の力量に衝撃を受ける。 「これで一時、鳴りを潜めるのではないか?」 「いや。賀茂屋など、上皇一派の先遣隊に過ぎない。」 「何っ?」  あれほどの戦力が、ただの先遣隊というなら本隊はさらに攻撃力を増した部隊となる。 「八咫烏(やたがらす)といって、朝廷でいうところの我等のようなもの。偵察、裏工作、邪魔な人間の粛清、ありとあらゆることをやってくる。」 「対峙したことは・・・。」 「(みやこ)で一度・・・束ねる者の顔は頭巾を被っていた故に知らぬが、風体からして恐らく公家。しかも一刀流の遣い手で奥義/夢想剣を操る。」  話している鳳四郎の顔色が一段と険しくなった。一刀流とは、戦乱末期の剣豪/伊藤一刀斎によって創始された剣術である。彼が創始した無想剣とは、鎌倉八幡宮で一刀斎が不意の襲撃を受けた時、襲いかかる賊を無意識のうちに斬り伏せ編み出した一刀流の奥義であった。 「出雲殿がここに居るということは、双方互角で勝負がつかなかったということだな・・・。」  次郎右衛門が確認するように呟くが、鳳四郎は静かに首を横に振った。 「逃げるのがやっとだった。奴の夢想剣に死角はない。」  新たな敵の存在に誰もが口を噤んでしまう。気が付けば外はすっかり暗くなっていた。外では立てかけていた戸板に風が吹いてガタゴトと音を立てている。戸板を戻し多都馬は外に出た。暗くなり星が輝く空を見上げていた。 — 夢想剣だろうがなんだろうが・・・叩き潰してやるさ。 —               四  江戸郊外村外れに小高い山があった。その山は侵入者を拒むように草木が生い茂り、木々が密集して山肌を覆うように生えていた。その中腹に周囲の景色にそぐわない、艶やかな書院造りの三層の建屋があった。一見艶やかに見える建屋の周囲には柵が設けられ、さながら砦のようであった。一右衛門等始末屋と京八流の生き残りは瑤泉院を襲撃後、追手を振り切りながら辿り着いた。  一右衛門と佐十郎、多三郎は使用人に促され奥座敷に案内された。奥座敷の上座には中院(なかのいん)通躬(みちみ)が座っていた。そして右に地玄、左に天玄が睨みを利かしている。 「一右衛門。無事で何よりじゃな・・・。」  心が籠もらぬ上辺だけの気遣いを、意識的にしている通躬を佐十郎と多三郎が睨みつける。 「まずは体を休ませるのだ。別部屋にて慰労のために酒などを用意させておる。」  廊下に立っている使用人が、一右衛門等を手招きしている。一右衛門等は立ち上が奥座敷から出ようとする。 「一右衛門は残れ。ちと話がある。」  佐十郎と多三郎が心配そうに振り返るが、一右衛門は心配ないと目配せする。佐十郎と多三郎は使用人の後をついて奥座敷から出て行った。 「一右衛門。優面(やさおもて)の彼奴は如何いたした・・・死んだか?」 「いえ。浅野本家にて二階堂平法の男と対峙しその後、行方を晦ましております。」 「臆したか・・・。」 「そのような御方ではござりませぬ。・・・恐らく二階堂平法の男を斬るために、どこかで修行をしていると存じます。」 「いずれ駒として使えるなら、それでよい。」  一右衛門は通躬が納得してくれたことに頭を下げる。  通躬の側に控える地玄が、次の話をするように催促の合図を送った。 「一右衛門。これまで、よくやった。」 「はっ、ありがたき幸せにござります。」 「瑤泉院を襲い小笠原長重を引き寄せた策はなかなかであった。これで幕閣への騒ぎが大きゅうなる。」  一右衛門は通躬から誉め言葉を受け取り、平伏して頭を下げた。 「だがな・・・。これからの指図は我等八咫烏が行う。」 「私共は、最早用済みで御座いますか?」  一右衛門は凄みの利いた声で尋ねる。  凄みの利いた声で話しても、通躬には通じない。一右衛門を鼻で笑って答える。 「そんなことは申してはおらぬ。八咫烏(やたがらす)の傘下に入り、我の命が下るまで待つのだ。」 「はい。」 「さて、用件は済んだ。先の者等と共に酒でも飲んで参れ。」  通躬に一礼した一右衛門は、奥座敷から出て行った。廊下を歩く一右衛門の足音が聞こえなくなるのを確認して、天玄は通躬に小声で話し掛ける。 「通躬様。あの始末屋を生かしておくのですか?」 「生かすも何も、あの男は何かと役に立つ。それに始末屋の存在は我等八咫烏にとってよい隠れ蓑じゃ。放っておけばよい。」  