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第八章 燎原の火
一
品川宿には他に東海寺や品川寺など有名な寺院が数多くある。その品川宿の外れに流円寺という名の寺があった。他の寺とは違い規模は大きくなく、山門を支える柱には苔が生えている。周囲には人家はなく、田畑の外れにひっそりと建っていた。左近寺織人と賀茂屋一右衛門一行は京都から十二日ほどかけて、この品川宿に到着した。
織人と一右衛門の他に、赤岩三兄弟も同行していた。一行は寺の山門の前で立ち止まり、周囲を隈なく警戒する。本殿から檀家らしき者が三人ほど出てきて寺を跡にする。
「一右衛門さん。」
「はい?」
「警戒したほうが、良さそうですよ。」
織人が刀の鍔をそっと押し上げた。赤岩三兄弟の四郎兵衛、五郎佐、六平太も臨戦態勢をとる。互いの息遣いが聞こえてくる。
織人が警戒しながら山門をくぐる。その時、本殿から声が聞こえてくる。
「立ち去りなさい。御仏の道に背く罰当たり者共よ。ここは無頼の徒が来るところではありません。」
本殿の扉が開いて袈裟を纏った寺の住職が現れる。
「坊主か・・・。」
一右衛門が呟いた。
「樹恵と申します。」
そして、続々と寺小姓や着流しの町人風の男たちが出てきた。総勢二十人ほどの男たちは皆、懐に手を忍ばせている。
「御仏の道が聞いて呆れるぜ。燕の徳兵衛さんよ。」
一右衛門が大声で叫んだ。
織人と一右衛門たちを囲む男たちが、忍ばせていた手を抜いて匕首を構える。
「何者だ。てめぇら・・・。」
先ほどの穏やかな声は消え、凄みのある低い声に変わる。
「京で染物屋を営んでおる、賀茂屋一右衛門って者だ。」
「・・・そうか。あんただったか、上方の始末屋とは。」
徳兵衛配下の者たちが、少しずつ織人や一右衛門を囲み始める。織人は目だけを動かし、彼等の立つ位置を確認している。赤岩三兄弟は、織人や一右衛門の死角になる背後を警戒する。
「それで、その始末屋が我々に何の用だ。」
「実は・・・ある高貴な御方のご命令で、ここ江戸に暫く滞在させてもらうことになった。」
「好きにすればいいだろう。この品川宿にも旅籠は、数多くあるからな。」
「そんな目立つような所に居を構えるわけにはいかないのですよ。」
殺気立つ者たちに囲まれているというのに、織人の表情には相変わらず笑みが浮かんでいる。
「そこでだ。・・・お前さん達、裏稼業の者たちの住処を我等に提供して頂きたいのだ。」
一右衛門の言葉に、徳兵衛達は互いに顔を見合わせ嘲笑った。
「一右衛門さんよ。笑わせるのも大概にしてもらいてぇもんだな。」
「いや、こっちは至って真剣だがな。」
徳兵衛配下の者たちが、一右衛門の返答に殺気立つ。
「無益な血は流したくねぇ・・・このまま真っ直ぐに京に帰んな。」
徳兵衛の凄みを増した声に徳兵衛配下の男たちが、一右衛門たちに少しずつ詰め寄っていく。
「無益な血を流したくないのは、こちらとしても同じこと。徳兵衛さん、あんたも命は大事にしたいだろう。」
一右衛門の発した言葉が可笑しかったのか、徳兵衛一味の中から笑い声が聞こえる。
「・・・ったく、燕の徳兵衛も舐められたものだな。警告するのは最後だ・・・さっさと京へ帰んな。」
「堂々巡りだな。織人様、仕方ありません。実力行使と参りましょうか。」
一右衛門が呟くと同時に、織人は腰の車太刀を抜いて二間ほど一気に飛び上がった。着地と同時に振り下ろした車太刀は、徳兵衛の頭蓋を真っ二つにかち割った。徳兵衛の両側にいた配下が織人に斬り掛かる。振り下ろした切っ先を返して、右側にいた男を斬り上げた。左側から斬り掛かった男は、織人の背中から抜かれた車太刀に受け止められる。織人に斬り掛かった男を一右衛門が一刀両断する。
