第二章 春の夢

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第二章 春の夢

                 一  一七〇三年二月四日、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の四大名家に御預けになった赤穂四十六士は切腹した。午後四時頃から始められ、一時間ほどで終了したという。赤穂浪士たち切腹の報は江戸中を駆け巡り庶民の間で拍手喝采を浴びた。山村座では早々に「傾城阿佐間曽我(けいせいあさまそが)」が上演されている。  赤穂浪士たちによる吉良邸襲撃に助力した(まゆずみ)多都馬(たつま)は、盟友/堀部(ほりべ)安兵衛(やすべえ)を失った喪失感で悲嘆に暮れた日々を送っていた。  多都馬が営む「調達屋」は広島藩と縁深い店という噂が広がり大名や旗本は言うまでもなく、豪商までもが客として訪れるようになり繁盛していた。店は元阿久里(あぐり)姫付の侍女だった築山(つきやま)須乃(すの)が切り盛りしている。赤穂事件に関わったことで二人の仲はより親密になり、近所でもいつ祝言を挙げるのかと噂になっていた。 「須乃様〜、三次藩の落合(おちあい)与左衛門(よざえもん)様がお見えになりました。」  が店の暖簾を掻い潜り現れた与左衛門を見て叫んだ。  繁盛したことにより忙しくなった店は、多都馬や須乃だけでは手が回らなくなり新たに二人を雇ったのだ。もう一人は口入れ屋の長兵衛(ちょうべえ)配下の弥次郎(やじろう)である。  弥次郎が店に入ってきた与左衛門に、さり気なく座布団を差し出した。 「うむ、かたじけない。」 「今、お茶などを・・・。」  が下がろうとしたが、与左衛門は慌ててそれを制した。 「あ、よいのだ。今日は借りたものを返しに参ったのだ。それよりも多都馬殿は在宅かな?」  呼ばれた須乃が奥から出て来る。と弥次郎は、交代するように店の奥に下がっていく。 「落合様〜お久しうございます。」 「須乃殿か、元気そうで何よりだ。」  降り注ぐ陽の光のような笑顔は、与左衛門の心を暖かくした。 「本日は、借りていた掛け軸を返しにきたのだ。」 「ご利用いただき、有難うございます。」 「しあわせそうで何よりでござるな。」  与左衛門がからかうように話しかけた。顔を赤らめる須乃を期待していた与左衛門であるが、予想とは違う憂いた表情を見せる。 「須乃殿、如何した?何か心配事でも?」 「はい、多都馬様の事が少し・・・。」 「無理もあるまい。」  赤穂浪士たちが切腹してまだ時が経っていない事を思えば、多都馬の心中は察するに余りあった。 「須乃殿。こんな時こそ、其方(そなた)の持ち前の優しさと可憐な笑顔が多都馬殿には必要なのだ。」 「はい。」  二階で一人佇む多都馬を思い、須乃は視線を上に向けた。 「あ、それから急で済まぬが、瑤泉院(ようぜんいん)様からご要望でな。」 「はい。」 「多都馬殿と須乃殿に、御用がお有りなのだ。面倒をかけて済まぬが藩邸まで御足労願えぬだろうか。」 「瑤泉院様が・・・。」 「済まぬ。」 「それでは多都馬様にお伝えして、直ぐに用意をいたします。少々お待ち下さいませ。」  須乃は与左衛門を待たせ、多都馬を呼びに二階へ駆け上がった。                  二  瑤泉院は刃傷事件以来、実家である赤坂/三次藩下屋敷に引き取られていた。多都馬と須乃は、与左衛門と赤坂/三次藩下屋敷を目指し歩いていた。赤坂は各大名屋敷が点在し厳かな雰囲気は、賑やかな日本橋とは違い一線を画している。  三次藩下屋敷に到達した時、多都馬は屋敷の角から送られる視線に気づき足を止めた。こちらを偵察するように立っている者に視線を投げた。  多都馬の視線を不意に受けた監視者は、逃げるように下屋敷から立ち去っていく。 ーなんとも間が抜けた偵察だ。ー  立ち止まっていた多都馬に、須乃が心配そうに声をかけた。 「多都馬様?」  呼び止められた多都馬は、須乃と共に与左衛門の後を歩いていった。多都馬たちは藩邸の長屋門から入り、門番は扉を閉めた。多都馬たちが入ったのを確認し、男は通りの角から姿を現した。  男の名は高田(たかだ)郡兵衛(ぐんべえ)、元赤穂藩士で宝蔵院流高田派槍術の達人だった。しかし、郡兵衛の伯父である旗本/内田三郎右衛門から養子の誘いを受けた。