地玄、天玄共に黙って頷いた。 「あの男は、いずれまた瑤泉院を狙う。その拘り故に放っておいても勝手に身を亡ぼす。」  納得したとばかりに地玄と天玄は、薄ら笑いを浮かべ奥座敷から出て行った。  通躬は刀を手にし庭に出た。通躬が庭に出ると、どこからともなく黒装束を身に纏った男が二名現れる。二人は下される命を待つように平伏している。通躬は懐から書状を取り出して二人の男渡した。 「冬経様へお渡ししろ。」  書状を受け取ると二人は漆黒の闇の中へ消えて行った。疾風のように走り去った後を、通躬はいつまでも見つめていた。                 五  夏の日差しは強く調達屋の裏庭には、あっという間に乾いた洗濯物が風に揺れていた。縁側に横になって休んでいた吉之丞の側に、多都馬が井戸で冷やした西瓜を持って現れた。多都馬は吉之亟の隣へ座り、西瓜を手渡した。多都馬と吉之亟の後ろには、須乃とおしの(・・・)、弥次郎が西瓜を美味しそうに食べている。 「お~西瓜か。何年振りかの~。」 「暑い時は、こいつに限ります。」  二人は西瓜にむしゃぶりつき口に残った種は庭にそのまま捨てていた。 「お師匠様、多都馬様!お二人供、お行儀が悪すぎますよ。」  おしの(・・・)が種を庭に捨てている二人を窘める。聞こえているはずだが、多都馬も吉之亟も相変わらず種を庭に吹き飛ばして捨てている。 「須乃様~、お二人共お行儀が悪過ぎます。」 「まぁまぁ・・・。後で私が掃除をしておきますから。」  おしの(・・・)は頬をフグのように膨らませながらも西瓜を食べる手は止めていない。 「師匠・・・・・。」 「・・・・・ん?」 「二階堂平法/秘奥義” 念の一方 "が躱されました。」  吉之丞は一瞬動き止めた。 「京八流の男か・・・。」 「はい・・・。」  多都馬が返事をすると、口に残った種を吹き飛ばした。その後、二人とも長く沈黙が続いた。食べ終えた西瓜はお盆の上に並べられ、須乃が片付けようと側へ行こうとするが、二人の間には近づき難い雰囲気が漂っていた。 「多都馬・・・二階堂平法 ”念の一方” は元々防御を主とする技だ。攻撃の技ではない。」 「はい。」 「一切の念を振り払い自然と同化し、相手に己の気を悟られぬ剣だ。故に相手は姿を捉える事が出来ず、無から現れる剣を避けることは出来ない。」 「はい。」 「が・・・しかし、剣を振り下ろし、または突く際に僅かな刃風が発生する。それを捉えることは本来不可能だが、例えば京八流のような強靭な脚力を生かした剣術なら躱すことも不可能ではない。」  多都馬は脳裏に焼き付いた京八流の動きを思い出していた。 「では、奴にはどのような手立てが・・・。」 「実はな・・・二階堂平法秘奥義は ”念の一方” だけではないのだ。」 「えっ!」  秘奥義がもう一つ存在することに多都馬は驚いた。 「・・・これも運命(さだめ)かの~。ワシがこの度、江戸へ参ったのも、その秘奥義をお前に伝授するためだったのだ。」 「師匠・・・。」 「多都馬。どこか人気のない密閉された場所はないか。」 「誰も立ち入ることのない場所なら、郡兵衛の道場がございます。」 「よかろう・・・。」  二人の会話を聞いていた須乃が、二人の間に入ってくる。 「お師匠様・・・。」 「ん?・・・どうされたかの。」 「女子(おなご)の私が立ち入ることではないと思いますが・・・。」 「なんの・・・遠慮されるな。」 「・・・その秘奥義の修練で多都馬様が、お怪我を負うようなことはございましょうか。」  多都馬の身を心から心配している須乃の、いじらしい姿に吉之丞は心打たれた。 「時折、小突く程度じゃな。」  吉之丞は、そういうと大きな声で豪快に笑った。 「その秘奥義あがあれば、多都馬様は敵に打ち勝つことが出来るのですね。」 「多都馬。」  吉之丞は隣にいる多都馬を、まじまじと見つめた。 「は・・・はい。」 「やはり、お前に須乃殿は勿体ないわ!」 「お師匠様っ、アタシはずっと前からそう思っていました。」  おしの(・・・)が須乃の後ろからしゃしゃり出てきて多都馬を揶揄うように言った。 「おしの(・・・)。お(めぇ)~」  おしの(・・・)は、多都馬に捕まるまいと大急ぎで逃げ出した。多都馬もおしの(・・・)を追いかけ奥座敷から出て行った。 「須乃殿。