後ろを警戒していた赤岩三兄弟も、取り囲む徳兵衛配下に斬り込みに行く。四郎兵衛が居合抜きで、左右二人を斬り伏せた。五郎佐は、振り下ろされた太刀を鉄篭手で防ぎ、向かってきた者の胴を払う。五郎佐の太刀は斬り払う勢いがあり過ぎて、並んでいた二人の胴も斬っていた。六平太は、敏捷的な動きで敵の間をすり抜けて行く。すり抜けていった敵の脇や首筋は、気付かぬうちに斬られていた。
二十数名いた徳兵衛たちは、気がつけば僅か二名になっていた。残った二人に近づく織人に、一右衛門が慌てて声をかけた。
「織人様。その二人は生かしておかねーと!」
「これは、失礼いたした。」
織人は、刃についた血を払い鞘に納めた。
「全く・・・気をつけておくんなさいまし。そいつ等を斬っちまったら残りの住処がわからなくなるところでしたよ。」
一右衛門は抜いた刀を納めながら、生き残った二人に近づいた。
「残り住処の場所はわかるな?案内してもらおうか・・・。」
生け捕りの二人は震えながら頷いた。
「一右衛門さん、これはどういたしますか?」
織人は斬殺された遺体を指差して言った。
「後で配下の者たちに始末させますから。・・・さ、いらぬお手間をお掛けいたしました。今宵は一先ず奥でゆるりといたしましょう。」
一右衛門は、賀茂屋の手代風の男に何やら命じている。男は命じられた事に大きく頷いて寺を出て行った。流円寺の境内は、徳兵衛たちの血で至る所真っ赤に染まっていた。
二
神田須田町は、神田川があり船の運搬の拠点となる町であった。多くの大店が軒を連ね、店の前の道幅は二十間ほどあり人通りも賑やかである。その須田町の一画にある裏長屋に多都馬と長兵衛は来ていた。裏長屋の木戸から中の様子を覗う二人の前に、幾右衛門と一緒にいたおこんが戸を開けて出てきた。おこんは手に洗い物を抱え井戸がある洗い場へ歩いて行った。長屋の奥にある井戸の周囲には女たちが輪になって談笑している。
「あそこだな。」
裏長屋の住人たちで、ひしめき合うような路地を通り幾右衛門がいるであろう部屋の前で立ち止まる。多都馬は戸を何度か叩いて声を掛けた。
「御免。」
中からの反応はなく、多都馬は仕方なく戸を開ける。薄暗い部屋の中央に、筵の上に横たわる幾右衛門がいた。
「・・・日本橋/調達屋の黛多都馬と申す。これに控えるは、口入屋総元締/長兵衛。」
多都馬が挨拶の口上を述べても、横になっている幾右衛門はピクリとも動かない。
「幾右衛門様。」
長兵衛が、やや大きめの声で名前を呼ぶ。その声に漸く反応した幾右衛門は、上体を気だるそうに起こした。
「幾右衛門殿。」
幾右衛門は虚ろな目で多都馬を見た。
「あ・・・あなたは。」
先日の騒動を思い出したかのように、幾右衛門は顔をしかめる。
「覚えていたようだな。」
「な・・・何をしに参られた。」
多都馬たちを招き入れるわけでもなく、避けるように顔を背けている。
「其方の父上/六郎右衛門殿の想い・・・無碍に出来なくてな。」
「父上の?」
「お主を六郎右衛門殿のもとへ連れ戻そうと思ってな。」
「なにっ!」
目を背けていた幾右衛門は、多都馬を激しく睨みつける。
「私は父上のもとには戻らぬ!」
「何故に・・・。」
「武士が百姓など出来るか!」
この言葉に多都馬の後ろにいた長兵衛が強く反応した。身を乗り出そうとした長兵衛を多都馬が軽く制した。
「百姓の何が気に入らない。」
多都馬は、幾右衛門に優しく尋ねた。幾右衛門は、顔をしかめて俯いている。
「幾右衛門殿。国の基とは何だ。」
「基?」
「そうだ。」
幾右衛門は再び押し黙る。
「答えたくないか。」
多都馬は幾右衛門の心の内を見抜いていたが、敢えて言葉にして伝えた。