当然断った郡兵衛だが討ち入りを悟られ、公儀に訴えないことを条件に脱盟していたのだった。  郡兵衛は瑤泉院のいる屋敷の空を見上げ、哀愁を帯びた表情でそこから去って行った。                  三  亡くなった藩主/浅野内匠頭長矩の霊前に手を合わせ、多都馬と須乃は瑤泉院の前に平伏した。  瑤泉院の側には、側近である戸田局と用人の落合与左衛門がいた。  瑤泉院は元侍女であった須乃との再会を心待ちにしていたらしく、話す言葉が弾むように軽やかであった。 「須乃、久しぶりですね。息災でしたか?」 「はい。瑤泉院様もお健やかにお過ごしのようで・・・。」  戸田局も与左衛門も須乃の堅苦しい物言いに、苦笑いを浮かべている。 「そのように力を入れずともよいですよ。もっと楽になりなさい。」  あまりの堅苦しさに瑤泉院も声を出して笑っている。  恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして俯く須乃を、多都馬は微笑ましく見つめている。そんな多都馬の表情を戸田局は、暖かく優しい眼差しで見ていた。 「そなたの父と母も元気に暮らしておりますよ。」 「はい。父上と母上には先日、多都馬様と一緒に挨拶に行って参りました。」 「そうであったか。それは喜んでおったであろう。」 「はい!」  須乃の無邪気な笑顔は、いつも周囲を明るくしている。瑤泉院も戸田局も笑いが止まらない。 「瑤泉院様、和やかに話をされるのも結構でございますが、そろそろ二人を呼び立ていたした理由を話しませぬと・・・。」 「そうであったの。」  瑤泉院が思い出したように両の手を合わせた。  戸田局が奥に控えていた侍女たちを呼び寄せた。侍女たちは三方(さんぽう)に金子と刀剣、そして艶やかな茶器などを載せて現れた。 「多都馬。そなた・・・内蔵助たちを影から支え、討ち入りまで様々な窮地を救ってくれたと聞き及んでおります。・・・この品々は、その功に対するの感謝の気持ちじゃ。」  褒美を目の前にしても、多都馬も須乃も困惑しているだけで言葉が出ない。  押し黙っている多都馬と須乃を見兼ねて与左衛門が声をかけた。 「多都馬殿、如何された?」  与左衛門に促され、多都馬は漸く口を開いた。 「・・・瑤泉院様。」 「我等。こちら褒美の品々、頂戴することは出来ませぬ。・・・瑤泉院様のお気持ちだけ、頂いてまいりまする。」  驚きの言葉ではあるが、瑤泉院も戸田局も与左衛門も予期していたように大きく溜息をついた。 「そう申すであろうと、思っておりました。」 「申し訳ござりませぬ。」  多都馬と須乃は、深々と頭を下げた。 「須乃も・・・それでよろしいのですね。」  残念そうに瑤泉院が須乃に尋ねる。 「(わたくし)は・・・瑤泉院様より、何物にも代えられぬご褒美を既に頂いております。」 「が既に?」  瑤泉院はわけが分からず、首を捻って考え込んでしまう。見兼ねた戸田局が、笑みを浮かべながら瑤泉院に口添えをした。 「多都馬殿の許へ、遣わされたことにござりましょう。」 「あぁ、そうでしたね。」  須乃は笑いが起きる中、顔を真っ赤に染めて俯いていた。 「瑤泉院様。褒美を頂いておいて、このような願い誠にもって厚かましく存じ奉りますが・・・。」 「なんでしょう・・・遠慮のう申してみよ。」 「討ち入りに参加せし浪士の遺族たちのご支援を、何卒お願い申しまする。」 「多都馬殿、案ずることはない。瑤泉院様は、既に御公儀に縁のある仙桂院様に働きかけております。」  与左衛門の言葉に多都馬と須乃は、深く深く頭を下げた。                  四  赤穂の浪士たちの裁定がされ、ひと月半ほど経った。時が経てば経つほど、亡くなった四十六名の名声は高くなっていった。江戸庶民の間では義士として祀り上げられる気運さえ高まっている。  綱吉は趣味である能に没頭しようと、御小座敷の間で得意の演目である猩々の面を眺めていた。しかし、脳裏に時折過るのは処断したばかりの赤穂四十六士と、突き放し見殺しにした吉良上野介の顔だった。その四十六人と吉良上野介が夜毎夢枕に現れ、綱吉を蔑み見下して笑うのだった。 ―切腹などせず、打ち首に処すればよかったわ!― 「お、おのれ!大石!」  綱吉は、怒りに震えた感情のまま猩々の面に己の拳を振り下ろした。面は勢いよく砕け散り、綱吉の拳には擦過傷が出来た。 