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第四章 蠢動(しゅんどう)
一
綱吉が倒れてから一ヶ月ほど経った。寝たきりというほどではないが、暫く休養が必要との診立てにより政務から遠ざかっている。綱吉は側用人/柳沢吉保の徹底した管理下で安静に過ごしていた。内密にしていた綱吉の容態も、期間が長くなれば隠し通すことは不可能である。御三家並びに大名諸侯は騒ぎ立て、病気見舞いの催促が吉保のもとに引っ切り無しに届いていた。
病気見舞いとは建て前で、本来の目的は疾病の深刻さや変化の度合いを推し量るためであった。
その日も吉保は、老中/土屋相模守政直、阿部豊後守正武、小笠原佐渡守長重らに囲まれ厳しい詰問を受けていた。
「上様の御容態は、どうなのだ!ご政務から離れ、はや一ヶ月になる。ご尊顔さえ拝することも出来ぬとは、本当に心配いらぬのか。」
眉間に血管を浮き上がらせながら、長重が大声でまくし立てる。
「お静かに・・・。上様は、先の赤穂の浪士共のご裁定に心身共にお疲れのご様子。暫くの御休養が必要なのでございます。」
「であれば、それはいつまでじゃ!」
政直は扇子を畳に打ち付けながら叫ぶ。
「今は、そのようなことは申せませぬ。上様ご回復までお待ち頂くしかございませぬ。」
吉保は老中たちにそう言い終えると、御用部屋から退出していった。
「吉保のあの様子、もしかすると・・・。」
「上様に万が一があった場合も想定して事を運ぶしかあるまい。」
筆頭老中の政直は、吉保が出て行った方角を見つめながら呟く。
二
柳沢吉保は御用部屋から、綱吉が休息を取っている御休息之間に来ている。
綱吉は蒲団から出て起きていた。小姓が綱吉の肩に羽織りを掛けた。
「上様。吉保、仰せにより罷り越しました。」
「うむ。」
「お加減はよろしいのですか?」
「今日は、体がよう動く。」
綱吉は首を左右に傾け肩を回している。
「佐渡の声は、よく通る声じゃの。ここまで聞こえるわ。」
「皆々様、上様を思うているが故のお言葉でございます。」
「わかっておる。」
小姓に脇を支えられながら、綱吉は中庭が見える縁側まで歩いていく。
「吉保、余もそろそろかの。」
「滅相もないことを!」
「戯言よ、気にいたすな。」
そう言いながら、綱吉は力なく笑う。
「しかし、余も齢五十七ぞ。そう長くは生きられぬこと、重々承知しておる。近いうちに六代将軍を決めねば、徳川の世に混乱が生じてしまう。」
綱吉が寂しそうに呟いた。綱吉には跡目を継がせる子がいない。唯一、徳松がいたが五歳で夭折していた。
「跡目のこと、そちの意見が聞きたくての。」
「上様。」
御側用人となり十五年。大きく偉大に見えた綱吉の背中は、いつの間にか小さく弱々しく見えていた。
三
隅田川沿いにある水戸藩家老の中山信成と山野辺義清は、江戸下屋敷に御三家/尾張藩の家老/成瀬隼人正正親を招いていた。
屋敷を囲むように植えている桜は、季節が来ると鮮やかな春色に染まる。屋敷の奥座敷から見える桜の木を見ながら正親が呟く。桜は咲く時期を終え、青々とした葉で覆わていた。
「中山殿、山野辺殿。陽が落ちていてもわかる桜の木々の見事さ・・・次は桜が咲く季節に呼ばれてみたいものですな。」
「このような季節外れにお呼び立て致し大変御無礼いたした。」
灯籠の灯りはが照らされた桜の葉は緑色に眩しく輝いている。
「さ、成瀬殿。もう一献。」
信成が正親の盃に酒を注ぐ。
「・・・ところで。内密な相談とは、どのような?」
「我等、御三家の役割とはどのようなものであるか。成瀬殿は存じておられるか。」
先ほどの笑みは無くなり、義清は険しい顔で尋ねた。
「それは・・・、徳川宗家の後継ぎが途絶えたとき、我等御三家から次期将軍を擁立すると。・・・それが役目のはず。」
「しかしながら、水戸も尾張も、その道から外され幕政に携わること叶わずにおる。」
「いかにも。我等尾張は藩祖/義直公より尊王の意思固くと決めつけられ、白羽の矢が立つこと最早有り得ぬことと思うておりまする。」