「国の基とは、すなわち百姓や商人だ。彼らがいなければ、武士など生きてはいけぬ。」
喧騒と沈黙の中で、多都馬は幾右衛門の言葉を待った。
「では、黛殿にお尋ね申し上げる。」
「何かな。」
「武士とは・・・武士とは何でござる。」
「そうだな。」
多都馬は、一呼吸して静かに答えた。
「武士とは・・・。大切なもの、愛する者、それを命がけで守れる奴のことさ。そう・・・幾右衛門殿の父上のような。」
その時、裏長屋の戸が開いておこんが入ってきた。おこんは多都馬を見るなり、かけていた手縫いを取り深々と頭を下げた。
「こ・・・これは、いつぞやのお武家様!あの時は、お助け頂きありがとうございました。」
「その後、面倒なことは起きていないな?」
「はい!・・・あ、あの狭いところでございますが・・・。」
おこんが多都馬と長兵衛を招き入れようとする。
「おこん。黛殿は、もうお帰りになる。」
幾右衛門は顔を背けたままおこんに言う。幾右衛門のあまりの対応に長兵衛が動いた。
「幾右衛門様。あなた様は、人の心がおわかりならぬのですか!」
「長兵衛・・・よせ。」
多都馬が掴みかかろうとする長兵衛を止めた。
「おこん。かたじけない。・・・長兵衛、行こう。」
多都馬と長兵衛は、幾右衛門の裏長屋を出た。幾右衛門は出て行った多都馬を見ようともしなかった。
裏長屋の番屋まで来たところで多都馬と長兵衛は、後ろから走ってきたおこんに声をかけられる。
「黛様!お待ち下さいませ。」
「何か用かい?」
「幾右衛門様のこと・・・お許しください。」
「気にするな、わかっているさ。」
多都馬はおこんを安心させるように優しく微笑んだ。
「困ったことがあったら訪ねてきな・・・俺は日本橋で調達屋をやっている黛多都馬だ。・・・こっちは同じく日本橋、口入屋の長兵衛だ。」
「俺んところは、人相の良くねぇ連中ばかりで入りづらいかも知れねーが、どいつもこいつも心根のいい奴等ばかりだからよ。」
「あ・・・ありがとうございます。」
おこんは、二人に深々と頭を下げた。おこんは多都馬と長兵衛の姿が見えなくなるまで、すがるような思いで番屋の側に立っていた。
三
多都馬と長兵衛は肩を並べて道幅二十間の大通りを歩いている。日本橋に劣らず人通りが多い。軒を連ねている大店には、客の出入りが激しく繁盛しているのがわかる。
「多都馬様。」
長兵衛は隣を歩く多都馬の名を呼んだ。
「幾右衛門様のことですが・・・。あっし等が、面倒を見て差し上げましょうか。」
「いや・・・時折、遠目から監視するだけでいい。」
意外な返事に長兵衛は少し驚く。
「えっ・・・いや、しかし、あのままだとおこんっていう、あの娘が憐れじゃーねぇですか・・・。」
「長兵衛・・・相変わらず、お前も随分とお節介焼な奴だな。」
人情深い長兵衛に心を熱くする多都馬だった。
「いやいや、それは多都馬様でございましょう。」
二人は顔を見合わせ笑っている。
「長兵衛・・・。幾右衛門のような奴は、いろいろと構ってやると逆効果だ。」
「そうでしょうか・・・。」
「おこんは、なかなかに強い娘だ。何かあれば俺たちのところに必ず来るさ。」
「・・・。」
「それにな・・・。」
そう多都馬が言った時、一瞬だが表情が険しくなった。
「奴は今がの試練の時だ。厳しいが耐え難き困難が必ず来る。その時は自分で乗り越えるしかない。強さが必要な時に、あれやこれやと手を差し伸べていては試練に立ち向かえなくなる。」
「左様でございますかぁ。」
「お前の気持ちもわかるがな・・・。」
二人は通りの真ん中辺りに差し掛かった。
「長兵衛、見てみろよ。この賑やかさと活気に満ちた町を・・・。」
