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第二十章 慙悔(ざんかい)の刃
一
江戸城御用部屋にて側用人/柳沢吉保を始め、大目付/仙石伯耆守久尚、前南町奉行だった松前伊豆守嘉広、そして折井淡路守正辰が、これまでの詮議の内容を老中諸侯に説明していた。朝から始まった議論は平行線のまま結論は出ていない。
「伯耆守!」
小笠原長重の通る声が城内に響き渡る。長重は苛立っていた。京の公家が主導権を握り、政に干渉し始めたのだ。裏徒組から一連の騒動の裏には、霊元上皇一派が関わっている事を聞いていた。裏徒組に頼らず幕閣の力を持って解決しなければと、強い意志が長重にはあったのだ。
「真榮館の調べは、如何相成っておる。」
「はっ。塾生たち一人一人から供述を取っておりますが、公儀への謀反は身に覚えないのない事と、関与を否定しておりまする。」
「あれだけの武器弾薬が見つかっておるのに、今更何を言うておるのじゃ。」
老練の稲葉正往が吐き捨てるように言った。
「ワシが知りたいのはな、武器弾薬を揃え運んだ者だ。真榮館にこれを運び込んだ者、即ちそれが企ての黒幕だと睨んでおる。その調べは如何相成っておるのだ!」
裏徒組から聞いた霊元上皇一派の事は、確たる証拠がない以上口には出せない。そのもどかしさが長重を余計に苛つかせていた。
「黒幕?黒幕は既に明白になっておりまする。」
久尚は長重の言葉の意味が理解出来なかった。黒幕は水戸藩で間違いないのだ。
「小笠原殿・・・。此度の騒動の黒幕は、水戸藩ではないと申されるか。」
同じ老中の阿部正武が、怪訝な顔で言った。
「阿部殿。その水戸藩は武器弾薬について藩主/綱篠様を始め家老や藩士、中間や小者に至るまで与り知らぬ事と申しておるのだ。その辺りも詳しい調査が必要じゃ。」
「それは・・・恐らく事が露見いたし、苦し紛れの出任せを申しておるのです。」
久尚が長重と正武に間に入って答える。長重は不躾に割って入ってきた久尚を睨んだ。
「愚か者めが!少しは周囲の状況に目を配らぬか!」
武芸で鍛えた長重の声は城中に響き渡るようであった。
「赤穂の浪士たちの惨殺に端を発し、尾張・紀州・水戸における御三家の変事。これが仕組まれたものなら如何するつもりじゃ!」
長重の剣幕に久尚、同役の折井正辰は額を擦り付けるように頭を下げた。しかし、ただ一人先の南町奉行で大目付に昇進した松前伊豆守嘉広だけは、背筋を伸ばし長重を真っ直ぐに見つめていた。
「小笠原様。此度の事、某が掴みました情報を申し上げてもよろしいでしょうか。」
嘉広が落ち着いた声で言った。
「伊豆守か・・・申してみよ。」
「某、前任は南町奉行でございましたが・・・。その時の配下の者と、未だ繋がっておりまする。その配下が申すには、金杉橋に大店を構えておりました賀茂屋なる染物屋が怪しいと報せを受け取りました。」
「賀茂屋?」
「はい。その賀茂屋、京に拠点を構えておりまして、店の商品をその都度船で荷を運んでいたらしいのです。」
「では、その賀茂屋を早々にひっ捕らえて参れ。」
「いや、刻すでに遅しでござりました。既に店はもぬけの殻にて、店の者はどこかに消え失せておりました。」
「結局収穫はなかったということだな。」
嘉広の働きを残念がるどころか、まるで嘲笑するように久尚は言った。
「いや・・・京都所司代/松平信庸の許へ早馬を出し、京の賀茂屋なる染物屋を調べさせろ。」
長重が言った。
嘉広は長重に ”早速、取り掛かる” とばかりに、一礼して早々と御用部屋から出て行った。気まずい状態の久尚と正辰は、立つ瀬もなく御用部屋から出て行った。
問題はまだ山積みだった。将軍家の継承問題が解決していなかった。暮れ六つ時を知らせる鐘が鳴っていたが、幕閣の面々には誰一人聞こえていなかった。
二
江戸郊外の古びた寺を拠点にしていた中院通躬は、本堂の中で一刀流の稽古に汗を流していた。行灯の明かりに映し出された通躬の影が、魔物のように蠢いて見える。
通躬は鞘に納めた刀を、目にも止まらぬ速さで抜いた。通躬の身体が動く度に、飛び散る汗が本堂の床を濡らした。
「失礼仕ります。一右衛門が参りました。」
閉めきった本堂の戸板の向こうで、天玄が声をかけた。通躬は刀を鞘に納め答えた。
「うむ。ここに通せ。」
流れる汗を拭い衣服を整え、通躬は本堂に座り一右衛門を待った。戸板の向こうで一右衛門が廊下を歩く音が聞こえる。
「賀茂屋一右衛門、仰せにより罷り越しました。」
静かに戸が開いて、一右衛門が入ってくる。
「うむ、近う寄れ。」
「はっ。」
一右衛門は通躬の側に腰を下ろした。
「始末屋の者共は、大事ないか。」
「はい。皆、傷も癒えまして御申し付けあれば、いつでも参上仕りまする。」
「そうか。では、早速本題に入ろうではないか。」
一右衛門は手をついて通躬に頭を下げた。
「真榮館の一件が幕府の屋台骨を揺るがせておる。政を司る老中諸侯は、浮足立つ有り様だ。」
「首尾は上々のようで何よりでございます。」
「尾張・紀州・水戸の手足は捥いだが、まだ摘まねばならぬ芽が残っておる。」
「甲府宰相/綱豊様でございますか。」
その時、戸が静かに開いて寺の小坊主酒を運んできた。小坊主は通躬と一右衛門のただならぬ様子に恐怖を抱き立ち竦んでしまう。
