第十九章 白虹貫日(はくこうかんじつ)

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第十九章 白虹貫日(はくこうかんじつ)

              一  砂浜に幾右衛門の慟哭する声が響き渡る。六郎右衛門を倒した八咫烏(やたがらす)たちは、十間先にいる幾右衛門とに目を向けた。残りの火縄銃を構える幾右衛門の耳に、遠くから馬の蹄の音が聞こえてくる。 「幾右衛門様ーっ!」  遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえ周囲を見渡すと、馬に乗りこちらに駆けつけてくる多都馬と三吉が見えた。多都馬を乗せた馬は、幾右衛門と八咫烏の間に割って入る。 「長澤殿・・・。」  馬を降りた多都馬は、無残にも八咫烏たちの凶刃に倒れた六郎右衛門を姿を見て言葉を失う。  三吉は途中で合流した子分たちと、幾右衛門とおこんを囲み万が一に備える。 「幾右衛門様・・・お怪我は?大丈夫ですか?」  幾右衛門も八咫烏との斬り合いで負傷していた。 「あぁ、大丈夫だ。」 「今からは、アッシ等がお守りいたしやすんで・・。」 「しかし、黛殿をお助けせねば・・・。」  言いながら幾右衛門は火縄銃を構える。三吉は幾右衛門が構える火縄銃をつかんで下に向ける。 「大丈夫ですよ・・・さ、参りましょう。」 「いや、多勢に無勢ではないか。このままでは黛殿が・・・。」 「ご心配など無用でございやす。」  三吉は笑みを浮かべ背を向けている多都馬を見つめていた。 「奴等は知らないのですよ。二階堂平法/伝承者の恐ろしさをね・・・。」  三吉はそう言うと、幾右衛門とを守りながら後方へ避難していく。  八咫烏たちは多都馬を円で囲むように包囲する。 「何者だ。」 「・・・ったく、どいつもこいつも同じことを吐かしやがって。」 「なんだと!」 「てめぇ等外道に名乗る名なんざ持っちゃいねーんだよ。」  多都馬は言いながら持っていた刀を鞘に納める。 「長澤殿を手に掛けたこと、地獄でたっぷり後悔させてやるから、命のいらねぇ奴はさっさと掛かって来い。」  多都馬が呟くと包囲している八咫烏の中から嘲笑う声が聞こえてくる。 「狂うたか。四方を我等に囲まれ、抜刀もせず何を言う。」  八咫烏の一人が勝ち誇ったように言った。しかし、傍らにいた一人が耳元にそっと囁いた。 「待て。後に残した十名は、どうしたのだ。そろそろ我等に追いついている頃ではないか。」  先ほどまで嘲笑っていた八咫烏たちの顔から笑みが消えている。 「さぁ、どうした。掛かってこいよ。」  多都馬は前屈みになり深く息を吸い込んだ。そして精神を集中するように目を静かに閉じた。多都馬の一連の動作を合図に、八咫烏たちは四方から一斉に斬り掛かっていく。  鼓膜を突き破るような多都馬の気合が放たれ、囲んでいた八咫烏たちが吹き飛ばされた。  吹き飛ばされた八咫烏たちは、酸素を求める魚のように口を動かしている。 「い・・・息が。」 「これが心の一方だ。俺が術を解かぬ限り呼吸は出来ぬ。」  八咫烏たちは喉を掻きむしり、苦しみながら一人また一人と死んでいった。  多都馬は踠き苦しむ八咫烏たちには、目もくれず六郎右衛門の側に駆け寄った。 「長澤殿・・・。」  多都馬が耳元で囁くと六郎右衛門はゆっくりと目を開けた。 「た・・・多都馬殿。」 「見事、御子息を守り抜きましたな。」 「忝い。」  虫の息だが六郎右衛門は優しく微笑んだ。 「幾右衛門殿のこと、あとは某が・・・。」 「お・・・御頼み申す。」  多都馬の頬を涙が伝う。六郎右衛門の呼吸が、みるみるうちに弱くなっていく。 「長澤殿!」 「多都馬殿・・・お先に。」  六郎右衛門は、そう言い残し眠るように息を引き取った。                二  多都馬たちが去った砂浜に、八咫烏たちの死体はそのまま置かれていた。陽は沈みかけ、水平線は紫色に染まっていた。その砂浜は八咫烏たちが、人知れず幾右衛門を亡き者にしようとしていた場所に、選ぶだけあって人気はまるでなかった。遥か遠くに今は誰も使用しない、朽ち果てそうな漁師小屋が建っているだけだった。  その漁師小屋の戸を蹴破るように、中から天玄と地玄が出てきた。 「あれが二階堂平法か・・・。」  天玄が溜め息混じりに呟く。 「たった一人の男に全滅とはな・・・。」  砂浜に転がる死体を見つめ、地玄も呟いた。 「だが・・・すくみの術のような、あの技は何だ。」 「あれが二階堂平法奥義のひとつである” 心の一方 “だ。」 「心の一方・・・。」   地玄は思わず息を呑んだ。 「大した男だ。一右衛門が手こずっているのも頷ける。」  多都馬に一目置いているような天玄に、地玄は表情を険しくする。 「天玄。まるで観念したような物言いだな。」  そう話す地玄を一瞥し天玄は黙ってしまう。 「奥義やも知れぬが、心の一方など我等に通用するとは・・・ましてや、通躬様の無想剣の前では児戯に等しい技。」   多都馬の実力を軽視している地玄に、天玄は呆れかえり言葉を失う。