「上様!」  小姓が慌てて駆け寄り傷ついた綱吉の右手を取った。 「大事ない。」  綱吉が小姓の手を振り解き、歩き出そうと一歩踏み出した。ところが、綱吉はそのまま畳の上に突っ伏してしまった。 「上様?」  小姓たちが近寄るが綱吉は、意識もなく微動だにしない。  目の前で綱吉が倒れるのを見た小姓たちが、城内に響き渡るような大声で叫び出した。 「一大事でございます!上様が、お倒れになりました〜!」 「御典医を〜!どなた様か、御典医をーっ!」  小姓たちは倒れている綱吉を見つめながら、どうすることも出来ず立ち竦んでいた。                  五  綱吉は寝所で、まるで屍のように眠っている。側には御側用人/柳沢(やなぎさわ)吉保(よしやす)と官医である栗崎道有(どうう)が付き添っていた。 「道侑、上様は如何じゃ。」 「いけませぬ。・・・御心が乱れているようで、眠れぬ日々が続いているご様子でございました。それが元で御体に影響が出ております。」 「いけぬ・・・とは、どういうことなのだ。」 「今日明日ということではございませぬ。ただ・・・。」  将軍家の命がかかっている重圧に、道有は唾を飲み込み一呼吸置いた。 「ただ、このままだともって五年、早ければ二〜三年のうちに上様はご生涯を・・・。」  道有の言葉に吉保は愕然となる。 「道有。上様の御容態、他言無用じゃ。決して外に漏らしてはならぬ。」 「畏まりました。」 「これは上様御本人にも内密に頼む。お伝え致す時は、ワシが直接申し上げる。」  体が限界を超えていたのだろうか、綱吉は吉保と道有が側で話をしても微塵も動かず眠りについている。 「道有よ。今宵は、ワシが上様の側についている。そちは、帰って休息を取ってくれ。いつ、またこのようにお倒れなるかわからぬ事態じゃからの。」 「では、その時は必ずご一報を・・・。」  道有は、辺りを見渡し人気がないことを確認して寝所を出て行った。  吉保は眠っている綱吉の顔を見つめながら、情勢不安定な元禄の世を懸念していた。 ー未だ次期将軍家は決まってはおらぬ。上様がこのような状態が続けば安定していた徳川の世が上様の代で終わってしまうやも知れん。ー  唯一寝所の中を照らしている蝋燭の火が、先の不安を掲示しているかのように揺れ動いていた。                六  水戸藩下屋敷にて家老の中山信成(なかやまのぶなり)山野辺義清(やまのべよしきよ)は、屋敷の奥座敷で眠れぬ夜を過ごしていた。水戸藩は論説者として力を持っていた前藩主/徳川(とくがわ)光圀(みつくに)を二年前に亡くしていた。  現藩主/徳川綱條(つなえだ)(よわい)四十八になるが、光圀ほど幕閣への影響力はなく行く末に不安を抱えていた。 「小八兵衛の帰りはまだか・・・。」  義清が爪を噛みながら苛立つように呟いた。 「まさか、捕縛されるようなことはあるまいの。」 「義清殿。小八兵衛に限ってそのようなことはない。安心なされい。」 「しかし、我が水戸藩にあのような忍の者がいるとは思わなんだ。」 「公儀に隠密がいるように我等も対抗手段を持たねば生きていけまい。」  信成がそう言い終えた時、庭で物音がして障子に人影が映る。  「小八兵衛か?」 「御家老、ただ今戻りました。」 「苦しうない、入れ。」   障子を開け入ってきた男は、松之草村(まつのくさむら)小八兵衛(こはちべえ)といい元は水戸藩内を荒らしていた盗賊だった。前藩主/光圀に罪一等を減じられ、以降水戸藩の諜報活動に従事している。 「御家老、一大事でございます。」 「如何した。」 「綱吉公がお倒れになりました。」 「まさか・・・。」  「いえ、命に別状はございません。しかし・・・。」 「長くはないか?」 「はい、今の状態が続けば間違いなく。」  信成と義清は、互いの顔を覗き込む。 「綱吉公が御生涯・・・となれば我等水戸藩、やっと亡き御老公様のお考えを実行出来る。」  義清は身震いした。 「しかし・・・それは尾張や紀州にとっても同じはず。我等、水戸が継承位問題に割って入れるかどうかもわからぬ。石高・・・格式も尾張、紀州に劣っておる。」 「では・・・。」 「折角の好機なれど、我が水戸には人も財も足らぬ。」 「無念じゃの。」  義清は拳を何度も自身の膝に打ち付けた。  そこへ障子の外から信成へ声がかかる。小八兵衛は隣室の襖を開け、静かに引き下がる。 