「怖がらすともよい。何も取って食ったりはせぬ故のぉ。」
小坊主は酒を通躬の傍らに置くと、不気味さは拭えず早々に本堂から出て行った。通躬は小坊主の様子を見て思わず失笑してしまう。
「宰相様の御命を御縮め致す事で、企ての仕込みに終止符を打つという事でござりますな。」
通躬は注いだ酒を一気に飲み干した。空いた盃に酒を注ごうと腰を浮かす一右衛門だが、通躬に制されて再び腰を下ろした。
「綱豊殿もそうだがな・・・。」
言いかけて通躬は、そこで一考する。一右衛門は通躬の次の言葉を待った。言葉を発する直前、通躬の口元が僅かに緩んだのを一右衛門は見逃さなかった。
「悉く我等の邪魔を致しておる者たちの事は、調べはついているのか?」
「はい。二階堂平法の男でございますが、名を黛多都馬と申しまして、日本橋にて調達屋という店を開いておりまする。」
「侍でありながら商いをしているというのか・・・。」
「どういう経緯かは存じませぬが、以前は広島藩浅野家の剣術指南役に就いておりました。」
「剣術指南役か・・・。そして、日本橋で商いをのぉ。」
「はい。」
「繁盛しておるのだろうの〜。」
「なんでも各大名ならびに旗本衆の聞こえも良いとか。」
「相当に知恵が回ると見えるな。」
薄笑いを浮かべている通躬は、かつての織人を彷彿とさせる。
「はい。ただ・・・織人様から手を出すなと仰せつかっておりましたので。」
「おらぬ者の命など従わずともよい。」
「では調達屋・・・我等で急襲いたせば宜しいので・・・。」
「その方たちが出向いたところで、相手にはならぬであろう。商いをしている言うたな?」
「はい。」
「黛は剣の腕も然ることながら、なかなかの知恵者であるようじゃ。」
「そういうことになりますか。」
「店には奴の身内もおるのだろう。恐らく襲撃されることを想定し、何らかの手を打っている筈だ。待ち構えているところへ、戦を仕掛ければ痛手を被るのはこちらだ。黛は余が相手をいたす。」
「直々に・・・。か・・・畏まりました。」
中院通躬が直々相手をすると聞いて、さすがの一右衛門もその身に戦慄が走った。黛多都馬という男が、それほどの相手だと改めて痛感したのだった。
「黛を始末する頃合いは余が時勢を見て決める。それまで動いてはならぬぞ。」
「はい。」
一右衛門は通躬に一礼すると、本堂から立ち去って行った。一人になった本堂で通躬は、側にあった愛刀を抜いた。金で装飾された鞘を置き、刃を行燈の明かりに照らしてみる。行灯の明かりに照らされた刃文は、黄金色にゆらゆらと怪しく輝いていた。
三
真榮館の門は竹で固く閉じられ、看板は取り外されていた。震災後に炊き出しを振舞うなど、つい最近まで江戸庶民からの支持も絶大だった。しかし、その隆盛も最早見る影もない。門の前では門番が六角棒を持って仁王立ちし、覗き込む庶民を威嚇していた。
一人の町娘が威嚇する門番にも臆することなく、正門の前に立っている。その町娘の両側には、警護するように町奴風の男がいた。
「お艶ちゃん。」
江戸府内を見回りしていた隼人が、真榮館の門前に立っているお艶を見つけ声をかけた。側にいる十手持ちの新八も心配そうにお艶を見ている。
「隼人様・・・。」
「こんなところで何をしているんだい?」
「うん。」
お艶の側にいた町奴風の男たちが、何事もなかったかのように距離を置く。町奴風の男たちは、長兵衛配下の男たちでお艶の警護をしていた。長兵衛配下の男たちは皆、隼人とは顔馴染みである。
「真榮館の皆さまは、良い方たちばかりでした。復興のためにお父っつぁんの手伝い、家を失くした方たちへ炊き出しもしてくださいました。」
「・・・そうだったな。」
隼人は悲しげなお艶の横顔を覗き込んだ。
「そんな方たちが御公儀への謀反なんて、信じられないわ。」
「俺も信じちゃいねーよ。」
「では、どうして?」
お艶は今にも泣きだしそうな目で、” 何故捕まえたの?”と訴えてきた。
「みんな処罰するつもりでお縄にしたんじゃねぇさ。これから本当のことを調べるために、奉行所や評定所で預かっているだけさ。心配いらねーよ。」
どこか不満気なお艶に、隼人が諭すように続けた。
「いつまでも、そんな顔をしていたら泉下の岡野さんも御心配なさるぜ。」
「隼人様は?」
「えっ?」
「隼人様は、あたしがこんな感じだったら心配?」
余りに唐突なお艶の問いに、隼人は戸惑ってしまう。そんな隼人の様子に、お艶は我に返る。
「あ、ごめんなさい。あたしったら・・・。」
顔を真っ赤に染めて、お艶は家路へと走って行った。長兵衛の配下たちは隼人に一礼して、走っていくお艶の後を追いかけた。呆然としている隼人の側で、新八が呆れ顔で二人の様子を眺めていた。
「多都馬様といい、隼人様といい・・・色男って-のは、どうしてこう鈍い御方ばかりなんすかね。」
「何だとぉ!」
「隼人様。素直に”俺だって悲しいぜ”って、そうお答えになりゃいいんですよ。」
「ぬかせ!お前に言われたかねぇぜ!」
「色恋にかけちゃね・・・隼人様なんか俺たちの足元にも及びやしねぇんですぜ。素直にお聞きくださいませ。」
新八はふんぞり返りながら隼人に言ってのけた。
「隼人様。真面目な話、あの娘の気持ち・・・そろそろ応えてあげてやってもいいんじぇねーですか。」
新八の言葉を聞きながら、隼人は通りに残ったお艶の残像をいつまでも見つめていた。