信成は立ち上がり辺りを窺うように、開いていた障子を閉めた。障子が閉められると、隣間の障子が開いて女性のような若者が控えていた。
「中山殿、この御仁は?」
「さる御方の御名代にて、企ての後ろ盾になって下さる方でござる。」
「さる御方とは?」
「成瀬様。」
控えていた若者が口を開く。
「それを申すことに何の差し支えはござりませぬが。それを申しましたら最早、後戻りは出来ませぬぞ。」
蛇が床を這うが如き口調に、正親は背筋に冷たいものが走った。正親は一瞬だけ躊躇した。脳裏に主君/徳川吉通が浮かぶ。若年でありながら尾張柳生新陰流免許皆伝。向学心があり政にも意欲的に取り組む稀代の名君。吉通こそ次期将軍家に相応しい御人であると正親は信じていた。だが、このままでいけば飾り物の御三家尾張藩主として生きていかねばならない。正親の気持ちは決まっていた。
「お聞かせ願いたい。」
正親の言葉に、若者は冷たい表情を浮かべ語り出した。
四
深川の自身番に身元不明の遺体を引き取ったという知らせを受け、神月隼人と岡っ引きの新八が駆けつけた。
引き取った遺体を隼人と新八が検分するが、身元が確認出来るものは何一つなかった。
浪人風の遺体は、肩口から袈裟懸けに一刀両断に斬られていた。
「神月様、これは辻斬りですかね?」
「恐らくな。しかし・・・この斬り口、相当な遣い手だぜ。」
「えっ。」
新八は隼人の言葉に戦慄する。
「な・・・何者の仕業でございましょう。」
「さぁな。」
そう呟く隼人の顔を新八は覗き込んだ。遣い手の辻斬りと聞いただけで震え上がる新八に対し、隼人は恐怖すら抱いておらず涼しい顔をしていた。しかし、その奥底から湧き上がる下手人への怒りは新八にも伝わってきていた。
「斬った後に、人目につく船着場に放置しておくなんざぁ・・・奴はきっと、仏さんが何者なのか俺たちに気付いて欲しいんだろうな。」
「なるほど・・・。」
新八は、納得とばかりに手を打った。
その時、自身番の戸を勢いよく開けて入って来る者がいた。その者は高田郡兵衛だった。
「御免。」
郡兵衛は遺体の前にしゃがみ込む。
「・・・十郎右衛門。」
「知り合いかい。」
隼人の問いに郡兵衛は静かに頷いた。
「お前さんは?」
「宝蔵院流槍術の道場をやっている高田郡兵衛と申す。」
「高田?するっていうと・・・。」
体裁が悪そうに郡兵衛は俯きながら答える。
「某、元赤穂藩士でござる。」
「それじゃ・・・この仏さんは?」
「元赤穂藩二百石、稲川十郎右衛門でござる。」
「あ・・・赤穂藩。」
山村座の芝居で賑わう赤穂浪士の本物が目の前に現れ、新八は唖然としてしまう。
突然荷車が自身番の前に到着し、人足風の男たちが入って来る。
「殺しですぜ!」
荷車から十郎右衛門と同じ傷をつけた遺体が運ばれる。茣蓙に包まれた遺体も袈裟懸けに一刀両断されていた。
「多芸殿!」
「えっ?また、赤穂のご浪人ですかい!」
隼人と新八は互いに顔を見合わせた。時期を同じくして斬り殺された二人の元赤穂藩士に、容易ならぬ事態を感じていた。
「新八、多都馬さんを呼んできてくれねぇか。」
「合点だ!」
新八は着物の裾をたくし上げ、多都馬を呼びに一目散に自身番を出て行った。
五
調達屋は今日も大忙しである。
季節も春が終わり、吹く風も肌に心地よく感じる。最近は武家だけでなく商家からの取引も多くなっていた。風薫る五月ともなると、方方で茶会が開かれているのか茶器などの貸し出しが多くなっていた。
「須乃様〜。今ので、もう茶器の備えは無くなりました~。」
弥次郎が蔵から叫ぶ声が聞こえてくる。
「は〜い。」
弥次郎からの知らせを聞いて、須乃が店の台帳に貸し出した物を記載していく。書き終えて後、卓上に頬杖ついて溜息をつく。そこへ奥から丹がお茶を入れて、須乃にそっと差し出した。
「あ・・・これは、丹様。すみません。」
「いいえ。」
丹は須乃の隣に腰を下ろした。
「おしのさん、あなたもこちらへいらっしゃい。皆で一息入れましょう。」
店の掃除をしていたおしのが手を止めて、須乃と丹の前に座った。
「弥次郎さん!あなたもどうぞ!」
蔵のほうから弥次郎の野太い返事が聞こえてくる。