・・・ワシが伝授した二階堂平法は絶対不敗の剣だ。・・・心配無用だ。」  吉之丞は須乃の両肩をつかんで元気づけた。追い掛け回している二人を須乃は微笑ましく見つめていたが、不安はいつまでも拭えなかった。                六  多都馬との一戦を経て、織人は一右衛門たちとは合流せず武蔵野のとある村を訪れていた。その村では以前、元赤穂藩士の家族と出会っていた。“ 不忠者 ” “ 卑怯者 ”と村人から誹りを受けようと、抵抗せずじっと耐えていた少年がいた。織人は、その少年がずっと気になっていた。夕陽が田んぼの稲の緑を黄金色に変えていた。  織人は農作業を終え帰宅途中の一組の夫婦を呼び止めた。 「あ、もし・・・。」  呼び止められた夫婦は、足を止め振り返った。よそ者を露骨に嫌がる二人は、足早に織人の前から去っていく。織人はその後も、数人の村人に声をかけるが全員、避けるように去って行った。その織人の様子を見ていた一人の百姓の娘が物陰から織人を手招きして呼ぶ。 「忠吾さんのお知り合い?」 「あぁ・・・。」  織人がそう答えると娘は突然泣き出した。 「どうしたのだ・・・。」  人目を憚るように織人は娘を雑木林の中へ連れていく。娘が落ち着きを取り戻したのを確認して再び事情を聴いた。 「忠吾殿に何かあったのか?」 「殺されたわ・・・。」  感情というものを記憶の遠いどこかに置いてきた織人であったが、忠吾の死を聞かされ沸々と湧き上がってくるのを感じていた。 「何があったのですか?」 「忠吾さんのおっ父様は、赤穂のお侍だったのでしょ。」 「あぁ・・・そう聞いています。」 「それが名主様の息子さんは前々から気に入らなかったのよ・・・ある日、徒党を組んで忠吾さんに暴力を・・・。」  織人の手が無意識のうちに震えていた。女性(にょしょう)のように穏やかな横顔に血管が浮き出てくる。 「では、その名主の息子と徒党を組んだ連中は、捕縛されて今は牢屋の中ですか・・・。」  娘は黙ったまま俯いている。 「召し捕られていないのですね・・・。」  その時、織人の側のいくつかの枝が一斉に折れた。娘が召し捕られていない理由を話そうとするが、織人は手をかざしてそれを制した。 「結構です。あとは想像がつきます。お父上である、忠兵衛殿の家を教えてください。せめてお線香を・・・。」 「おっ父様もおっ母様も、殺されたわ。抗議にいった代官の屋敷でね。」 「何ですって!」  この時、織人の中で何かが弾けた。それに呼応して雑木林の葉が、風もないのに音を立てて勢いよく舞い始める。 「名主と代官の屋敷は、行けば直ぐにわかりますか?」 「はい。」 「教えてくれてありがとうございます。もう陽も落ちて暗くなりました。おっ父様とおっ母様が心配していますよ。」  織人は娘に僅かな金子を持たせて家へ帰らせた。その後ろ姿を見送る織人の左目から、水滴が一滴こぼれていた。               七  その村の代官を務める寺岡萬右衛門は屋敷内の座敷で一人、蝋燭の火を明かりに書物読んでいた。天領とはいえ中央政権から離れたこの村の一日は退屈で仕方なかった。瞼が重くなり眠気が襲い始めた萬右衛門は、書物を閉じて寝所に向かおうと立ち上がった。すると玄関が何やら騒がしくなり配下の者の叫び声が聞こえてくる。萬右衛門は障子を開けて騒ぐ配下の者を窘めた。 「どうしたのだ!騒がしいぞ、静かにせい!」  萬右衛門が怒鳴っても返事は何一つなかった。萬右衛門が廊下で立ち尽くしていると、抜刀した配下の者が後退りしながら萬右衛門のところ来る。 「御代官様、早くお逃げ下さい!」  廊下の角から次々に逃げてくる配下を見ても、萬右衛門はまだ状況を掴めなかった。 「何が起きたのだ!」  怯える配下の襟元を掴んで萬右衛門が叫んだ。すると血が滴り落ちる車太刀を右手に構え、左手は生首を二つぶら下げた織人が現れる。 「あなたが代官ですね。」  萬右衛門は恐怖のあまり腰を抜かしてしまう。織人が左手にぶら下げた生首を、萬右衛門に放り投げる。放り投げられた生首は、名主とその息子だった。恐怖で錯乱した萬右衛門の叫び声が屋敷中に響き渡る。 「あなたが裁きを下さないから、代わりに私が裁きを下しておきました。」  織人の顔は、薄ら笑いを浮かべたいつもの表情に戻っていた。