四
甲府藩上屋敷の奥座敷にて、藩主/綱豊を始め家老の戸田忠利、間部詮房、村田伊十郎が麻角沙霧を囲んで朝から談義を重ねていた。瑤泉院が屋敷への帰路、襲撃された事件と真榮館の事件は江戸府内を震撼させ、各大名の警戒を強めさせた。甲州藩も連夜篝火を焚いて警戒をしている。
「いつまで続くのでしょうな。」
家老である戸田忠利は篝火を見つめながら呟いた。
「霊元上皇様の野望の火が消えぬ限り続くでしょう。」
伊十郎が溜息をつきながら言った。
「敵は御三家次期将軍候補の芽を、悉く摘んでおります。次の標的は間違いなく・・・。」
伊十郎が言いかけたが、綱豊はそれに被せるように言う。
「次は、ワシか・・・。」
綱豊が言ったことに一同言葉を失う。
「殿。この上屋敷に居られる限り、身の安全は保たれましょう。如何に霊元上皇様とはいえ、上様の御膝元である当屋敷へ侵入し襲撃する事などありえますまい。」
綱豊の不安を取り除くように、明るい声で詮房が言った。
「安芸守の屋敷が無頼の徒に襲われたと、沙霧から聞いておるが・・・。沙霧、そうだな。」
険しい顔で綱豊が呟く。
「はい。襲ったものは霊元上皇様の警護をしております左近寺織人。」
「浅野家は、どのようにして防いだのだ。」
詮房が沙霧に訊ねた。
「浅野家に所縁のある、日本一の剣客/黛多都馬様が織人等を退けた由にございます。」
「その者、沙霧殿が日本一と思う根拠はなんだ。」
忠利が沙霧に訊ねた。
「上皇様一派の中で、随一の遣い手である織人を退けたことが何よりの証。」
「その黛に殿の警護を頼むことは出来ぬのか。」
詮房が縋るように沙霧に言った。
「詮房。甲州のことは甲州でやらねばならぬ。他藩を当てには出来ぬ。」
綱豊が返答に困る沙霧を思いやり言った。
「しかし・・・万が一のこともございます。現に御三家は手足を捥がれ、既に危機的状態に陥ってりまする。」
突きつけられた現実に、成す術もなく一同は押し黙ってしまう。静けさは己の五感を時折鋭くさせる。火の粉弾ける音が、四方に配置されている篝火から聞こえてくる。警戒を絶やさぬ藩全てに言えるが、神経を逆撫でする不快な音にしか聞こえなかった。
「殿。上皇一派の刺客が何人来ようとも、我等命を賭してお守り致す所存にございます。」
伊十郎は重くなった空気を振り払うように言った。
「殿。今や殿の御命は、殿御一人の命にあらず。今や、この日本国中の民草の将来がかかっているのです。」
この詮房の言葉に沙霧や忠利、伊十郎の心は震えていた。
「わかった。皆の思い、この胸にしかと留め置く。だが、これだけは忘れてはならぬ。命の重さに違いなどない、ワシの命が大事なら、皆の命もそれは同じ。・・・無駄に捨ててはならぬぞ、よいな。」
綱豊の言葉は、奥座敷の側で警護している藩士たちにも聞こえていた。外にいる藩士たちは、何れも声を殺して泣いていた。
五
空き家になったままの郡兵衛の道場で、多都馬と吉之丞は稽古で汗を流していた。二人は木刀を元の場所へ戻し、真剣に持ち替えて向き合う。
吉之丞は二刀を抜き下段に構え、二階堂平法/八文字/二式を繰り出した。一方、多都馬は刀を鞘に納めたまま居合の構えで迎え撃つ。二階堂平法/一文字の構えである。
相対する二人の間には、張り詰めた空気が漂っていた。奥義取得の際に空けた穴から、野良猫が顔を覗かせるが二人の空気を察知し後退り逃げて行く。
吉之丞が多都馬に詰め寄ると、多都馬はその分だけ引き下がる。多都馬の詰め寄ると吉之丞が下がる。この動作を二人は繰り返していた。
先に吉之丞が動いた。吉之丞は下がると見せかけ、詰め寄る多都馬に斬り込みにいく。下げていた二刀が空間を斬り裂き、多都馬の頸動脈を狙う。
多都馬の刀が地を這うように斬り上げられ、吉之丞の二刀を弾き飛ばす。吉之丞は弾き飛ばされた刀を空中で掴み、逆手で握り多都馬の肩口に突き刺さそうとする。
多都馬は斬り上げた勢いを、そのままに回転し吉之丞が右胴を狙った。吉之丞は多都馬の肩口寸前で刀を止め、多都馬は吉之丞の右胴で刀を止めた。互いに相打ちの形を止まった。
「腕を上げたな・・・多都馬。」
「師匠も御歳を召された・・・という事です。」
端からみれば相打ちに見てとれるが、実は多都馬の右胴が一瞬早く当たっていたのだ。
「フン!何を言うか、歳などと・・・こっちはまだまだ負けぬわ。」
吉之丞は笑いながら、お猪口で酒を飲む真似をする。二人は、そのまま腰を下ろし手拭いで汗を拭った。
「多都馬・・・。」
「はい。」
「上皇一派の次の手だがな・・・どう出てくると思う。」
目を閉じて多都馬は暫く考えていた。
「俺を狙ってくるでしょう。」
「そうだな。」
多都馬は歯を食いしばり、表情が険しくなる。
「須乃殿やおしのの事が気掛かりか?」
力なく多都馬は頷いた。
「・・・お前が調達屋を離れた時、奴等がそこをついてくると思っているのか。」
「それも戦術なれば・・・。」
「須乃殿やおしのを人質にし、よしんば殺めたとしても・・・お前の怒りを煽るだけで奴等にとっては何の得にもならん。それに日本橋は、人が密集している町中だ。争う声を聞けば捕り方も飛んで来るだろう。」
そう言うと吉之丞は立ち上がって壁に掛けてある、竹筒の水を一飲みする。肌に纏わりつくような夏の暑さが漸く弱まり、吹く風も爽やかに感じられてきた。吉之丞は着物をはだけて、肌を乾かしている。振り返った吉之丞は多都馬に言った。