丹の淹れてくれた茶をすすり、須乃はまた溜息をつく。
「心配ですか?」
「えっ?」
須乃は不意に声をかけられて我に返る。
「すみません・・・考え事をしていたものですから。」
「心配ですよね。」
「はい・・・あ、いえ。」
「隠さずとも、よろしいですよ。」
丹の優しい眼差しに、張り詰めていた須乃の心も絆されていく。
「目明かしの新八さんが迎えに来たということは、何か事が起きているということですから。」
「・・・そうですね。」
「はい・・・。」
多都馬の無双の強さは承知している。しかし、万が一ということもある。討ち入りの日、多都馬は体に無数の刀傷を作って帰ってきた。
「信じましょう・・・多都馬様を。」
丹の温かい眼差しに見つめられ、須乃の瞳から自然に涙が溢れる。
「大丈夫ですよ。多都馬様は、あなたを決して一人にするような御人ではありません。」
そこへ弥次郎が汗を拭いながらやってくる。感傷に浸る須乃と丹の気持ちも知らずに部屋に入る弥次郎におしのは大きな声で怒鳴る。
「ちょっと、弥次郎さん!ここで叩いたりしないでよ!」
「わ・・・わかってらい。」
おしのと弥次郎のやり取りに目を細める須乃と丹だった。やっと須乃の顔に笑顔が戻った。
六
自身番に到着すると、人集りが出来ていた。多都馬と新八は、人集りの間をかき分け中に入った。
多都馬は新八の案内で遺体を収容している部屋に入った。二体の遺体が並んで横たわっている。郡兵衛が隼人の横で茫然自失の状態で立っていた。
「多都馬殿。」
郡兵衛の肩に手を添えて元気付ける。
「わざわざ済まねぇな。あんたの知恵が借りたくてな。」
「多都馬殿・・・頼む。」
郡兵衛が、すがるような表情を浮かべている。
「元赤穂藩士が殺られたっていうのも、引っかかるんだが・・・それよりも、この肩口からの斬り口だ。ただ袈裟懸けに斬ったってわけじゃねーみてぇなんだ。」
多都馬は、二体の遺体の斬り口を念入りに調べる。
「あんたは確か・・・諸国武者修行していたよな?様々な流派を見てきたと言っていたのを思い出してな。」
ー 真上から斬りつけたような斬り口・・・。まるで跳び上がって斬ったようだ ー
隼人たちは、多都馬が口を開くの待った。
「隼人・・・この斬り口、夢想願流という剣術の技から繰り出されるものに似ている・・・足譚という技がそうなんだが、今は伝える者もおらず絶えたと聞いている。」
「夢想願流・・・足譚?」
「あぁ。だが、その技を習得出来た者はおらん。」
「では、その線から下手人を挙げることは出来ねってことでございますね。」
新八が悔しそうに舌打ちをする。
「考えられる流派がもう一つ・・・。京都に京八流という流派があるが、跳躍を技に取り入れ、絶対の死角である真上からの斬り込みがあると聞く。」
「真上から・・・。」
隼人が呟きながら遺体の斬り口を再度確認している。
「しかし、こいつは帝を守護する剣術と聞いている。普段は、宮中において警護に当たっているはずだがな。」
「その流れ者が辻斬りをやっているってことかい。」
多都馬は、確証はないとばかりに首を横に振る。
「何故、十郎右衛門と多芸殿が・・・。二人共、名を変えひっそりと暮らしていたはず。」
そう呟く郡兵衛の袴を掴む手が震えていた。
隼人が多都馬を郡兵衛から引き離して、耳元にそっと囁いた。
「討ち入りからまだ半年も経っていねぇ。こいつは吉良の残党もしくは上杉の意趣返しってことは考えられねぇか?」
「ないとは言えぬだろうな。」
二人は顔を見合わせ考え込む。
「神月殿。この二人、我等が引き取っていっても構わぬか。丁重に葬ってやりたいのだ。」
「あぁ、構わねぇよ。」
「かたじけない。」
多都馬は立ち去る郡兵衛の背に、生き恥をさらしている男たちの哀愁を感じていた。
七
多都馬と長兵衛は、江戸郊外の角筈村を訪れていた。村ではあるが日本橋とは二里ほどの距離で、人の往来もかなりあった。村の中心部以外は一面田畑が広がる農村地帯で景観もよく観光で訪れる庶民も少なくなかった。
多都馬は、村に掛かる淀橋の欄干に手をついて流れる川を眺め一息ついた。