織人は逃げる与力や同心たちを情け容赦なく斬り捨てていく。 「わ・・・わかった。さ・・・裁きを下してくれたこと、れ・・・礼を申す故に・・・。」   萬右衛門が周囲を見渡すと、誰一人残っていなかった。 「いえいえ、礼には及びませんよ。」  織人はゆっくりと萬右衛門に近付いていく。 「ところで・・・。」 「な・・・なんだ?」 「あなたへの裁きは誰が下すのですか?」  腰を抜かしたまま後退っていくが、萬右衛門の背は壁に阻まれ後退できない。 「ゆ・・・許してくれ~。」 「いいえ、許せませんね。弱き者をいたぶった報いを受けて頂きます。」  そう言うと織人は萬右衛門の膝に車太刀を突き刺した。激痛が全身を駆け巡り地べたを這いずり回る。 「痛いですか?・・・ですが、人の心の痛みはこんなものではありませんよ。」   今度は這いずり回る萬右衛門の背中に車太刀を突き刺す。血飛沫を浴びた織人の顔が真っ赤に染まる。 「最期です。」  織人は萬右衛門の首を一瞬にして刎ねた。転がる萬右衛門の首を見つめ、織人は屋敷に一人佇んでいる。 ― だから言ったのです。耐えるだけでは死んでしまうと。 ―  織人は何事もなかったかのように、刀の血を拭って鞘に納めた。後ろでは風で倒れた蝋燭の火が畳に燃え移り、屋敷は一瞬で火に包まれた。燃え上がる火に照らされ、織人の顔が浮かび上がる。その頬には涙の跡が、はっきりと残っていた。               八  そこは郡兵衛の道場だった。吉之丞は多都馬へ二階堂平法の秘奥義を伝授を行っていた。通用口や障子戸は戸板で閉められ、光が差し込む箇所は全てが板で塞がれていた。昨夜から伝授は行われているが、中から稽古をしているような音は一切聞こえてこなかった。  閉められいた道場の戸板が、轟音とともに突き破られる。 中から陽の光を眩しそうに目を細め、開いた穴から吉之丞が出てきた。吉之丞は振り返って中にいる多都馬を見る。道場にいる多都馬は、疲労のあまり中で座り込んでいた。  吉之丞は大穴が開いた場所から中に入り、疲労困憊の多都馬の側に腰を下ろした。 「おい大丈夫か?」  激しい息遣いの多都馬は言葉を発するにもやっとである。 「師匠・・・。」 「大丈夫か?」 「えぇ・・・。」  多都馬は立ち上がろうとするが体に力が入らない。 「無理をするな。この技は一時的に体力を壊滅的に奪う。」 「そのようですね。」 「一撃必殺の剣だ。」  多都馬は衝撃で開いた穴をマジマジと見つめた。 「この技は、大地に芽吹く息吹が源じゃ。多都馬とて多用は出来まい。」  使い慣らす事が出来ないわけではないが、体力の消耗が著しい事は理解出来た。 「この技を、今のワシが繰り出せば間違いなく死ぬな。」  高らかに笑い飛ばす吉之丞だったが、あながち冗談にも聞こえなかった。 「まさか?」 「それが秘奥義たる所以じゃ。」  ふらつきながら多都馬は、漸く立ち上がる事が出来た。 「多都馬。京八流の男も万全を期して挑んでくるぞ。」 「はい。」 「だがな・・・ワシが授けた秘奥義に隙はない。」 「はい。」 「さて、急いで帰って須乃殿の茶漬けでも頂こうかの。」  歩くことがやっとである多都馬を気にもかけず、吉之丞は軽やかに歩いていった。 ― さぁ、来い!こっちはいつでもいいぜ。―  先を歩く吉之丞の背中を見つめながら、織人への闘志を燃やす多都馬だった。               九  須乃は三吉と弥次郎を伴い、食材の買い出しに出掛けていた。須乃の護衛として二人は付き従った。三吉は多都馬に稽古をつけられ、剣術も体術も相当な遣い手になっていた。  あれもこれもと思い悩むうちに、須乃は三吉と弥次郎を連れまわして茅場町まで来ていた。 「三吉さん、弥次郎さん。」 「はい。」  二人は同時に返事をした。 「お二人は、今夜は何を召し上がりたいですか?」 「えっ!」  三吉と弥次郎は驚きのあまり、声を上げてしまった。それもその筈である。三吉と弥次郎は、あくまでも口入屋と調達屋の使用人である。女将が決めたものを、有無を言わさず食べるのが当たり前なのだ。 「い・・・いえ。アッシらは須乃様がお決めになったものを・・・。」 「アッシも元締めのところへ戻らねーと・・・。」 「長兵衛さんなら大丈夫ですよ。こっちで食事をするって言っておけばいいんです!」  