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第七章 一波万波
一
江戸郊外の大崎村に元赤穂藩江戸留守居役/建部喜六は住んでいた。日本橋から京橋へ場所を変えながら、古着を竿に掛け売り歩いていた。喜六の家の裏は田畑が広がっている。名を変えやっと見つけた安住の地だった。暮六つを過ぎれば、通りを歩く人の数も少ない。
家の扉に手を掛けた時、喜六の体を不意に目眩が襲う。肩に背負った荷を土間に置き、ふらつきながら四畳半の畳に寝転がる。部屋の中は行灯と箱膳、商売品の古着など必要なものしか置いていない。妻とは疾うに離縁して、子供たちも一緒に実家に返していた。当初は家族全員で平穏に暮らしていた。ところが討ち入りが決行され吉良上野介の首級が挙げられたと報じられると、世の風向きは一気に変わった。
脱盟者は皆一様に、“ 不忠者 ”、” 卑怯者 “、” 裏切り者 “などと蔑まされた。元赤穂の藩士とわかった途端、村八分にされ味噌や米さえも売ってくれなくなった。
数日前、広島藩浅野本家の外聞衆と呼ばれる者が現れ、身の危険が迫っている事を知らされる。しかし、喜六には恐れはなかった。
雨が降れば漏ってくる天井を見上げ、内匠頭長矩が刃傷を起こした日を思い出していた。
―殿には我等家臣の事、どう考えておられたのか。―
この事件が起きなければ何不自由なく家族と過ごし、平穏な人生を送っていた筈なのだ。
―家臣三百余名の生活を奪う主君など主君に非ず。そのような主君のために大切な家族を捨てることは出来ぬ。―
しかし、世間では殿中において刃傷事件を起こした者を憐れみ、その家臣が仇を討つことに賛辞を送っていた。討ち入りから脱盟した者に待っていたのは、世間からの誹りと嘲りの嵐だった。喜六は四畳半の部屋で、その無念さに唇を噛んだ。
その時だった、畑に面している障子戸が静かに開いた。
「何者だ。」
「お主の命をいただきに参った。」
喜六の前に現れたのは九尺槍を携えた甲賀五人衆/岩見半左衛門だった。
「そうか。外聞衆の言っていた刺客とは、お主たちのことか・・・。」
喜六が落ち着いた声で話した。
「得物を取ったらどうだ・・・。」
「得物?・・・そんな物、疾うの昔に捨てたわ。」
「左様か。」
「さ、早う殺れ。」
半左衛門は槍を構え喜六に鋒先を向けた。
「このような世に未練はない。」
「参る。」
半左衛門は喜六の胸に槍を突き刺した。喜六は声も上げずに事切れた。その死に顔は安らかに見えた。
「例のものを・・・。」
配下の一人が懐からー枚の紙を出した。その紙には次のような文が書かれていた。
― この者、亡き内匠頭様の御恩を忘れ盟約から抜け出でた不忠者。故に天に代わって成敗仕り候 ―
この文が書かれた紙を、そっと喜六の胸に置く。
「引き上げだ。」
半左衛門たちが立ち去った後、喜六の遺体が部屋の真ん中に横たわっている。
「喜八さ〜ん、喜八さ〜ん!」
喜六の家の前に隣に住む住人が訪ねて来る。
「ん?留守かしら・・・。さっき声が聞こえたのに。」
住人は障子戸に手を掛け中に入る。そして暗闇の中に横たわる喜六を見つける。
「なんだ、いるんじゃ・・・。」
住人は血溜まりの中に横たわる喜六を見つけ、絹を裂くような悲鳴を上げた。
「ひ・・・人殺しーっ!」
腰を抜かし地べたを這いずり回って、喜六の家から出て行く。長屋の住人たちが、声を聞いて次々に出てきた。騒ぎになっている光景を半左衛門は冷めた表情で眺めていた。
二
広島藩藩主/浅野綱長に呼ばれ、多都馬は須乃を伴い店を出ようとしていた。須乃は支度に戸惑っているらしく、二階から降りてこない。多都馬は、おしのと肩を並べて待っている。