一息つく多都馬の横顔が物悲しく見えた長兵衛が声をかける。
「多都馬様。」
「ん?」
「いかがされましたか?」
「いや、先日殺された稲川殿や多芸殿のことを思ってな。」
気持ちの優しい多都馬のことであれば、それが理由であろうと長兵衛は思っていた。
「名を変え、今までの自分を捨て生きていかねばならぬこと・・・。そう容易く受け入れられるものではない筈だ。」
「はい。」
「そんな彼等が何故死なねばならんのだ。」
欄干を掴んでいる手に力が入り腕が震えている。
多都馬と長兵衛の前を、麦・稗・黍・蕎麦・芋・大根など載せた荷車が通り過ぎる。
「討ち入りの盟約から抜けたことが、そんなに不名誉なことなのか。妻を思い、親を思い、子の将来を思う、それこそが最も大切なことではないのか?」
「浅野の御殿様も斬りつけなさる前に、その事をお考え下されば・・・。」
長兵衛は悲しみに暮れる多都馬を促し先を急いだ。淀橋の袂では御茶屋の客引きが、店に引き入れるために必死に声を掛けていた。
八
村の中心部から離れたところに小さな集落があった。ここに元赤穂藩士/毛利小平太がいるという情報を掴んで多都馬と長兵衛は訪れた。
「こんな所に毛利様が・・・。」
庭にニワトリが放し飼いになっていて、屋根は草葺の質素な家だった。
多都馬と長兵衛が敷地内に入った時、ちょうど中から小平太が出てきた。
「も・・・!」
多都馬が呼び掛けようと踏み出すよりも早く、小平太は多都馬達二人を敷地内から連れ出した。
小平太は家から離れた草がお生い茂る場所で足を止めた。
「黛殿だな。」
「いかにも・・・だが、お主とは面識はないはずだが、よくわかりましたな。」
「拙者を尋ねてくる侍など、黛殿以外におるわけがなかろう。」
「そんなこ・・・。」
小平太は迷惑そうに手をかざし、用向きを急かした。
「こんな所までわざわざ何用でしょうか。」
小平太の突っ慳貪な物言いに腹を立て、長兵衛は詰め寄った。
「毛利様、そういう言い方はありやせんぜ。多都馬様はね・・・。」
それから先を言うところで多都馬は長兵衛を止めた。
「毛利殿。我等は、お主達に迷惑をかけるようなことはいたさぬよ。」
「こうやって訪ねて来られるだけで迷惑でござるよ。」
多都馬の気持ちも知らずにと、長兵衛の表情が険しくなる。
「この事を伝えたら、すぐに消えていなくなります。」
「伝える?」
「毛利殿。今、旧赤穂藩士が狙われている。稲川十郎右衛門殿、多芸太郎左衛門殿が何者かに斬殺されたのだ。下手人の目星もついていない。・・・お主にも命の危険が迫っているかも知れぬのだ。」
思いがけぬ事に小平太は絶句してしまう。小平太は振り返って遠くに見える住まいを見た。家から笊を抱えた女が出てくる。タライに貯めた水で土を落としている。
「御内儀か?」
小平太は小さく頷いた。
「吉良家に奉公していた女子でごさってな・・・拙者のために、主家を裏切ってくれたのだ。」
笊の中の大根を洗い終え家に入ろうとするが、小平太の姿を探して辺りを見回している。
「主家を裏切ってまでも拙者のことを思ってくれた女子を見捨てる事が出来なかったのだ。」
長兵衛は、小平太を軽蔑していた自分を恥じていた。目の前にいる元赤穂藩士は、忠義大義と同じように守るべき大切なものがあったのだ。大切なものが脅かされそうな時、人は誰でも警戒するのは当然なのだ。
「大切なものが出来た途端、御家老にお預けした筈の命が惜しうなった。恥ずかしき身の上、お笑い下され。」
「郡兵衛殿にも申したが、可笑しくもないし恥ずべきことでもござらんよ。」
そう言って多都馬は、小平太の肩に手をかけた。
「毛利殿。暫くの間、身の回りのこと、くれぐれも警戒を怠ることのないよう。今日は、それだけを言いに参ったのだ。」
多都馬は長兵衛に立ち去る合図を送る。
「かたじけない。」
立ち去る多都馬と長兵衛の姿が見えなくなるまで、小平太はその場を動かなかった。角筈の畑の風景は、血生臭さい此度のことなど感じさせないほど雄大だった。
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