黙り込んでしまった天玄が気になり、地玄は声をかけた。 「どうした・・・。」 「お前、命のやり取りが少のうなって目がだいぶ衰えたようだな。」 「なにっ!」  蔑すむような言い方をされ、地玄が天玄を睨みつけた。 「あの二階堂平法の男、奴は本物だ。」 「馬鹿な!」 「奴は漁師小屋の我等のことも、気付いていたのだぞ。」  地玄は信じられないとばかりに反論する。 「気付く筈なかろう。奴と我等の間は、十数間も離れていたのだぞ。」 「では何故(なにゆえ)、抜いていた剣をわざわざ納めた。・・・何故(なにゆえ)だ!」  天玄の剣幕は凄まじく、地玄は圧倒されてしまう。 「しかも、十数人に四方を囲まれていたにも関わらずだ。」 「ま・・・まさか太刀筋を我等に見せぬため・・・。」  天玄は声を出さず大きく頷いた。 「それ以外何がある。」  暫く困惑していた地玄だったが、直ぐ様落ち着きを取り戻した。 「・・・確かに侮れぬ。」  水平線の空の色が紺色に変わり、空には星が瞬き始める。 「天玄、あの小倅。目付や大目付に駆け込みやせぬであろうな・・・。」 「あの小倅と奴が、どのような関係であるか知らぬが。小倅一人助けたところで時すでに遅し、企てに支障はない。」  天玄が不敵に笑った。  天玄と地玄の下に、配下の者が数名現れる。 「天玄様。この先にも我等八咫烏の者の遺体が・・・。」 「そっちは、どのようになっていた。」 「全て一刀のもとに斬り捨ててられておりました。」  不満気に地玄が舌打ちをした。 「遺体は全て片付けておけ。」  天玄は、そう言うと早々と背を向けて去って行く。ついて来ない地玄が気になり、天玄は声を掛けた。 「どうした?」 「気にするな。先に行ってくれ。」  そう言われた天玄は、一人砂浜を後にした。 ― 二階堂平法、恐るべし・・・。 ―  地玄は遺体を片付けている様子を見つめながら、多都馬の二階堂平法の剣に脅威を感じていた。                  三  幾右衛門とは、多都馬たちに連れられ調達屋で保護されていた。谷中村にいる六郎右衛門の妻/も呼んで、六郎右衛門と悲しみの対面をした。六郎右衛門の死は、多都馬を始め関係者一同を深い悲しみの淵に落としていた。八咫烏との戦いで深い傷を負っていた幾右衛門は、運ばれて来てからまだ目覚めてはいない。幾右衛門が眠っている間に、六郎右衛門の弔いは長兵衛の協力で滞りなく終えていた。  目覚めていない幾右衛門の看病には、が代わる代わる努めていた。幾右衛門は須乃の部屋だった一室で療養していた。 「失礼いたします。」  部屋の外から須乃が声を掛けると、が障子を開けて顔を出す。 「幾右衛門様のお着替えをお持ちいたしました。」 「須乃様。何から何まで、誠に相済みません。」 「いいえ。どうか遠慮なさらずに・・・。」  は恐縮しながら着替えを受け取り、再び障子を閉めた。隙間からが、幾右衛門の手を必死に握っている姿が見えた。二人の不憫な姿に須乃は胸を詰まらせ声を押し殺して泣いた。 「須乃・・・。」  優しい声が後ろから聞こえ、振り返えると多都馬が立っていた。多都馬は須乃を優しく抱き寄せた。 「多都馬様・・・。人は争う事を、いつになったらやめるのでしょうか。」   多都馬の腕の中で、須乃は涙を流しながら呟いた。答える代わりに多都馬は、震える須乃の体を慰めるように撫でた。  その時、障子の向こうから幾右衛門の声が聞こえる。 「行かねば・・・早う行かねば!」  多都馬は須乃と共に、部屋の中に入る。目覚めた幾右衛門は、押さえるを振り切り刀を掴んでいた。 「幾右衛門殿、何をしている!」 「黛殿!」 「いったいどうしたのだ!」  幾右衛門は蹌踉(よろ)めきながら、多都馬にしがみついた。 「早く・・・早く訴えねば、真榮館が大変な事に。」 「それはどういう事だ!」 「真榮館の、く・・・蔵の中に大量の武器と弾薬が隠してあるのです。」 「なんだと!」  幾右衛門の訴えに、須乃との表情が一気に青褪めていく。階下から騒ぎを聞きつけ弥次郎が駆け付けてくる。 「乱を起こすというのか。」 「いいえ。真榮館の塾生たちは、武器弾薬など何も知らんのです。しかし、あのままでは公儀への謀反とみなされるは必定。この事を公儀に釈明せねば・・・。」  父/六郎右衛門の死のことも忘れ、仲間を救おうとする幾右衛門の気持ちが多都馬の心を動かした。 「幾右衛門殿。その役目、某が代わりに承る。」  幾右衛門にそう告げた時、階下で多都馬を呼ぶ三吉の声が聞こえてきた。三吉は二階に多都馬がいるとわかると、小走りに駆け上がってくる。 「旦那、真榮館が!」  真榮館から休まず走ってきた三吉の着物は全身汗で濡れていた。三吉の逼迫した表情は、事の重大さを物語っていた。               四  日本橋茅場町の真榮館屋敷の周囲は、奉行所の捕り方に包囲されていた。そして捕物を見物しようという野次馬で、周囲は芋を洗うように人で溢れていた。 「いつものように真榮館を見張っていたら、あっという間に奉行所の役人たちが取り囲んじまって。」  