「多都馬様・・・女は支度に時間がかかるものですよ。」
「ん?・・・わかっているよ。」
そう言いながらも落ち着きなく二階を覗う多都馬に、おしのは笑いを抑えることが出来ない。
「何か可笑しいか?」
「いいえ、別に。」
おしのは、そのまま帳場に座り込んだ。
「お待たせいたしました。」
申し訳なさそうに二階から須乃が降りてくる。
「いや、待っておらんよ。」
須乃を気遣う多都馬の様子を見ておしのが微笑む。
「おしのちゃん、留守をお願いね。」
「はい。ごゆっくり・・・。」
「いってらっしゃいませ!」
奥から弥次郎が出てきて二人を見送った。
広島藩上屋敷は、江戸城の桜田にある。二十二町の距離を二人は歩いて行く。日本橋の賑わいは商業の中心というだけあって活気は日本一である。
須乃が大店の越後屋の前で立ち止まる。高級布地でも切り売りする商法で庶民の人気を得ている。店頭に出品されている反物に町の娘たちが群がっていた。
「須乃も、やはり普通の女子と変わりないな。」
町娘たちと同じように目を輝かせている須乃に、安心したように多都馬が言った。
「い・・・いえ、私は。」
耳を赤くして恥ずかしそうに須乃は俯向いた。
越後屋から一町ほど先に人だかりが出来、その真ん中で瓦版屋が大きな声叫んでいた。離れていて聞き取れなかった多都馬が、ゆっくりと人だかりに近づいて行く。
「さぁ、天罰がくだったってよぉ〜。討ち入りに参加しなかった不忠者がとうとう成敗された!」
須乃は多都馬の後を追ってついて行く。
「どんなに隠れていたってお天道様は見ていなさる。お殿様の無念も晴らさず、命を惜しんだ卑怯者。こんな奴は生かしちゃおけねぇーってんだ!さぁさぁ、詳しいことはこいつに書いてあらぁ・・・さぁ買った買った!」
群衆はその掛け声とともに、瓦版を手に入れたくて我先に押し寄せる。人混みから弾き出された多都馬と須乃は、瓦版に群がる人々を外から眺めていた。見るに堪えない光景に須乃は顔を背けた。
「多都馬様。」
須乃は無意識に多都馬の手を握り締めた。“ 心配するな ”と言わんばかりに多都馬は須乃を抱き締めた。
その時、瓦版屋を囲む群衆の中から悲鳴が上がった。悲鳴とともに一斉に人が引いていく。その中心に刀を抜いた若侍が大声で叫んでいた。
「おのれ〜卑怯者とは聞き捨てならぬ!」
刀を抜かれても瓦版屋は引かなかった。
「なんだぁ?アンタ、元赤穂藩士かい。」
「いかにも。」
若侍は刀を構え瓦版屋に対峙している。
「斬ろうっていうのかい。面白れぇ、斬ってもらおうじゃねーか。」
瓦版屋の思わぬ行動に若侍はたじろぐ。
「まぁ、待てよ。」
人混みの中から薄笑いを浮かべた三人の浪人が二人の間に入る。
「おい、若造。我等はな、主君の仇を討った大石殿以下四十六人こそ、真武士の鑑と思うておる。」
「それがどうした!」
「主君の無念も晴らさず命を惜しみ、逃げ出したお主たちは武士の風上にも置けぬ。」
多都馬のいる位置からも若侍の持つ刀が震えているのがわかった。
「幾右衛門様!」
側にいた百姓娘が若侍の名を呼び、その場所から連れ出そうと袖を必死になって引っ張る。
― 幾右衛門だと? ―
騒動を起こしている若侍の名が聞こえ、多都馬は僅かに反応した。
「ちょうどよい機会だ。我等が亡き大石殿の思いを、その身に知らしてくれようぞ。」
三人の中の一人が静かに刀を抜いた。
三
幾右衛門と三人の浪人を囲み、野次馬という群衆が出来ていた。その群衆の中に多都馬と須乃がいた。
幾右衛門は刀を構えてはいるが、手足が震え腰が引けてしまっている。
「なんだ、そのへっぴり腰は!」
群衆からも笑い声や野次が聞こえてくる。
「どうした、赤穂のお侍!」