「故に・・・奴等は調達屋を襲ったりはせぬ。」
持っていた竹筒を多都馬に放る。多都馬は竹筒を受け取り、水を一口飲んだ。
「だがな・・・お前は別だ。必ず狙うてくるぞ。」
「それは、こちらも望むところ・・・。」
「この大馬鹿者が・・・。」
吉之丞が呆れるように言う。
「お前を慕う、須乃殿のことを決して忘れるな。」
多都馬の脳裏に眩しい笑顔の須乃が浮かんでくる。
「敵は一刀流/無想剣を使うと言ってたな。」
「はい。」
「剣聖と言われた伊藤一刀斎が編み出した奥義だ。ワシも目にした事はない。相対した時、決して油断するでないぞ。」
「はい!」
二人は衣服を整え、刀を腰に戻し道場を後にした。
六
江戸郊外の宿場町の端に、古びた商屋跡があった。店を囲む土壁も崩れ、所々に穴も空いていた。幽霊屋敷を彷彿させるような外観に、宿場の人々は恐れをなして誰も近寄らなかった。
現在、一右衛門たちはこの商屋跡の母屋を根城にし身を隠していた。昼間は残暑厳しい日もあるが、日が落ちれば肌寒く感じる季節になっていた。裸蝋燭の火が風に揺られ、魔物が蠢いているように室内に影を作った。
「御頭・・・。俺たちは、いったいどうなるんでしょうか。」
佐十郎が裸火を見つめながら呟いた。
「京の連中からも連絡が途絶えております。このままじゃ、八咫烏の連中に処分されちまうんじゃ・・・。」
多三郎の弱気な声が、一右衛門たち始末屋の状況を物語っていた。京を出発して時点でいた百人ほどの配下も、現時点では一右衛門を含め十数人にまで減っていた。その十数人は別部屋で、肩を寄せ合いながら一右衛門の命を待っていた。頼りにしていた京八流の面々も、織人が行方をくらまし散り散りになっていた。
「そんなことは絶対にさせやしないさ。」
断言できない一右衛門の様子に多三郎が狼狽えて詰め寄る。
「しかし、御頭。こんな所に閉じ込められて沙汰を待てなんて、おかしいとは思いませんか。」
一右衛門は口を真一文字に結び黙ったまま動かない。
「多三郎。今はじっと、どこかに隠れ身を潜めるしかねぇーんだ。俺たちは瑤泉院を襲い、老中の小笠原家と一戦を交えたのだ。今、俺たちが勝手に動けば、企て全体に綻びが出来る。」
佐十郎が多三郎を宥めるように言った。
「佐十郎さんよ。そんな悠長なことを言っていたら、いずれ奴らに消されちまいますよ!」
狼狽える多三郎を見ても、一右衛門は目を閉じて動かない。その状態に耐えきれなくなった多三郎は、一右衛門と佐十郎を残し部屋から出て行った。
「御頭・・・。」
「心配するな。多三郎は、おかしな真似はしねぇよ。」
そう言った一右衛門だが、ただならぬ気を感じて側にあった刀をつかんだ。佐十郎は懐にある鞭をつかむ。
「誰だ!」
立った今、多三郎が出て行った戸板に向かって佐十郎が叫んだ。
「仲間に対して随分、ご挨拶な態度ですね~。」
声を聞いて一右衛門は刀を置いた。戸板を開けられ、そこには織人が立っていた。
「織人様!」
佐十郎が歓喜の声を上げた。織人が腰から車太刀を外して入ってくる。一右衛門は上座を譲ろうと立ち上がろうとする。織人が無用とばかりに手をかざし、二人の対面に座った。
「今までどちらに。」
「黛さんと決着をつけるために、奥義を会得中でした。」
「では、その奥義はもう・・・。」
「えぇ、何とかね。」
織人は部屋の中を見渡した。
「店は手放したようですね~。」
「捕り方に勘付かれまして・・・。」
織人は一右衛門と佐十郎、二人の体に刻まれた戦いの跡を見つめた。
「あの男が来たようですね。」
「・・・はい。」
織人のいう” あの男”とは中院通躬のことである。
「結局、最終的にあの男が舵を取るわけですか・・・。」
「申し訳ございません。」
「いえ・・・一右衛門さんが誤ることではありませんよ。」
織人の気遣いに、一右衛門は素直に頭を下げた。
「全く・・・つくづく邪魔な御方だ。」
「織人様・・・。此度は、通躬様直々にお出まし頂くようでございます。」
「そうですか・・・あの陰険で高慢ちきな御方でも、黛さんのことは認めていらっしゃるのですね。」
人を小馬鹿にしたような通躬の表情を曇らせたと思うと、織人は嬉しくてたまらない。その笑い声は、いつもより高めだった。
「一右衛門さん。このようなところに燻っておらずに、私と一緒に黛さんを倒しましょうよ。あの御方の剣は、私と同じ日本一です。倒しがいがあるではありませんか。」
織人と一右衛門は、互いに見つめ合った。
「申し訳ございません。一緒に行くことは出来ませぬ。」
「何故ですか?」
「私も、ここにいる佐十郎も・・・浅野家には、ただならぬ思いがございます。それを果たすまでは、通躬様の許を離れるつもりはございませぬ。」
一右衛門は、先ほどから織人と目を合わせていない。織人は一右衛門の気持ちを汲み取ったように立ち上がった。
「一右衛門さん。では、思う存分御やりになってください。ただ、無駄に死なぬよう・・・。」
「織人様・・・あなた様は、これからどうされるのですか?」
「黛さんは、私の獲物です。それをあの御方に譲るつもりは毛頭ございません。邪魔立てするなら斬るのみ・・・。」
織人は、そう言い残して一右衛門の前から立ち去って行った。後に続く者が出ることを期待していたのか、戸板は開けられたままだった。