長兵衛と多都馬は、立ち止まり須田町の周囲を見渡した。船から荷受けした品々を店に運ぶ者、店の中で仕入れた商品の入念に検札する者、買い求めにきた客など、まさに活気に溢れていた。
「何の問題も起きておらぬような中で・・・今、何者かが皆んなの幸せを脅かそうとしている。」
長兵衛は背筋が寒くなった。元赤穂藩士の殺害に端を発し、今確実に何かが起ころうとしている。
「何者かは知らぬが・・・俺が必ずその陰謀を阻止してやる。」
「あっしも、お手伝いさせてもらいます。」
多都馬の見つめる先に、眩しいほどに輝く須乃の笑顔が浮かんできた。須乃の瞳を涙で濡らすまいと強く心に刻んだ。
決意も新たに二人は須田町を後にした。
四
赤穂の浪士達が泉岳寺に埋葬されてから、線香の煙が絶えたことはなかった。浪士達の忠義の心に肖ろうと各藩の侍達が挙って墓参りに訪れている。墓参りは侍に限らず江戸の庶民達も訪れていた。
ある墓の前で手を合わせ、黙々と祈りを捧げている女がいた。その墓には“ 刃回逸剣信士 ”と刻まれている。四十七士岡野金右衛門包秀の墓である。
「昼間だからといって、まだ一人で出歩くのは危ねーぜ。」
男に声をかけられ女は驚いて振り向いた。声をかけたのは南町同心/神月隼人である。
振り向いた女は政吉の娘、お艶だった。
「それからな・・・。旦那が見たいのは、泣いている女房の顔じゃあねーぜ。」
隼人の表情は、穏やかで優しさに溢れていた。
「先日は、危ないところを・・・。」
言いかけた言葉を隼人は遮るように言葉を被せた。
「礼なんてよしてくれ・・・・それよりも、俺も手を合わせて構わねーか?」
お艶は小さく頷いた。
隼人は金右衛門の墓の前にしゃがみ込み、手を合わせ祈った。
「ありがとうございます。」
「政吉の傷は、もういいのかい?」
「はい。もうすっかり良くなりました。」
「そいつは良かった。」
隼人とお艶は、金右衛門の墓を離れ歩き出した。
「あの・・・。」
「ん?・・・どうしたい。」
「お父っつぁんと、あたしはどうして狙われたのでしょうか。」
「そんな事・・・知ってどうするんだい。」
「理由もなく狙われるのが嫌なだけです。」
気丈に振る舞おうとするお艶の姿がいじらしく感じる隼人だった。
「狙われたのは亡きご亭主、岡野金右衛門殿の妻だから・・・ではないか?」
お艶は、ほんの一瞬怯えた表情を見せたが意を決したように口を真一文字に結んだ。
「あたし・・・負けません。」
「わかっているさ。」
「神月様。」
隼人はお艶の肩にそっと手を置いた。
「安心しな、俺が必ずお前を守る。岡野殿のためにも指一本、触れさせやしねーからな。」
隼人とお艶は、山門を潜って泉岳寺を後にした。
五
大石りくは吉千代、下僕の久兵衛を連れ東海道を歩いていた。戸塚宿を抜け、間もなく保土ヶ谷宿に辿り着こうとしていた。りくは夫である大石内蔵助亡き後、落飾して香林院と名乗っていた。連れ立つ者は、次男/吉千代と父/石束源五兵衛の家臣/山根久兵衛である。りくは瑤泉院への機嫌伺いと称して、夫/内蔵助の供養参りのため但馬国豊岡から江戸に向かっていた。
りくたち一行は帷子橋を渡りきったところで立ち止まりしゃがみ込んだ。日が暮れる空は茜色から藍色に変わろうとしていた。
「香林院様。お体は大事ございませぬか?」
「大丈夫ですよ。それより吉千代、久兵衛。今日は、もうこの保土ヶ谷宿に宿を取って休みましょうか。」
「母上。それがよろしかろうと存じます。久兵衛も寄る年波には勝てますまい。ほら、足腰もふらふらしております。」
「若様、それはあまりの御言葉。私はまだまだ、若様には負けませぬぞ。」
久兵衛は座り込んでいたが、吉千代の言葉に憤慨して勢いよく立ち上がる。ところが、担いでいる荷の重さに負けて足がふらついてしまう。