訳が分からないと三吉は頭を抱えてしまった。 「行くぞ。」  多都馬と三吉が、人ごみの間を縫うように進んでいく。なんとか強引に前列にたどり着くと、非人頭配下の者が六尺棒を持って行く手を塞いでいた。多都馬は引き立てられていく列の中に、岡田利右衛門と塩谷武右衛門を見つける。 「どけーっ!」   多都馬が強引に通り抜けようとするが、数名が立ち塞がり行く手を阻む。三吉が多都馬を助けようと一緒になって突破しようと試みるが、次から次へと現れる新手に思うように進めない。群衆は互いに押し合いへし合いを繰り返し、騒ぎになりつつあった。そのような事態でも、真榮館の塾生たちは次々に連れられていく。  塾生たちを連れて歩く町方同心の中に、険しい顔をした隼人の姿もあった。騒ぎを起こしている群衆に目をやると、その中に多都馬の姿を見つける。隼人は新八を連れて様子を窺いに行った。 「多都馬さん、あんた何やってんだ。」  隼人はもみ合いになっている多都馬に叫んだ。 「隼人か?これは、一体どういう事だ!」  組み付いている男を引き剥がし、多都馬は隼人に近寄ろうと前に出る。しかし、また新たな男が現れ多都馬の肩をつかまれ群衆の中に引っ張られる。職務を果たしているにすぎない者に、” 心の一方 “は使えなかった。  六角棒を持っている男たちに隼人が話をつけ、多都馬と三吉を彼等から引き離した。 「ちょっと来てくれ。」  隼人は多都馬と三吉を、群衆から離れた川沿いまで連れて行った。 「隼人、これは一体どういう事なんだ?」 「実は今朝早く、大目付/仙石伯耆守様の屋敷に矢文が刺さっていてな。」 「矢文だと?」 「矢文には水戸藩後ろ盾の真榮館が、密かに幕府転覆を計っているというんだ。蔵には武器弾薬がびっしりと納められているのが何よりの証拠だとな。」 「旦那・・・。」  三吉は道すがらに聞いた幾右衛門の話を思い出し、多都馬に目配せをする。 「隼人。そいつは端から仕組まれたもんだぜ。」 「わかってるよ。真榮館の蔵の中を調べてみたら、目立つような場所にわざわざ置いてあった。」 「では何故、こんな大掛かりな捕物騒ぎになった。」 「伯耆守と同役で(さき)の町奉行だった松前伊豆守様が申しておられたが・・・なんでも(みやこ)から圧力を掛けられたらしいんだ。」 「京だと?」  以前、鳳四郎からいた霊元上皇一派と八咫烏たちが、表舞台にも姿を現し始めたのだ。 「しかし、真榮館に急襲をかける前に、もっと慎重に事を進められなかったのか。」 「多都馬さんよ。その辺のところは、アンタが一番わかっているんじゃねーのかい。失態続きの仙石伯耆守は、功名心にかられてやがる。上様や幕閣へ功を立てたいと必死になっているのさ。」  公儀の無能さに呆れ返る多都馬だった。 「蔵から武具弾薬が見つかったとなりゃ、真榮館の皆様は言い逃れ出来ねぇんじゃ。」  三吉は不安気に隼人に言った。 「松之廊下の一件があるから、さすがに同じ轍は踏まねぇだろ。裁きを下すまで慎重に事を運ぶ筈だ・・・。」  隼人は神妙な表情で多都馬に向き直って改めて言う。 「多都馬さん、公儀のやり方が不満なのはわかる。だがな、だからといって、さっきみたいな軽挙妄動は謹んでくれ。・・・頼むぜ。」  隼人は、心配している須乃のことを考えろと言っているのだ。 「わかったよ。」  納得した多都馬を見て安心した隼人は、新八を連れ奉行所に帰って行った。 「旦那・・・。」  三吉が心配そうに呟いた。 「あぁ・・・。奴等とうとう、表舞台に姿を現してきやがった。」  真榮館前の人だかりは、日が暮れるまで減ることはなかった。                五  真榮館が幕府により差し押さえられ、水戸藩内は大騒ぎとなった。藩主/綱篠(つなえだ)は、大目付ならびに老中諸侯への弁明に大わらわだった。  家老/山野辺義清は、金杉橋にある賀茂屋一右衛門の店に、信成の跡を継いだ年若の中山信敏と訪れていた。賀茂屋の戸は固く閉じられ、誰もいない店内からは物音ひとつしない。 「義清様・・・この賀茂屋とは一体何でござるか・・・。」  義清は、これに答えず賀茂屋の戸を必死に開けようとしていた。通りすがる人々の目が、脇目も振らず必死に抉じ開けようとする義清に注がれる。 「義清様。」  信敏が義清の肩を掴んで、冷静さを取り戻させる。義清の額には大粒の汗を浮かんでいた。 「この賀茂屋と我が藩は、どんな関わりがあるのでござるか・・・。」  義清は膝をついて項垂れている。  「義清様、どうなされた。」  信敏は義清の肩を揺すって正気を取り戻させようと必死になる。 「義清殿・・・。謀られたのじゃ。」  信敏が声のするほうへ振り返ると、同じく水戸藩家老の鈴木義春が立っていた。 「御家老・・・。」  義春は編み笠で顔を隠し、供回りも付けずに一人で立っていた。 「殿とお主が身元卑しい賀茂屋なる者と、何やら朝廷と画策していたこと知らぬと思うていたか。」 「朝廷?・・・一体何の話で御座いますか?」  信敏が目を丸くして義春に訴える。 「亡き御老公様が、予てより帝を主権とするお考えだったのは知っておるか。」 