「御頭・・・。」
佐十郎は止めるべきだと縋るようにな思いで呟く。
「佐十郎・・・人はそれぞれに生き方がある。それを変えることは出来んよ。」
開いたままの戸板から吹き込んだ風が、裸蝋燭の火を一瞬で消した。
七
仙台藩伊達家上屋敷の廊下を家老/遠藤斉信は溜息をつきながら歩いていた。空には中秋の名月に相応しいほどの丸い月が輝いていた。庭は伊達家も各藩に倣い、篝火を焚き警戒を装っている。
奥の座敷には蠟燭の火に照らされて出来る影が二つ障子戸に映し出されていた。
「入るぞ。」
斉信が入ると下座に黒脛巾組/当主の世良修理介と、同じく黒脛巾組/腹心の大林坊晟海が平伏して待っていた。斉信は座り込む際にも、大きな溜息をついた。
「いかがでしたでしょうか・・・。」
修理介が問いかけると、斉信は肘掛にもたれ掛かる。修理介は、どこか苛立っている斉信が気になっていた。
「いよいよ、甲府宰相/綱豊様の御命・・・御縮めせよとの命が下りましたか。」
言葉を発せず斉信は頷いた。そして、溜め込んでいた怒りを自身の膝を拳で打つ事で発散していた。
「御家老、この御下命、殿に御報告なされまさしたか。」
修理介が一番重要な事を聞いた。
「いや、まだだ。」
「何故でございます。御三家の手足を削ぎ落とし、あと残りは甲府宰相/綱豊様御一人・・・。その豊様を亡き者にさえすれば、将軍家の屋台骨は大きく崩れます。殿が念頭に置かれております村和様の無念、漸く晴らし参らせることが出来るのです。」
修理介は斉信に詰め寄った。
「お主たち・・・・本当に良いのか。」
「良いのか・・・とは、どういう事でございますか。」
修理介は斉信に尋ねた。
「ワシには、このやり方が正義とは思えぬのだ。」
「正義?どうなされました御家老・・・今更、そのような青臭いことを。」
修理介が放った言葉に、斉信は鋭く反応した。
「ワシはあの時、目が覚めたのだ。舎人が潔く戦うてくる相手に突き動かされ、卑怯千万な戦法を止めたあの時にな。舎人は我等伊達の矜持を取り戻してくれたのだ。修理介、晟海、お主たちも同じではないのか。」
「御家老は甘うございます。いつから、そのような戯言を申されるようになりました。」
臆せずに諫言している修理之介を、晟海は目を丸くして見つめている。
「修理介!」
予想もしない言葉が返ってきて斉信は思わず声を上げた。
「修理!お前、御家老に対して何という事を言うのだ!」
余りにも行き過ぎた行為に隣にいた晟海は、修理介の襟首をつかんで引き起こした。
「晟海!やめぃ!」
「ですが、御家老!」
「修理介の申す通りかも知れぬ。」
「御家老・・・。」
晟海は修理介の襟首から手を離した。
「だがな・・・我等は村和様と浅野様の御無念を晴らすため、公儀に反旗を翻したのだ。謂わば義によって立ち上がった筈なのだ!」
斉信の熱弁振りは凄まじかった。
「赤穂浪士たちの討ち入りから生じた高まる公儀への批判、人心が徳川幕府から離れそうなこの時・・・。やっと機会を得たと、そう時勢を読んだのだ。」
悔し気に奥歯を噛み締めている斉信が、傍から見ていてもわかる。
「しかし、ただ今は、京の公家共に心の内を見透かされ、目の前にちらつかされた餌に飛びつき、その巧言に乗せられた我が身が口惜しい。」
斉信は後悔の念を募らせていた。
「御家老・・・。まだ、遅うはないのでは。」
その言葉を発したのは修理介だった。先ほどまで真逆の事を言っていた修理介に、晟海は驚いて呆然としている。
「修理介、お前・・・。」
「御家老・・・我等は、その言葉を待っておりました。」
修理介は憑き物が取れたように清々しい顔をしていた。
「恐らく・・・このまま加担致せば、北の備えは我等伊達家が担うようになる筈。我が軍勢を繰り出せば、江戸は戦火に包まれるは必定・・・。何の罪もない民草が犠牲になります。それでは、義によって立ち上がった戦いも意義を無くしてしまいます。」
晟海は嬉しそうに幾度となく頷いている。
「しかし、この後・・・如何致せば良いか。」
「確かに・・・。上手く公家共と縁を切れればよいが、そこを彼奴等に利用されるとも限らぬからな。」
斉信と晟海は腕を組んで考え込む。
「御家老・・・。わざわざ態度を示さずとも良いではありませぬか。」
「どういうことか・・・。」
「表向きは、従う振りをして・・・いざ、その場になったら公家たちの刺客から宰相様をお守り致すのです。」
「上手くいくかの・・・。」
「今更、公儀へ訴え出ても、我等はただ痛くもない腹を探られるだけでございましょう。」
斉信は無言で頷いた。
「修理介、晟海。お主たちに任せてもよいか。」
「はい。」
修理介も晟海も、満足気に頷いて見せた。
「御家老・・・公家共とは、もう会わぬほうがよろしいかと存じます。後々のためにも・・・。」
「わかった・・・では、殿に報告して参る。」
斉信は奥座敷を出て、綱村の寝所へと向かった。修理介と晟海は、姿が追える奥の角まで斉信を見送っていた。
八
上杉家を立て続けに不幸が襲った。吉良上野介義央の正室であり、前藩主/上杉綱憲の母である梅嶺院が亡くなったのである。夫である義央を討たれ、息子/綱憲も失意のまま先月にこの世を去っていた。さらに追い打ちを掛けるように吉良家世継ぎの義周は当日の対応に際する「仕方不届」という扱いで、信濃国諏訪藩へ配流の沙汰を受けていた。