「ほら、無理をしてはならぬ。」
吉千代は、久兵衛の体を支えた。
「さ、早く逗留出来る宿を探しましょう。」
りくは可笑しさを堪えながら、宿を探すために歩き出した。歩き出したりくたち一行を旅の行商人は被っていた編笠を上げて見つめていた。そして一定の距離を取りながら跡をつけた。
六
りくたちが逗留している保土ヶ谷宿は、江戸から八里九丁で品川宿から数え四番目の宿場である。主に荷物の運搬に要する人馬などの継ぎ立てや飛脚などが利用していた。
宿内には本陣を中心に旅籠や茶屋、商店が立ち並び、宿場町として賑わいを見せていました。広島藩探索方/外聞衆は、但馬国豊岡からりくたちの跡を追って来ていた。
今、隣の部屋にりくと吉千代が泊まっている。
「夫の墓参りというのに、このように憚る必要があるとはな。・・・不憫な御方だ。」
りくの身の上を思って外聞衆の一人が呟いた。食事を終えても各部屋から酒盛りをしている声が聞こえてくる。しかし、その賑やかさを一瞬にして静寂へと変える出来事が起こった。一発の銃声が宿場に響き渡る。
「何事!」
もう一人の外聞衆が窓の障子を開けて外を覗った。開けた途端、またしても銃声が響き渡る。障子を開けた外聞衆が頭を撃ち抜かれ、もんどり打って倒れる。生き残った一人は、屈みながら隣室のりくの部屋へ向かった。外では絶えず銃声が鳴り響いている。旅籠の部屋に留まる者、取り乱し旅籠から出てきて逃げ惑う者と宿場は混乱していた。
りくたちの部屋に入ると蝋燭の灯りは消えていた。薄暗い部屋の中で目を凝らすと、下男の久兵衛が胸から血を流し倒れていた。
「香林院様!ご無事ですか!」
「何者!」
部屋の隅からりくを庇いながら、吉千代が叫んだ。
「御無礼仕る。拙者、広島藩探索方外聞衆の野村久六と申す者。藩主綱長様の命により、お二人をお助け仕る。」
「広島の御本家から・・・。」
「何者かがお二人のお命を狙うておるやもしれませぬ。さ、早うこちらへ!」
「久兵衛は?」
「既に事切れておりまする。さ、参りまするぞ!」
久六はりくと吉千代を庇いながら階下へ降りた。一階は行灯の明かりも消え、逃げ惑う人間で混乱していた。久六は鉄砲がどこから狙っているのか分からぬため身動きが取れない。旅籠の出入り口から外の様子を覗うと、通りには宿場役人が配下を引き連れ警戒しながら歩いている。
ー 馬鹿な、いい的だ ー
「狙われるぞ!早う身を隠せ。」
叫んだ声も虚しく宿場役人たちは、何者かの銃撃で次々に斃れていく。その光景を見た久六は、旅籠入口の戸を急いで閉める。
「香林院様、吉千代様。走れますか?」
りくと吉千代は、久六の言葉に黙って頷いた。久六が入口の戸を開け飛び出そうとすると、眼の前に黒装束に身を包んだ集団が行く手を塞いでいた。
「香林院様、吉千代様。・・・拙者が突破口を作ります。その間を抜け、息の続く限り走って下さい。」
りくも吉千代も、久六が犠牲になるというのが理解出来た。
「参ります。」
久六は、そう言うと懐から短刀を抜いて突進して行った。りくも吉千代も、久六を追いかけるように駆け出した。しかし、突破口を作ると言った久六は四方から飛んできた無数の峨嵋刺に刺し貫かれ絶命してしまう。久六のすぐ後ろにいた吉千代も、肩と腕に峨嵋刺が刺さっていた。
「吉千代!」
「大事ござりませぬ!」
叫びながら吉千代は、りくを庇っていた。
「やれ。」
行く手を塞ぐ男たちの中から冷たい声が聞こえた。“ もう駄目だ ”と覚悟しながらも、吉千代はりくを庇うようにさらに前に躍り出た。
ところが、行く手を阻む黒装束の壁の一部が崩れた。黒装束の男が三、四人一気に倒れていた。
ぽかりと空いた空間から抜刀した一人の男が飛び出し、りくと吉千代の前に躍り出た。