「いえ、そのようなお話は露ほども・・・。」 「将軍家など天子様の一家臣に過ぎぬ。御老公様が生前、よく申された言葉じゃ。」 「お主の亡き兄上/信成殿は、この義清殿と共謀し、御老公様の御遺命に従ったのだ。」 「御遺命とは、何でございましょう。」 「(まつりごと)を朝廷へ返上仕ることだ。」 「そんな馬鹿な、兄上に限って・・・。」 「ないと申すか!」  義春が信敏の言葉を遮るように言った。 「こともあろうに水戸藩の家老ともあろう御人が、忍び頭の小八兵衛と共に死体となって藩邸へ運び込まれたのはどういうことだ。」  予てより兄/信成の死に信敏は、不信感を募らせていた。しかし、それが公儀への反逆だったとは夢にも思わなかったのだ。 「義春殿・・・。殿は、如何相成っておるのだ。」  義清は蚊の鳴くような声で義春に尋ねた。 「御老中より呼び出しがあり、目下城内御用部屋にて釈明中だ。本来ならば、家老の我等も同行せねばならぬが、殿が御自ら一人で参ると申されて・・・。」  綱篠は責任を一身に背負うつもりなのだ。 「義清殿。こうなったのもお主一人の責任ではない。水戸藩の御政道を預かる我らの責任。殿を犠牲にするわけには参らぬ。」  義春は項垂れる義清の肩を掴んで言った。 「義春殿。」 「さぁ、義清殿。藩邸に戻り、我等水戸藩の侍魂を見せてやろうではないか。」  義春の言葉に、義清の口元が僅かに緩んだ。三人は人混みに紛れ、水戸藩上屋敷へ戻って行った。  人混みの中から鳳四郎が現れ、上屋敷に戻って行く三人の後をつけて行った。               六  老中/小笠原長重は屋敷に戻ると夕餉も摂らずに寝所へ向かった。寝所へと向かう廊下から、空を見上げれば月が眩しく光って見えた。  差し押さえた真榮館の吟味に側用人/柳沢吉保を加え、老中諸侯総出で当たっていた。御取り潰しを訴える者、藩主/綱篠の隠居を訴える者と意見が別れた。真榮館の詳しい吟味も儘ならず、差し押さえた武器弾薬の出所など山積みだった。  疲労困憊の長重は、小姓を遠ざけ一人寝所に入った。果てしなく続く議論は、予想以上に体力を消耗してしまう。片膝をついて布団を捲ろうとした時、寝所内の違和感に気付いて脇差しに手を掛ける。 「何者か!」  外に控えていた小姓が中の異変に気付いて入ってきた。 「殿!」  長重は脇差しを抜いて、天井目掛けて投げつけた。脇差しが天井に突き刺さる。小姓たちも脇差しに手を掛け、上を見上げて警戒する。 「瑤泉院殿を襲った者だな、降りて参れ!」  長重が叫んだ。長重の手に小姓から槍が渡された。 「ワシを侮らぬほうがよいぞ。」  槍を天井に向け長重が構えた。天井板が一枚ずらされ、忍装束の男が降りてきた。忍装束の男は、神妙な態度で長重の前に膝をついた。刀は腰から抜いて前方へと差し出した。 「突然の推参、御無礼仕ります。」 「こともあろうに、老中の屋敷に忍び込むとは・・・。」  呆れ顔で忍び装束の男を見つめた。 「何が目的で当屋敷へ忍び込んだ。」  槍を忍び装束の男へ向けたまま長重は尋ねた。忍び装束の男は、少しも怯むことなく長重を見つめたまま静かに答えた。 「小笠原様、お人払いを・・・。」 「何っ!」  障子戸の隙間から月光が差し込み、忍び装束の男を妖しく照らし出す。槍を向けられ、身に寸鉄も帯びていない筈なのに忍び装束の男はどこか余裕があった。長重は小姓たちに側を離れ別室に控えるよう指図した。 「何か妙な動きをすれば、この槍が貴様の胸を刺し貫くぞ」 「承知仕りました。某とて一刀流ならびに新陰流の遣い手である小笠原様を侮ってはおりませぬ。」 「ならばよい。早う申せ。」 「はい。では、申し上げまする。水戸藩ならびに真榮館の吟味、出来るだけ先延ばしにして頂きたく、御願奉りまする。」 「何だと!」  長重は真榮館の吟味はともかく、水戸藩はお取り潰しにして領地を天領とすることで逼迫した幕府財政を賄おうと考えていたのだ。 「水戸藩ならびに真榮館の裏には、幕府から政権を奪おうとする霊元上皇一派が暗躍しておりまする。日本国の源である民草のためになるなら、それもまた致し方なく存じますが・・・。霊元上皇一派は私利私欲のために、これを行おうとしておりまする。」  忍び装束の男の話に、槍を構えていた長重だったが矛先は自然と下がっていた。 「また真榮館に集いし塾生たちも、その上皇一派の策に嵌ったに過ぎませぬ。水戸藩も然り・・・。今水戸藩をお取り潰しいたせば、主を失うた浪人どもが日本国中に溢れ、第二第三の由比正雪、そして赤穂の浪人共が生まれるとも限りませぬ。」  忍び装束の男の言葉に、長重は考え込んでしまう。ここ数ヶ月、何かと理由を付けて公儀に口を挟んでくる朝廷が気にはなっていた。勅使院使の接待に託けて、幕政に関与しようとするなど片鱗は見せていた。 「水戸藩と真榮館を貶めた上皇一派は、我等が必ず叩き潰します。これ以上、多くの血を流さぬためにも・・・。」 「・・・わかった。」 「それでは・・・。」  忍び装束の男は、開いている天井板の真下に移動する。 「待て。ワシがお前の要求を飲まなんだ場合、いかがした。」 