梅嶺院は吉良家の菩提寺/萬院功運寺ではなく、上杉家の菩提寺/禅河山東北寺に埋葬された。禅河山東北寺で行われた葬儀は、公儀を慮ってひっそりと行われた。
秋の季節が訪れ始め、朝から降り続く雨が冷たく感じていた。多都馬と隼人は、目立たぬように物陰から葬儀の様子を見守っていた。
「アンタも参列しなくていいのかい。」
隼人が吉良上野介とも交流のあった多都馬に言った。多都馬は、それに答えず黙って見つめていた。
「家老みたいな奴が、さっき誰かを待っているような素振りをしていたぜ。」
「・・・俺は浅野家所縁の人間だ、ここで十分。」
そう呟くと多都馬は目を閉じて、梅嶺院の冥福を祈った。
「しかし、吉良家といえば高家筆頭のお家柄じゃねーのかい。それにしては随分寂しい葬儀だな。」
「吉良家も上杉家も、世間からの風当たりが強い。それを慮っての事さ。」
「梅嶺院様と口をきいた事はあるのかい。」
「あぁ。」
「どんな御方だったんだ。」
「そうだなぁ・・・。」
多都馬は、まだ松之廊下事件が起こる前の義央と富子(梅嶺院)の事を思い出していた。二人の馴れ初めは富子が義央を見初めて、一目惚れだった事から始まったと聞いていた。物事に拘りがなく淡々としている風だが、下々の者の生活によく気を配っていた。
歳を重ねても二人は、知り合った頃のように仲が良かった。眼病を患って失明しそうな富子のために、わざわざ身延山久遠寺に赴いて回復を祈ったという話まである。
「比翼連理のような御二人だったよ。」
「・・・それが、松之廊下事件で一変したんだな。」
二人の幸せを奪った松之廊下事件が思い出され、隼人は悔しさを滲ませた。
「多都馬さんよ。名残惜しいかも知れねぇが、そろそろ行かねーか。」
多都馬と隼人は東北寺を後にした。
傘を打ち付ける雨音が、激しさを増し始める。日本橋への帰路、二人はススキが群生している原野に差し掛かった。多都馬と隼人は、異変を感じて同時に足を止める。
「隼人・・・。」
「わかってるよ・・・ったく、なかなか人気者だぜアンタはよ・・・。」
二人は差していた傘を放り投げた。多都馬は左親指で刀の鍔を押し上げ居合の態勢を取り、隼人は腰の刀を抜いて正眼に構え目を閉じた。ススキの穂が揺れ、中から黒ずくめの男たちが多都馬と隼人に襲い掛かった。
多都馬は柄を逆手で握り、襲い掛かってくる敵に下から斬り上げた。斬り上げた刀は、そのまま振り下ろし一刀両断をする。多都馬の無外流が一瞬にして敵二人を斬り倒した。
隼人はススキの間から突き出てきた二本の刀を避け、振り上げた刀を上段から振り下ろした。敵の男二人は隼人が振り下ろした刀に刃を折られてしまう。隼人は間髪入れず、敵二人の心臓目掛けて刀を突き刺す。
隙を与えず二人は、群生しているススキの中に飛び込んだ。二手に分かれた二人は潜んでいる敵に奇襲を掛けた。ススキの穂が次々に薙ぎ倒され、その後には多都馬と隼人に斬られた敵が横たわっていた。その数は多都馬と隼人、合わせて十数人に達していた。襲撃が収まり多都馬と隼人は、街道の道に戻ってきた。
「怪我はないな。」
隼人が頷いた。
「おい!」
多都馬は姿無き敵に向かって叫んだ。
「下手な小細工はやめて姿を現したらどうだ!」
暫く返事は無かったが、三十間ほど先からススキをかき分け二人の男が姿を現した。二人共、黒一色の羽織袴に一本差しで現れた。通躬の側近、天玄と地玄である。
「・・・出てきやがったな。」
先走る隼人を多都馬が制して思い止まらせる。
「落ち着けよ。」
天玄と地玄は、ゆっくりとだが多都馬と隼人の間合いを詰めてくる。
「隼人・・・あいつ等、これまでの雑魚とは違うぞ。」
「わかってるさ。」
相手の力量がつかめないと思った多都馬は、刀を逆手で抜き無外流/月影の構えをとる。隼人は正眼の構えで、相手の出方を待った。
ゆっくりと詰め寄っていた天玄と地玄が、突然獲物を狙う獣のように突進してくる。天玄は地玄の後ろに隠れ、自分の姿を隠す。
「隼人、後ろの奴は任せろ!」
「頼むぜ。」
意表をついて、先に天玄が地玄の背中を使って跳び上がった。多都馬も遅れる事なく跳躍して迎え撃つ。天玄は刀を鞘ごと多都馬に振り下ろす。一撃目を鞘ごと相手に打ち付け、二撃目を抜き放って突き刺すつもりだった。ところが・・・。
月影の構えから上へ斬り上げた多都馬の斬撃が、天玄の鞘を粉砕する。
― なにっ! ―
鞘を粉砕され無防備になった天玄に、多都馬の上段からの二撃目が襲う。斬撃を皮一枚で躱し、そのまま地面に着地する。天玄と同時に着地した多都馬は、再び月影の構えをとる。天玄の頬から血が滴り落ちる。
一方、隼人と地玄は激しい鍔迫り合いをしていた。
― やはり、只者ではないな。並の男なら、最初の一撃目で吹き飛ばされているはず・・・。 ―
地玄は鍔迫り合いの最中、相手の実力を脅威に感じていた。そして・・・天玄と地玄は同時に思った。
― やはり、通躬様の御推断通り・・・。 ―
「どうした八咫烏。いつまでにらめっこしているつもりだ。」
多都馬が誘いを掛ける。
天玄は地玄に目配せをして、“ 退却 ”の合図を送った。地玄は隼人から勢いをつけて体を引き離し、踵を返して走り去った。天玄は後方へ大きく高く跳躍し、ススキの中へ着地し姿を消した。追いかけようとした隼人を多都馬が引き止めた。