「動けるか?」
吉千代は黙って頷いた。
「あなた様は?」
「ご安心召されい。某は味方でござる。」
男はりくと吉千代に微笑むと黒装束たちに向き直った。
七
りくと吉千代に背を向けている男は、相対している敵に言い放つ。
「何が目的か知らぬが。罪咎のない者を大勢殺めおって、生きては帰さぬ故、覚悟致すがよい。」
中央に立つ男が周囲を気にしながら後退る。
「いくら合図を送ろうと、頼みの鉄砲組は寝んねの真っ最中だよ。」
男は背後から聞こえる声に驚き振り返る。槍を持つ身の丈六尺はあろう四十代の男が言った。
「ま・・・尤も二度と覚めやしねーがな。」
踊りでも踊るかのように流星錘を振り回す男が、笑いながらその後に付け加えた。
「おのれ〜!」
そう叫ぶと同時に袖の中から勢いよく無数の峨嵋刺が飛び出す。飛び出した峨嵋刺は男目掛けて飛んで行くが、抜刀した刀にことごとく弾き返される。
「峨嵋刺か。貴様等の技は所詮奇術の類。二度見せるものではない。」
男の後ろから女がりくと吉千代を守るように姿を現した。
「ご安心を・・・。」
「お駒。二人を頼むぞ・・・。」
「はい!」
りくと吉千代を守っているのは“ 裏徒組 ”だった。お駒の前にいる男は裏徒組の出雲鳳四郎、槍を持つ男は五郎兵衛、流星錘を持つのは京次である。
まず京次の流星錘が生き物のように空気を切り裂いて左右の敵の喉を突き刺した。京次の流星錘は分銅の代わりに小槍が装着され、打撃だけではなく突く刺すなど様々に使用できた。京次が鎖を引き寄せ次の攻撃体勢に入る。五郎兵衛も突進しながら槍を落雷のように振り下ろした。五郎兵衛の正面にいた男は、逃げる暇もなく串刺しになる。
「退けぃ!」
合図をもとに一斉に飛び上がるが、動き読んだ鳳四郎が上空で三人を斬り伏せる。
「珠印様ーっ!」
鳳四郎が斬った男は尾張甲賀五人衆の一人、からくりの木村珠印だった。
鳳四郎の斬撃から辛うじて逃れた一人は、夜陰に乗じてその場を立ち去った。
「お頭、一人逃げましが・・・。」
五郎兵衛は逃げて行った闇を見つめながら言った。
「放っておけ。奴には伝令の代わりになってもらう。」
鳳四郎は、りくと吉千代のもとへ歩み寄る。
「お連れの方をお救い出来ず、面目次第も御座りませぬ。」
「久兵衛は・・・よく仕えてくれました。」
りくの頬を大粒の涙がつたっていく。
「彼の遺体は、我等が丁重に弔いまする。」
「それから・・・。」
「何でしょう。」
「私と吉千代を守ってくれた野村久六なる者も手厚くお頼み申します。」
「畏まりました。」
鳳四郎は久六の遺体に目をやった。りくと吉千代を庇うため体には無数の峨嵋刺が刺さっていた。そこへ、お駒が吉千代を支えながら歩いてきた。近寄って鳳四郎の耳元にそっと囁く。
「お頭、早く吉千代様の手当を致さねば・・・。」
出血からか吉千代の体力は失われていた。
「香林院様、吉千代様の手当を致さねばなりませぬ。まずは、当屋敷までご案内仕ります。」
鳳四郎は“ 裏徒組 ”に招集をかけ、りくと吉千代を乗せる駕籠を用意させた。五郎兵衛と京次を護衛に付け、駕籠は品川宿にある相模屋に向かった。
八
朝早くに広島藩浅野本家より調達屋に使者が訪れ、多都馬は桜田にある上屋敷を訪れていた。傍目には平静を装っているが、明らかに屋敷全体に緊張感が漂っていた。いつも屋敷内の木々には小鳥の囀る声が聞こえるが今日はそれがなかった。廊下から足音が聞こえ、多都馬は平伏して入って来るのを待った。綱長の嫡男/吉長が現れ、家老の上田主水が続いて入ってきた。
「多都馬。商売が忙しいところすまぬ。」
「もったいない御言葉、痛み入ります。」
面を上げ二人を見ると、眠っていなかった為か明らかに疲労困憊であった。