「役立たずだから、討ち入り出来なかったのかよ!」
幾右衛門は喚き散らしながら浪人に打ち掛かっていく。
浪人は、それを軽く往なす。幾右衛門は勢い余って、そのまま前に突っ伏してしまう。
群衆から大きな笑い声が一斉に湧き上がる。
浪人は刀を使わず足で幾右衛門の顔面を幾度となく蹴り上げた。
幾右衛門の鼻、口から血が滴り落ちる。
「幾右衛門様!」
百姓娘が駆け寄り幾右衛門を抱き起こした。
浪人は倒れている幾右衛門に切っ先を向けた。百姓娘は、幾右衛門を庇うように切っ先の前に出た。
「娘。なかなか、いい度胸をしておるな。」
「おこん、どけ!」
百姓娘の名は、おこんといった。幾右衛門は、庇おうとするおこんを振り払おうとしている。それでもおこんは、必死になって幾右衛門を守ろうとした。向けられる刃にも物怖じせず対峙している。
「ほう。お前、よく見ればなかなかの器量だな。こんな腑抜けはやめて我等と一緒に来い。」
後に控えていた浪人二人が、おこんの手を掴んで連れて行こうとする。おこんは必死に抵抗するが男二人の力には敵わない。幾右衛門は痛みに耐えながらおこんの手を掴もうとするが、その手は届かなかった。
「その娘は関係ねーだろ。離せよ。」
群衆の中から多都馬が現れる。
おこんを掴んでいた二人の浪人が振り返り多都馬を見る。
「なんだお主は?」
「離せと言っているのが聞こえねーのか?」
「なぁ〜に!」
二人の浪人は刀に手を掛けるが、幾右衛門の相手をした浪人がそれを止めた。多都馬に手をかざし言う通りにすると観念したように後退る。
「貴殿の申すとおりだ。そこの若いのも、これで身の程を知った筈だ。」
三人の浪人が引き上げたと同時に、群がっていた野次馬も潮が引いたように消えていった。おこんは泣きながら幾右衛門のもとへ駆けていった。
多都馬の後ろから須乃も現れおこんの側に歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。」
須乃が声をかけても幾右衛門はそっぽを向いて答えない。
「・・・すみません。」
「おい、助けてもらって礼ひとつ言えねーのか。」
「うるさい!」
幾右衛門は、おこんを置いて駆け出した。おこんは多都馬と須乃に頭を下げ、幾右衛門の後を追いかけていった。
「多都馬様。」
「あぁ、わかっているよ。あれが、長澤殿の嫡男の幾右衛門だ。」
多都馬と須乃は、幾右衛門たちが駆けていった方向を寂しげに見つめていた。
四
浅野家上屋敷の広間で、多都馬と須乃は藩主/綱長の着座を待っていた。須乃は上屋敷の庭園を眺めたていた。木の枝に椋鳥のつがいが留まり、互いの口ばしを突付いている。
「可愛い。」
須乃が見ている景色に多都馬も目をやった。庭園内を吹き抜ける優しい風が木々を揺らしている。
「この景色を見ていると、今起きていることが信じられません。何故、人は奪い合い争うのでしょうか。」
幾右衛門の一件を言っているのだろうか、須乃の表情は哀しみに満ちていた。
その時、藩主/綱長が嫡男/吉長を連れ現れた。後には、家老の上田主水正と用人/井上正信も続いた。
「多都馬、須乃。久しいの、達者であったか?」
「はい。殿の御威光をもちまして調達屋の商売も上々でござりまする。」
「それは祝着じゃ。」
綱長は、多都馬の側に控えている須乃に目をやる。
「須乃。」
「はい。」
「幸せそうで何よりじゃの。」
綱長は、自分の娘を見るように微笑む。
「はい!」
眩いほどの笑顔で須乃が答えた。
「殿。須乃殿が幸せだと何故お分かりになりまする。多都馬の側にあって、さぞ苦労が絶えぬのでは?」
正信は首を傾げて言った。