「しかし、アッシ等は使用人の身ですから。」 「また、そんな事を・・・。いい加減にしないと、また多都馬様からお叱りを受けますよ。」 「はぁ〜。」 「三吉さんと弥次郎さんは何がお好きですか?」  須乃はそう言って屈託のない笑顔を二人に見せる。困り果てた弥次郎は先日、右衛門七の姉/絹と二人で食べた鰻串を思い出した。一串十六文で歩きながら食べたのだ。そうこうしているうちに、絹と立ち寄った鰻屋の屋台が目の前に現れる。鰻を焼く香ばしい香りが、須乃と三吉、弥次郎を立ち止まらせた。 「う~ん、いい匂いですね~。」 「はい・・・。」 「ん?・・・。弥次郎さん、鰻が食べたいの?」 「い・・・いえ、とんでもねぇ。」  贅沢品である鰻は、庶民がそうそう口にできるものではない。 「鰻はさすがにね~・・・。」  と須乃は呟くが、突然何かを閃き鰻屋の屋台へ駆け足で向かう。 「あ、須乃様!」  三吉と弥次郎は慌てて須乃を追いかけた。 「鰻串、十八本ください。」  三吉と弥次郎は驚いて顔を見合わせる。 「はいよ。全部で五百二十八文でございやす。」 「須乃様~、アッシは別に・・・。」 「いいのです。私も鰻が食べたくなったのです。それに鰻は殿方には精のつく食べものでしょ。多都馬様はお師匠様と稽古の真っ最中です。きっとお疲れになって帰られるはず、少しくらい贅沢してもバチは当たりません。それにね・・・いいことを思いついたのです。」  呆気にとられ弥次郎は開いた口が塞がらず、三吉は呆然と立ち尽くしてしまった。 「この鰻串を串から外して、ご飯の上にのせて食べるのです。美味しそうでしょ。」  須乃は嬉しそうに言うと、出来上がった鰻串を弥次郎に渡した。 「さ、二人とも参りましょ。」  三人が調達屋に戻ろうとして踏み出した時、三吉は見覚えのある顔を見て立ち止まった。弥次郎はそれに気づいて足を止める。 「ん?お二人ともどうしました?」 「いえ。あそこに真榮館がございやすでしょ・・・それを覗き込む方が・・・え~っと確か、長澤様だったと思いますが、どうされたのかな・・・と思いましてね。」 「何やら監視しているみたいですね。」  須乃は三吉が教えてくれた男を見ている。男は正門から時折出てくる門下生を避けるように佇んでいる。 「声をお掛けしたほうがよろしいでしょうか。」 「それでは、私が・・・。頂き物のお礼もいたしたいので・・・。」  須乃は長澤六郎右衛門のところへ足早に歩いていく。六郎右衛門は、声尾を掛けられ驚いたように振り返る。 「突然、申し訳ありません。私、日本橋で調達屋を営んでおります。築山須乃と申します。以前、長澤様からお漬物を頂きお礼を申し上げたかったのです。本当に・・・本当に美味しゅうござりました。」 「調達屋・・・多都馬殿の御身内ですか。」 「はい。」 「いやぁ・・・素人がこさえたものを、そこまで思うて下さり忝い。」  二人が話す間、三吉と弥次郎は目の前の真榮館を警戒している。この真榮館には常時、長兵衛配下の者が見張りについていた。真榮館正面建屋の蔀戸(しとみど)に向って三吉が、合図を送るように小さく頷く。 「ご子息様にお会いなされるのですか?」 「たまたま近くを通りすがったので、ついでに中を見ようかなと・・・。いや、子離れ出来ぬ親をお見せしたようでお恥ずかしい限りです。」 「そうでしたか、お邪魔をいたして申し訳ございませんでした。」 「いえ。多都馬殿には、くれぐれも宜しゅうお伝えくださりませ。」  そういうと六郎右衛門は、真榮館を後にして立ち去っていく。 「須乃様。我等も帰りましょう。」  三吉と弥次郎は、須乃を促すように先に歩き出した。須乃は六郎右衛門が気になり見ていた。六郎右衛門は、まるで真榮館を調べているかのような身のこなしで、裏側へと消えて行った。須乃は六郎右衛門の行動に、一抹の不安を感じていた。               十  月が眩しいくらいに光り輝き、星の瞬きも霞むような夜。江戸茅場町の町は、寝息が聞こえそうなほど静まり返っていた。その静寂は真榮館も同じだった。門下生たちが寝起きしている長屋の一つから、辺りを警戒しながら一人の男が出てきた。その男は幾右衛門だった。  幾右衛門は、張番に立っている者たちに気付かれぬよう目的の場所を目指していた。その場所は真榮館の食料などを備蓄している蔵である。