「追う必要はねーよ。」
「あいつ等、今後の為にもぶった斬っておいたほうがいいんじゃねーか・・・。」
「深追いしなくても、必ずまた向こうから来るさ。」
多都馬は天玄と地玄が、ススキに紛れ消えて行った先を見つめていた。雨は、未だ上がらず街道の道を濡らしていた。
九
閉門蟄居された水戸藩上屋敷内は、全ての戸を閉ざし光もなく薄暗かった。戸板の隙間から漏れて入る日の光のせいで、室内で舞っている埃がよく見える。家老/山野辺義清は、薄暗い部屋の中で、座禅を組み一人瞑想に耽っていた。水戸藩が閉門蟄居の沙汰を受けてから、義清は髷と髭の手入れをしていない。月代から僅かに毛髪が生え始め、顎は無精ひげが伸びて黒ずんでいた。
義清は何かの物音に反応し目を開けた。天井を見上げ一点を見つめる。
「何者だ。」
天井板が静かに外れ、中から黒頭巾の男が音もなく降りてくる。義清は動揺することもなく、座したまま忍びの男と対面する、
「公儀の手の者か・・・。今更、死人の首一つ取って何になる。」
「御命を頂きに来たわけでありませぬ。」
「ならば、何をしに参った。」
黒頭巾の男は刀を右手に持ち替え義清の正面に座った。
「水戸藩家老/山野辺義清ともあろう御方が、座したまま死を迎えると申されるのか。」
「腹を切りたくても、その刀もない。まさに俎板の鯉。最早、成す術もない。」
諦めた者の声は、やはり力がない。
「このままですと水戸藩は、間違いなくお取り潰し。藩主/綱篠様は良くて何処かの地へ配流、最悪の場合切腹と相成るやも知れません。」
「水戸は亡き光圀公の御遺命に盲目的になり過ぎた。」
「亡き光圀様は偉大な御方故に、それは致し方ございませぬ。」
「それをお諌め致すのが家臣の役目であろう。しかも、諌めるどころか煽り立てるような事まで・・・。」
義清は目を閉じて、体が震えるほど後悔していた。
「今更だが、赤穂の大石の気持ち・・・分かる気がする。」
「神妙なる御心掛けは、誠に見上げたものなれど、まだ出来ることがあるのではござらぬか?」
「何をせいというのだ。城を枕に一合戦しろとでも?」
黒頭巾の男に、周囲を見渡してみろと義清が不敵に笑う。
「槍も鉄砲も全て、公儀に差し押さえられ使える武器など何もない・・・。髭剃りでさえないわ。」
義清は力なく笑った。
「武器は、まだ残されておるではござりませぬか。」
「なにっ。」
虚空を見つめ義清は考え込んだ。
「命でございますよ・・・後にも先にも、これに勝る武器はござりませぬ。」
黒頭巾の男の言葉で、義清はそれが何を言わんとしているか直ぐに悟った。腹を切ることに何の恐れもないが、自分の訴えが公儀に届くか心配だった。黒頭巾の男は、義清の気持ちを汲み取り声を掛けた。
「公儀にも話の分かる人物はおります・・・心配御無用にござります。」
「だが、この水戸藩は公儀に監視されておる。刃物一つ、手に入らぬと思うが・・・。」
「それは、我等にお任せくださりませ。」
笑みを浮かべる義清を見て、黒頭巾の男が立ち上がった。
「では、三日後にお迎えに参ります。その時まで・・・。」
「頼むぞ。」
黒頭巾の男は、天井裏を見上げ戻ろうとする。
「ちょっと待て、其方たちはいったい何者だ。」
「裏徒組。」
黒頭巾の男は、そう呟くと開いた天井板に戻りどこへとなく消えて行った。
十
江戸郊外の古びた社寺を根城にしていた中院通躬は、本殿横の屋敷内奥座敷で天玄と地玄の報告を聞いていた。通躬の側には、八咫烏の配下の者が盃に酒を注いでいる。天玄と地玄は、眼前に置かれている御膳の酒には触れず俯いている。天玄は多都馬に斬られた顎の傷が気になるのか、手で何度も触っている。その傷は裸蝋燭の灯りに照らされても、はっきりわかるほど鋭利に斬られていた。
「左様か・・・やはり、敵わぬか。」
注がれた酒を飲みながら通躬が言う。
「・・・面目次第もございませぬ。」
「よい、よい。思うていた通りじゃ。」
「しかし・・・。」
天玄が口籠って言う。
「何じゃ。」
「奴は・・・二階堂平法で我等と戦うてはおりませんでした。」
「何?」
「恐らく・・・あの構え、無外流/月影。」
天玄と地玄を配下に加えてから、通躬は稽古を付けていた。配下ながら天玄と地玄二人に敵う遣い手はそうそう現れなかった。その二人を手玉に取る、多都馬を通躬は本気で脅威に感じた。
「それから、もう一つお耳に入れたきことが・・・。」
通躬は険しい表情の地玄に向き直り耳を傾けた。
「某と相対した男。身なりは町方風でありましたが、黛に勝るとも劣らぬ遣い手。」
地玄は言い終えると、着物の前を開けて見せた。地玄の胸には大きな痣が出来ており、隼人との凄まじい鍔迫り合いの痕が残っていた。
「流派は何か・・・。」
「いえ。終始、鍔迫り合いで、先へは進まず・・・。」
「お前の体躯を持ってしても、その男は吹き飛ばされなかったと?」
地玄は開けた着物を整えながら頷いた。
「彼奴等、思った以上に纏まりのある連中でございます。相対した町方を加え、それ以外にも広島藩の隠密や、身元卑しからぬ奴風情の男たち。」
地玄の報告を通躬は黙って聞いている。
「八咫烏を以てしても先制攻撃は得策ではありません。駒をただ失うだけでございます。」
「通躬様、八咫烏の五神、青龍・朱雀・白虎・玄武・麒麟、彼等をお呼びになったほうが宜しいのでは・・・。」