「失礼仕ります。上皇様家臣と申す者より、両御家老様へお話したき儀があるとの申し出あり。如何致しまする。」 「一人か?」 「いえ、上皇様お抱えの賀茂屋一右衛門なる者も随行しているようでございます。」 「上皇様の家臣と申す者、(まこと)の家臣か?」  「容姿は女子(おなご)見紛(みまご)うばかりの端麗さ。加えて一条家の家紋である一条藤の脇差も携えておりまする。」 「わかった。こちらへお通ししろ。」  障子の向こうの影は立ち上がり、一行を待たせてある門前へ向かった。 「信成殿。こんな夜更けに用とは何事であろうの。」 「わからぬ・・・が、しかし無碍に追い返すわけにもいかぬだろう。」  二人を照らす蝋燭の火は、いつまでも妖しく揺れていた。                七  厳しい冬が過ぎて大地が温まり始めた啓蟄の候。  日本橋から二里離れた場所に品川宿がある。 品川宿は五街道の中でも最重要だった東海道の玄関口であり、旅籠屋や色街としても栄えた町であった。  そこに相模屋なる旅籠屋があった。繁盛しているらしく人の出入りも激しい。  すげ笠を被った男が店の暖簾をかき分け、店内に急ぎ足で入って来る。 「今日、泊まれる部屋はあるかい。」 「いらっしゃいませ!」  女中のが声をかけた。 「ちゃん、オイラだよ。」 「なんだ京次さんか〜、忙しいんだから、紛らわしいことしないでよね!」 「おいおい、随分じゃねーかよ。」 「あのね、冗談に付き合っている暇はないの!」 「はいはい、すまね〜な。ところで若旦那様は、いらっしゃるかい?」 「いるわよ。忙しいんだから、少しは手伝ってて言ってくれるかしら。」 「はいよ。」  京次は脚絆を外し、足を手ぬぐいで拭って店奥に消えていった。は京次の後ろ姿に舌を出して、いそいそとお客の対応に戻った。  相模屋の母屋の奥に、ひっそりと建つ離れがあった。先程到着した京次が、険しい表情で離れに入って行く。  離れの座敷に、この相模屋の主人/五郎兵衛(ごろべえ)と、先程京次が “若旦那” と呼ばれた男が座っていた。  五郎兵衛は歳の頃は四十後半で貫禄があり、もう一人は頬が少し痩けた三十くらいの若旦那と呼ばれた男だった。 「御頭、ただ今戻りました。」  先程まで若旦那と呼んでいたが“御頭”と呼び方を変えている。“御頭”と呼ばれた男の名は出雲(いずも)鳳四郎(ほうしろう)といい、徳川の世を影から守る隠密軍団の頭であった。彼等は普段は市井に紛れ生活し、生活を乱す悪辣な輩を人知れず排除する役目をしていた。将軍家直属の諜報機関ではあるが、家康から極書(きわみしょ)というお墨付きを与えられ、例え時の将軍家でも平和を乱す悪政をすれば処分すべしと認可を与えられている恐ろしい集団だった。 「御苦労だったな。」  鳳四郎は、京次の労を労い言う。 「いえ。」 「何か変化はあったか?」  五郎兵衛が低い声で話した。 「江戸に異変あり、水戸藩が何やら不穏な動きをしております。」 「水戸藩が?」  五郎兵衛は、鳳四郎の表情を窺った。 「女性(にょしょう)のような妖しき侍と深夜、下屋敷にて密会をしておりました。」 「内容は確認出来たか?」 「それが・・・恐ろしく感の鋭い者にて。」 「近づけなかった・・・ということか。」 「はい、恐らく私の存在にも気付いていたと思われまする。」 「お前ほどの者が近づけなかったとなると、其奴(そやつ)なかなかの遣い手だな。」  鳳四郎は、立ち塞がる脅威を感じていた。 「水戸藩の監視は、そのまま続けるのだ。念のため監視は、お駒と交代しろ。」 「わかりました。」  京次は、鳳四郎に一礼すると離れの部屋から脱兎の如く出て行った。 「御頭。京次に気付いたその者、どこぞの者でございましょう。京次の気配に気付くとは恐るべき奴。」 「此度は心して掛からねばならぬかもな。」  鳳四郎は立ち上がり障子を開けた。  旅籠の女中や手代が、息つく間もなく働いている。客も旅の疲れを癒やすため、部屋で酒を飲んでいる者もいれば、窓の手摺にもたれ煙管をくゆらせる者もいた。 「恐らく・・・水戸藩を訪れたその者たちは、水戸藩を抱き込み何か企もうとしているんだろな。」  五郎兵衛は無益な血が流れることを憂いでいる鳳四郎の背中を、やり切れない気持ちで見つめていた。
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