「御命、頂戴しておりました。」  長重は未だかつて味わったことのない恐怖を感じた。 「今一つ聞きたい。・・・」 「何者だ。」 「名は申せませぬが・・・我等、東照大権現様の御遺命を守っております、裏徒組と申します。」  裏徒組と聞いて長重は更に戦慄した。噂には聞いていた影の隠密集団である。” 命を取る ”と言った忍び装束の男の言葉は、戯言でもなかったのである。忍び装束の男は、不敵な笑みを浮かべながら天井裏へと消えて行った。                 七  谷中村の畑が一望できる丘に、六郎右衛門の墓が建てられた。幾右衛門は墓前で手を合わせ、父/六郎右衛門の冥福を祈った。日差しは強くでも、この丘の上はいつでも心地よい風が吹いている。父/六郎右衛門は、生前この丘の上が好きだった。 - 父上。父上の仇は必ず取って見せまする。-  幾右衛門は頭に浮かぶ敵を想定し、一心不乱に刀を振り回した。そこへ多都馬と須乃が、花と線香を手に丘を登ってくる。その様子を見て多都馬の表情が変わった。幾右衛門は登ってくる二人に気づいていない。 「何をしているんだ?」  近づいてきた多都馬たちに気づかずにいた幾右衛門は、いきなり声を掛けられて驚いている。 「黛殿!」 「お加減はよろしいのですか?」   須乃が病み上がりの幾右衛門を気遣っている。 「はい。休んでばかりでは体が鈍ってしまうので・・・。」 「何をしている・・・。」  問いかける多都馬の表情は厳しいものだった。 「何を?何をとは・・・それは父の墓参りにと・・・。」 「刀を抜いて振り回していたではござらぬか。」  幾右衛門は刀を握っている手を見つめた。 「はい。父の仇を討とうと思いまして・・・。」  幾右衛門の言葉を聞いて、多都馬は大きな溜息をついた。 「幾右衛門殿・・・話がある。ついてきてくれねーか。」  多都馬は幾右衛門を、木々が生い茂る林へと誘った。幾右衛門は歩き出す多都馬の後を追った。須乃が墓の花立てに花を生けながら、二人の後ろ姿を心配そうに見送った。 「多都馬殿・・・どこまで行かれるつもりですか?」  訊ねる幾右衛門の顔面に、多都馬は振り向きざまに拳を叩きつけた。顔面を殴られ吹き飛んだ幾右衛門は木の幹に頭を打ち付ける。 「多都馬殿!」  そういう幾右衛門を引き起こし、お構いなく二撃目をお見舞いする。地面を這いつくばる幾右衛門の鼻から血が噴き出している。 「何をなされる!」  殴られて困惑している幾右衛門に、多都馬はゆっくりと話し出した。 「父上の死を無駄にするつもりか・・・。」  幾右衛門はまだ、殴られた理由がわからずにいた。 「無駄になど致しません。父の無念を晴らすのです!」 「六郎右衛門の無念とは何だ。」 「士分としての面目を果たすことです。」  幾右衛門の言葉を聞いた多都馬は失笑してしまう。そして、三発目を顔面に叩き込んだ。勢いよく吹き飛んだ六郎右衛門は、地面を転げまわる。 「六郎右衛門殿が、何故討ち入りから脱盟したかわかるか。自分の命を惜しんだわけではない。戦に際し怯んだわけでもない。ただ・・・この先も生きていかねばならぬ妻と息子を憂い、不憫に思ったのだ。この二人のことを命を懸けて守らねばならぬと思ったからだ。」  幾右衛門の脳裏に、” 卑怯者 ”” 不忠者 ”と蔑まれても笑顔を絶やさなかった父の顔が浮かんだ。 「二人を守るために、どんな嘲りを受けようが耐えてきたのだ。」  を初めて六郎右衛門に合わせた日の事を思い出した。いつまでも自分のことのように顔をしわくちゃにて喜んでいた。 「いいか、幾右衛門殿。死んだ者が願うのは敵討ちではない。生きている者、遺してきた者の幸せだけだ。」  幾右衛門は父/六郎右衛門が、自分とを守るために飛び込んできた勇姿を思い出した。  「孔子曰く、仁者必勇(じんしゃひつゆう)。思い遣りがあり私心がない人物は、必ず勇敢であり勇者である。六郎右衛門殿はまさに、それを体現された御方であった。」  自分を見つめる多都馬の瞳の奥に、六郎右衛門の優しい眼差しが浮かんでくる。 「ち・・・父上。父上ーーーっ!」   気づけば幾右衛門は、周囲を気にせず声をあげて泣いていた。木陰から見守っていた須乃だが、その目には涙が浮かんでいた。  多都馬は木々の間から差し込む陽の光に六郎右衛門の幻を見て驚いた。その幻は優しい微笑みを浮かべ、丁寧に多都馬へ頭を下げた。 「六郎右衛門殿・・・。」  思わず名を呼ぶ多都馬に、六郎右衛門の幻は微笑みながらゆっくりと消えて行った。                  八  毛利家下屋敷は赤坂にあり、三次藩浅野家下屋敷とは目と鼻の先にある。日が暮れたとはいえ、夏の夜は蒸し暑い。三次浅野家の瑤泉院が何者かに襲われた事件は、瞬く間に広まり各大名や旗本を震撼させた。大半の屋敷は夜も篝火を焚いて警戒をしている。座頭衆が瑤泉院を襲撃した張本人だが、毛利家も他の家同様に篝火を焚いていた。  この毛利家下屋敷の御用部屋に、座頭衆の頭領である覚禅が座っていた。障子戸が開いて家老/宍戸就延が一人の男を連れ入室してくる。