「何か・・・ございましたでしょうか。」
多都馬の問いに主水が答えた。
「昨夜、保土ヶ谷宿でりく殿が襲われた。」
さすがの多都馬も衝撃を受け絶句した。
「り・・・りく殿はご無事でございますか!」
「大事ない。しかし、吉千代が傷を負うておる。今は三次藩下屋敷にて療養中だ。」
吉長の表情には心痛の跡が深く刻まれていた。
「多都馬殿。他に我等の外聞衆四人も犠牲になっている。」
主水も膝をつかんでいる手を震わせながら話す。
「まだ他にもある。我等浅野の親戚縁者の大名屋敷に賊徒が押入った。いずれも死人は出ておらぬが、賊徒を逃がした事が原因で出仕差し止めの命が大目付より下された。」
あまりの出来事に多都馬は驚きを隠せなかった。
「多都馬・・・。」
「はい。」
「彼奴等の次なる標的・・・何を狙うて来ると思う。」
吉長が多都馬に言う。
「秋田屋を襲った賊でございますが・・・統率された動きといい明らかに、どこか藩お抱えの集団でございましょう。」
「藩だと?」
「はい、烏合の衆の動きではござりませぬ。必ず後ろ盾がおります。」
「すると・・・上杉か。」
「上杉には軒猿と呼ばれる忍軍がおりますが、彼等の動きではございませんでした。」
「多都馬殿は、彼等と相対した事がござりましたな。」
主水が彼等と戦った多都馬に敬意を表して言う。
「敵の正体が掴めぬ故、どうしても後手に回ってしまいまする。」
「今のところ打つ手無しというわけか・・・。」
吉長は悔しさを堪え切れず自身の膝を拳で打った。無念さが漂う長い沈黙が三人を包んでいた。沈黙の中で多都馬は考えていた。
ー 何故、赤穂の者に拘るのか? ー
「若殿。正体ならびに狙いはわかりませぬが、これだけは言えましょう。」
吉長は多都馬の言う次の言葉を待った。
「次なる的は・・・恐らく殿と若殿。そして、瑤泉院様。」
吉長と主水は、互いに目を合わせた。
「必ず狙うて参るか。」
「それだけは必ず・・・。」
多都馬の言葉に吉長は唾を飲み込んだ。
「他の親戚縁者とは違い、命を狙って参るでしょう。」
「来るなら来い!返り討ちにしてくれるは。」
「若殿。戦うてはなりませぬ。」
厳しい口調で多都馬は言った。
「何故だ。敵を前にして背を見せるは武士にあらず。」
「若殿は殿の跡を御継ぎになる大事な御体、敵は遣い手とは申せ所詮はただの雑兵でござります。あくまで逃げの一手・・・逃げの一手でございまする。」
吉長は多都馬が剣術指南役を仰せつかった際、無外流を教授されている。吉長もなかなかに剣の遣い手であった。
「若殿。多都馬殿は、逃げを装い敵を邸内に留め置くよう申されているのです。」
主水の言葉に多都馬は、吉長を見つめ大きく頷いた。
「それ故、殿と我等の間を行き来する伝達役に外聞衆をお貸し願います。」
「うむ。相分かった。」
多都馬は深々と頭を下げた。
「若殿。更に今一つ願いがございます。」
「申してみよ。」
「某の友に南町奉行所同心、神月隼人と申す男がおります。無住心剣流の遣い手で頼りになる男でございます。」
「うむ。」
吉長は多都馬の話しに聞き入っている。
「故に隼人の屋敷への出入り、某同様に自由にして頂きとうござります。」
「相分かった。主水、多都馬と隼人の控え部屋を至急用意いたせ。」
「畏まりました。」
主水は吉長に一礼して部屋を出て行った。
「若殿、くれぐれも御油断無きよう願いまする。」
「心得ておる。」
多都馬は、まだ見ぬ正体不明の敵の存在に不安を抱えながら上屋敷を跡にした。見上げると空は雲が厚く、今にも雨が降りそうな天気だった。
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