地玄の伺いを立てても通躬は、身動き一つせず沈黙している。
「待て地玄。彼等を呼べば、御所様の警護が手薄・・・いや無防備になる。」
「今は非常な時。悠長に物事を考えておっては、奴等には勝てぬわ。」
天玄と地玄が言い争う光景を、通躬は黙って見つめている。そして、ゆっくりと口を開いた。
「ワシも、彼奴等を侮っていたようだな・・・。」
漸く口を開いた通躬が、己の浅慮さを悔いた。
「ワシは、幕府を更に追い詰める。何故かはわからぬが、水戸藩への沙汰が先延ばしにされているからな。」
「我等は、急ぎ京の五神たちを呼び寄せまする。」
「頼むぞ。」
「今、直ぐにでも・・・。」
天玄は隣の地玄を見る。地玄は大きく頷いて立ち上がった。二人は、奥座敷の障子戸を開け通躬に一礼して出て行った。本格的な秋の到来を告げる風が閉じたばかりの障子戸を揺らした。通躬は側にいる配下の八咫烏を下がらせ、奥座敷に一人になった。裸蝋燭の灯りの向こうに、まだ見ぬ多都馬を思い描き、通躬は側に置いていた太刀を抜き蝋燭の炎を斬る。奥座敷は唯一の灯りを失い、一瞬にして暗闇になった。
十一
秋の長雨期間が終わりを迎え、ここ数日は気持ち良い天気か続いていた。小鳥のさえずりとともに多都馬は目覚めた。半身を起こしてため息をひとつ付く。暑さで寝付けなかった日が、ついこの間ように感じる。
「眠れなかったのですか?」
隣で寝ていた須乃も目を覚まして多都馬に声をかけた。
「起きるには、まだ早いぜ。もう少し眠っていてもいいんだぜ。」
多都馬の優しさで胸がいっぱいの須乃は、すっかり目が覚めてしまった。
「いいえ。早起きは三文の徳と申しますので・・・。」
立ち上がろうとした須乃を、多都馬は手を取って抱き寄せる。
「多都馬様 !?」
驚く須乃ではあったが、直ぐに安心しきったように多都馬の胸に頬を寄せる。
「須乃。」
「はい。」
「またしても血生臭いことに巻き込んで済まない。」
「私は、大丈夫です。そんなことより、無茶なことはしないと御約束してくださいませ。」
多都馬の腕の中で、須乃が祈るように言った。答える代わりに多都馬は須乃を強く抱き締めた。
「・・・お茶でも淹れてきます。」
須乃を支えながら多都馬は立ち上がる。住み込みの弥次郎はまだ眠っているらしく、襖の向こうから寝息が聞こえてくる。弥次郎を起こさぬよう、二人は静かに一緒に一階へ降りて行く。誰かが起きているのか、雨戸が開いていて日の光が奥座敷に差し込んでいるのが見える。
多都馬が覗き込むと、縁側に佇んでいる吉之丞が半之助と一蔵二人と談笑していた。
「師匠!」
「おう、多都馬!」
半之助と一蔵は、多都馬に頭を下げる。
「今朝は、お早いですが・・・何か変わったことでも?」
多都馬は、気づかぬ異変でも起きたのかと表情を曇らせた。
「気持ちの良い朝は、久し振りでな・・・気づいたら目覚めておったわ。」
吉之丞は言いながら豪快に笑った。
震災と火災の復興も整え始め、日本橋の住人たちは活気を取り戻していた。大名や大店の商人たちもゆとりが出来たのか、調達屋の商売も災害前の状態に少しずつだが戻っていた。今日も細川家から取引があり、墨絵の屏風絵を貸し出す予定なのだ。細川家は赤穂浪士討ち入り以来、調達屋との取引が増えていた。多都馬の影働きを、藩主/細川綱利が知った事が要因だった。
「調達屋か・・・。しかし、上手いこと考えたの。」
吉之丞が、暫く居候して知り得た事からそう呟いた。
「たまたまですよ。参勤交代の費用、公儀からの普請の要請、各藩皆有り余る金などないものなんです。」
「しかし、御茶会や歌会など、相変わらず見栄の張り合いは減らぬようだがな。」
「そこで我等の店があるのです。」
「なるほどな。」
吉之丞は感心しきったように、何度も頷いた。そこへ須乃がお茶を淹れて、二人の前にやってくる。
「御師匠様・・・どうぞ。半之助様も一蔵様も、こちらへ来て一休みしてください。」
「これは忝い。」
吉之丞は須乃の淹れた茶を美味しそうに飲んだ。半之助と一蔵も縁側に腰掛け茶を飲んだ。吉之丞や半之助たちの喜ぶ顔を見て、須乃も嬉しそうに微笑んでいる。多都馬にとって、この笑顔が堪らなく愛しい。
「おい多都馬。お前・・・伸びておるぞ。」
伸びていると言われ、多都馬は急いで身なりを確認した。
「何をしておるのだ。伸びていると言ったら、鼻の下に決まっておろうが。」
頭を掻いて照れている多都馬を見て、須乃は顔を真っ赤にして台所に戻って行った。
隣で見ていた半之助と一蔵は吹き出して笑っている。
しかし、ほんわかした笑いの中を異変を感じた四人が一斉に険しい顔に変わる。
「多都馬殿。」
一蔵が多都馬に駆け寄る。
「あぁ、わかってる。」
足音は調達屋の裏庭に向かって来る。足音が来るのを待っていると、三吉が血相を変えて走って来た。
「旦那!」
三吉は裏木戸を開け、息も絶え絶えに入って来た。
「どうした!」
「大変でさぁ!水戸藩の家老が老中/小笠原長重様の上屋敷門前で腹をお切りになりやしたぁ!」
「なにーっ!」
あまりの出来事に多都馬も、さすがに血の気が引いていた。呆然と立ち尽くしている中、大事件を知らせるような一陣の風が調達屋の中を吹き荒らして行った。
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