踏み締める足音に気を遣いながら、幾右衛門は漸く蔵の前に辿り着いた。蔵の上部にある格子窓が開いている事を確認し、音を立てずに侵入する。月明かりを頼りに歩いていくと、数日前に搬入した木箱が(うずたか)く積まれていた。 「これは・・・。」  幾右衛門は幾つかの木箱の中から、一つを選び恐る恐る蓋を開けた。木箱の中には火縄銃が数十丁、槍、刀や鎧など戦に使う道具が数多く収納されていた。真榮館の門下生等は通いを含め四百名ほどいるが、それら人数を賄えるほどの(おびただ)しい数の木箱が積まれている。 ― 公儀への決起、武力でやるつもりなのか・・・。 ―  この時、幾右衛門は真っ先にの顔が頭に浮かんだ。戦はいつも武家の権力争いや、大義などで引き起こされる。それらは庶民には全く関係のないものである。戦で犠牲になるのは、戦火で路頭に迷う民草だった。 - どうする。-  思案しながら腰かけた時、幾右衛門の腰が不用意に他の木箱に引っ掛かり僅かに音が鳴る。蔵の扉に張り付いている張り番が気づいて、他の張り番に音の有無を問い合わせている。幸いにも幾右衛門が起こした音は、ネズミの類だということになり事なきを得た。ほとぼりが冷めるのを待って侵入した経路を辿って蔵の外へ出た。夜陰に紛れ長屋に戻ると、寝ているを起こした。 「幾右衛門・・・もう朝ですか。」  睡眠を妨げられ、は寝ぼけている。 「朝ではない。まだ夜は明けておらぬが、外出すると見せかけてこのまま真榮館を出ていく。」 「出ていく?・・・出ていくのですか?」  驚いて声を出したの口を咄嗟に手で閉ざした。  「俺は今、この目で見てきた。真榮館の蔵の中は、火縄銃などの武具でいっぱいになっておる。」  の顔がみるみるうちに血の気が引いていく。 「陽が昇り朝が来たら、利右衛門殿と武右衛門殿に委細を話し、他の者に気取られぬようこの真榮館を出ていく。このままでは他の門下生も騙されたままだ。早く手を打たないと取り返しの付かないことになってしまうぞ。」  幾右衛門は、格子戸の隙間から外の様子を窺いにいく。 「、荷物になるようなものは全て置いていくぞ。」  普段柔和で優しい幾右衛門が、緊張し殺気立っている。陽が昇り朝が来ると、何が二人に襲いかかってくるか。不安で押し潰されそうなの心臓の鼓動は激しさを増していった。                十一  巳の刻を過ぎても多都馬は、眠りについたまま起きてこなかった。須乃が時折、心配そうに下から二階を覗き込んでいる。 「須乃殿。」  声のするほうを見ると、居間で寝そべりながら吉之丞が嬉しそうな笑みを浮かべていた。多都馬への思いを見透かしているのか、いつまでも笑っている。 「御師匠様。何か可笑しいですか?」 「そのように心配せずともよい。多都馬は、ぐっすり眠っているだけだ。」 「わかっております。」  気持ちを知りながら、からかうような吉之丞の物言いに須乃は口を尖らせる。 「恥ずかしがることはあるまい。それが愛というものだ。」  そう言って吉之丞は大声で笑った。 「御師匠様。あんまり須乃様をおからかいなさると、夕餉の品が一品減りますよ。」  が洗濯物を抱え、吉之丞の側を通り様に言った。 「あ〜、これは須乃殿、少し冗談が過ぎたかの。」  吉之丞の言い訳にも須乃は相手にせず、そっぽを向いている。は、吉之丞にいい気味だと舌を出して笑っている。その時、吉之丞は異変に気付いて裏庭に目を向ける。警護している外聞衆の一人が慌てて飛んで来る。 「吉之丞様・・・。」 「わかっている。」 「誰かが来ます。」  二人が感知したように、裏庭に長兵衛の配下が血相を変えて走って来る。 「多都馬様ーっ!」  弥次郎も声を聞いて裏に来る。 「喜助、何があった?」  走ってきた喜助の背中をさすりながら弥次郎が言った。 「い・・・幾右衛門様が・・・幾右衛門様が怪しい集団に連れ去られてどこかへ・・・。」 「どこに向っているようだった。」 「上総道へ向っているような気がいたしますが・・・。」  須乃も騒ぎを聞きつけ裏庭に飛んで来る。 「喜助・・・案内出来るか。」   須乃、吉之丞、弥次郎たちが声が聞こえる二階を見上げた。二階には目を覚ました多都馬が立っていた。                十二  幾右衛門とは、数人の男たちに連行され歩いていた。