その男は毛利家の隠密/空目(そらめ)の頭領/世鬼玄番だった。影働きとしての立場は同じだが、格式でも剣術でも玄番のほうが上である。就延は蔑むような目つきで平伏している覚禅を見つめている。 「覚禅、面を上げい。」  顔を上げる覚禅だが、視線は下に向け就延と玄番の顔は見ていない。 「数日前、冬経様の使いが来て事の顛末を聞いた。お主の報告通りであった。」  抑揚のない就延の話し方は、その時々の感情を推し量ることが出来ない。 「何か申し開きがあるなら、申したほうがよいぞ。」  側に控える玄番が、覚禅に言った。 「玄葉様・・・。二階堂平法の村上吉之丞が、敵側におりました。」 「何!」  かつて一度対峙したことがある玄番は、形相を変えて覚禅を見た。 「何だ、その二階堂平法とは・・・。」 「はい。以前、肥後熊本藩の細川家に際し、細工を施し領内の農民を扇動し一揆を起こさせようといたしました。ところが、細川家お抱えの剣術指南の村上吉之丞が立ち塞がり、我等は成す術もなく引き下がりました。」 「たった一人に・・・座頭衆も空目もやられたと申すか。」 「はい。」 「玄番、其方でも敵わなかったのか?」 「はい。何とか逃げ果せることは出来・・・いや、あれは恐らく武士の情けにて、某を見逃してくれたのだと。」  玄番が覚禅に目をやると、(さき)の対戦を思い出したのか額から滝のような汗が流れていた。 「二階堂平法・・・。どのような剣術か。」 「詳しくは存じませぬが・・・。念流の流れを汲み、戦場(いくさば)において鍛えられた殺人剣としか。」 「殺人剣・・・。」 「他にも” 心の一方 ”という秘奥義がございます。それは、すくみの術のようなもの。」 「” 心の一方 ”・・・。」 「某も実際に目に致しましたが、術を掛けられた者は金縛りに遭うたように体が動かなくなります。術者でなければ解けませぬ故、掛かったが最後二度と動くことは出来ませぬ。」  話を聞いた就延の顔は青白くなっていった。 「何とも・・・恐ろしい剣じゃ・・・。」   震える上がる就延をよそに、玄番は覚禅に命を下した。 「覚禅。これからは、我等空目が役目を引き継ぐ。座頭衆は、我等の支援に回れ。」  覚禅は玄番の命に従い、御用部屋から出て行った。  就延と玄番は、庭に焚かれている篝火を見ていた。 「あの篝火の何とも妖しげなことよ。」  篝火は風に煽られ火の粉が空に舞い上がっていく。それはまるで蛍が空を飛んでいるようだった。 「(みやこ)の公家共のこと、決して信用してはなりませぬぞ。」 「水戸藩の事を言うておるのか?わかっておる。」 「水戸は、光圀公の御遺命に盲目的になり過ぎました。」   就延が玄番を見つめて呟いた。 「玄番、頼むぞ。」                    九  中院通躬(なかのいんみちみ)の突然の来訪に米沢藩は、戸惑いを隠せないでいた。従二位権中納言であり沢宮寛敦親王(東山天皇の弟)家別当に任ぜられた通躬は、表向き霊元上皇の意向を幕府に内々に伝える役目を与えられていた。このような位の公家が、ましてやお忍びで訪れるなど前代未聞の出来事だった。  米沢藩上杉家の上屋敷は桜田にあり、近くには広島藩浅野本家があった。松の廊下の刃傷事件に端を発した因縁ある両家の上屋敷が、目と鼻の先にあるのだ。  通躬は天玄と地玄を伴い、目立たぬよう裏門の通用口から屋敷内大広間に案内された。大広間にて米沢藩主/上杉吉憲の到着を待った。暫くして弱冠二十歳の米沢藩主/上杉吉憲が、家老の色部又四郎を引き連れ現れた。上座に座る通躬は、下座着座する吉憲と又四郎を舐め回すように見つめる。吉憲は通躬を待たせてしまったことを詫びた。 「我等は忍びで参っておるのだ。気を遣われずともよい。むしろ、このように時を選ばず訪れ、礼を逸しているのは我等のほうなのだ。相済まぬの。」 「恐れ入り奉りまする。」 「何でも吉憲殿は先月、父上君であらせられる綱憲殿を亡くされたとか。親に孝を成すと言えど、その親は亡くなり・・・さぞかし、お辛いことでございましょうな・・・。」 「お心遣い・・・。忝うございまする。」  吉憲は通躬の心遣いに感激していた。通躬は、吉憲の殊勝な態度に心打たれているように手を打って喜んでいる。その様子を後ろに控える又四郎は、左右に控えている天玄と地玄に気を配りながら観察していた。 「そこに控えるは、確か・・・江戸家老の色部とか申したな。」 「色部又四郎安長にござりまする。」  又四郎は平伏したまま答えた。 「色部、苦しゅうない。面を上げよ。」  顔を上げると通躬の左右に控える天玄と地玄が、鋭い目つきで又四郎を睨んでいた。 「其方も苦労をしたようだな。言われなのない雑言など気にするでないぞ。上杉は誰が何と言おうと、謙信公以来の誉れ高き名声を守ったのだ。」 「はっ、有難き御言葉を賜り、恐悦至極にござりまする。」  又四郎の脳裏に上屋敷の壁に大量に貼られた落書の一文が浮かんでいた。 -上杉のえた(枝)をおろして酒はやし 武士はなるまい町人になれ- -景虎(謙信)も今や猫にや成りにけん 長尾(謙信の実家)を引いて(いで)もやらねば- 「ま、あのような落書を庶民に書かせたのは、言うまでもなく幕府だがな・・・。」  