「正信。そちは、それ故に女子たちから評判が良くないのだ。分からぬのか、須乃をよう見てみよ。先程より多都馬の側にあって、何とも言えぬ穏やかな笑顔をしておるではないか。」
須乃は、綱長の言葉に顔を赤らめて俯いてしまう。
「そ・・・某は無骨者故、男女の色恋には疎うござりまする。」
正信の狼狽振りに一同は声を上げて笑った。
「・・・殿。」
多都馬が声色を変えて綱長に声をかけた。
「ん?。どうした多都馬。」
「本日、お呼び下された御用とは、如何なることにござりましょう。」
「おぉ、そうであった。須乃は、我が娘のようでの。顔を見ると嬉しゅうなってしまってな。」
「もったいないお言葉、痛み入りまする。」
須乃が平伏して答えた。
「数馬は如何しておる。」
「はい。日毎、学問所に通い精進しておりまする。」
「数馬は、いくつに相成った。」
「はい。十三になりまする。」
綱長は側に控えている吉長の顔を見た。吉長は黙って大きく頷いた。
「多都馬。数馬を吉長の小姓にと思うておるが如何じゃ。」
多都馬と須乃は、驚きの余り互いの顔を見合わせた。
「何を驚いておる。数馬は我が広島藩に仕えてもらうと、以前申した筈じゃ。」
「父上。数馬は学問所でも一、二を争うほどと聞いておりまする。」
「おぉ、それは頼もしいの。」
「叔父が叔父だけに、同じ轍を踏むまいと精進したのでござりましょう。いや、あっぱれなことじゃ。」
正信は多都馬への皮肉をたっぷりと込めて言い放った。
「どうじゃ多都馬。何か異存はあるまいの?」
「あろう筈はありませぬ。身に余るご拝命、恐悦至極に存じ上げ奉ります。」
多都馬と須乃は綱長と吉長に平伏した。
「まずはめでたい。多都馬殿、早う戻られ数馬殿に知らせたらよかろう。」
主水正は、自分の事のように手を叩き喜んでいる。
多都馬と須乃は、綱長と吉長に再び平伏し広間から退出した。退出時に主水正が多都馬に含みを込めた視線を投げたのが気懸かりであった。
五
表玄関にたどり着いた時、後ろから声をかけられ多都馬は振り返った。そこには神妙な面持ちの主水正が立っていた。
「多都馬殿。少し時を頂きたいのだが宜しゅうござるか。」
「須乃、少し待っていてくれ。」
「はい。」
須乃は、そのまま腰を降ろした。
多都馬と主水正は肩を並べて、通用門口側の辺りを歩いた。
「多都馬殿。気持ちはわからぬでもないが、数馬殿の事と此度の騒動は切り分けてやらねば。戻られたら祝ってやって欲しい。」
綱長の前で平静を装っていたが、主水正には心の憂いを隠せなかった。
「御家老、心配には及びません。長兵衛を交えて盛大に祝ってやるつもりですから。」
「それは良かった。」
主水正は優しい眼差しを多都馬に向けた。
「多都馬殿。また犠牲者が出たと聞きましたが・・・。」
「元留守居役/建部喜六殿であると、町方が報せに来ました。」
「どのような最期であったか、わかっておるのですか?」
「槍のようなものでひと突き。また、脱盟者を糾弾する文が遺体に貼られておりました。」
「なんと!」
主水正のあまりの声に、通用門にいる門番が反応していた。
「それを江戸中の瓦版が面白可笑しく書きたくって評判になっております。」
「辻斬りの一件は、最早城中にも広まっています。詮議など受けるとは思いませぬが、広島藩も何らかの火の粉を被るやも知れませぬな。」
「未だ首謀者の意図が掴めません。襲撃してきた輩も、どこかの藩が抱えている忍びの者としかわかっておらず、手掛かりとなるようなものは何も・・・。」
多都馬に主水正は、それ以上言葉を交わせなかった。敵が打ってくる一手の見当もつけぬまま、多都馬は広島藩上屋敷を後にした。通用門を出た時、鐘が七ツ半を知らせていた。
六