その男たちは、目立たぬように幾右衛門たちの前後にも数十人配置し歩いている。傍から見れば、この一行は罪人を連行している役人に見える。それを長兵衛配下の三吉たちが見失わぬよう後をつけていた。  上総道の入口辺りに差し掛かり、海岸沿いを歩く人の数は少なくなっていた。道幅も狭く人の背丈ほどもあるブタクサが生い茂っていた。 「兄貴。奴等・・・幾右衛門様たちをどこへ連れて行くつもりなんすかね。」  一人が三吉に尋ねる。  「さあな。ただ、奴等間違いなく二人を殺るつもりだ。」  三吉の後をついてくる子分たちは、神妙な顔をして息を飲み込んだ。 「喜助は今頃、多都馬様のところに着いただろうな。」 「へい。もう多都馬様を連れて、こちらに向っていると思います。」  三吉は追いかけて来る多都馬が迷わぬように、子分たちを道の数カ所に置いて来ていた。三吉はついてくる子分を見渡した。 「行くぞ。」  三吉が子分たちに号令をかけた時、子分たちが異変を感じて声を掛ける。 「あ・・・兄貴。」  周囲を見渡すと幾右衛門たちを連れ去る一味が三吉たちを囲んでいた。 「お前たち・・・何故つけてくる。」  三吉は子分たちを庇うように後退る。 「兄貴〜っ」  三吉の視野に次第に遠ざかっていく幾右衛門が見える。三吉等を囲みながら一味たちが一斉に刀を抜く。 「おい。お前たち、覚悟を決めろ!」  三吉は腰の脇差を抜いて中断に構えた。三吉の後ろで子分たちも脇差を抜く。 「ほう・・・無外流か。」  一味の一人が三吉の構えを見て呟く。三吉は遠のいていく幾右衛門が気になっていた。 「ここは俺が残る。お前たちは幾右衛門様を追いかけろ。」 「兄貴、それは・・・。」  子分たちは犠牲になろうとしている三吉を残して行けず、その場に踏み止まっている。 「てめえ等、何やってんだ!見失っちまうぞ!」  ためらう子分たちを残し、三吉は一味に斬りかかって行った。多都馬直伝の無外流の剣技が一味に放たれる。間合いに詰め寄る速さに、一味の者たちは一斉に後方へ飛び下がっていく。一番手前にいた者が、三吉の一閃に着物一枚を真一文字に斬られる。 「行け!」  三吉に言われた子分三人は、幾右衛門の後を追って一目散に駆け出した。 「愚かな・・・僅かな(とき)を稼いだところで無駄な事。貴様など一刀のもとに斬り伏せてくれるわ。」  着物を斬られた男が薄笑いを浮かべて三吉に詰め寄っていく。 「待て!」  もう一人の仲間が斬ろうと詰め寄る男に待ったをかけた。一味の一人が音がするほうへ耳を欹てる。 「馬の蹄の音だ!」  音のするほうへ一斉に振り返る。一味の視線の先に、馬を駆る多都馬が現れる。 — 多都馬様・・・。 —  多都馬の姿を見た三吉は、大きく深呼吸をして安堵したように片膝をつく。多都馬は三吉を囲む集団に馬で突っ込んでいく。一味の者たちは突っ込んでくる馬を最小限の動きでヒラリと躱す。 「三吉!無事か?」 「へい!」  多都馬は三吉を囲む集団を睨みつけ刀を抜いた。 「多都馬様!幾右衛門様が・・・。」 「わかってる・・・お前は、幾右衛門殿のところに先に行ってろ!」  三吉は大きく頷いた後、連れ去られた幾右衛門を追いかけた。先ほどまで真上にいた太陽も西に傾き始めていた。三吉が斬ったであろう一味の胸元に、羽を広げた烏の入れ墨が彫り込まれていることに気付く。烏の入れ墨を見られた一人が鬼のような表情に変わり呟いた。 「何者かは知らぬが・・・冥途に旅立つお主らに聞かせてやろう。我等、帝を守護する八咫烏(やたがらす)の一党。これを見たお主たちは”死”あるのみ。」 「八咫烏(やたがらす)・・・。」  多都馬は鳳四郎の言っていた” 八咫烏(やたがらす) ”の話を思い出した。  「てめえ等が八咫烏(やたがらす)か・・・。こいつは都合がいいぜ。」 「なに!」 「命のいらねー奴は叩っ斬ってやるから、まとめて掛かって来い!」  そう言うと多都馬は、残る左手で脇差を抜き、二階堂平法奥伝である十文字の構えに入った。                  十三  幾右衛門とは、八咫烏の一味に砂浜に連行された。激しく吹く潮風に白波が立ち、二人の衣服の袂と裾を飜している。の顔は恐怖で蒼白になっている。 「この辺りでよかろう。」  八咫烏(やたがらす)の一人が呟いた。幾右衛門とが波打ち際まで引っ立てられる。 