通躬は吉憲の反応を見ながら呟いた。吉憲の眉間に一瞬、険しいシワが浮かんでいた。 「通躬様・・・そろそろ。」  天玄が帰途を促すため声をかける。 「吉憲殿。藩主としての務め、日々難儀であろうと推察する。だが負けてはなりませぬぞ。我等、(みやこ)の者は上杉家の将来を気にかけておりまするぞ。」 「はっ、有難き幸せ。」  感激している吉憲をよそに、又四郎は懐疑的な表情を終始崩さずにいた。                   十  上杉家米沢藩上屋敷を後にした中院通躬(なかのいんみちみ)は、天玄地玄の八咫烏たちに守られ中目黒にある逗留先の寺院に向かっていた。茶店・料理屋・荒物などを商う店が軒を連ねる街並みを抜け、背丈ほどもある笹が茂り始め松林がそこかしこにある広大な原野にたどり着いた。夏の終わりが間近なのか、日の入りも若干早まったように感じる。広がる原野の向こうの空は橙色に染まっていた。 「何ともはや、殺伐とした景色だな。」  通躬を乗せた駕籠の右側で、地玄が溜め息混じりにに呟く。 「ワシは、この景色が好きだ。(みやこ)(ちご)うて、余計なものが無くて良い。」  同じく左側にいた天玄は、原野の長閑な景色に満足していた。 「止まれ。」  駕籠の中から通躬の声がする。 「如何されましたか?」  天玄が膝をついて駕籠の中の通躬に尋ねる。 「地玄はともかく、天玄・・・お前ほどの男が気が付かぬとは・・・。」  通躬は駕籠から出てきて周囲を見渡した。左手には刀が握られている。通躬の様子から地玄と天玄は、臨戦態勢を取り警戒し始める。隠れて護衛をしていた八咫烏たちが一斉に姿を現した。八咫烏たちは通躬を中心に円を描くように守りを固める。 「どうした?命を取りに参ったのではないのか?」  通躬は潜んでいる刺客に言った。姿を現さぬ刺客は沈黙を貫いていた。 「臆したか・・・。」  刺客は、まだ姿を現さない。姿を現さずとも、天玄たち八咫烏は警戒を緩めなかった。 「かつて最強と恐れられた越後の龍とは名ばかりか?」    通躬は刺客が上杉からだと推察して言った。      そうした通躬の言葉を返すように、生い茂った笹の中から編み笠を被った侍が姿を現した。 「おのれ~、上杉の手の者か!」  地玄がこめかみをひくつかせながら言う。 「地玄、そういきり立つでない。此奴は、あの若造の命で来たわけではないわ。」 「では、あの色部とかいう家老の・・・。」 「色部という男、なかなか面白い奴よ。」  通躬は色部の主家を守るため、手段を選ばぬ考えに感心していた。 「やれ!」  天玄が配下に命じ、編み笠の侍を斬るよう命じた。  護衛についていた八咫烏の数人が、姿を現した編み笠の侍に一斉に斬りかかった。編み笠の侍は、抜き打ちに左右の二人を斬り捨てた。残った六人も編み笠の侍が瞬く間に斬り捨てる。護衛に付いていた全ての八咫烏たちが編み笠の侍に斬り捨てられ、残るは天玄と地玄の二人だけとなった。 「やるではないか・・・。」  通躬が感心しながら言った。  編み笠の侍は、通躬を睨みつけながら歩いていく。天玄と地玄が通躬の盾になろうと前に出てくる。  通躬は天玄の肩に手を置いて引き下がるよう伝える。 「私が相手をして進ぜよう。」 「何と!」  驚いて振り返る天玄と地玄の肩を掴んだ通躬は、再度下がるように命を下した。天玄と地玄は、黙って後ろに引き下がっていく。 「刺客・・・この世の終わりに名ぐらい名乗らせてやる・・・申してみよ。」 「上松蔵人義定・・・。中院様、御命頂戴仕る。」  蔵人は目にもとまらぬ速さで一撃、二撃、三撃と通躬に斬りかかる。しかし、それを通躬は軽くあしらった。蔵人が四撃目を与えようと振りかぶった時、本能的に何かを察知し後ろへ飛んだ。蔵人の頬に、うっすらと一文字に斬られた傷が浮かび上がった。通躬の斬撃を躱した蔵人に、感心した通躬は笑みを浮かべた。 「ほう・・・。よくぞ、躱した。」  通躬はそう呟くと構えを崩し、ただ立っているだけの無防備状態になった。 -出るか・・・夢想剣。-  天玄が通躬の構えを見て、心の中で呟いた。  蔵人は通躬の無防備な構えを見ても、なかなか踏み出せないでいた。 -無防備だ・・・だが、それでいて隙がまるでない。-  双方にらみ合う時間が、刻一刻と過ぎて行った。蔵人は踏み出すと同時に脇差に手をかけ、通躬へと投げつけた。唸りを上げて蔵人の脇差が通躬顔面に飛んで行った。通躬がそれを弾き返すと、蔵人は防ぎきれないであろう足元を残りの一刀で狙った。 「何!」  蔵人の一刀は目にも映らぬ速度で防がれ、逆に無防備になった頭を斬りつけられる。それはまるで刀に意思があるようだった。  被っていた編み笠は二つに斬られ、蔵人はもんどりうって地面を這いつくばる。蔵人の頭は鉢金に守られていたが、その鉢金も真っ二つに割れる。 「よく戦うたぞ。」  通躬は頭を押さえながら倒れている蔵人の側へ行き、止めをさそうと刀を振りかぶった。その時、どこからともなく無数の苦無が飛んでくる。