江戸城御用部屋に老中/小笠原長重、阿部正武、土屋政直が着座し、大目付/仙石伯耆守久尚から報告を受けていた。
「北町奉行/松野河内守、南町奉行/松前伊豆守からの報告では、既に数十人が被害に遭っておりまする。」
「全て旧赤穂藩の藩士たちなのか?」
「中には、討ち入った四十六人の遺族たちも含まれておりまする。」
「なんだと!」
一際大きな声で驚いていたのは、事件に一番香関わりがあった長重であった。長重は討ち入りがあった十二月十四日、吉良邸で開かれていた茶会に出席していた。
「幸いにも南町の同心が現場に居合わせ、事なきを得ております。」
「下手人は捕縛出来なかったのか?」
「はい。何でもそうとうな遣い手だったらしく、捕縛する余裕はなく斬り捨てたと・・・。」
「下手人を斬り捨てたということは、事が落着したと考えてもよいだな?」
「いえ。殺害の仕方も異なります故、下手人には他にも多数いると見ておりまする。」
三人の老中は眉間にしわを寄せ、互いの顔を見つめ合いそれぞれに考え込み始めた。久尚は三人の顔色を伺い額の汗を拭っている。
「下手人共は旧赤穂藩士を殺し、何を企んでおるのか・・・。」
長重は独り言のように呟いた。
「恐れながら申し上げます。」
意を決したように久尚は声を発した。
「うむ、申してみよ。」
「此度の一件、下手人共を裏で操っておるのは米沢藩/上杉家と推察いたしまする。」
正武と政直は興味深く身を乗り出し聞いている。
「上杉家と推察した、その根拠は如何に?」
「公儀からの仕打ちにござりましょう。吉良家当主/義周は、上杉綱憲の実子。それが改易の沙汰を受け、諏訪高島藩へお預けとなったのです。上杉家はお咎めこそ無かったものの、これで上杉家の面目は失われました。」
「では、その意趣返しに旧赤穂藩士たちを狙うていると申すのだな。」
「御意。」
「それらを裏付ける確たる明かしはあるのか?」
長重が詰め寄り言った。
「いえ、それはまだ。」
久尚は口惜しそうに俯く。
「わかった。下がってよい。」
久尚は頭を下げながら退出していった。
「長重殿。申す通り上杉家が黒幕とお思いか?」
正武が退出していった久尚の方向を見ながら呟く。
「いや。」
長重は首を横に振った。
「上杉家は元より無関係で御座ろう。これは我々の目を、上杉家に向けさせようとしているに過ぎぬわ。仙石めは、功名心に目が眩み敵の術中に嵌っておる。」
「上杉家をお取り潰しにし、それを手土産に幕閣へ取り入ろうとする意図が見え見えじゃの。」
政直が長重の言葉に付け加えて言った。
「恐らく・・・これら一連の騒動は、後に襲い来る大波の前触れに過ぎぬ。」
長重の呟きに正武と政直の表情は険しさを増していた。
七
鈴虫の声が鳴り響く蒸し暑い夜だった。京都御所の皇后門前、公家屋敷に織人と賀茂屋一味が集結していた。公家屋敷の大広間は蝋燭の火に映し出された無数の影で、魑魅魍魎が跋扈するような禍々しい空間と化していた。
「御所様。企ての第一手は首尾良く終えておりまする。」
「左様か。」
「江戸市中はいざ知らず、城内は茶坊主から幕閣中枢まで広まっております。大目付/仙石伯耆守などは上杉家の関与を疑い始め、慌てふためいて老中に報告したと聞き及びました。」
賀茂屋一右衛門が江戸で起きている経緯を淡々と説明をした。
「愚かな奴らよの〜。」
御所様と呼ばれる男は上機嫌で笑っている。
「二手目は、少々手荒に事を進めまする。京に居られましても騒ぎが御耳に入るかと存じます。織人様におかれましても、より一層のお働きをお願い申し上げねばなりませんな。」
「例の二人と対峙するようになりますかね?」
織人は胸踊らせながら言った。
「そうなるやも知れませぬな。」