「お主は見てはならぬものを見たのだ。不運だと思い観念いたせ。」 「は、だけは見逃してくれないか!」  幾右衛門が縋るように訴える。 「それは出来ぬな。その目で見たこと、お主から聞いたことを誰かに話すとも限らぬからな。」  幾右衛門とを囲む八咫烏(やたがらす)等は怯える二人を見て薄ら笑いを浮かべている。は幾右衛門の腕にしがみ付いている。その時、砂浜に轟然一発銃声が鳴り響いた。  幾右衛門等を囲む八咫烏(やたがらす)の一人が銃声と共に倒れる。どこから撃たれているのかわからず八咫烏(やたがらす)の面々は右往左往している。そして、更に一発の銃声が鳴り響き八咫烏の一人がもんどりうって倒れる。 「どこからだ!」  不意の攻撃を受けて動揺している八咫烏の刀を奪って、幾右衛門は正面の男を斬り伏せた。 「逃げろ!」  幾右衛門の声に我に返ったは、一目散に駆け出した。追いかけて行こうとする男の前に、幾右衛門が両手を広げて立ち塞がる。銃で狙撃されるかも知れないという恐れから、八咫烏の面々は幾右衛門との斬り合いに身が入っていない。 「くそっ!どこから狙っているんだ。」  八咫烏たちの気がそれる間に、は来ていた道を駆け足で戻って行く。 「追え-っ!」   幾右衛門はを逃そうと必死に立ち塞がるが、多人数の八咫烏はすり抜けて後を追っていく。 「!早く行けーっ!」  砂浜は女の足では、早く走ることは出来ず追いつかれそうになる。八咫烏がの肩をつかみかけた時、また一発の銃声が鳴り追っていた八咫烏の一人が倒れる。倒れた八咫烏は、虫の息ながらもの足をつかむ。もつれて倒れそうになるの体を、物陰から現れた侍が支えた。 「父上!」  幾右衛門がを支える侍を見て叫んだ。 「ちゃん、心配いらぬ。大丈夫だ。」  そこには、火縄銃二丁を抱えた父/六郎右衛門がいた。 「お義父上様・・・。」  六郎右衛門は火縄銃を背中に差して腰の刀を抜いた。 「愚か者め・・・死にに参ったか。」 「我等親子は死ぬるかもしれぬが、この子だけは死なせぬぞ。」  いつも穏やかな六郎右衛門の表情は、大切なものを守る漢の顔に変わっていた。 「ほう、それは大した決意だ。だが、お主らは討ち入りにも参加しなかった卑怯者ではないか。」  最大級の脅しをかけたつもりだが、六郎右衛門は臆せずに声高に笑って見せた。 「下郎の考えそうなことよ。真の勇者とは、ここぞという場が訪れぬ限り、大事なものを守り最後の最後まで生き抜くものだ。死に急ぐことではないわ。」 「ほざきよるわ。では、その大事なものの前で死ぬがよい。」  八咫烏たちは六郎右衛門に襲い掛かった。を庇って戦っているために防戦一方になっているが、組外という特殊技能を持つ役方にいた六郎右衛門の剣技に、八咫烏等は翻弄されていた。 「口だけではないようだな。」  幾右衛門が八咫烏たちの刃を躱しながら、六郎右衛門との側へたどり着く。六郎右衛門は、駆け寄ってきた幾右衛門を見た。腕や足、背中など浅手ではあるが斬られた傷から血が垂れていた。 「大事ないか。」 「はい。」 - (おとこ)の顔になったな。- 「よいか・・・ワシの火縄を持って行け。逃げながら弾を込め、二丁とも撃てる状態にしておくのだ。合図をしたらちゃんを連れて走るのだ。」 「はい!」  幾右衛門は六郎右衛門の火縄銃を受け取り両手に抱えた。眼前に迫る数名の八咫烏たちは、隊列組み何か仕掛けようとしている。 「行け!」  六郎右衛門の合図とともに二人は走り出した。六郎右衛門は脇差も抜いて二刀で、八咫烏の追撃を防いだ。幾右衛門は、走りながら火縄銃に弾を込める。二丁の火縄銃の用意を整え、後に残った父/六郎右衛門を振り返った。幾右衛門の目に八咫烏の刃を全身に受けた六郎右衛門が映る。 「父上ーーーっ!」  叫びながら幾右衛門は火縄銃を八咫烏に向けて放った。放った弾は六郎右衛門を刺していた八咫烏に命中する。倒れていく六郎右衛門を見て幾右衛門は側に駆け寄ろうとする。 「来るな!」  六郎右衛門は駆け寄ろうとする幾右衛門に叫んだ。その声に幾右衛門は足を止めた。思いとどまった幾右衛門の姿を確認した六郎右衛門は、安心したように体を横に倒した。 「父上ーーーーーっ!」
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