予想外の攻撃に通躬は、驚いて思わず後退る。天玄と地玄が通躬の側に駆けつけ、飛んでくる苦無を弾き返した。 「何者だ!」  倒した蔵人に目を向けると、気を失う蔵人を担ぐ鳳四郎が立っていた。鳳四郎は配下に蔵人を任せた後、退却の命を下し自らも霧のように消えて行った。 「あの男・・・。前に会うたことがあるが、なかなかの面構えになったな。」 「しかし、上杉が手立てで参るとは・・・。」  天玄は蔵人に斬られた八咫烏たちを見つめ言った。 「さすが天下を狙う企てだ。まさに闇夜の礫、面白うなってきたわ!」  通躬の笑う声に天玄も地玄も背筋に冷たいものを感じていた。駕籠を担ぐ担ぎ手がいなくなり、三人は歩いて寺院へ向かっていった。                  十一  その日は珍しく小鳥のさえずりと共に目が覚めた。日は昇り始めたばかりで、見上げれば空には星が輝いている。いつも一番に起きている須乃でさえ眠っている。赤子のような須乃の寝顔を見つめた後、多都馬は階下に降りて行った。  雨戸を戸袋に収納し、朝の新鮮な空気を部屋に取り入れる。護衛をしている外聞衆の二人は、さすがに目覚めていて多都馬に会釈をする。 「睡眠だけは、しっかり取ってくれよな。」 「お気遣い忝い。しかしながら、我等はその鍛錬を積んでおりまする。御心配無用にござります。」  三人は、庭に出て黄金色に輝く朝焼けの空を堪能していた。 「この空を見ていると、今起こっていることが嘘のようでございますなぁ・・・。」  外聞衆の一人が呟いた。 「そういえば、まだお主たちの名を聞いていなかったな。失礼なことをいたした。」 「そのような事、お気遣い頂かなくとも問題ござりませぬ。」 「その通り。毎日、毎日、須乃殿の美味しい飯も馳走頂いておりまする。礼を申すのはこちらのほうでございます。」  外聞衆の二人は、共に顔を見合わせて笑った。 「名乗れぬと申すなら致し方ないが、戦いの時に名を呼べぬのは不便だからな。」  その通りだと思った二人は、多都馬に向き直って挨拶をした。 「某は、広島藩外聞衆一番組/山本半之助と申す。」  半之助が頭を下げる。 「同じく一番組、村上一蔵と申します。」  一蔵が笑顔で頭を下げた。広島藩のため日夜、過酷な情報収集の役目を果たしている男たちでも、笑えば人懐っこい表情を見せるのだと多都馬はしみじみ思った。  しかし、その和やかなひと時も、調達屋に向かってくる足音に反応した一蔵により緊張が走る。 「多都馬殿、こちらに向かってくる足音が・・・。」  三人で裏木戸を警戒していると、鳳四郎が顔を見せる。 「何だ、お前さんか~。」  拍子抜けした多都馬が、縁側に座り込む。 「新しい知らせを持ってきたのだが。」  鳳四郎が戸を開けて入ってくる。 「茶でも入れるから上がってくれ。」  多都馬は半之助と一蔵に上がってくれと目配せをして、そのまま奥の間に鳳四郎を招き入れた。  四人は多都馬の淹れた茶を啜りながら、鳳四郎の報告を聞いていた。半之助も一蔵も、鳳四郎の報告に戦慄している。 「それで家老の色部の様子は?」 「蔵人とかいう刺客の容態を、終始気にかけていたよ。」 「助かるんだろうな。」 「あぁ。寸前のところで俺たちが割って入ったからな。」  命に支障がないことがわかり、多都馬たちは胸を撫でおろした。 「多都馬殿。上皇一派の企ては着々と進んでいるな。」  半之助が心配そうに呟いた。 「尾張、紀州、水戸と、奴らは御三家を見事に継承権から脱落させた。もう将軍位を譲る相手がいない。」  鳳四郎が悔しそうに天を仰いだ。 「いや、まだ甲府宰相綱豊様がおられる。」  望みはあると強い口調で多都馬が言った。 「あの御方は、齢三十二歳だ。歳をとり過ぎているのではないか。それに・・・。」  鳳四郎は言いかけて口を閉ざしてしまう。 「どうした?」  言いにくいことだが、言わなくてはならぬとばかりに鳳四郎は溜息をついた。 「それに上様は宰相様を嫌っておられる。万が一にも譲られるとは思えぬ。」  鳳四郎の言葉を聞いて、多都馬等三人は呆れてしまう。松の廊下での刃傷事件では飽き足らず、将軍家継承問題においてもまだ(まつりごと)を私しているのだ。 「しかし・・・そうも言ってられまい。多都馬殿。上様の件は我らにお任せ頂きたい。」  鳳四郎の真っ直ぐな目が、その決意の強さを物語っていた。 「わかった。ま、最も上様のことは我等庶民には何も出来ぬことだからな。」  そうこうしているうちに須乃が眠たい目を擦りながら起きてきた。 「多都馬様・・・今朝は、どうされたのですか?」 「いや、須乃の(いびき)がうるさくてな・・・。」 「多都馬様!」  多都馬の冗談を真に受けた須乃は、茹蛸のように顔を赤らめ台所へ行ってしまう。その姿が可愛らしく、見ていた半之助や一蔵の表情も自然と柔らかくなっていた。 「愛らしい御方ですな。」  須乃の仕草を見て鳳四郎が呟いた。 「飯でも食ってから行けよ。」  多都馬の誘いに快く頷く鳳四郎だった。
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