一右衛門も薄笑いを浮かべ言った。
「御所様。・・・我等も兵を増やさねばなりませぬ故、筑前より我が同志を呼び寄せました。」
障子を開けると、いかにも武芸者たる風貌の三人が平伏して待っていた。
「ここは、現し世にあらず魑魅魍魎が蔓延る冥府じゃ。故に直答を許す、名乗るがよい。」
「赤岩四郎兵衛にござります。後に控えるは、五郎左と六平太にござります。」
「三兄弟か・・・。」
「御意。」
「強いのかぇ?」
御所様と呼ばれる男が、一郎右衛門に尋ねた。
「それはもう・・・。剣は我流にござりますが、私や織人様もこの三兄弟とやり合えば危ういやも知れませぬ。」
「我流とな?」
落胆するような素振りを垣間見た四郎兵衛は、部屋の隅に置かれた蝋燭を一瞬のうちに斬って実力を見せつけた。
「ご納得頂けたでござりましょうや。」
「四郎兵衛さん、また腕を上げましたね。」
織人は斬り捨てた蝋燭を手に取り、笑みを浮かべてしみじみ言う。
「これこれ四郎兵衛殿。御所様になんと無礼な。」
一郎右衛門が言った。
「良いのだ。」
御所様と呼ばれる男は、四郎兵衛の見事な居合斬りを見て上機嫌で手をかざした。
「恐れ入りまする。」
四郎兵衛は刀を納めて頭を下げた。
「御所様。では我等、江戸へ下り次の企ての準備に掛かりまする。」
「上皇様も良き報せを待っておるぞ。」
織人、一右衛門を先頭に賀茂屋の一団が一斉に大広間を出て行った。一団が立ち去った後、生暖かい湿気を帯びた空気が屋敷全体を包んでいた。
八
織人を先頭に賀茂屋の一団は、京都の町を江戸に向かって歩いていた。時刻は八ツ半を過ぎていた。暗闇の中、彼等の足音だけが聞こえる。
その一団を三度笠を被った一人の女が、杖をつきながら一定の距離を保ちつつ後を追いかけていた。
― やはり江戸へ向かうつもりか・・・。 ―
跡をつけていたのは、裏徒組のお駒だった。お駒は見失わぬよう足を早めて歩いた。一団を追いかけ鴨川を越えた頃、お駒は周囲から殺気を感じて足を止める。
街道に沿って建ち並ぶ家屋の裏から、数人の男たちが現れお駒を取り囲む。
「何か御用でも?」
「こんな夜更けに女子が一人で、どこへ参る。」
男達はそう呟きながら少しずつお駒を囲む輪を小さくしていく。
「江戸にいる父親が危篤との報せがあり、先を急いでおりまする。」
「まるで用意していたかのような返答だな。」
正面にいる男が薄笑いを浮かべ言い放った。
「先を急いでおります。どうかお通し下さいませ。」
お駒が頭を下げながら歩き出そうとした時、囲んでいた男たちが一斉に刀を抜く。お駒が反射的に身構える。
「それ見たことか。女!どこの手の者か知らぬが生きては返さぬぞ!」
― 六人か・・・。 ―
お駒の額に汗が滲む。杖を構えて囲んでいる六人に、意識を集中する。お駒を囲む六人が一斉に襲い掛かった。目にも止まらぬ速さで仕込み杖を抜き放ち、お駒は六人の刃を躱した。
「女!やるじゃねーか。」
お駒を狙う六人のまた一人が、刀を舌で舐めながら呟いた。別の一人が、お駒の動きに渋い表情を浮かべている。
「侮るな。」
そう話す男が、お駒に反撃を与えぬ斬撃を浴びせる。闇夜の中で鋼と鋼がぶつかり合う金属音が響き渡る。その斬撃の激しさにお駒は防戦一方になり、建物を背に追い詰められてしまう。追い詰めた六人はお駒を斬ろうとした瞬間、何処からか空間を切り裂く音が聞こえ苦無が飛んでくる。飛んできた苦無を間一髪弾き返し、六人はその方向へ構える。
「御頭!」
お駒は闇夜の中から現れた鳳四郎に向かって叫んだ。
「何者!」
六人はお駒の事など気にもせず、現れた鳳四郎に刀を構えた。
「その女子は、我が大切な配下。貴様等などに、そう安々とくれてやるわけにはいかぬ。」
六人のうち三人が隊列を縦に組んで鳳四郎に斬り掛かる。そして、最後尾にいた男が二人目の男の背を使って飛び上がった。先頭の男は最後尾の男を隠すように鳳四郎との間合いを詰めてきた。鳳四郎は瞬時に二刀を抜いて先頭の男の刃を弾き返す。続いて二人目の男を左手の脇差しで斬り払う。二人目の男は斬られて地べたをのた打ち回った。頭上から鳳四郎へ振り下ろしてきた刃は右手の太刀で受け止めた。繰り出された技を破られ、残された五人は戦慄して後退る。
「お駒。戦えるか?」
「はい!」
「一人も生かして返すな。此奴らには、死を持って本隊への伝令となってもらう。」
その言葉に煽られた五人が、怒りを露わに鳳四郎とお駒に突進してくる。
鳳四郎の動きは風に揺られた柳のように五人の間を抜けていった。最後尾にいた五人目の男が膝から崩れ、そのまま倒れてしまう。その額には鳳四郎によって斬られた傷があった。四人目の男はすれ違い様に頚動脈を斬られて、血しぶきを上げて倒れる。見開かれた目はずっと空を見上げていた。お駒が残った三人の退路を断つように行く手を塞ぐ。鳳四郎には敵わないと考えた三人は、お駒へ突進して来る。お駒が突進して来る三人を躱し、一飛びに跳躍し一人目の頭を斬る。二人目と三人目は、鳳四郎が投げた脇差しと大刀に刺し貫かれ絶命した。
「飛龍剣・・・。御頭、流石ですね。」
お駒が刺し貫かれた二体の遺体を見つめ呟く。鳳四郎が大小の刀を引き抜き鞘に戻した。
「御頭・・・申し訳ござりません。」
「気にするな。とにかく無事で良かったぜ。」
二人は横たわる三体の遺体を見つめていた。
「こいつ等は恐らく下っ端だと思うが・・・お駒を手こずらせるとはな。」
「いえ、間違いなく私よりも上でございました。京次と二人がかりであればなんとか・・・。御頭と五郎兵衛様であれば問題ないと存じます。」
「そうかもな。」
この時、季節が変わり始める晩夏の風に吹き始めた。二人は一団が通った闇夜に包まれた街道を呆然と見つめていた。
九
織人と一右衛門は、一団を六人編成の集団に分けて江戸へ向かわせた。二人を含む集団六人は、途中の土山宿で後から来るであるはずの六人を待っていた。時刻は真昼九つに差し掛かるところであった。土山宿は、東海道の宿場町で通りを沢山の旅人が行き交っていた。織人は茶を啜りながら通りを眺めている。
「一右衛門さん。来ないですね~。」
「はい。」
一右衛門は、お駒に差し向けた六人が追随して来ない事に不安を抱いていた。
「これは殺られてしまったかも知れませんね。」
「まさか・・・、彼等があんな小娘に。」
「もしくは、そのお仲間かも。」
「それにしても、そう安々とは。」
「しかし、普通ならもう既に到着しているはずです。」
「では、例の二人組以外にも遣い手がいると・・・。」
そう言うと一右衛門は考え込んでしまった。企ての妨げになる人物は現れるとは思ってはいた。当然、それらに対抗する手段は整えていた。これまでも立ちはだかる敵を力でねじ伏せてきたのだ。
「よろしいではありませんか。」
突然、織人が呟いた。
「そうでなくては面白うござりませぬ。」
「な・・・。」
不安を抱く一右衛門とは対照的に、相変わらず織人は笑っていた。
「さて。そうとわかれば、ここに居っても無駄な事。先を急ぎましょう。」
織人は勘定を茶屋娘に支払って歩き出した。一右衛門は配下の者一人に命じて、遅れている六人の行方を探らせに行かせた。
「さ、我等も参ろう。」
江戸へ向かう東海道の街道は行商人や観光客、飛脚などで通りは賑やかだった。
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